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 それはいつもと変わらぬ日々が終わりかけたある夜のこと。

「結構遅くなっちゃったな」

 朝餉の仕込みを終わらせ、厨から自室に戻る廊下を歩く。少し重く感じる体。頭で考える前に、左肩を拳がトントンと叩いた。

 人の体には随分慣れたものだと思う。日常の生活に於いての違和感もなく、戦場でも思考に、そして刀の本能に従って体は動いてくれる。

 お陰で練度も上がりきり、こうして皆の体をサポートする側を任してもらえる立場になった。

 以前のように、頻繁に戦場に出られる訳ではなくなったが、仲間を支えることに尽力出来るのは嬉しい。だからより美味しいものを作り、仲間の心や体の糧にしてもらいたい。

 こうして毎晩、次の朝餉の仕込みを苦なくやれるのはそういった思いがあるからだ。

 と言っても少々集中しすぎていたらしい。戦場で使う部分とはまた違う体の筋肉が少し凝っている気がした。人の体に慣れたとは言え、燭台切の意識を超えた所で体の内に秘めている物はある。疲労、空腹、病、その他諸々。

 全てを理解しているつもりでも、思いがけない所から綻びは生じるものだ。

 

「これで体調を崩したら歌仙くん達に申し訳がないからね」

 

 朝餉の準備に残る燭台切に、歌仙や堀川、その他の仲間たちはいつも手伝うよと申し出てくれる。燭台切はいつもそれを断っているのだ。大丈夫だよと答える燭台切に、大変な時はいつでも変わるし、喜んで手伝うから声を掛けてくれ。無理はしないでと皆言ってくれるのだ。

 それに対して体調不良で応えるのは申し訳がない。

 第一、体調を壊してしまえば皆のサポートにも支障が出てしまう。今日も皆に頼ってもらえた。それが出来なくなってしまうのは寂しいし、己の自己管理が理由となれば格好悪さ極め付けである。

 人の身の制御は確かに難しい。分からない事も多いがしかし、きちんと自分自身で管理しなければならない。体自体も、体の中のものも。

 そんなことを考えつつ、月のわずかな明かりを頼りに廊下を歩く。歩き慣れた自室への道を照らす分には柔らかい月光でも十分だ。この中で戦えと言われれば、難儀をするのだけれど。

 自室に向かう最後の角を曲がる。後は着替えて眠るだけ。ああ、そうだ。その前に少しだけ菜園の本を読もう。次の季節に植える野菜を考え、近侍や主な厨担当者と相談しなければならない。

 

「題名、美しい月明かりに照らされた物憂げな伊達男」

「うわっびっくりした!・・・・・・鶴さん・・・・・・」

「よっ、光坊。考え事しながら歩く夜道は危ないことだらけだぜ?」

 

 指で作っていた額をほどいて、驚かせた張本人の鶴丸が笑う。立っているのは燭台切の部屋の前だ。

 

「こんな時間まで明日の仕込みか?毎日毎日一人で大変だな」

「そうでもないよ、ほとんど趣味みたいなものだし。それより鶴さん、どうしたんだい。僕に何か用でも?」

「そうさ。ちょっと君に話したいことがあって。だが、君が一向に帰ってこないものだから、ここで待ちぼうけさ。俺の方こそ一枚の絵画みたいだったんだぞ」

「題名は?」

「内気で儚い月下美人、そそと待ち佇む」

「はは、それは随分な題名詐欺だね。さ、夜更けに廊下で立ち話もなんだし、中にどうぞ。外向的で快活な月下美人さん」

 

 顔を合わせればぽんぽんと会話が弾む。しかしこのままここで話続けるのは、周りは空き部屋だから誰かを起こす心配はなくても良くないと鶴丸を自室へと招き入れる。

 鶴丸は戸惑うことなく従う。鶴丸はよく燭台切の部屋にやって来るから当然だ。それでも、こんな夜更けに来るのは初めてのことで、自室の障子をそっと閉める鶴丸に不思議な気持ちで見る。暗い闇の中、ただでさえ柔らかだった月光は障子を通すとぼんやりと仄かに輝き、鶴丸の白を浮かび上がらせる。けれど白以外は影になり、いつもの鶴丸の印象を塗り替えている様に思えた。

 その鶴丸に背を向けて自室の小さな明かりをつける。月光よりは明るく、しかし目を刺すほどではない淡い光が、自室と二人を映した。

 

「それで用って何かな。こんな夜でしか見れない驚きでも見つけたのかい」

「そうだ、と言いたい所だが、残念ながらハズレだ」

「それじゃあ?」

「夜にひっそりと会いに来るんだぜ?密会に決まってるじゃないか」

「へぇ、密会」

 

 鶴丸の言った単語を繰り返す。密会、秘密裏に会うこと。他人には話せない理由が漂う時間。

 

「成程、悪巧みの算段だね?」

 

 鶴丸は苦笑いを寄越してきた。

 

「その答えは30点だ。光坊、君には色気が足りん」

「そんな馬鹿な。巷じゃ男の色気と言えば燭台切光忠。と言われている僕なんだけど」

「嘘をつけ、嘘を。君は色気より食い気だろう。花より団子」

「花も団子も好きだよ。みんなで綺麗なものを見ながら食べるご飯は美味しいよね。花見の時のお弁当とかさ」

「やっぱり食い気じゃないか」

 

 こんな見た目なのにそっち方面は食欲回路に直結だな。と鶴丸は笑いながらやれやれと首を振っている。

 

「だってよくわからないんだ、そういうの。特に必要とも思えないし」

 

 人の身を持ったからには色んなことをしてみたい、と言うのが燭台切の考えである。しかし、その色んなことのまさに『色』の部分。そこに関しては全く興味がなかった。自分達は元が刀であるし、性なんて体に付属しているもの。本丸には番となるべき女の性もないから性を意識することもない。

 興味がない、つまり理解が出来ない。本丸の仲間の概ねが『色』についてはそういう感じだ。

 

「必要じゃないからって放棄するのはどうなんだ。無駄なことを沢山してるやつほど輝いてるもんだろ」

「確かに。鶴さん誰よりも輝いてるよね」

「暗に俺のすること無駄だらけと言ったかこの坊主は」

 

 てい、と優しいでこピンを喰らわされた。痛くはない。むしろ何処かがくすぐったくて笑ってしまった。

 わざと大人ぶったしかめっ面を作っていた鶴丸が、自分の言葉にもでこピンにも全く動じない燭台切を見て仕方がない奴だと言いたげに苦笑いを見せる。しかし何時までも雑談に興じるのが本来の目的ではないと気づいたらしく、今までくつろいで座っていた鶴丸が正座へと足を作った。そして改まった姿勢で密会の理由を話し始める。

 

「今日は君に相談があってきました」

「相談?鶴さんが、僕に?」

「そー。鶴さんが、光忠くんに」

 

 頷く鶴丸にちょっと驚いてしまう。鶴丸から改まって何かを相談されるなど初めてのことだ。初めてのことを突然差し出されれば燭台切が驚くのも無理はない。

 

「相談か・・・・・・。わかった。高血圧だから塩分控えてほしいとか、痛風だからプリン体控えてほしいとか、それとも最近物忘れが激しいから脳トレを一緒にしたいとか?」

「・・・・・・君が俺のことをどう思ってるのかよーくわかった」

「じょ、冗談だよ。冗談」

 

 目を据わらせる鶴丸へ咄嗟に嘘をついた。結構真剣に考えた結果だったが鶴丸の反応を見て間違いを悟る。誤魔化せただろうか。鶴丸はまだ訝し気だ。もう余計なことは言うまい。口を結んだ。

 それに気付いた鶴丸がまったくと呟き、そっと息を吐いた。

 鶴丸の相談はかなり真剣なものらしい。燭台切も自分なりに真剣に答えたつもりだったが見当はずれなことを言ってしまった様だ。謝らなければと口を開こうとして、それより先に鶴丸が畳に両手を突き、膝を進める。鶴丸が近づいてきたことによって二人の距離が近づいた。

 

「あのな、光坊」

「なんだい、鶴さん」

 鶴丸が幾分か声を落として囁いた。部屋には二人きり。他人に聞かれる心配もないのに。と思いつつも、燭台切もつられてしまい、同じく囁き返す。

 それにフッと一瞬笑った鶴丸だったがすぐ顔を引き締めて口を開く。

 

「俺、好きな奴がいるんだ」

「へ?」

 

 ぽかんと。恐らく間抜けな顔で見返してしまっているだろう燭台切を、鶴丸は真剣な表情で見返す。

 

「好きな、奴って」

「ズバリ、恋の方で」

「・・・・・・成程ぉ」

 

 と言ってみたものの、何一つ府に落ちていない。ただそれ以外なんと言えばいいかわからなかっただけだ。

 心境と言えば、また鶴丸がよくわからないものを持ち込んだ。そんな感じだ。何年か前に畑当番を共にしていた鶴丸が「光坊!見ろ!ツチノコ捕まえたぞ!!」と得体の知れない『蛇のようなもの』を見せてきたあの時の気持ちによく似ている。

 ちなみにその『蛇のようなもの』は結局竹の子を丸のみして形が変わったただの蛇だったこともついでに思い出した。

 

「光坊?どうした」

「・・・・・・え?」

 

 鶴丸が、思考を過去に飛ばしていた燭台切を窺うように見ていた。

 

「大好きな鶴さんに想い人がいると知ってショックでも受けたか?」

「あはは、違う違う。ちょっとツチノコのこと考えてただけ」

「興味なさすぎるにも程があるだろ!!!」

 

 腰を浮かして力強く突っ込んだ鶴丸に思わず、ご、ごめん。と謝まる。すると鶴丸はハッと表情を戻し、ごほんと大きく咳ばらいをした。視線を燭台切から外して、ペースを乱されるなと自分に言い聞かせている。茶化しているつもりは毛頭ないのだが、どうも鶴丸の良しとする反応が返せていない様だ。何が悪いのか分からないまま反省をして、もっと真面目に相談を聞くことにした。

