劇の準備は本格的に始動した。
大まかな事は決まり、後は各担当が劇当日に向けてことを運んでいくだけだ。
卒業にもまだ一年猶予がある歌仙は、劇の準備以外至って普通の学生生活を過ごしていた。主の家にもあれから顔を出すが主はやはり家から出てこない。
日常は日常のまま少しだけの非日常を含んで、国永の劇発案から二週間が経とうとしている。
「歌仙くん、おはよう」
三年生の登校日ではない、平日。二年生までの学生しか登校しない日であるにも関わらず光忠は相も変わらず学校に来ている。
しかし午前中に会うのは珍しい。というか、わざわざ歌仙のクラスに足を運んでくること自体が。
憧れの先輩を前に色めき立つ女子達の声を背中に感じる。それに気づいているのかいないのか。出入り口へ近寄る歌仙により一層魅力的な笑みを光忠が浮かべる。
「珍しいね、きみが僕の教室を訪れるなんて」
「うん、ちょっとお願い事しに来たんだ」
ますます珍しい。光忠は器用で何でもそつなくこなす。それでいて人を支えるのが好きなため、光忠から誰かを頼ろうとすることはほとんどないと言ってもいい。例外は双子の廣光くらいだろう。
その光忠が廣光ではなく、歌仙にお願い事とは。
珍しく思う、けれど何故かデジャビュを感じる。
「歌仙くん、昼休み空いてる?」
「空いているけれど・・・・・・」
「歌仙くんの貴重な時間、僕にくれないかな。調理実習室に来てほしいんだ」
まるで客を引くホストみたいな台詞の後に小さく付け足した指定場所。聞いた瞬間、歌仙は黒板の日付に目を走らせる。そして、光忠に対して頷いた。
歌仙が感じたデジャビュは去年の記憶だ。それを思い出した。
「わかった、行くよ」
「ありがとう歌仙くん」
じゃあ、昼休み。待ってるね、と歌仙しかわからない程度にほっとした光忠は、好奇心や憧れを存分に含んだ視線をその身に集めたまま去っていった。
歌仙は再度黒板の日付を見る。本日は14日。通りでクラスどころか、学校全体が浮き足立っていると思った。
「フォンダンショコラだろうね」
高嶺の花ではあるけれど一度でいいから光忠にチョコを渡したかったと嘆いている女子達の声を聞きながら歌仙は一人呟いた。
昼食を終え、別棟にある調理実習室を訪れると既に甘い香りが立ち込めていた。
いくつもある調理台のうち、ひとつ。まさに甘い香りを製造中の光忠がいる。
「劇、いろんな人に協力してもらってるだろう?だからお礼にお菓子配ろうと思って」
歌仙が何も言い出さないうちに光忠が話し出す。それも間違いなく菓子作りの理由だろう。けれどそれだけでは今日この日に、国永へチョコ菓子を渡す理由には足りないと思って歌仙を呼んだに違いない。
「これ、型に流せばいいのかい?」
「うん、ありがとう」
手を洗い、光忠の隣に立つ。作業の行程を軽く見て自分が始める作業の確認を取った。
光忠が作った生地を型であるカップに流し込んでいく。甘い香りが漂い、歌仙をも包んでいく錯覚を覚える。
しばらく甘い香りと沈黙を漂わせて作業を進めていた。響くのは調理実習室の外から聞こえる生徒達の賑やかな声と調理器具から生み出される音だけ。
その静けさを先に優しく破ったのは光忠の穏やかな声だった。
「こうして二人で並んでるとさ、思い出さない?あの大量のおにぎり」
一瞬前世のことを言っているのかとも思ったが、そうではないと思い直す。恐らく光忠が言っているのは、
「ああ、運動部への差し入れか。思い出すね、あの修行の様な時間を」
我が高校の運動部は強豪、とまではいかないが県の大会で中々に善戦する部が多々ある。
生徒会としてはわが校の生徒が活躍すれば嬉しいもので、文系の歌仙も応援が力になるならば心から声援を送ろうという心積もりではあった。
そんな中、今年の春の大会前だったか。国永がまた突然言い出したのだ。「4月で三年になる奴らは、次が最後の大きい大会だ!自分の力を存分に発揮し、悔いない最後にしてほしいよな!そんな訳で、光!歌仙!出番だぜ!差し入れだ!美味い飯があれば絶対力になるからな!」と言い出して歌仙と光忠を駆り出したのだ。
「まったく、あれだけの人数の食事を二人で作るなんて、そんなことありえるかい?」
「あはは、本当だよねぇ。後半は二人で黙々と死んだ目で作業だったもんね。たぶん歌仙くんの手際の良さがなければ乗り越えられなかったと思うよ」
「それは僕の台詞さ。相手が光忠じゃなければ僕は耐えられなかった自信がある」
「しかも差し入れた時の皆の反応が『男の手作りかよ・・・・・・』見たいなあの空気!」
「一口食べた瞬間文句が一切なくなったのは、今思い出しても気持ちいい思い出ではあるけれどね」
ふふんと鼻で笑うと、光忠もあれは心の中でガッツポーズしたよね!と楽し気に笑った。
「結構いろんなもの二人で作ったよね」
「そうだね。国永が次から次へと色んな事を思い付くものだから、その度に二人で弁当やらケーキやら。ま、どれもあの大量の差し入れよりはインパクトにかけるか」
生徒会も夏の合宿だ!とキャンプを企画され飯盒で飯を焚きカレーを作ったり、どこから手に入れたのか巨大な氷を持ってきてかき氷を生徒に配りまくって教師に注意されたこともあった。四季が巡る度国永は色んな事を思い付き、食に関することは全て歌仙と光忠に投げっぱなし。
廣光は廣光で国永によく連れ回されていたからどちらの方が良かったとははっきり言えないけれど。
思い出をぽつりぽつりとひとつずつ溢して小さく肩を揺らし終わった時、光忠がカップに追加の生地を流し込む。
「歌仙くんとこうしていると、すごくしっくりくるんだ」
「奇遇だね、僕もだ」
本当は奇遇でも何でもない。前世ではこのポジションが当たり前だったのだから。
「料理を作っている時だけは僕の片割れは廣ちゃんじゃなくて、歌仙くんの様な気分にすらなるよ」
「ははは、光栄な話だけれど廣光が拗ねてしまう」
光忠も無意識に覚えているのだろうか。しみじみとそんなことを言ってくれる。嬉しいのとくすぐったいのとでわざとらしく肩を竦めて見せた。
前世での光忠も大事な仲間で友人であったが、今世の光忠も今の歌仙にとって大事な友人だ。限定的とは言え片割れの廣光より近しいと言われて嫌な気分になるわけがなかった。
「だからかな、いつもは言えない様なことも言ってしまうのは」
静かな実習室の中でもすぐ隣にいる歌仙にしか届かない大きさ。
「僕、卒業式の日でこの気持ちを終わらせるよ。国さんを好きでいるのはここにいる間だけ」