 

「えーっと。つまり、鶴さんは僕に恋の相談をしに来たってことでいいのかな?」

「ああ」

「鶴さん・・・・・・それ人選ミス」

 

 先程鶴丸に言われた通り燭台切は『色』気がない。恋と言うものを未だ理解出来ていない。

 書物で書かれているその焦がれるような想い、テレビというものに出てくるときめき、他の者から聞く泣きたくなるような幸福。そういった「恋」というものにまつわる感覚がよくわからないのだ。

 

「もっと適任がいるだろうに」

「適任なぁ、例えば?」

「例えば・・・・・・、あれ?」

「な、思い付かないだろ。うちの本丸はラブもロマンスもないからな」

 

 主と一緒で。と失礼極まりないことをさらっと鶴丸が言う。

 

「鶴さん、主はもうラブもロマンスもあっただろう。一年前に結婚してこの間娘さんが生まれたばかりだ。他でもない鶴さんが主と奥方を引き合わせたのに」

「そうなんだが・・・・・・。ほら、うちの主は年齢イコール恋人いない歴が持ちネタだっただろ?その印象が強すぎてな」

「持ちネタって・・・・・・」

「奥方に出会う直前の彼の状態を知ってるかい?虚ろな瞳で『・・・・・・もういっそ男でも良い』とか、不穏なこと呟いてたからな」

「そんなに追い込まれてたの!?」

 

 主は生粋の女性好きだ。その主が「男でも良い」とはよほど精神的に追い詰められていたのだろう。しかし、伴侶がいないということはそれほどの精神的苦痛を負うものだろうか。人は、人である時点でひとつとして確立しているのだからそれで十分な筈なのに。

 

「俺は主のあの持ちネタが大好きだったんだがな。さすがの俺でも可哀想になって演練場で嫁さん探しをせざるを得なかったのさ」

 

 演練場で他本丸の刀からいきなり「うちの主に会ってほしい」と言われた時は驚いたわぁ、とは奥方談。鶴丸の行動力には、目を見張るものがある。

 鶴丸の驚異的な行動力のおかげで二人は出会い、短い交際期間を得てめでたく結婚することになった。

「というか。そうだ、主だよ。確かに前は恋のこの字すら存在しなかった人だけど、今は立派な既婚者だ。恋を理解しているという時点で僕より余程恋の相談相手には相応しいと思うけど」

「主の所にはもう行ってきたぜ」

 

 燭台切が提案すると鶴丸は正座から足を崩して、片手を畳に突いた。畏まった相談ではなさそうなことがもうわかったので、燭台切も倣って足を崩す。

 

「何だかんだと言っても一番に伺いを立てないといけない相手だからな。所有物同士が、お互いだけの所有者になることは許されるのかちゃんと聞いてきた」

「え」

「答えは簡単『俺の奥さんと可愛いお姫様にさえ手を出さなけりゃ後は好きにしていいよ』とさ」

「ごめん、話途切れさせて悪いんだけど。鶴さんの好きな相手って、この本丸の刀剣男士なの?」

 

 ぽんぽんと話を進めていく鶴丸に、少しの待ったを掛ける。人の話は最後まで聞かなければならないとはわかっていても確認しておきたいことだった。

 

「そうだが?」

 

 男の性には女の性。それが命を産み出す為の自然の摂理であり、現代の一般的な認識だ。

 なので鶴丸が恋の相談などと突拍子のないものを投下した時、燭台切は何の疑問も抱かずその相手は女の性を持っていると思っていた。演練場で出会った他本丸の女審神者とか、極稀に見かける刀剣女士とか、万屋等出掛け先にいる看板娘とか。

 しかし、どうやら違ったようだ。鶴丸は男の性しか存在しないこの本丸の誰かに懸想しているのだという。

 

「・・・・・・へぇー」

「何だその反応。なにか変か?同質の性を持つものを好きになるのは気持ち悪い、とか」

「うーん、それは別に。言っても与えられた器の性だし、僕はそんなに重要視しないかな。そうじゃなくて。鶴さんの好きな相手がこの本丸にいる方に驚いているんだよ。だってそんな素振り、今まで一度も見たことなかったから」

 

 鶴丸はいつだって仲間達に平等に優しかった。大倶利伽羅や太鼓鐘など、特別可愛がっている相手も居ることにはいるが。それでもそれは親愛にしか見えない。

 鶴丸が恋をしていることもそうだが、その相手が本丸にいるのだとこうして打ち明けられた今でも思い当たることが無さすぎていまいちピンとこない。

 

「相手が気になるかい?いいぜ、誰が好きなのって聞いても。俺は君に嘘をつかない。正直に答えるさ」

 

 考えを巡らせる燭台切に鶴丸がフッと笑う。燭台切が聞けば必ず教えてくれるだろうと何故か確信出来る笑みだった。

 

「・・・・・・その相手って伽羅ちゃんか貞ちゃん?」

「いいや、違う」

 

 その答えを聞いてホッとした。身内内で恋の駆け引きなどされれば、燭台切はどうすればいいかわからない。大倶利伽羅と太鼓鐘でないことがわかればそれで十分だ。

 

「じゃあ、聞かなくていいや。あ、鶴さんが話したいって言うなら聞くけど」

「・・・・・・何故」

「だって、その相手聞いてしまったらなんだか気まずくならないかな?あ、身内の好きな子だー、って変に意識してしまうというかさ。僕、たぶん『鶴さん、君が好きみたいだよ』っぽろって言ってしまう気がする」

「・・・・・・」

「あ、もしかして相談ってそういうことかい?鶴さんと相手さんの恋の橋渡しをしてほしいとか?」

 それに思い至り、鶴丸の顔を見る。

「なんでそんなぶーたれてるの」

「別に」

「えー、なんで拗ねてるんだい」

 鶴丸が美しい顔を台無しにして拗ねていた。今日は珍しいことばかりだ。子供みたいな行動も多い鶴丸だが、態度自体は基本的に年長者の余裕をいつも持っていて、燭台切にとっても頼れる兄貴分である。だからこんなにわかりやすく機嫌を損ねている鶴丸なんて三日月の前以外で見たことがなかった。怒った所を見たことはあっても。

 もしかして名前を聞いて欲しかったのだろうか。そう思って聞こうとしたが、その前に鶴丸がはぁと肩を落とす。

 

「つまらん。予想通りの流れすぎる・・・・・・」

 

 あ、そういう拗ねだったのか、と納得。どうやら相談を聞いてからの燭台切の反応は鶴丸の筋書き通りすぎたらしい。

 鶴丸は首を振って気を取り直す作業をした。

 

「あーっと、なんだったか。恋の橋渡しって言ったか?その必要はないぜ。俺は、欲しいものは必ず自分の力で手に入れる。誰かに橋渡しを頼むつもりは毛頭ない」

「欲しいもの・・・・・・、手に入れる・・・・・・」

 

 鶴丸の言葉に違和感を覚えた。それは刀が言う言葉だろうか、そして好いた相手への表現としてどうなのだろうかという引っかかり。恋について何も知らない燭台切だからどうでもいい所に引っかかりを覚えているだけなのか。それともそれだけ鶴丸の強い意志に戸惑っているのだろうか。

 そうなのかもしれない。

 驚きや大倶利伽羅、太鼓鐘等一部例外はあるものの鶴丸は本来執着が薄いはずだ。こんな人当たりが良さそうにしていて人の執着に呆れて、諦めている。

 その鶴丸が口から零してしまう程明らかな執着を好いた相手に持っていると言うこと。

 それは燭台切が見たことのない鶴丸の一面だった。

 

「鶴さん、本気なんだね」

「本気さ。だからこうして君に頭を下げにやってきた」

「頭を下げに?」

 

 相談事とはこうして恋の話をするだけではなく頭を下げなければいけないことなのだろうか。それは何だろう。想像もつかない。考えを巡らせる燭台切に鶴丸は胡坐を掻いたままの踝を両手で握って少し顔を近づけてきた。

 

「練習に付き合ってほしいんだ」

「はい?」

 

 簡潔過ぎる相談事は重要な部分を丸々切り取っていて、一体なんのことかがわからない。燭台切は首を傾げて質問し返す。

 

「練習って練習?」

「そう、練習」

「何の、告白の?」

「違う、体の」

「体?」

 

 さっきから後手後手。鶴丸の言葉を繰り返すだけとなってしまったいる。それも仕方がないか、鶴丸が燭台切に求めようとしていることが全く見えないのだから。

 恐らく顔中に疑問符を散りばめているだろう燭台切を鶴丸は真顔で見つめ、言った。

 

「せっくすの練習をさせてくれ」

「せっ・・・・・・・・・・・・」

 

 絶句。暫しの沈黙。

 

「せっくすの練習をさせてくれ」

「なんで真顔で二回繰り返すの!」

「聞こえなかったのかと思ったから」

「聞こえてるよ!ばっちり!」

 

 聞こえてると言いながら指で眼鏡の形を作り両目にあててしまう。それくらい混乱中の燭台切に、今度は鶴丸がこてんと首を傾げる。

 

「?この単語じゃわからないってことか?なら、言い替えよう。伽の練習相手になってくれ。交合だ。情交。大人の夜戦。えっちすけっちわんたっち!」

「ごめん、鶴さん。どこから突っ込めばいいかまったくわからない」

 

 両手を動かして説明してくる鶴丸を前に、そっと自分のこめかみを揉んだ。

 

「嘘だろー。何一つわからんのか。どんだけおぼこいんだよ。絶滅危惧種か。誰だ、この伊達男をこんな純粋培養に育てたのは。はっ!・・・・・・俺か」

「鶴さんに育てられた覚えなんて一切ありません!違うって。言葉の意味はわかるんだよ。言っている意味がわからないの!」

「至極簡単なことだろ?」

 

 鶴丸がきょとりと不思議そうな顔をする。

 

「俺には、好きな奴がいる。今からそいつを全力で落とす。そこに、他の奴の介入は一切いらない。必ず、絶対に落とす。そこまではいい。決定事項だ。しかし、光坊?問題はその次だ」

「・・・・・・その次」

「初めて二人で体を繋げる夜。失敗したら、恥ずかしいじゃないか。それで幻滅されたら目も当てられない」

 

 鶴丸はわざとしょぼんとしてみせて畳に『の』の字を指で書く。可愛いが、そうだねとにこやかに同意することは出来るはずもない。

 しかし鶴丸はお構いなしに顔をあげて燭台切に笑い掛ける。とてもいい笑顔で。

 

「だから、そうならないように、君には練習相手になってほしいんだ!」

「結論の着地地点が遠すぎて僕には鶴さんが見つけられない」

「鶴さんはいつだって君の目の前にいるぞ!」

「そういうことじゃなくてさぁ」

 

 片手で額を覆う。そのまま前髪をくしゃりと掴んで後ろに流した。らしくない自分の仕草に、どうやら思っている以上に動揺しているらしいと自覚した。

 

「先を見すぎだよ鶴さん。そういうのは告白が成功してから考えるべきじゃないかな」

「告白が成功したらお互いの所有者はお互いだけだ。例え練習でも他者に頼めばそれは不貞だぞ」

「あ、そこはわかってるんだ。というかそういう初めても一緒に経験してこそ、って普通は思わない?」

「そういう生娘みたいな夢を見た結果恋しい相手に幻滅され振られる。なんてことになったら俺は時間遡行軍の元に行き、雑用でも何でもしますから!と頼んで、住み込みで働かせて貰うからな」

「本気の顔で冗談言わないでくれよ・・・・・・」

 

 疑問を何れだけ並べてもことごとく燭台切の理解し難い方へ放り投げられていく。鶴丸は自分で何を言っているのか分っているのだろうか。いつもの鶴丸からは考えられない浅はかさだ。突拍子のなさだけに言及すればいつも通りとも言えるわけだが。

何にせよ自分が口で鶴丸に勝てるなど思っていない。鶴丸の事を全て理解出来るとも。それでも聞かずにはいられなくて言及を続ける。

「そもそも。何で僕なんだい?僕、鶴さんから今しがた『君には色気が足りん』ってお叱りを貰ったばかりなんだけど?」

 

 どうかこれくらいは理解出来る返答が貰えますように、と最後の問いかけとして提示した。 

 鶴丸は、それはな。と言って人差し指をぴんと立てる。

 

「一人部屋で、且つ周りがすべて空き部屋なのがここしかないからだ。秘密の練習をするにあたり、この部屋以上にふさわしい場所がない」

「それが理由?」

「大事な要素だぞ」

 

 燭台切がこの部屋に移ったのは半年前だ。刀剣の数が増え、増築に伴い部屋の割り振りが変わるという時主から「燭台切は朝が早くて夜は遅いことが多いからこの部屋がいいんじゃないか。燭台切もその方が気を使わなくていいだろうって意見もあるしな」と言われてこの部屋を宛がわれた。まさかそれがこんなことになるとは。

 

「偶然とは言え、この展開はさすがに読めないよ・・・・・・」

「待て待て、たそがれるな。もちろんそれだけじゃない。理由その二、」

 

 鶴丸が中指も立て、ピースサインをする。

 

「体の練習ともなれば、勿論体力を使うことになるだろう。そうなると、戦場に赴く率が高いやつに頼むわけにはいかない。そして出来れば体が幼い者や、線が細い奴にも無理を強いたくない。俺も初心者な訳だし、うまく出来ないかもしれないしな。と、なると?」

「練度も上がりきり出陣遠征もほぼなくて、且つ、鶴さんよりも丈夫な体格の僕が最適だと?」

「ご明察」

 

 ぱちんと指を鳴らして、鶴丸がウインクをくれる。当たったのに嬉しい気がしない。

 しかし予想外なことに真っ当、と言っていいかはわからないが納得出来る理由が返ってきてしまった。ううむ、と口を結ぶ燭台切に鶴丸はずいと顔を近づける。そして今度は三本の指を立てて見せる。

 

「まだあるぜ。三つ目の理由。これが一番、重要だ」

 

 真剣さを少し甦らせ、鶴丸は言い聞かせるように丁寧に言葉を紡ぐ。

 

「いくら俺でもこの提案が明け透けに出来るものじゃないことくらいわかる。誰彼に頼むことは出来ない」

 

 鶴丸はじっと燭台切の目を見つめる。その目は真剣だ。

 

「そして、この恋は俺の生命線だ。俺の心の鮮やかさであり、同時に最大の弱点でもある。そういう部分を晒すなら絶対秘密を守ってくれる相手を選ばなくちゃならない。俺を心から信頼してくれてる奴、そして俺が心から信頼をよせている奴。その相手と考えた時、一番最初に浮かんだのが君だった」

「僕・・・・・・」

「君としては災難以外の何物でもないかもしれない。だけど、こんなこと頼める相手なんて、俺には君しかいない」

 

 きっぱりと言い切った。

 

「君が、君の協力が必要なんだ。頼む、光坊。俺の練習相手になってくれ」

 

 そこで鶴丸が頭を下げた。ふざけた雰囲気など一切ないまま。

 

「・・・・・・突拍子ないことばかり考えるのにどうして、そこだけは正攻法でくるかなぁ」

 

 鶴丸はいつも突然だ。突拍子がない。いつも燭台切を巻き込んでいく。驚きという思い付きに何度振り回されたことだろう。

けれど、鶴丸は何時だって誠実なのだ。自分の驚きや思想の為に燭台切を、誰かを蔑ろにしたことなど一度だってない。燭台切は尊敬する兄貴分のそういう部分をよく知っている。

 与えられた体とはいえ、自分の魂に纏うもの。それを所有者である主以外の者に委ねるというのはどうも抵抗がある。しかし、それを理由に一蹴することは憚られる。そして深く下げられた所にある白銀の旋毛を見ていると、どうも断る気にはなれないのだ。

 一体自分は鶴丸に何を求められているのか。少し考えてみようと考えを巡らせる。

 情交の詳しい内容はよく知らないが男同士の場合、片方が女性役に回らなければならないだろうことくらいはわかる。鶴丸の口ぶりからして、鶴丸は受け入れる側を燭台切に望んでいる様だ。

 うーん、と燭台切は自分の顎を軽く掴む。

 恋が理解出来ない自分には別に好きな相手がいるわけではない。誰かに操を立てる必要もないし、女体の様に妊娠する可能性もない。そして何より主の許可が出ているも同然。

 そこで断る理由の半分は消えてしまう。

 更に考えてみる。鶴丸が練習をしたいと申し出たその理由。

 心を通じ合わせた鶴丸と誰かが、初めて体を繋げる為にと褥に雪崩れ込む。暗転。次に浮かぶのは乱れた衣服のままお互い背を向け合って項垂れる二人。思わず「うわぁ・・・・・・」と声が出た。

 頭の中の想像は、想像以上に空気が重たかった。想像してる燭台切の胃が重くなる位に。確かに幸せを掴んだ身内が初夜で失敗し、好いた相手に恥を晒すと言うのはかなり居たたまれない。そう思えばやはり練習は必要な気もしてくる。

 となると、ここで燭台切が練習を断れば鶴丸は新しい練習相手を探す必要がある。それは誰だと言うんだろう。燭台切の次に信頼している者の所だろうか。

 それが誰にせよ、他の刀達を困らせてしまうのは看過できない。身内の問題は身内で解決してやるべきだ。だからと言ってこの練習を大倶利伽羅や太鼓鐘にさせるわけにもいかない。つまりこの練習に付き合えるのは自分しかいない。

 つらつらと考えて結局ひとつしかない結論に辿り着く。

 腕を組み、天井にやっていた視線を鶴丸に戻す。鶴丸は顔を上げて燭台切を真剣な目のまま見つめていた。

 

「いいよ」

「!!ほ、本当か!?」

「えっ、何でそんな吃驚してるの。鶴さんが言い出したことだろうに。本当だよ。他の子の所にいかれても困るしね」

「ありがとう光坊、感謝するぜ!」

 

抱きつかんばかりの勢いで両腕を広げたがそんなことはせず、燭台切の手を両手でぎゅうと握りしめるだけにとどめられた。

 

「あはは、そんなに?」

 

抱きつかれなかったとは言え、予想以上の喜びように思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 

「あ、っと、悪い。つい」

 

 燭台切の苦笑いにパッと鶴丸の手が離れる。そう言えば初めて素手で素手を握られた気がする。だからだろうか、直前まで燭台切の手に触れていた細く白い指は思った以上に力強く、線が細く見えてもやはり太刀なのだと何故か改めて思った。

 

「はー、よかった。断られなくて」

「またまた、安心した振りをして。予想通りだったんじゃないの」

「万が一ということもあるだろ。予想が裏切られず安心してるんだ」

「鶴さんが予想通りに行くことを喜ぶなんて明日は御手杵くん達が降るんじゃない?」

「それはそれで驚きだから俺的には大歓迎だけどな」

 

 にこにこ顔のまま鶴丸は上機嫌に言う。ここまで上機嫌なのも珍しかった。

 体の練習が出来るのが余程嬉しいのだろう。逆を言ってしまえば鶴丸はそれだけ自分の性技に不安を持っているということでもある。

 

「大丈夫だよ、鶴さん。恥を掻かないように僕が支えてあげるからね」

「突然憐れみの目で見てきてなんなんだ、と言いたいところだが何となくわかるから聞かないでおこう」

 

 肩をポンと叩いて鼓舞してやると、鶴丸が嫌そうな顔をする。失敬な。自分の身まで差し出してやろうと言う弟分の気持ちを嫌がるとは。

 その思いが顔に出ていたのか、鶴丸が燭台切を見て嫌そうな顔を何故か優しい微笑みに変える。

 