光忠がひとつだけの白いカップ、赤のハートマークが散りばめられている型に生地を流し込む。後二週間したら終わらせると言った気持ちと一緒に。
「・・・・・・その気持ちの手伝いを喜んで引き受けている今、それを聞いて喜ぶと思うかい?」
歌仙の質問に困った笑顔で自分の手元を見ている。人を喜ばせることが好きな光忠が、その逆を友人に与えることを肯定するとは思わなかった。
「君たち三人は近くの大学を受験していたね。交流を続けるつもりはあるんだろ?なのに何故、卒業で区切りをつけるのか、理由を聞いて良いかい?」
光忠はずっと動かしていた手を止めた。
「別に男同士だから諦めるとか、そういうマイナスな考えじゃないんだ」
そう言って生地を流し込み終わったそのカップを両手で持つ。
「ただ、好きってことが分からなくなってきたんだ。歌仙くんの言う通り、これからも国さんと友人で居続けるつもりがある。だからこそ、それ以上を望む必要がないというか」
両手で持ったそれを焼き上げるために、他のものと同じくプレートに乗せる、とても優しい手つきで。
「僕、今がすごく楽しい。だから好きで居続ける利点ってなんだろう?彼を好きでいることと、彼と普通の友人でいることの差ってなんだろう?って考えるようになった。それで出た結論がさ、ああ、差なんてないなあって答えに辿りついたんだ」
それどころか、と高校生にしては大分大人びた声で続ける。同時に、物分かりが良すぎる子供の声かもしれなかった。
「国さんが僕に友人を求めているなら、それに応えられることの方がずっと嬉しいことなんじゃないかな。国さんが求めていない気持ちを押し付けるよりずっとさ」
にこにこ目を細めてオーブンのスイッチをぴっと押す。
「そりゃあね、そんなにすぐに気持ちを切り替えることは出来ないよ。だけど、ここを卒業してさ、最後に正門から踏み出した時なら。新しい世界に出る時なら、劇の刀たちの様に僕も生まれ変わることが出来る思うんだ」
光忠は自分の気持ちを歌仙に見せてくれながら、新たに板チョコを刻み切っていた。彼の包丁捌きは相変わらず美しい。
光忠がふと、視線をあげた。窓の外、賑やかな校庭の青春に誘われる様に。
「・・・・・・新しい世界で生きる僕たちは自由で。何にも縛られてなくて、何処にでも行ける。どんな風にも生きられる。狭い箱庭の中で持っていたものを広い世界に持ち出す必要も意味もない。箱庭に囚われたままになれば、きっと、・・・・・・悲しませてしまうから」
あの人を。と声に出さない唇が囁いた。
「だから、そのためには箱庭に、この青春に全部置いていこうって決めたんだ。一言でいうならモラトリアムはもう終わり、ってとこかな」
優しい声。光忠は優しい、そして強固だ。強固だからこそ優しくあれるともいう。その光忠の強さを歌仙が動かせられるとは思えない。
歌仙もまた強い意思を持ってぶつかればわからないが、歌仙には光忠の言葉を聞いて否定することが出来なかった。何故なら、
「どうするのが正解か分からない僕にはそもそも君の考えを否定する権利などないんだろうね」
「歌仙くん、」
「いや、すまないね。君は僕に感情を語ってくれたに過ぎない。僕が是非をつけることはそもそも間違いだ。非礼で無粋だった、聞かなかったことにしておくれ」
本当は、それでいいのかと思った。
ずっとずっと好きな癖に、本当に生まれ変わることが出来るのか。実際、今、生まれ変わっても好きなのに?無理だろう。それは自分を偽っているのではないのか?と問い詰めたかった。
歌仙が今いる所は、箱庭とは。実らない想いや、楽しかった思い出の廃棄場所でしかないのか。思い出の宝箱と言えば聞こえがいい。しかし強い想いを仕舞い込み、違う世界、前世の話だと断じていいものなのだろうか。いくら生まれ変わったと言っても、その延長に今の自分がいるというのに。
そう肩を掴んだまま、前世の記憶がない目の前の友人を揺さぶりたかった。
『私、もう主じゃない!!ただの人間だよ!歌仙ちゃんとは何の関係もない!!!余計な干渉しないで!!!!!』
しかし、主の言葉が甦る。
主は、思い出を現在で吐き出している。強い想いを今も小説として紡いでいる。箱庭を思い出の宝箱にはしなかった、主にとって過去は思い出ではなく、帰るべき場所なのだ、今も。
だから箱庭ではない今を拒絶している。自分とは違い外の世界で生きれている歌仙を無関係だと拒絶している。あの寂しさを思い出すと、光忠の選択と主の選択はどちらがいいのか分からなくなる。
今を生きていく為に自分の想いを捨て、代わりに捨てた場所である箱庭を大事に仕舞おうとしてくれる光忠と、箱庭を思い出とせず今も思い続けてくれているが、そのせいで今を拒絶している主と。
前世と今世が曖昧なまま今を生きている歌仙には、どちらが正解など分からなかった。
「・・・・・・国永、喜んでくれると良いね」
見つからない正解を諦めて、代わりにそう言った。
寿命がわずかな光忠の想いを溶かして作った菓子を、国永に喜んでほしいと思うのも本心だ。
「うん」
光忠は微笑んで実習室に常備してあるカップを寄越す。中には余ったチョコで作ったホットチョコレートが入っていた。
「手伝ってくれて、話を聞いてくれてありがとう。歌仙くんがいてくれてよかった」
光忠に返した笑みは自分でもぎこちないものだったろうと思う。甘い香りに包まれて、甘い飲み物に口をつけた筈なのに、苦い気分だ。
歌仙がいる間に焼き上がらなかったものは出来次第、光忠が生徒会からの差し入れとして配ることになった。ただ国永と廣光には歌仙と一緒に渡したいとのことだったので放課後に渡すということだった。
歌仙はバレンタインデーなんて全く今回ない午後の時間を過ごし、放課後になっても誰かに呼び出されるなんてこともないまま、生徒会室へ直行した。
生徒会室へ向かう途中、渡り廊下等で男女がチョコの受け渡しをしているのを見ると素直で大変可愛げがある気がした。変に気持ちを拗らせるよりよっぽどいい。人間素直が一番である。
そんなことを男女を見かける度に思い、10回程繰り返して生徒会室に着いた。
「やぁ」
「おっ、歌仙!」
「・・・・・・」
生徒会室には国永と廣光の二人だけ。座っている廣光を後ろから抱き締めて、ぴたりとくっついたまま何か本を眺めている。広い部屋なのだからそんなにひとつに固まってなくてもいいだろうに。