「俺がこんなに喜ぶのはな、自分の恋の為だけじゃない。光坊、君の信頼が本当に嬉しいんだ」

「そうなのかい?」

「ああ。君は本当に嫌なことは嫌と言える奴だろう?例え兄貴分の頼みだとしても自分が納得出来ないことには易々と引き受けたり、答えを出したりしない」

「まぁ、そうだね」

「だろ?だけど君は俺の頼みに頷いてくれた。自分の体を委ねる程度には俺を信頼してくれているってことだ。信頼を寄せている相手に、同じくらい信頼して貰っているというのはとても嬉しいことなのさ」

「信頼・・・・・・」

 

 成程。鶴丸が異様に喜んでいる理由がわかった。確かに信頼している相手に信頼されていないとなれば悲しいものだし、逆に同じくらい信頼されているとわかればとても嬉しいものだ。その気持ちなら燭台切にも理解出来る。

「・・・・・・だって、鶴さんに付き合えるのは僕くらいなものだろうし。他の人に迷惑掛けられるのも困るし、皆に断られ続けたらさすがに可哀想だし・・・」

 

 だと言うのに、真正面から信頼に対して言い訳がましい言葉を返してしまう。気恥ずかしいではないか、身内から改めて信頼している。信頼されて嬉しい。なんて口に出されるなんて。鶴丸がこんなに喜ぶ理由が燭台切なんだと面と言われればさすがに、照れる。

 これが別の相手であればありがとうと言えるのだろうが、いつも軽口を言い合っている鶴丸だからこそとてもむず痒くなってしまう訳だ。鶴丸が言っていることが当たっているだけに。

 

「あらら、責任感や義理堅さの方だったか。失敬失敬」

 

 口をすこし尖らせて顔を俯かせた燭台切の言葉にも鶴丸は笑っている。

 しかし、いくら気恥ずかしいとは言え、今の態度は余りにも子供染みたものだった。誠意には誠意で返す。燭台切の信条を気恥ずかしさなどで破るわけにはいかない。だから素直な言葉を返すことにした。

 

「・・・・・・ただ、それだけじゃなくてさ。僕もね、嬉しかったんだ」

「?何がだ?」

「俺には君しかいないって鶴さんに言って貰えたこと」

 

 ぱちりと瞬く鶴丸は少し幼く見える。

 鶴丸が信頼しているのは燭台切だけ。なんてことは勿論ない。燭台切は鶴丸自身ではないがそれは明らかだ。

 特別な大倶利伽羅、太鼓鐘。三条組とも交流が深いし、織田組献上組等あげればキリがない。それだけではなく、仲が特別よくない相手でも鶴丸は本丸の仲間全員を大切にしているし信頼している。

 周りからは鶴丸と燭台切は仲が良いと言われるし実際良好な関係を築いているとは思う。しかし、それと一番信頼しているかどうかはまた別の話。だから、鶴丸が一番信頼している相手は燭台切ではない別の誰かなのだと思っていた。

 けれど鶴丸は強い信頼で結ばれている相手として一番に燭台切を思い浮かべてくれた。自分の生命線を預ける相手は、燭台切以外にはいないときっぱり言い切った。

 嬉しかった。鶴丸と自分が同じくらいの強い信頼で結ばれていることがわかったから。

 つらつら考えてみた鶴丸の身を受け入れるいつくかの理由達より、何より。本当はその喜びが燭台切の首を縦にしか振れない様に固定してしまったのだ。

 

「鶴さんに、信頼している人に特別扱いされるのはすごく嬉しいものなんだね。僕、単純だからそれだけでちょっと無理な頼み事も頷いてしまうんだ。」

 

 ぱちりぱちり。再び鶴丸が、今度は二回瞬きをする。その表情に、あれ、おかしいことを言っただろうかと首を傾げそうになった。

 だがその前に鶴丸が微笑んでそうか、と言った。

 

「君は俺を喜ばせるのが上手だなぁ」

 

 声は喜びに溢れていたが、その微笑みには違和感があった。いつも燭台切に見せる笑顔とは違う。何かを思い出させると考えた一瞬後に、異国の童話で見た縞模様の紫猫、もしくは狐の嫁入りを描いた絵の中の美しい花嫁の微笑みと似たものを感じるのだとわかった。何故そう感じたのかわからない。深く考える前に今度は燭台切がぱちりと瞬いた後、その微笑みはいつもの鶴丸へと隠れてしまったから。

 だから燭台切の違和感も一瞬のこと。それに気づく筈もない鶴丸は片膝を立てて腰を浮かす。

 

「さてと、長居をして悪かった。今日は帰るとしよう」

「あれ、練習はいいのかい」

「準備もあるしな。明日からお願いしてもいいかい?あ、勿論練習の流れは事前にきちんと説明する。いきなり無茶な要求をしたりはしないから、君がどうしても無理!というものがあれば断ってもらっても構わない」

「わかった。でも、一度承諾したことだからね。出来るだけ鶴さんの希望には沿えたいと思うよ」

「君、腹括ったら本当迷わないよな。すごく格好いい。俺も見習うとしよう。んじゃあな」

 

 さらりと嬉しいことを言って鶴丸は立ち上がり、燭台切に背を向け部屋を後にしようとする。

 

「あ、待って鶴さん」

 

 その背中に声を掛けたが鶴丸には近づかず箪笥へと向かった。その中から羽織を取り出し、今度こそ鶴丸の元へ。

 

「随分と外で待たせてしまっていた僕が今さら言うことでもないけど、夜はまだ冷えるからね。これ羽織っていって」

「光坊」

 

 密会、その相手に自分の持ち物を渡して帰す等出来れば避けた方がいいのかもしれない。しかし、特段特徴もない無地の羽織だ。鶴丸が身に纏っていてもそこから燭台切を連想する者はいないだろう。

 すぐに受け取らない鶴丸を気にせずその細い両肩にふわりと羽織を掛けた。燭台切のものだからどうしても大きいが、そこまで違和感もない。

 

「ねっ」

「・・・・・・ありがとう」

 

 鶴丸が唇をきゅっと軽く結んで、そのまま微笑みの形に引いた。柔らかに落ちた目尻は先ほどとはまた違う珍しい印象を燭台切に与える。今夜の鶴丸はいつも以上にくるくると雰囲気を変えてくるな、と不思議に感じた。

 

「おやすみ、光坊」

「うん、おやすみ。鶴さん」

 

 廊下まで鶴丸を見送って、闇に溶けていくその背中を眺める。その姿が完全に見えなくなっても少しばかりそのまま。

 

「・・・・・・素敵な刀だよなぁ」

 素直な感想を闇が口から吸い取った。

 

 鶴丸は同じ伊達組の身内である。そして燭台切の憧れだ。

 刀としての優秀さ、見目も良く、その付喪神として宿った魂も実に美しい。勿論美しいだけではなく強さと優しさも持っている。その癖、儚い外見の下に考えられない程の激しさやぽっかりと空いた虚無も秘めている。

 主も仲間も好きで、優しくしたくて楽しませたくて。でもどこかで一線を引いている。たぶん、怖がりでもあるのだろう。本人はそれを上手く悟られない様にしているが燭台切はわかる。何故か初めて会った時から分かったのだ。

 そんな鶴丸に対して、燭台切は自分に似ている部分が少なからずあると感じていた。

 そして何かが決定的に違うとも。

 だから鶴丸といると共感に頷くことが多く、いつも理解を分け合えていた。同じくらい、驚かされ、絶対に分かり合えないと思うこともあった。一緒にいると良くも悪くも感情が動いた。

 いくら燭台切が他人に対して気安いと言っても目上の者にはそれ相応の態度を払っている。軽口を言い合ったりはさすがにしない。また目上のものではなくても、もう少し言動には気をつけている。なのに鶴丸に対してだけは違う。身内だからだろう、他の仲間に対する態度とは違うものを取ってしまうのだ。

 例えばそれは先ほど見せてしまった気恥ずかしさからのそっけない態度や、呆れや憔悴などのマイナス面も含めて。

 口論したのも鶴丸相手くらいなものだ。あれは完全に燭台切が悪かったのだが。

 

 その当時、初めて太鼓鐘の顕現が確認されたと言われた白金。敵の本陣を目前にして燭台切は重傷直前の傷を負っていた。と言っても、中傷は中傷。そ知らぬ顔で敵本陣への進軍を提言した時、上手く隠していたつもりだった燭台切の傷に鶴丸が気づき、待ったを掛けた。そこから燭台切と鶴丸の静かな、最終的には激しい口論が始まったのだ。

 その時の事を思い出して思わず自分の腹に手を当てる。

 あの時、良く分からない意地を見せ半ば駄々を捏ねているような燭台切に、最後鶴丸が与えたものは言葉ではなく鳩尾への強い一発。それで重傷になってしまった燭台切に「これで重傷だ。文句ないだろう」と言い切り、その細い腕のどこにそんな力があるのかと言いたくなるほどの力強さでそのまま燭台切を俵担ぎにし、部隊長に撤退を促して戦場を後にした。

 そのまま本丸の手入れ部屋に投げ入れられた二重の意味での衝撃。鶴丸を本気で怒らせてしまったのだと心がひやりとした。手入れ部屋で一人冷静になって思うことは、鶴丸に対しての怒りではなく自分の無様さ、未熟さへの怒り。そして鶴丸への申し訳なさ。

 太鼓鐘に早く会いたいという焦りが自分を意固地にしてしまっていたと気づいたからだ。いつもであれば、鶴丸の言葉ももっと冷静に受け入れていた筈だ。それなのに自分の焦燥で鶴丸と対立し、部隊を巻き込んでしまった。傷が癒えていくにつれ、自分こそが悪かったのだと思い知った。

 手入れが終わる頃、そんな燭台切の元に鶴丸がやってきた。恐らく、説教だろうと思った。だから鶴丸が来た時、燭台切は先に謝罪しようとした。

 しかし手入れ部屋を訪れて早々、何故か鶴丸の方が頭を下げてきたのだった。

 

『頭に血が上っていたとは言え、乱暴なことをした』

 

 驚いて何も言えない燭台切に鶴丸はそのまま続けた。

 

『君と貞坊の別れ方をよくよく考えれば君の焦燥も理解出来た筈なのに、それを考えもせず、まるで自分も当事者の様な顔で君の感情を押さえつけることを言ってしまった。貞坊と長く居られた俺が言えることではなかったよな。君が怒るのも無理はない』

 

 本当にすまなかった、と誠実な謝罪があった。

 燭台切はてっきり、『戦場には何度も行ける。しかし折れたらそれが出来ないだろう。見誤るな』と言われるかと思っていたのだ。まさか謝罪されるとは思っていなかった。

 その時、鶴丸の白銀の旋毛を見つめながら『敵わないなぁ』と心の中で吐いたため息の種類はなんなのか燭台切は未だわかっていない。しかし鶴丸に敵わないと言うことだけは、その時改めて心に刻まれたのだ。

 敵わない、けど、それで終わらせたくないとも。こういう刀になりたい、こういう刀の隣に立って恥ずかしくない自分になりたい。

 確かにまだ甘えている部分もあるが、鶴丸は燭台切の目標だ。憧れだ。

 

「恋、とはねぇ」

 

 その鶴丸が恋をしている。

 廊下側の障子にもたれ掛かった。

 

「鶴さんに好かれるなんて苦労するだろうな、その子」

 

 暗い夜空を見上げながら、苦笑いを浮かべた。

 何せあの鶴丸が本気になったのだ。本気の鶴丸はあの手この手で、好いた相手を手に入れようとするだろう。欲の薄い鶴丸の本気がどれ程の物か燭台切には分からないが、驚きに掛ける情熱を好いた相手にぶつけるとするならそれぐらいはする。その情熱なら側でずっと見てきた。

 鶴丸の恋しい相手が誰かは分からないが、これから大変だろうけど頑張ってね。と心の中でエールを送る。

 

「でも・・・・・・叶うといいな」

 

 だけど結局燭台切は鶴丸の味方をしてしまう。

 恋なんてよく分からない、けれどそれはきっと素敵なことなのだろう。実れば幸せになれるのだろう。燭台切は鶴丸に幸せになってほしいし、鶴丸は必ず好いた相手を幸せに出来る男だ。鶴丸の気持ちを受け入れるまで苦労をしても、結ばれれば絶対幸せになれる。

 

「その幸せが初夜で途切れないようにお手伝いするのが僕の役目って訳か」

 

 なんとも微妙な役目である。二人の恋の橋渡しをするでもなく、むしろ恋が成就した後に燭台切の役目が露呈すれば二人の間に亀裂を生じさせる可能性が高い。仲間に泥棒猫!なんて誤解をされたくないので、なんとしてもこの秘密の練習、誰にもバレないようにしなくてはならない。

 何より真摯に頭を下げて頼ってくれた鶴丸に迷惑を掛け、期待を裏切ることなど絶対に嫌だ。

 

「よしっ、頑張るぞ。ご指名だからね、格好よく行こう!・・・・・・と言いたい所なんだけど上手く出来るかなぁ」

 

 首の後ろを擦りながらとぼとぼ部屋へ戻っていく。恋の『こ』の字も知らない自分がまさか先に誰かと体を結ぶことになるとは思わなかった。しかも色気が足りないと言われた張本人に。

 約束を交わしたからには役目を全うするつもりではあるが、どうにもこうにも不安だらけである。

 しかしそんなことを考えつつ布団に入ればいつも通りぐっすり眠っていた。

 燭台切の内面が揺らぐことはそうそうないのだ。それは鶴丸相手に体の練習をすることになったとしても同じである。

 明くる日。

 燭台切はいつもと同じように一日を過ごした。少し違うのは、夕餉の後、片付けと何時もはゆったりと時間をかけて楽しむ次の日の朝餉の仕込みを早々に終わらせ、すぐに湯浴みに向かったことくらいだ。

 髪を完全に乾かしきらないまま、自室へと向かう。途中で酒飲み達に声を掛けられたが、今日は疲れたので早く休むと言って断った。うちの酒飲みたちは非常に聞き分けがよく、燭台切が断るとそれ以上無理には誘ってこない。また今度一緒に飲もうと気分を害する様子もなくにこやかに引き下がってくれる。と言っても、他の刀が断ってもそのまま引きずりこまれている場面は何度も見たことがある、きっと運が悪かったのだろう。

 酒飲みたちから離れた後はなるべく何でもないように、しかしさりげなく誰とも会わないようにしながら廊下を進んだ。そこまでしなくてもいいとも思ったが何が秘密の綻びになるかわからない。密会がバレて困るのは燭台切ではない、鶴丸だ。慎重になるに越したことはないだろう。

 燭台切が自室に着くと、部屋の前、壁に凭れ月を見上げている鶴丸がそこにいた。

 

「鶴さん」

 

 声を落として名前を呼ぶ。

 鶴丸は壁から背を離して、よっ!と片手を挙げることで答えた。

 

「中で待ってても良かったのに」

「部屋主がいないのに入るのは、さすがに憚られる」

 

 鶴丸は片腕に何かを持ったまま器用に両肩を竦めた。

 

「それに、君を待っている間ここから見る月は一等美しいんだ。長時間いたとしても全然苦じゃない」

「でも廊下で待っていたら、誰かに見られてしまうかも知れないよ。それに、昨日も言ったけど夜は冷えるし。風邪を引いたら練習どころじゃない。今度からは部屋の中で待っていて、いい?」

「むぅ。他人に情緒の共感を口で求めるのは難しいな。君の言うことが正しいだけに。わかった、次からはそうしよう」

 

 鶴丸は口を尖らせる寸前でそれをやめて素直に頷いた。そこで燭台切を見てはた、と何かに手を伸ばしてくる。

 

「髪が乾ききってないな」

 

 伸ばされた手は、風呂上がりで湿っている襟足へ。人差し指と中指で後ろから前へと流すように引かれる。溜まっていた水分がぽたりと、肩に落ちる。

 

「悪い、急かしてしまったか」

「違う違う。ちょっとバタバタしてただけ。次からはちゃんと乾かしてくるよ」

「なら安心した。それこそ風邪をひいてしまうからな。練習に付き合わせて風邪を引かせるのは申し訳がない。・・・・・・それにしてもいい香りがする。濡れた髪はシャンプーの香りをいつもより濃く感じさせるな」

 

 鶴丸が一歩近づいて体が密着する。背伸びした顔が、指で挟んでいる髪に鼻を近づけ、まるで花の香りを楽しむかの様にすん、と濡れた襟足の香りを嗅いだ。

 

「そう?いつもと変わらないと思うけど。物理的に距離が近いから香りも強く感じるだけじゃない?それか鶴さんの鼻がいつもより通ってるか」

「・・・・・・光坊」

 

 表情で人の気持ちの全てを読むことは出来ないが、それを前提としてもなんとも表現しがたい複雑な顔色を鶴丸が見せ、燭台切から離れた。

 

「断言しよう。君はモテない」

「なんで謂われない苦言を貰ってるの僕」

「俺としては可愛い弟分が誰かの毒牙にかかる心配がないから安心だが、一般的には詐欺だぜ。このがっかりスケコマシ」

「言葉に棘があるなぁ!がっかりスケコマシって何!?っていうかもういい加減部屋に入ろうよ!」

 

 複雑な顔を持続させている鶴丸の腕を引いて自室へ明日を踏み入れる。このまま廊下で騒いでいたら密会も何もあったものではない。

 鶴丸もそう思ったのだろう、大人しく燭台切の後に続いた。後ろ手で障子を静かに閉める。

 明かりをつけようとして、ふと思い立つ。

 

「明かりは・・・・・・点けない方がいいのかな?」

「君が恥ずかしいと言うなら点けなくてもいいぜ?」

「じゃあ、点けておこうか。練習だし、きっと見えていた方がいいよね。これが夜戦組なら必要ないんだろうけどねぇ」

「太刀は夜目が利かないからな」

 

 ぼぅと柔らかい明かりが部屋を照らす。二人で近くに向かい合って正座をした。この距離なら十分な明るさだろう。

 

「あ、そうだそうだ。光坊、昨日はこれ、ありがとうな」

 

 鶴丸が片腕に持っていたもののひとつを寄越す。昨日の羽織だった。

 

「どういたしまして、ってわざわざ洗ってくれたのかい。別に良かったのに」

 

 洗剤の匂いがするそれを受け取って箪笥へと仕舞った。立ったついでだと座っている鶴丸に声をかける。

 

「布団も敷いた方がいいのかな」

「いや、今日はいい。今日は練習の詳しい内容説明と、大丈夫そうなら前戯の練習をさせてもらいたい」

「オーケー」

 

 結局羽織を仕舞っただけで、鶴丸の前へと座り直した。

 

「よーし、ならまずは説明するぞ」

 

 鶴丸はそういってこれから燭台切につきあってもらいたい練習の内容を説明し始めた。

 最初はふんふんと頷いていた燭台切だったが途中から、中々頷くのに時間が掛かるようになってしまった。

 

「お、男同士ってそういうことしてたの?」

「みたいだなー。自然の理に逆らってはいるが具合は悪くないらしい」

 鶴丸は何でもない様に言う。

「いや、でも、まあ男女間でも誰が最初にそれをそこに挿入れようと考えたの、って思ったことはあるけどさ」

「それこそ本能ってやつなんだろ」

「本能ねぇ」

 

 腕を組んで納得するしかない燭台切に、鶴丸は光坊。と名前を呼んだ。

 