国永はよく廣光に抱きついている気がする。同じ仲の良さの光忠にはそんなことはないのだが。
「歌仙、ほら!」
国永が張り付いた廣光越しに歌仙に何かを見せてくる。そこには見知った顔、そして見知ったどころじゃない自分の姿が並んでいる。
「アルバムかい」
「そろそろ私物を整理してくれと次の生徒会に言われてしまった」
「遅すぎるくらいだね」
会話をしつつ、国永が開いているアルバムを近寄って眺める。アルバムがなければ廣光と真正面から向き合う、そんな格好で。
見開き二ページに並んでいる8枚の写真。数十ページ続く思い出はこの生徒会発足時からのもの。行事やイベント、たまに遊んだ時。その度にページの嵩が増していく。一年差がある歌仙が写真に出てくるのはページの三分の一が過ぎた辺りからだ。
取り敢えず広がられている8枚の写真をしげしげ見つめて。
「・・・・・・廣光はいつも同じ表情だね、仏頂面だ」
「大抵怒っている表情のあんたには言われたくない」
アルバムを挟んでお互い言い合う。廣光の後ろで、国永がけらけら笑っている。写真の中と同じく楽しそうに。
そこまで重くないアルバムとはいえいつまでも持っているのは大変だろうと国永から冊子を取って再度机の上へと開いたまま置いた。
三人同時に見るためには横向きに置かなければならなくて、揃って首を傾げてアルバムを覗き込む。
「修学旅行の京都、懐かしいなぁ廣」
「そうだな」
「何でこんなにスタバで写真撮ってるんだい君たち」
紅葉の中に寝そべる国永や、鹿マスターになってる廣光や枕投げで優勝しピースしてる浴衣姿の光忠の写真に並んで、何故か三条大橋近くの有名コーヒー店前で肩を組む光忠と国永や注文しているその二人の写真が結構な枚数あった。撮影者の廣光に向かってそれはもう満面の笑みで。全国チェーンなのだからいつでも行けるだろうに謎過ぎるテンションだ。
「こいつらが一番楽しそうだったのがここだったからな」
「自分でも良く分らんが、正直一番テンション上がった」
「まったくもって理解が出来ない。もっと他に見るところはなかったのかい」
「あったさ!だからこそ君にあんな風流な土産を持って帰って来たんだろ」
「ああ、そうだね。あのお土産は実に風流だった」
当時一年だった歌仙に修学旅行から帰ってきた三人が用意した土産は袋一杯の紅葉。生徒会室を開けた時、床一面に敷かれたあの鮮やかさは今でも鮮明に思い出せる。あの紅葉の一枚をしおりにして今も愛用するくらいには感動した思い出だ。
歌仙と国永が話してる間に廣光がぺらと時を進めていく。部室に簡易コンロ持ち込んで密かに開催したクリスマス鍋パーティやら、年明けての花見やら、海水浴やら体育祭やら。
「っく、ははははは!ほんとに、君たち大抵同じ表情だな!」
「「うるさい」」
人がいつも怒っているような言い方をするものだから反論するとぴったり廣光と被ってしまった。さらに大きくなる笑い声に二人で仏頂面を見合わせる。シャッターを押すタイミングの方が悪いんだ、別に自分達が悪いわけじゃないと目で会話をした。
「おっ、去年の文化祭」
「・・・・・・忘れないよ、執事喫茶の恨み」
「いいじゃないか!展示だけの、文化祭よりよっぽど充実してたと思うぜ!」
去年の文化祭、歌仙のクラスの出し物は展示のみだったのだ。だから当日は一人でぶらぶらと周る予定だった。文化祭は平日で弟や小夜も来れないから。
そこを、クラスの出し物で執事喫茶をするのだと言う国永に拉致をされた。裏方を手伝って欲しいとのことだったのに実際は執事服を着せられ給仕もさせられる羽目になった。
「光の人気を舐めすぎていた」
「執事と言うより、ホストと言うか。もはや女子に囲まれ過ぎててキャバクラだったしね」
執事服の光忠に給仕してもらえると知った女子生徒達が怒濤に押し寄せ、結果歌仙が拉致された訳だがその時の教室内は本当にすさまじかった。あんなに女子に教室が埋め尽くされることもそうそうない。
その後は女子禁制の男子専用執事喫茶に変更するという奇策で収拾を図ったのだがそれはそれで中々繁盛し、結局歌仙は一日中光忠と国永のクラスの手伝いでおわったのだ。
途中隣のクラスから客としてやってきた廣光におもてなしと称して愚痴を吐かなければ耐えきれなかっただろうと思う。
廣光がその時のことを思い出しているのかふっと唇を緩ませて「異様な空間だったな」とページを捲っていく。思い出は先日の初詣の一枚で途切れ、後は空白のページが2回続く。
他のページより妙に厚い気がする最後の空白のページを閉じてアルバムが終わった。
「3年間分、よく集めたものだね」
閉じたアルバムを国永へと手渡す。
「思い出作りって青春っぽいだろ」
「相変わらず好きだね、青春が」
「そりゃあそうさ!たった一度の人生の、たった一度の青春だぜ?全力で楽しまなくちゃいけないだろう!人として生まれたからには義務だぞ、義務!なぁ廣!」
「巻き込まれた方は堪ったものじゃないがな」
「廣の言う通り」
「この恥ずかしがりやさんどもめ~!!」
ここに光がいたら、そうだね国さん!って味方してくれるのになー!と国永が唇を尖らせた。
「そうやってすぐ光忠に甘えるんじゃないよ、まったく」
「いいんですー。光は俺の右腕なのー。俺は光に甘える権利がある!」
「はぁ、あのねぇ。それも後二週間の話だろう。卒業したら今までみたいに毎日会えるわけじゃないんだ。まさか、君、毎日光忠のキャンパスに忍び込む気じゃないだろうね。ああ、国永ならやりかねな、」
「いなけりゃいないで済む話だ」
歌仙の小言はさらりとした国永の声に遮られた。いつも通りの。
「いつまでも光にベッタリするなって言いたいんだろう?まったく、俺だって馬鹿じゃないぞ歌仙!卒業したら学生時代の友情なんて段々と薄れていくぐらい知ってるって!ほら、特に光なんてあれだろ、ダメ人間大好きだからな。大学内に溢れてるダメ人間に夢中になってお世話係とかになっちゃって俺のことなんてすぐ忘れるぞ~。俺寂しい~。というか、あいつマジでダメな女に引っ掛かりそうだな・・・・・・ま、そこは廣がいるから大丈夫か。廣はしっかりしてるもんな~」
そう言って廣光の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。それもいつも通りだ。しかし、やけに引っ掛かりを覚える。廣光は無表情だから歌仙の気のせいだろうか。