「俺たちは刀だ。人間の本能なんて備わっちゃいない」

「そうなの?」

「そうさ。その証拠に、君は女を抱きたいと思ったことがないだろう?性の衝動を感じたことも。体は人の器を模しているにも関わらず」

「確かに。そういう衝動を感じたことはないかな」

 

 顕現してから今夜までのことを思い返してみたがそんな欲を抱いたことはなかった。主の春本やDVDとやらを見ても特に何も思わなかったし、ましてや女の性に触れたいとも思わなかった。改めて聞かれれば一般男性としては異常なことだ。

 今更気づく燭台切に、繁殖する必要がない自分達にとっては当然のことだと鶴丸は話を続ける。

 

「俺たちは子孫を残す必要はないからな。繁殖目的の本能自体がないのさ。性の衝動だけで抱き合うことはない。つまり相手がほしい、相手を恋しいと思わなければ体を結びたいという欲求すら出ないんだ。ま、一応人間を模倣してあるから刺激があれば反応するようには出来てる訳だが」

「成程ね」

「その刺激からの快楽も、心が伴った快楽とはやはり比べ物にはならないと思うけどな。相手の心を受け入れ、体に触れて、体と心の一番深い所で繋がり合う。それは、例え同質な性同士の、自然の理に逆らった歪な繋げ方でも、心の伴わない本能だけの正常な交わりより幸せな快楽に違いない」

 

 鶴丸は幼子を諭す様に、それでいて心地よい音楽に身を浸して感嘆の言葉を溢しているかの様に目を閉じて言った。

 しかしそれを見つめる燭台切を見返した時の表情は労りと苦笑いを混ぜたものへと変わる。

 

「つまり恋情を理解出来ない君にとって、本能を動かすことさえない歪な繋げ方であるこの練習はまったく無意味なものでしかない。ここまでの説明を聞いて、それでも付き合ってくれる気があるかい?」

「僕には意味がなくても、鶴さんにとっては意味のあることでしょう。それが僕の意味だよ。何?意志の再確認?」

「・・・・・・いや、ただ聞いてほしかっただけさ。だが、うん、最終確認だったのかもしれないな」

 鶴丸は何故か微笑む。燭台切を見てはいなかった。行灯を見つめて、まるで自分に対して笑っているようだった。優しい顔なのに、苦い物を含んでいる様に見えるのは気のせいだろうか。

 鶴さん?と声を掛けようとする前に鶴丸がぱっと顔を戻して燭台切を見つめた。

 

「説明も終わったし、だらだらと話しててもあれだな。始めるか」

「そうだね」

 

 そういって鶴丸が持って来ていた荷を引き寄せる。そして中から何かを取り出し始めた。

 それを見ながら燭台切は自分が着ている着流しの襟に両手をかける。体の練習を始めるのだから当然、服は邪魔になる。とは言えこういう時いきなり全てを脱ぐものなのだろうか。

 

「鶴さん、全部脱いだ方がいいのかい?」

「んぁ、うん、そうだな、ああいや、上半身だけでいい、まずは」

 

 鶴丸は何かを取り出したことによって役目がなくなって風呂敷をことさら丁寧に畳んでいる。燭台切の方を見ずにそのまま答えた。始めようと言ったわりにはもたもたしている。

 

「どうしたんだい、鶴さん。歯切れ悪いよ」

「仕、方ないだろ、俺だって君より知識があるだけで実技は右も左もわからん。だからこその練習なんだぞ」

「そっか、そうだよね。ごめん、僕、鶴さんは何でも出来るって思い込んでる節があるみたい」

 

 成程、鶴丸は風呂敷を畳みながら練習の流れを反芻していたのかも知れない。鶴丸だって初めての練習なのだから、慣れていないのも当然だ。

 そうであるなら鶴丸がやりやすい様にしてやらなければ。余計なことは口にせず黙っていた方がいいだろうか。そう思いしばらく黙っていたが鶴丸はいつまでたっても風呂敷を畳んでいる。いくら何でも長すぎる。

 自分が言いだした練習とはいえ、好いてない相手に触れるのに戸惑いがあるのかもしれない。

 そうだ、先程あんなにも好いた相手との繋がりについて語っていた鶴丸だ。本当は好いた相手との一夜を大事にしたい筈。その為に燭台切と練習をするという矛盾に葛藤しているのかもしれない。

 す、と姿勢を正した。

 待っているだけでは駄目だ。燭台切から動いてやらなければ。こういう時はまずやりやすい雰囲気作り行為や始める弾みが必要だろう。

 

「鶴さん」

「な、なんだ光坊。急に」

「至らない点ばかりだと思いますが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」

「ど、どうもこれはご丁寧に。って言うか逆だろ。こちらこそ何卒お願いします」

 

 三つ指をついて頭を下げると鶴丸も戸惑いながらも即座に正座をして燭台切に頭を下げる。白銀の頭が上がるのを待って口を開いた。

 

「こういうのって始まりの言葉、みたいなのって必要なのかな」

「おっ、例えば」

 

 鶴丸が興味を抱いたように顔を上げる。よし、この調子と考えを巡らせた。

 

「例えば、えー、」

「頑張れ光坊、その言葉すごく大事だぜ!」

 

 ぐっと拳を握る鶴丸を前に、口を開く。

 鶴丸の葛藤を払拭させるような、体を結ぶ二人の始まりの言葉とは。

 

「さあ、どこからでもかかってこい!」

「俺的にはすごく好きだけど、君のことを今日からとムードぶち壊し男と呼ぶことにする」

「なんで!?」

「それで、よーし、じゃあいくぜ!ってなるかい!」

 

 いいんだけど、いいんだけど!

 一度目のいいんだけど、は燭台切に言って二度目のいいんだけど!は壁に向かって飛ばす。何故そんなにやけくそ染みているのか。まったくもって理解できない。

 

「もう、ない知恵絞って導き出したのに結局進まない。鶴さんいい加減始めようよ。頭で考えても仕方ないよ、実践しなくちゃ」

 

 そう言いつつ自分の襟を大きく開き、そして肩から脱いでいく。腕を抜くか迷って、別にそのままでいいかと判断した。背中が半分だけ露になっている感覚がする。脱いでるにしては中途半端で、肌蹴たというには脱ぎすぎている、そんな格好になった。

 

「相手は鶴さんの好きな人じゃなくて僕なんだから失敗してもいいんだよ。ほら、鶴さんの好きにしていいから」

 

 さっきまで騒いでいた鶴丸が燭台切の思いきりの良さに驚いたのか、口をつぐみ、目を見開く。

 しばらく流れた沈黙を鶴丸のこく、と鳴った喉の音で破り、引き寄せれる様にゆっくり手を伸ばす。指先が僅かに震えて見えた。

 心の内でおや?と首を傾げているとその白い指が燭台切の肌、鎖骨辺りに触れた。

 

「っい!」

 

 途端体がびくっと反応する。

 

「うぇっ!?な、なんだ!どうした」

「ご、ごめん。冷たさに吃驚しちゃって。鶴さん、手、すごく冷たいよ」

 

 驚いて引っ込めようとする鶴丸のその手を捕まえる。今は素手の状態である燭台切の両手に閉じ込めたその白い両手はひどく冷たかった。震えて見えた手は悴んでいたからの様だ。

 

「もしかしてずっと寒かったの?言ってくれよ、なんで我慢するんだい。やっぱり外で待ってたから体が冷えたんだね。まったく、僕たち体が資本なんだから気を付けないとダメじゃないか」

「い、いや、これは」

 

 捕まえられておきながらいまだに引こうとする両手をぎゅっと握りしめ、顔を近づけた。そしてそのまま、中へ、はーっと息を送り込んで暖める。

 そうするとようやく鶴丸が動きを止めた。大人しくなったことで手を擦ることも出来たので、すぐに鶴丸の手をほかほかに出来た。

 

「はい、温まった」

「・・・・・・俺は、修行が足りん」

「?だから、今から練習するんだろう。それに今、ひとつ勉強になったじゃないか。冷えた手で相手に触れないこと、ね?」

 

 ともあれ、人の体は極度の緊張でも手足が冷たくなるという。鶴丸に限り本番で緊張する、なんてそんなことはないだろうが、愛しい相手との初夜となればその限りでもないかもしれない。大体において飄々としている鶴丸であるが好いている相手には純情さを見せる可能性もある、ちょっと笑える想像ではあるが。

 

「そうだな。だから練習するんだよな、・・・・・・うん、吹っ切ることにする」

「その調子、その調子。はい、じゃあ改めて。どうぞ」

「よしっ」

 

 小さく気合いを入れ直して鶴丸が先程と同じ場所に触れる。指先が鎖骨の形に沿って動くが、今度は燭台切の体を驚かせることはなかった。

 温まっている白い指はいつのまにか手のひら全体が燭台切の肌に触れていて、そのまま肩を撫で、腕を撫で、燭台切の体の部分部分の形を確かめるように辿っていく。燭台切の目はその手を追ったり、鶴丸の表情を眺めたり。鶴丸の表情は真剣で、どちらかと言うと無に近い。

 鶴丸の手が首筋へと上がる、そして今度はそのまま下がっていく。

 

「何か感じるか?」

「んー、触られてるなって感じはするよ」

「そうか。・・・・・・しかし、胸筋すごいな」

 

 鶴丸の両手全体で胸筋をほぐされている感じ。受けたことはないがマッサージ、みたいな感覚だろうか。

 鶴丸の指が胸の突起に触れ優しく捏ねたり押し潰したりしても、くすぐったいと感じるくらい。

 これは鶴丸の上手い下手ではなく、単に自分が鈍感なのではと燭台切が思い始めた頃。鶴丸がより間合いを詰めて、上半身を少し前に倒す。より低い所、燭台切の胸の前から燭台切を上目使いで見つめ口を開くる。

 

「舐めても?」

 

 驚きはしなかった。説明の時点で、性技を鍛えるにあたり肌に唇を寄せ、舌を這わせることもあると言われていたから。

 