「・・・・・・あんたは隣の大学だろう。あんたの悪名なんてすぐ届く。そうしたら光忠は飛んでいくぞ。あんた以上のダメ人間なんてそうそういないからな。気を付けろ」
「はっ!そういやそうだった!大学生になっても光に世話されてたんじゃ彼女が出来ん!やべー、気を付けよう」
廣光は頭を撫でられ続けながら淡々と話す。やはりいつもと変わりはないように見えた。
さらりとしていたいつも通りの国永の言葉。そこに何かひやっとしたものを感じたのはどうやら歌仙だけだったらしい。
国永と廣光は未だ大学生活の話をしている。主にどんな彼女がほしいかを国永が廣光に一方的に話している状態だ。
今まで国永が「彼女がほしい」なんて主張したことはなかった。この二年間一度も。歌仙は、それは国永が光忠のことまんざらでもないからだと思っていた。そうでなくても、光忠の前でそんな話題を出さなかったことにも安心していた。
なのにここに来て急に色話を持ち出すとは。ここに光忠がいなくてよかった。彼はこんなことで傷つきはしないだろう。それどころか笑顔で話題に乗っかってくるはずだ。そんな姿、歌仙の方が切なくなってきっと国永にぶちギレてしまう。
「に、しても光の奴遅いな。どっかでナンパでもされてんじゃないのか??」
アルバムを廣光越しに机の上でとんとん、と。国永がアルバムを手にしたままようやく貼り付いたままだった廣光の背中から密着を解いた。そして、アルバムを鞄に仕舞おうとしたのか自分の席へ向かおうとした時、アルバムの中から一枚、ひらりと写真が落ちた。舞い落ちていく写真は最後に床を滑り歌仙の足元へ。
「国永、一枚落ちた、よ、」
言いながら拾い上げるその写真を見て一瞬言葉が詰まった。
歌仙の手にある写真。文化祭の時のものだろうか。後ろが夕暮れだから片付けの時のものかもしれない。
風に乱される右側の前髪を押さえ、スーツの燕尾を靡かせる姿。上半身で振り返り、レンズの向こう側へ見せる微笑みは歌仙が一度も見たことのない光忠の表情。
突然、写真がぱっと白い手に取られる。
「きちんと貼っていたつもりだったんだが落ちてしまったな。後でまた貼り直さないと」
「それ、」
そんな写真。今見た中にあっただろうか。話していたせいで見逃した?こんな、誰がシャッターを切ったか、光忠の視線の先に誰がいるかすぐわかる美しい瞬間を?
「ん?どうした歌仙」
眺めなおすこともなくサッとアルバムに挟まれた写真を人差し指で追うが、国永はにこっと歌仙を見返すだけだ。
それに明確な違和感を覚えた。時、
「ごめん、遅くなっちゃった」
扉が開き、盆を手にした光忠がやってきた。
覚えた違和感が、ふんわり香る甘さに隠されてしまう。
「自分から呼んでおいてごめんね、温めてたら思ったより時間かかっちゃって」
廣光の机の上に一皿。国永が立っている所、いつもは光忠が座る机の上に一皿。光忠が配膳をする。
「フォンダンショコラ!!」
国永があげるきらきらとした声に、うん、そうだよと返事がある。
「劇を手伝ってくれてるみんなに配ってきたんだ。これね、冷めても温め直すとちゃんととろとろになるんだよ」
本当はカップ入りだったんだけど、せっかくだから二人の分はお皿に盛ってきたんだと、昼休みの光忠とは別人の100%な爽やかさ。
「・・・・・・光忠、二つしかない」
「僕と歌仙くんは作ってるときに食べたから。ね?」
「ああ。しばらく甘いものはいいかな。午後の授業中ずっと甘い匂いが染み付いている気すらしていたよ」
甘い匂いを染み付かせて考えていたことは、苦いホットチョコレートの味へと辿り着かせるものばかり。どうしたものかと頭を悩ませ物理の授業も上の空だったことは黙っておいた。
「歌仙も一緒に作ったのかい?」
「うん。僕一人じゃ大変だったから」
「と言っても下準備も後片付けも全部光忠一人でやったよ。僕は昼休みの時間に少し手伝っただけさ」
茶を入れてやろうと準備に取りかかる。現生徒会から私物について言われたのならこの茶入れセットも今日持ち帰った方がいいだろう。
こぽこぽお茶を入れていると、後ろの会話が続く。
「なぁ、食べていいか!?」
「どうぞ。その為に持ってきたんだし。廣ちゃんももう食べ始めてるよ」
「・・・・・・うまい」
「ふふ、それは良かった」
「じゃあ俺も!」
いただきます!のすぐ後にうまい!と感嘆の声があがり、お茶を煎れながら歌仙も笑ってしまう。光忠から聞こえた笑いも楽しげだ。昼間の儚さを含んだものとは違う。隠し事が実に上手いな、と思う。
だが、さっき見た写真。国永のアルバムから溢れるように落ちた光忠の姿。あの光忠は、隠しようがない好意を、いや愛おしさを表していた。国永と二人きりの時、光忠がどういった態度なのか歌仙は知らない。あの光忠の表情もたまたま見せた一瞬だったのかもしれない。けれど、あの写真に写る表情でいつも国永を見つめるなら、いくら国永でも光忠の気持ちに気づきそうなものなのに。
気づいていないのだろうか、本当に。
ちらり、と国永を見る。フォンダンショコラを一口運び、また一口。んんー!と頬を片手で押さえて女子の、はたまた子供のように美味しさを表現している。にこにこ笑みには、好きなものを食べている純粋な喜びしか見えない。
光忠の気持ちに気づいているなら、別の喜び、もしくは気まずさが欠片でも見えるはずだ。しかし国永は本当に口の中に広がる甘さをただ堪能しているだけ。
そのフォンダンショコラに、光忠の恋の命が削り溶かされていることも知らず。胸に受けとるべきものが入ってることも、何も知らないまま胃に収め消化していくのだろう。
鈍感め。
国永から、国永の湯飲みに視線を落とし口許だけで呟く。国永を責めるのはお門違いとわかっていてもまた苦いものが込み上げる。
国永が光忠の気持ちに気付いて、その気持ちを受け入れれば全てが丸く収まるのに。
そんな、国永の気持ちを無視した考えをしている自分に、茶を煎れている手を止める。
何故自分はこんなに躍起になっているのだろうか。光忠が友人だから?それなら国永だって友人だと言っても良い相手だ。
光忠の恋が成就することが国永の幸せになるとは限らない。どちらも幸せになれないなら、歌仙はこれ以上この問題に首を突っ込むべきではないのだ。
「ふふ、国さん、口元ついてるよ」
「?どこだ?ここか?」
「違うよ、こっち」
「・・・・・・子供かあんたは」
会話が進む3人の声を遠くに聞きながら、煎れ終わった四人分の湯飲みを眺める。茶柱ひとつ立ちはしない。どうしてとまた腹立たしくなる。ここで光忠か歌仙の湯飲みに幸運の柱が立てば、今すぐ何故今日にチョコ菓子なのか国永へ教えてやるのに。
またそんなことを考えてしまって静かに首を振る。口を出すだけなら誰でも出来る、そんな無責任な事出来ない。そこまで考えて、胸の内がもやもやと圧迫されるのが分かる。
「歌仙くん、どうかした?」
「いいや、何でもないよ」
光忠に声を掛けられて咄嗟に繕う。歌仙に出来ることは何もない。見守るだけだ。わかっていることなのに、何を今さら。自分に言い聞かせて茶を配る。
「・・・・・・」
茶の時間が終わり、歌仙が私物の茶セットを紙袋に入れていると、廣光が何か言いたげな視線を寄越してくる。
「なんだい、廣光」
「それ、持って帰るのか」
「そうだけれど?」
「持つ」
「え?」
廣光が席を立ち、自分の鞄を持つ。廣光は生徒会室に私物を持ち込んでいなかった為他に荷物はないようだ。空いている左手を歌仙へ差し出した。
「貸せ。まだ荷物があるんだろう、途中まで俺が持つ」
「た、確かに歌集やら置いていた荷物が結構あるが、ど、どうしたんだい急に」
助けを求めて光忠を見る。
「廣ちゃんもう帰るのかい?」
「帰る。・・・・・・待っていた方がいいか?」
「ううん、大丈夫だよ。僕はこの間私物全部持って帰ったし。このお皿洗えば帰れるよ」
「国永、あんたは?」
「俺ももうちっとしたら帰る。なんか用事があるんだろ?こっちは気にしなくていいぜ」
「わかった。・・・・・・さっさと渡せ」
「何故僕も一緒に帰ることが決定してるんだ!僕にも確認を取れ!」
突然の廣光の行動がわからなくて抗議してる間にさっとお茶セットが入っている紙袋を取られてしまった。そのまま廣光は生徒会室を出ていく。
「こら廣光!一体なんなんだ!光忠、国永、悪いね僕も先に帰るよ!」
「うん、また明日ね歌仙くん」
「じゃあな~」
廣光を追いかけないわけにもいかず慌てて部屋を出る。「光、俺も一緒に実習室に皿戻しに行く」「ありがとう。じゃあ帰りに寄ろうか」と言う会話をドアで遮断した。
そして先に行ったであろう廣光を追いかけようと勢い良く踏み出した所で、
「んぶっ」
「・・・・・・廊下は走るな」
「ひろみつ!」
廣光の体にぶつかる。先に行ったものだと思っていたのにどうやら待っていたようだ。名前を呼ぶと廣光は人差し指を自身の唇に寄せる。視線は、歌仙が閉じたドアへ。
「少し話がある。行くぞ」
歌仙が口を閉じたのを確認して廣光は踵を返す。颯爽と廊下を歩く背中を追って歌仙も踏み出した。
廣光が持っていたお茶セットは歌仙の手へと戻っている。廣光の左手にはチョコレートが入っている紙袋があった。廣光の靴箱にぎゅうぎゅう詰めになっていた気持ち達だ。
光忠も国永も廣光もとてもよくモテる。その中でもチョコの数は廣光が断トツらしい。菓子作りも得意な光忠にチョコを渡す勇気がある者はおらず、貰うときりがないと全てのチョコを断る国永は寄せられる好意の数からすると信じられないほど平和なバレンタインを過ごす。
そこまで親しくない者から見ると話しかけづらいオーラが漂っている廣光も直接渡されることはないらしいが、こうして靴箱を通して廣光の手へと渡される。食べ物を靴箱に入れるなど衛生上どうなのだと歌仙は思うのだが、廣光は気にしないらしい。それは「廣ちゃんね、貰ったチョコは全部、ひとつ残らず食べるんだよ」とは光忠情報によって証明されている。
非常に廣光らしい。衛生的なものを考えないとかそういう意味ではなくて、全ての思いを自分の中に収めるというところが。
チョコが入った紙袋を見る。
このチョコは幸せものだ。きちんと意味を理解されて、渡されるべき相手の中に残るのだから。
大小形は違えども好きと言う感情は同じなのに、好きになった者、好きになった相手が違うとその感情の行方にも大きな差が出来る。
千差万別。当たり前のこと。何をこんなに歯がゆく感じることがあるだろうか。
ふぅと呼吸を整える。紙袋から斜め前を歩く廣光の耳と頬へ視線を移した。
話があると言った廣光はずっと黙っている。正門を出て、双子がいつもバスに乗るバス停を通りすぎても。その沈黙を気まずいとは思わない。出会った時は犬猿の仲だった関係も友愛を育むこともあるとは、自分が経験していなければそんなことがあるものかと鼻で笑っていたことだろう。
「少し待っていろ」
突然廣光が回れ左でコンビニへと入る。言葉を返す暇もなかった。
コンビニの入り口で待っていると程なくして廣光が出てくる。
「そら」
「あつっ」
ぽとりと落とされるものを咄嗟に両手で受けとる。予想外の熱に、手の中のものを跳ねさせた。温かいペットボトルだった。
「大袈裟だ」
「驚いたんだよっ」
また少し歩いて、街路樹下のガードレールへと廣光が腰を下ろす。歌仙もそれに並んだ。廣光が買ったばかりのはちみつレモンを飲み始める。歌仙に買ってくれたものも同じものだった。
「あんたは、」
そんなに熱くはないとわかっているのに、無意識にペットボトルの蓋を開けてふぅふぅと息を吐いていた時、廣光が話しかけてきた。
「今の世界をどう思う。あの世界よりも自由だと思うか」
「・・・・・・なんだい藪から棒に。それとも話って言うのは哲学を論じることだったのかい?僕は文系だけれど、哲学は非なるものだよ」
「別に哲学染みたことを言うつもりはない」
飲もうとしていたペットボトルを下ろし、廣光と同じように両手で持つ。ううんと軽く考えてみた。
丸いはずの、平たい地面から視線をぐるりと回す。ヘッドライトをぼちぼちつけはじめた車が排気ガスと共に歌仙の後ろを流れていくのを眺め、コンビニ前に座り込んでいる若者を眺め、街路樹下、土から僅かに出ている緑が冷たい風に吹かれているのを眺め。
「そうだねぇ。僕は、この世界を美しいと思うよ」
「ふっ。おい、文系」
「文系であることと感性はまた別なのさ」
今の世界は自由かと聞かれて、美しいと答える歌仙に笑いが滲む緩い突っ込みが寄越される。どこ吹く風で理屈をこねた。
確かに今の世界には、生きていく上でルールや制限はどうしてもある。しがらみも少なくないし、社会の唱える常識は雅を解さないだけでなく誰かを苦しめるものだって多い。この広い広い世界が、本当に自由で生きやすい世界だとは少し言いにくい。