「僕に確認を取る必要ないよ。鶴さんの練習なんだから。鶴さんがしたいようにしていい。言っただろう、好きにしていいからって」

「んじゃあ、遠慮なく」

 

 そういって鶴丸は顔を伏せた。そして燭台切の胸の突起にちゅっ、と音を立てて唇をつける。そのまま含んで、口の中の生暖かい滑りを押し付けてきた。

 上から見下ろす光景は、何とも変な感じだ。まさか男体の自分がこんな光景を見ることになるとは思いもよらなかった。

 

「変な、感じ」

 

 口から出た心の内に鶴丸が視線だけを上げて見つめてくる。赤い舌が自分の本来使わない飾りを這っているが見えた。ますます変な感じと、今度は視覚と触覚で感じる。

 

「あ、不快感じゃないよ。くすぐったいっていうか、なんかさっきより、むずむずする」

「ん、なるほど。初めてでそれなら、なかなか素質があると見た」

 

 何にも感じない場合もあるらしいしな。と、鶴丸は唇を離して、そのまま、にまっと笑った。素質とは何のことだろう、己の舌技のことを言っているのだろうか。

 機嫌よく鼻を鳴らして、鶴丸は自分の側にあった何かを掴む。先程風呂敷から取り出したそれは、透明なボトル。中にはとぷとぷと粘度のある液体が入っているように見えた。

 

「それ何?水分補給?」

「ろーしょん」

「ろーしょん?」

「必需品だって言ってた。そんなに冷たくないから大丈夫だと思うが」

 

 鶴丸がそう言いながら自分の片手に少し中の液体を出す。その温度に対してか、うん、大丈夫だろうと一人で納得する。そしてそのまま燭台切の胸の上でボトルを傾ける。誰が言っていたんだという疑問を聞く暇もない。鎖骨から下、ちょうど胸筋の盛り上がりの所に、とろーっと、透明の液体の線が空中から肌を流れていく。鶴丸の言う通り冷たくはなかった。しかし何の意味があるのだろう。

 

「まー、やらしいなぁ」

 

 鶴丸が流れる透明の液体を眺めて、目を細める。始めるまで時間がかかっていた割りに、今の鶴丸は楽しそうにしている。修行が足りないと嘆いた後、吹っ切ると言っていたから鶴丸の中のメーターを楽しむ方向に傾けたのだろう。どんな状況でも楽しめることは楽しもうとする鶴丸らしいが相変わらず切替が早い。まぁ、無表情で体を撫で回されるより余程良いか。そちらの方が燭台切も気軽に話しかけられる。

 体を真っ直ぐしているとすぐに液体が腹まで伝ってしまう。それを遅らせる為に無意識に片方だけ後ろ手を突いて、上半身を後ろに少し傾けていた。その格好のまま鶴丸に話しかける。

 

「ただの透明な液体だろう?ちょっととろとろしてるけど。それがやらしいのかい」

「ああ、やらしい。粘度がいいよな」

「粘度が?えー、どういうこと?じゃあとろろとか、納豆とかもやらしい?」

 

 鶴丸は何故か透明な液ではなく燭台切の顔を見つめ、また透明の液を視線で辿っていった。

「うん、やらしいな」

 

 こくりと頷く。燭台切にはよくわからない反応だった。答えようがなかったので成程、鶴丸はとろろや納豆をやらしいと思いながら食しているのかと頭の中に書き留めるだけにしておいた。

 鶴丸がボトルを床におく。そして先ほど片手に出した粘液を両手で滑らせ、今度は濡れた手を燭台切の両胸に置いた。

 最初に胸筋を揉みほぐした動きと同じ動きを、鶴丸の手がまた始めた。先ほどと違うのはぬめぬめとした粘液の感触が、肌をねっとり撫でていくこと。このろーしょんというものは滑りをよくする為のものだったらしい。手のひらによって人肌の滑りが広がっていくにつれ、鶴丸の舌で頂をねぶられていた時の変な感じが薄く、しかし胸全体にじわりと馴染む感覚がした。

 

「これ、」

 

 鶴丸の手が何度も往復し、粘液を広げたてらてらと濡れた胸。優しくほぐされ、時に肌の上を触れるか触れないかの加減で撫でられると何故か後ろに後ずさりたくなった。その癖、ただ濡れている触れられていない部分は空気が染みるように心もとなくてその手で押さえてほしくなる。

 その不思議な感覚を目と肌で追っていった。それを続けて、何故か唇を軽く噛むように結んでいる自分に燭台切が気づいた頃、胸を這っていた鶴丸の手が片方だけ下の、腹の部分へと下っていた。

 

「相変わらず見事に六つに割れてるな」

 

 そんなことを言いつつ、ろーしょんが伝っていて濡れた腹筋を手で往復するが、胸程は撫で回すこともなく、手は更に下る。

既に着流しを引っ掛けているだけの帯。その下の。

 

「流石に勃ちはしてないか」

 

 割れた裾の、下穿き越しに鶴丸が軽く触れる。そこは人体の急所でもある。咄嗟に身を竦めてしまった燭台切を誰も咎めはしないだろう。

 

「自分でも性的に触れたことはないんだよな」

「うん。鶴さんはあるんだよね」

「ある」

「どうだった?」

「体と心ってのは本当に不思議だなって驚いたよ」

「不思議って?」

「だって今まで何ともなかったのに、好きな奴が出来た途端、一人で感じる様になるんだぞ?熱が上がれば上がる程勝手に好きな奴が頭に浮かんでくる。ありゃあ不思議だよなぁ」

「へえ、そうなん、だっ」

 

 鶴丸に相槌を打っている途中で声が上ずった。鶴丸が濡れた片手を下穿きに入れてきたからだ。

 

「脱がすのが先か。このままだと汚れてしまう」

 そう呟いて内側と外側から燭台切の下穿きをずらし、そのまま脱がすよう促した。素直に従うと、その中に隠れていたものが露になる。

 与えられた性だ。そして鶴丸に与えられたのも同質のもの。一緒に風呂に入ったこともあるし、今さら見られても別に恥ずかしいこともない。ただ、他人の手に触れられるとなるとまた話は違った様だ。練習の説明を事前に受けているにも関わらず些か抵抗感、に近い何かがある。やはり急所だからだろうか。

 鶴丸がそこを軽く握るとその抵抗感に似た何かは大きくなる。大丈夫と言い聞かせる。急所を握られても鶴丸は燭台切に害を与えることなどしない。

 心の内で大丈夫ともう一度繰り返す燭台切に気づいているのか、気づいていないのか。滑りのある鶴丸の手が握ったままゆっくり、棒状の形に沿って繰り返し上下し、時に優しく揉む様にぎにぎ動く。その度に腰が重くなり、腹の底がじわりじわりと疼き出す。

 

「良い感じだな」

「な、にが」

「ほら、もたげてきた」

 

 鶴丸の猫みたいに細まった目の先。同じものを見てみると、いつも燭台切が見ているものとは違う状態の性器があった。

「これが、熱が身に積もってきて、昂りつつある状態」

「う、」

「感じている、とも言う。うんうん、上々上々」

 

 会話をしながらも鶴丸は手の動きを止めない。燭台切は体を支える為に両手とも後ろについた。腹の奥からせり上がる何かに、無意識に頭を振る。

 

「鶴さ、ちょっと、待ってくれ。何か、」

「ん?」

「わからないっ、何だこれ。へん、だ」

「びくびくしてきたな・・・・・・。大丈夫、精が出ようとしてるだけだ。何も変なことはない」

「っ、手を止めてくれ。お願いだ、からっ」

 

 自分の手で鶴丸の手を掴むと鶴丸は素直に動きを止めた。ほっと息をつく。未だ蠢く下腹部に、もっと刺激が欲しい気がするのには気づかない振りをして。

 

「気持ち悪いか?」

「気持ち悪いっていうか、その、・・・・・・粗相をしてしまいそうで」

「だからそれとは違うんだよ、大丈夫なんだってのに」

 

 鶴丸は聞き分けの悪い生徒を諭す様に言う。鶴丸の手を離れ、いつの間にか反り返るほど勃ち上がっている燭台切の屹立の裏の部分を指でなぞりながら、ほら、何時もと違うだろう?と苦笑いをした。その指先の刺激だけでも下唇を噛んでしまう。

 

「っ、でも」

「まぁ、一糸乱れもしない俺が知った顔で言っても説得力もないか。なら、手淫は止めよう。これは上手く出来そうだしな」

 

 そう言って鶴丸はさらりと自分の下穿きを脱いだ。何事かと目を見張る燭台切の方へ腰を進めて近づく。片足ずつが上と下に交差して、その間のモノが触れるくらいに。いきなりの近さに燭台切が腰を引きかける。

 

「こら、逃げるな」

 

 逃げ腰の燭台切の腕を引っ張って、鶴丸が後ろ手を突いていた燭台切の上半身を起こさせる。二人の間にある、勃ち上がったふたつの性がぴとりと触れ合う。

「っぁ、なっ何、これ、」

「二人のものを直接擦り合わせて気持ち良くなる方法だ。手淫の代わりにこっちを練習させてくれ」

 

 片手にはろーしょん。そのボトルをくっついているふたつの肉塊へ傾ける。透明なとろとろとした線が頂上へと落ちていく。既に滑っていた肉を、更に濡らし、感覚を溶かしていくように下へと垂れていった。

 

「うぁ・・・・・・っ」

「っ、・・・・・・ほら、やらしい」

 思わず声を漏らす燭台切に鶴丸が笑いかける。視線はすぐ下へと戻った。ろーしょんを側に置き、くっついている肉にその手を添える。そして腰を緩く動かし始める。

 

「!い、・・・んぁっ、ぅ」

「はっ、こりゃあ、やばいな」

 