そもそも、思春期真っ最中の歌仙だが、自分の生きている世界が自由か不自由かなんて深く考えたことはない。歌仙の基準はいつだって雅か風流か、そういった感性で感じるものだ。雅だ、風流だね、とても美しい。そう言った感性を誰に憚れることなく口に出来ること、それこそが今の自分が自由だということ。心が自由だということだ。
僕たちは自由、と言った光忠も同じ心境だろう。ただ光忠はその後過去に、箱庭に囚われなければと付け足したが。
昼休みのことを思い出して、ちりっと、マッチを擦った時の様に素早い感情が歌仙の中に走る。
「君こそどうなんだい。この支配からの卒業と熱唱したそうな雰囲気を醸し出しているが」
火がつききらない燻ったモヤが心の中に広がるのを止める為、はちみつレモンを一口飲み、暖まった言葉を廣光へ投げる。
「俺は不自由を感じたことはない」
「なら質問の意味を問いたいね」
「俺自身がなくとも、この世界自体が本当に自由であっても、そう感じない奴もいるということだ。同じ所に居て、同じ想いを持っていても見る角度で物事は違って見える」
やっぱり哲学じゃないか。そんな歌仙の呟きを聞き流し廣光が足元に置いていた自分の鞄を探る。目当てのものを取り、ん。と歌仙へ差し出した。
まじまじと見ざるを得ない。暗くて見えにくい理由だけではなかった。見覚えがあるもの過ぎて、その意味を考えていたからだ。廣光の手には今回の演劇の脚本。箱庭の話。そこにいた刀の付喪神達の、
「俺達の話だ」
「・・・・・・そうだね」
「あんたはこの話が存在する意味を考えたことがあるか」
廣光がまっすぐに見つめてくる。
ヘッドライトの光がその瞳に吸い込まれては消えてゆき、ちかりちかりと煌めく。
「・・・・・・あの頃が懐かしいから。あの頃に戻りたい子がいるのさ」
「俺はそうは思わない」
「君がその子の何を知っていると?」
主を思い浮かべながらの言葉をきっぱりと否定されて少しカチンと来た。
主はこの世界で虐められていたのだ。だから部屋に籠り、過去に想いと愛しさを馳せている。この作者が主だと知らなければ、その感情も読み取るのは難しいだろうか。
気持ち、睨むように見てしまう歌仙にも廣光は視線を逸らさない。
「人は矛盾を孕んでいる」
「何だって?」
「背反する心だ。誰にでもある。誰でも、だ」
車が通る度、影と光が、一つの存在を消し、だからこそ浮かび上がらせていく。
「・・・・・・この話の作者にもあると?」
「ああ。あんたには分からないのか」
「僕には、これが、・・・・・・現実からの逃避であり同時に前世への郷愁としか読み取れない」
分からないのかと言われた言葉が、一番刀なのに主の気持ちも分からないのか責められている様で言い訳がましく視線を伏せる。
「これは逃避でも郷愁でもない」
視線を合わさなくなった歌仙にも、まっすぐな声は届く。
「自分を見つけないでほしいという気持ちと、自分を見つけてほしいという気持ちの矛盾が形になったものだ」
「どういう、」
「けれど、一番根本にあるものは俺達への愛だろう」
愛、なんて生まれてから一度も口にしたことがなさそうな温度で、さらりと。
驚いて伏せていた目で廣光の変わらない顔色を凝視した。
「気づいてやれ」
その声色に冷たさはなく、まして責めるようなものでもない。だからどういう感情を返せばいいか迷ってしまう。
答えに窮していると、今までまっすぐ歌仙を見つめていた廣光が車高の高いトラックのヘッドライトを避けるようにそこで初めて僅かに瞳を伏せる。
「・・・・・・違う。らしくない御節介を焼くためにあんたを呼んだわけじゃない」
車の通り過ぎる音に負けないぎりぎりの音量で呟いた。
そして片手にある温かいからぬるいに変わってしまったはちみつレモンを握り直して、また歌仙を見つめる。伏せる前よりも何かしらの感情が強くなった煌めきが、ここからが廣光の本題なんだということを歌仙に教えた。
「あんたに頼み事がある」
「・・・・・・頼み事?」
廣光ははちみつレモンの反対側、ずっと歌仙に差し出していた脚本をさらに歌仙へと近づける。
「これを、あんたに預けたい」
「これを?何故」
歌仙が脚本を預かれば廣光は劇の練習の時どうするのだろう。もう全てを覚えたとでも言うのだろうか。そうだとしても歌仙も同じものを持っている。わざわざ廣光のものを預かる必要があるのか分からない。
「光忠に必要な時がきたら、渡してやってくれないか」
「は?」
ますます意味が分からない。同じ脚本を持っているのは光忠も同じこと。
不可解な表情を隠すことも出来ず廣光を見るが、廣光は怯まない。
表面上を見ているだけではその本意は読むことは出来ないと知っている。歌仙は光忠でも国永でもないのだから。
歌仙は分からないと素直に首を振った。光忠に一番近い人物は片割れである廣光だ。今廣光が手にしているものを何故光忠が必要とするかどうかは置いといても、光忠が何か困ったときすぐ側にいて、それが手であれ物であれ心であれ、何かを差し出すのは廣光なのである。
歌仙を介する必要は一切ない。
「きみが渡せばいい」
「俺では駄目だ」
「何故だい」
意味がわからないことを引き受ける気にはならない。
「・・・・・・俺は、光忠の片割れだ」
「知っているとも」
「いつも一緒だったんだ。生まれた時から。それよりも前、母親の腹の中から、・・・・・・生まれる前から。魂を分け合い、血と肉を分け合い、俺と光忠はこの世界に生を受けた」
「そうだね」
「血は水より濃いと言う。ましてや双子だ。この広い世界で、あいつと道を別つ時が来ても、断つことのない繋がりを俺たちは持っている」
珍しく饒舌な廣光を見つめる。そうだろうとも、と頷いて。
「あいつに、あとひとつ、力や想いが必要になった時。その一押しになってやりたいと、背中を押してやりたいと思っている」
「だから、そうすればい、」
「あいつの幸福を願っている。本心だ。・・・・・・だが俺は、その時がきた時後押しする手を下ろしてしまうのではないかと、考えてしまう」
まっすぐな懐疑に思わず目を見開いた。
「廣光・・・・・・」
「全てを分けあって生まれたのに。俺はここまでしても、離別を、その先の喪失を恐れて結局自分の安心を優先させてしまうのではないかと・・・・・・俺は、俺自身を一番疑っている」
「きみはそんな奴ではないよ、廣光」
歌仙が首を振って否定する。廣光は光忠とは似ていない笑みを浮かべる、自嘲にも似たそれだ。
「きみはきみ自身を裏切る人間ではない」