 鶴丸は僅かに顔を歪め、熱い息と共に口先で笑ったが燭台切はそれどころではない。鶴丸が手を止めたことですこし治まっていた熱が、また迫り上がってきた。鶴丸の手の中で燭台切と鶴丸自身が擦り合わされ、ぐちゅぐちゅと音がする度にその吐き出したい感覚は強くなっていく。揺れる自身の感覚、擦り合わされる竿と、頭の部分。鶴丸の手の心地よい握力。頭の中がちかちかとなるのは何かの警鐘か。

 

「うぁ!つ、つるさ・・・・・・っ!駄目だ、止めてくれ!何か、何かくるっ」

「いいぜ、出しな。受け止めてやる」

 

 燭台切が両腕で鶴丸の腕を掴み懇願するも、鶴丸は体を揺らしすり付ける腰と手を止めない。口の端をぺろ、と舐めるのは加虐性すら感じさせる。いつもは楽しく優しい鶴丸の、まるで戦場に立つ時のような一面だった。

 しかし燭台切はそれに驚く余裕も、恨めしいと思う余裕もない。初めての感覚にただただ狼狽えるばかりだ。鶴丸に説明される前からも射精と言う行為は知識として知っていた。鶴丸と練習するにあたり、それを体験することになるだろうことも説明を受けていたし納得もしていた。

 けれど、燭台切が今感じているこれは本当に鶴丸が言っている通りの射精感なのだろうか。鶴丸は勘違いをしているのではないだろうか。鶴丸の言葉を信じてこのまま鶴丸の前で粗相を、漏らしてしまえば自分はたぶん折れたくなるだろう。そういう意味では恐怖すら感じていた。

 

「あっ、い、嫌だ!鶴さん・・・っちょっと、待っ・・・て!」

「君は、今ちょっと混乱してるだけ、・・・っ大丈夫、だから我慢しろっ」

「嘘だっ、本当にこれ、ぁ!~っ、だめ、っで、あ、出ちゃ、――っ!!」

 

 突如視界が白く飛び、途切れた音の膜の向こうでわずかにびゅるびゅるっという音が聞こえた。けれどそれは無意識の感覚で追ったものであって、燭台切の意識は白い世界に飛んだままだった。

「――つぼう、光坊」

 

 どれくらいそうしていたかはわからない。ぽんぽんと背中を軽く叩かれる強さで視界の輪郭と燭台切の人格の意識がぼんやりと戻る。

 

「放心してら。まぁ、初めての、刺激だけの快楽でイけばそうなるか?」

「つ、る、さん」

「お。お疲れさん、光坊」

 

 目の前に鶴丸の顔があった。どうやら気づかぬうちに懇願で掴んだままの腕にすがり、体全体を密着させていたようだ。

鶴丸はてきぱきと動いている。鶴丸が持ってきたらしいウエットティッシュを手に、燭台切の力をなくした精の吐き出し口や畳。鶴丸自身の手を拭いていた。

 

「どうだった、初めての体験は」

 

 燭台切は意識が飛んでいたので気づかなかったが、鶴丸も燭台切に続いて精を吐き出した筈である。それなのに燭台切に感想を聞く顔はけろりとしている。

 

「・・・・・・こんなの、おかしくなっちゃうよ」

 

 呟いた自分の声はとても不本意なものだった。

 鶴丸に触れられていた間、燭台切の脳の働きは極端に悪くなっていた。途中までは自己認識をしていた筈なのに、いつの間にか頭から色んな物事が少しずつ落ちていったのだ。肌の感覚と視覚、体の奥の衝動。鶴丸の一挙一動を追い、そして追いたてられた。

 燭台切は鶴丸に求められた練習の協力者と言う役割を本当に全うするつもりだったのだ。なのに、ほとんど機能しない脳は未知なものを恐れ快楽を恐れ、いつもなら考えられない逃げを燭台切に吐き出させた。

 そしてあの、絶頂感。粗相をするのが怖かった。けれど、本当に怖がり鶴丸を振りほどくことなど考えられなかった。蠢く熱を出したくて、出したくて。射精をする直前は他のことなど考えられず、出ている瞬間は出ているという白い快楽だけで、それ以外頭の中は空っぽだった。あの瞬間の燭台切はまさに空白だっのた。

 

「体の制御が意識を飛び越えるなんて・・・・・・与えられた器が精神を捨てるなんて、」

「ショック受けてるなぁ」

「受けるよ、鶴さんも受けただろ?」

「俺は、それに対してのショックはあんまり。それより汚れた下穿きをどうするかなぁって考えたもんさ」

 鶴丸は燭台切の体を拭きながらしみじみと言った。ショックを受けていたのもあったし、鶴丸がさりげなくそして手際よく身を整えてくれるものだから自然と身を任せてしまっていた。

 

「体ってのは結構正直なんだぜ。変な意味じゃないぞ?君の体は刺激に対して素直に反応しただけ。君はそれを『体が精神を捨てた』とショックを受けてるがそれは違う。体が勝手に反応しても意志は心の深い所に残ってる。体と心は密接に繋がっているんだ。だから自分の身に起こることをそのまま受け入れてみればいいのさ。そうすれば体と意識はつながるもんだから・・・・・はい、終わり。綺麗になった。でも出来れば朝にでも湯浴みに行った方がいいな」 

 次からは木桶に水張ってくるか、と一人で呟いている。

「ありがとう、鶴さん。後始末全部してもらちゃって」

「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。これからも大丈夫そうかい?」

「う、ん・・・・・・」

 

 歯切れが悪い返事になってしまった。想像と実践はやはり違う。鶴丸はああ言っていたが、今まで意識が支配していた体が、自分の意識を飛び越えて勝手に反応してしまうというのは嫌なショックだった。

 怖じけずくのも格好悪い。約束を反故するのは最低だ。だから練習は付き合い続けるつもりだが、うん!任せて!と、元気な返事を返すには時間が足りなかった様だ。

 

「・・・・・・今思い出しても似た気分になるか?」

 

 自分の不甲斐なさに俯いていた燭台切に静かな声がかけられる。

 

「え?」

「俺に触れられた時のことを思い出して、さっきみたいな状態になるかってこと。ならないだろ?」

「だって、触られてるわけじゃないし」

「それが、恋も欲も本能もない最大の特徴。触られれば反応するが、直接刺激を与えなければ何も反応しない」

 

 鶴丸によって与えられたものを思い返してみる。頭を焼いて溶かした快楽が確かにあった。しかしそれがどういった風に身を苛んだのか、数分前のことなのに微塵も甦ってこなかった。

 

「大丈夫。君の体は刺激に対して反応しただけで何一つ変わっていない。勿論心の方も。怖いことなんて何もない。君が汚れることは何も」

 

 別に汚れたとは思っていない。だが確かに自分は変わってしまったのではないか、という思いはあった。大袈裟だということは分かっている。

 けれど鶴丸は、恋も欲も本能もない燭台切は何も変わっていないと言った。

 

「・・・・・・僕、変になったりしてない、かな。頭、おかしくなったりしないかな。体が言うこと聞かなかったんだ、僕の意志で動いている体なのに」

「君はおかしくなってない。大丈夫・・・・・・って言葉で言うのは簡単か。一度知ってしまえば知らない前には戻れないもんな。悪い、知らなくていいことを教えてしまった様だ」

 

 鶴丸が謝罪を寄越す。

 

「違う違う!練習自体に後悔してるわけじゃないよ!まだちょっと混乱してるだけ。僕の方こそ好きにしていいって偉そうなこと言っておきながら、みっともなく制止する様なことしてしまって、ごめんね。鶴さん、思うように練習出来なかったんじゃ?」

「いやいや、初日だぞ。十分だって。俺はそんなことより君をもう付き合わせない方がいいんじゃないかと・・・・・・」

 

 申し訳なさそうな目にびっくりして慌てて手を振った。

 

「平気だよ!あんな風になるのも練習してる間だけって分かったし。そりゃあ、日常的にあんな風になるのは抵抗あるし、他の皆にみっともない姿見せるなんて絶対嫌だけど、相手は鶴さんだし」

「そうかぁ?無理してないか?」

 

 鶴丸は疑うような目付きで燭台切の表情を探る。それにうんっと、自分の手で自身の胸をどん、と叩いて見せた。僅かに布と肌が張りつく感触がした。いくらウエットティッシュで拭いたとはいえろーしょんは完全に取りきれていないのだろう。鶴丸のいう通り、朝湯浴みにいかなくては。

 

「大丈夫。格好悪さしかないけど、予想以上の初めてのことに怯んでしまっただけだから」

 

 今度は大丈夫だとしっかり言えた。

 

「・・・・・・よかった。ちょっと心配だったんだ。誰だって未知な体験をすれば怯むのは無理もないからな。これが他の奴なら、怯んだまま練習を打ち切られていたかもしれない。やはり、君は頼りになる。君を頼ってよかった」

 

 鶴丸がホッとしたように笑って手を伸ばしてくる。頭を振ったことで少し乱れていた燭台切の頭にそれは乗せられて、そして優しく撫でた。

 鶴丸は燭台切を弟分扱いするが、子供扱いをしてきたことはない。だから頭を撫でられるのも初めてのことだ。

 嫌な気持ちはない。それは鶴丸が子供扱いをしているからではなく、燭台切に感謝し労っているからだということがわかっているからだ。与えられた感触は、強すぎる快楽とは違い柔らかく優しく、胸の奥がふわっとなる。

 そして鶴丸が、燭台切を頼りになる。頼りにしてよかったと言ってくれた。無様にも取り乱し、逃げを見せた燭台切に。もちろん鶴丸に付き合った労り分のお世辞も入っているだろうが、素直に嬉しいし、その期待に応えたいと強く思った。

 

「僕、精一杯、期待には応えるから。頼れることは遠慮せずに沢山頼ってね」

「頼もしいな!ありがとう光坊」

 鶴丸は笑みを深くした。やはり紫猫か狐の笑顔みたいと心の中でちょっと思った。

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