歌仙は知っている。廣光の高潔さ。思いやりの深さ。どれ程光忠に愛され、またどれ程光忠を愛しているか。
廣光も知っているのだ。光忠が国永を好きなこと。当たり前だ、廣光が知らないわけがない。光忠の本当の幸福は、国永にしか作れないことを。
光忠の背中を誰かが押さないといけないならそれは廣光であるべき。廣光は決して間違えたりしない。
「俺もまた矛盾を孕んでいるということだ」
自嘲を深くして廣光が言う
廣光は、自分を疑っている。なんと悲しいことだろう。
どう言葉を尽くせばいいのか分からず、痛々しい顔で見てしまっているであろう歌仙に気付き廣光は自嘲を消した。自尊心で取り繕ったのではない、歌仙に対しての気づかいだ。こんなに優しい奴なのに。
「・・・・・・あんたは、ずっと俺達を見ていた。一緒に、同じ時間を過ごした」
国永の持っていたアルバムのほとんどの写真と同じ表情に戻った廣光は手を動かす。差し出された冊子がとうとうペットボトルを持っていた歌仙の手に触れる。
「あんたになら頼める。あんたにしか、頼めない」
「・・・・・・・」
この廣光にここまで言われて、それでも拒否すること出来ない。廣光の差し出したものを受け取った。
「感謝する」
「礼を言われることを僕はまだ何もしていない。状況もよく分かっていない。きみの希望に添えられるかどうかも」
そもそも光忠が何故歌仙の手の中にあるこれらを必要とするのか。そんなタイミングが本当にくるのか。まずそこがわからないのだから。
廣光の真摯な礼を受けとる結果の保証何て出来る筈がなかった。
「あんたが思うままに行動すればいい。それで十分だ」
「十分って、」
「あんたは自分で思っているよりもずっと力がある」
「そんなものないよ。今はただの人間だ。変なプレッシャーかけないでくれ」
持て余していた手の中の脚本で廣光を軽く突く。廣光は鼻を鳴らしてその行動を流し、はちみつレモンを煽った。いつもより沢山話して喉が乾いたからか、残りを一気に飲み干す。
そして話は終わりだとでも言いたげにすく、と立ち上がった。雑談に興じるタイプでもないし廣光がそうすることはわかっていたので驚きはしないが、廣光が持っている紙袋の中の大量のチョコレートがちらりと視界に入り少し納得のいかない気持ちにはなった。決して口には出さないけれど。
「引き留めて悪かった」
「それは別に構わないけどね」
「送るか?」
「いいよ、そこまで気を使わなくても」
廣光なりの感謝と謝罪の意だろう。このはちみつレモンもそうだ。口下手な廣光らしさに笑いが零れてしまう。
結局コンビニの前でこのまま別れることになった。
見送る歌仙に廣光が背を向けて歩き出そうと一歩前へ出す。そのまま動きを止めてこちらを振り返った。
「?どうしたんだい廣光、何か、」
「さっき言ったこと」
「ん?」
「あの御節介はあんたを困らせる為に言った訳じゃない、が、いつまでもこのままでいるべきではないと、俺は思う」
「廣光・・・・・・」
廣光はそれだけ迷うように、しかしはっきりと歌仙に告げて、じゃあな。とまた歩き始めた。
廣光はもう完全に暗くなった来た道を戻っていく。通りすぎたバス停に向かう姿に、車のヘッドライトが光と影を押し付ける様をしばらく眺めていた。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。腰を上げて家に向かう。
廣光に言われたことを何度も頭で反芻しながら。
「ただいま」
「おかえりー」
「おかえりなさい」
廣光との会話を頭で繰り返しているとあっという間に家へと着いてしまった。
玄関前の電灯が灯されていることになんだかホッとしながら開けたドアの向こうに二つの声が聞こえた。父はまだ仕事。母は入院中の祖母の所にいる筈だ。
玄関に並んでいる靴を見る。またサイズが大きくなった弟の靴の隣にちょこんと並んでいる小さな靴。小夜のものだ。
ダイニングに向かうと予想通り。ソファの背に手を回して座っている弟の隣に、小さな靴と同じくちょこんと座っている小夜の姿があった。
「お小夜、珍しいね。うちまで来るなんて」
「・・・・・・兄様達とチョコ菓子を作ったから持ってきました。今日、バレンタインだから。よければ、どうぞ」
「わざわざ持ってきてくれたのかい?」
「良かったなぁ!のさ、にいちゃん!今年も女子には貰えなかったんだろ?」
「うるさい、和泉。ありがとう、お小夜。とても嬉しいよ」
弟がソファの隣に置いてあるチョコレートで一杯の紙袋を見せながら言うのを一蹴。歌仙に近づき菓子を手渡してくる小夜には笑顔で答えた。つもりだった。しかし小夜はじっと歌仙の顔を見る。
「・・・・・・歌仙、疲れてる?」
「え?」
「元気、ないように見えます」
「そうかな」
小さい手に頬をぺたぺたと触られる。歌仙はされるがままだ。
「ねぇ、お小夜。時間があるかい。少しお茶を飲んでいかないか。その後家まで送るから」
「良いですけど」
「之定ー俺の分もー」
「はいはい」
動こうとしない和泉には慣れたものだ。歌仙は三人分の茶を準備して二人分をテーブルに、弟の分をソファ前のローテーブルに置く。
歌仙と小夜はテーブルに向き合う。自分の分も煎れたものの、はちみつレモンを飲んだばかりだ。喉は乾いていない。お茶は小夜に話を聞いてもらいたい口実に過ぎない。
「・・・・・・美味しいです」
「それは良かった」
「何かありましたか?」
「うん・・・・・・、少し頭がこんがらがってしまってね」
くぴくぴ湯飲みを傾ける小夜へ語り始める。
「友人とね、知人、になるのかな、その人達が悩みを持っているんだ。ああ、いや正確には本人達は悩んではいない。本人達は既に今後の生き方や己の在り方を決めている」
小夜はこくりと頷いて続きを促す。
「友人は、好きな相手の気持ちへの気持ちを終わらせようとしているんだ。卒業と同時に普通の友人に戻ると、決めてしまった。すごく好きなのに、ずっとずっと好きな癖に」
話ながら、人に囲まれて穏やかな笑顔を浮かべている光忠が頭に浮かんでくる。
「知人は、・・・・・・引きこもりなんだ。遠い過去を紡ぐことばかりしていて、将来のことを考えてるのか、これからどう生きていくつもりなのか僕には分からない。このままで良いはずはないんだ。けれど、引きこもる理由もわかっているから、外に連れ出すことも出来ない。そもそも僕自身が拒絶されている」
今度は一度しか目にしたことのない現代の主の姿が、部屋で独り膝を抱えているイメージで頭に浮かんできた。二人はこの世界で対局の位置に居るのに歌仙には同じ様な歯痒ささを感じて一度唇を噛んだ。
いつのまにか、テレビの音量が下がられている。
「もやもやするんだ。他人のことだと思うだろう?でも大切な二人なんだ。幸せになって欲しいと思う。でも二人とも、自分の気持ちに素直にならないんだ。好きなら好きと言えばいい。引きこもっていても望みがあれば叫べばいい。僕が側に居るのに。僕は、そんなに頼りにならないかい?いや、そういう問題でないのは分かってる。分っているのに、何故だろうね、すごく、もやもやする」
湯飲みを両手でグッと握るとそのじんわりとした温かさが伝わってきて、思っていた以上に自分の手が冷えていたことが自覚できた。同じようにこの胸の靄の原因も自覚出来ればいいのに。
「僕にとやかく言う権利なんてない。だって僕も正解を知らないんだ。けれど、廣光は僕に頼みごとをしてくる。気づいてやれと言う。僕は、どうすればいいんだ」
零せば零すだけ胸のモヤが広がっていく気がした。愚痴愚痴と呟く言葉は結局己の至らなさを自覚させられているようで居心地が悪い。
瞬きもせず、静かに歌仙を見据えていた三白眼は黙り込む歌仙にも色を変えない。代わりに小さな唇がそっと開いた。
「・・・・・・僕には、一番心を隠してるのは歌仙に思えます」
「お小夜?」
「何だか、貴方らしくない」
小さな小夜はいつもみたいに小学生らしからぬ口調で自分の考えをしっかり話す。遠慮がちな子が、歌仙の目を見ながら。
「歌仙は、人見知り、つまり人一倍人の心の機微に敏感で、自分が誰かを傷つけるのを恐れている。だから、慣れない相手にはいつも以上に気を使って話しまくる所があります。でも、同時にすごくお節介です。嫌われるのも怖い癖に、そんなの忘れて、相手の為に口を出して更に手を出します。すごく矛盾してる人です」
何も言い返せない歌仙の両手に小夜の小さな小さな両手が重ねられた。
「僕はどうすればいいんだ、って考えることないです。歌仙はそもそも計算が苦手なんだから。苦手な事をしてるから、きっともやもやしてるんじゃないかな・・・・・・」
「でも、お小夜。じゃあ僕は、」
「考えなくて良いつってだんよ。気持ち考えて頭を抱えるなんて之定らしくねーってこと!」
歌仙が縋るように小夜を見つめかけた時、小夜の頭をソファからやって来た弟がくしゃくしゃと雑に撫でる。
「つーか、なぁんか拗れた奴多いなぁ、兄ちゃんの周りにゃあよぉ!もーっと気楽にいきゃあいいのに!って、良いてーとこなんだが。一つ確認、兄ちゃんの友人って男?」
「?男だけれど?」
「そいつの好きな奴も男だよな?」
「ああ」
何を急にと顔に隠さないで和泉を見ると弟は珍しく困惑して見せた。どちらかと言えば呆れた顔、だろうか。
「俺ぁ、友人は間違っちゃいねーと思うけどな」
「何故だい」
「現代社会で衆道は嫌われるぜ?」
思わぬ言葉にぱちぱちと瞬きを繰り返してしまう。
「なんだい、そんなこと。想いに性別は関係ないだろう」
「そりゃあ、そうだけどよぉ」
「光忠も国永もそんなこと気にしないよ。だからこそ僕は歯痒いんだ」
「やっぱあいつらか・・・・・・。でも之定の話じゃあ、その二人は記憶ねぇんだろ?」
「記憶がなくても性質は変わらない。断言しよう、あの二人に性別は関係ないね」
「之定がそう思ってるだけかもしれねーだろ」
「きみに今の二人の何が、」
「とにかく」
軽い兄弟喧嘩が始まりかけた時、幼いのに一番冷静な声が仲裁に入ってくれた。やはり小夜は頼りになる。
「僕は、歌仙が一番楽な行動を取るのが良いと思います」
「それが分からないんだよ、お小夜」
今度こそ縋る目で見つめた。和泉が呆れたように頭の後ろで手を組む。
「いや、簡単だろ。一番簡単だぜ。之定のやりたいようにやりゃあいんだから」
「似たような事を廣光にも言われたが・・・・・・、僕に他人の気持ちを考えず好き勝手振る舞えと?そんな雅じゃないことをお小夜が言うわけないだろう」
「いえ、・・・その通りです」
「なっ!?お小夜!?嘘だろう!?」
あまりの事に立ち上がる歌仙に二人は顔を見合わせる。小夜は相変わらずの表情だったが、和泉はにへらと笑いかけている。
「歌仙は変な所で自己評価低いんだから・・・・・・」
「そこが良い所でもあるけどな!」
「・・・・・・何だい二人だけで分かり合って」
「いーや?」
「・・・・・・何でもないです」
歌仙と小夜が幼馴染みということは弟と小夜も幼馴染みということでもある。
だからと言って、二人が分かりあっているのはなんだか不思議だ。喜ばしいことではあるが、今はなんだか仲間はずれな気持ちだ。思わずむ、と眉間に皺がよる。
「ヤキモチ焼くなって、兄ちゃん」
「別に!焼いてなどいないよ!」
「焼いてるじゃねーか」
目敏い和泉が面白そうに指摘してきた。図星ではあったが、つん、とそっぽを向いて知らんふりしてみせる。
「歌仙」
「・・・・・・なんだい、お小夜」
ずっと歌仙の手に添えられていた小さな両手が、少しだけ力を込めてくる。
「僕は、貴方ではないから、貴方の中のもやもやを晴らすことは出来ないけど、貴方を支えたいと思っています。何時でも、どんな話しでも聞きます。だから、本当に考えすぎないでください。貴方は貴方らしくいれば、大丈夫だから。・・・・・・えっと、取り敢えず今日は、甘いものでも食べて、元気出して」
照れ隠しのお茶、ごちそうさまでした。に少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
小夜を家まで送ろうとする歌仙の代わりを和泉が申し出て、二人は家から出ていった。和泉なりの気遣いなのだろう。
制服を着替えようと自室に向かおうとして、ふと鞄の重さが気になる。廣光から預かっているものが入っている鞄。それを取り出してみた。脚本一冊。歌仙も持っているものだ。
そして、光忠も同じものを持っている。これを何故光忠が必要とするのだろう。
不思議な思いでそれをぱらぱらと捲る。やはり内容は同じだ。しかし、最後の辺り。歌仙と審神者がいる部屋へ鶴丸と大倶利伽羅がやってきたシーンに取りかかった部分、その一目で歌仙が持っているものと違うとわかった。
「これは、」
どういう意味なんだ廣光。
脚本の中に向かって呟きを落としたが、当然答える声はなかった。