top of page


 お互いが好きだと言ってから鶴丸の心は動きっぱなしだ。しかし好きだと言ったからといって特別なことはしていない。就職先が決まった鶴丸は卒論を仕上げるのに忙しかったし、光忠も講義だゼミだと多忙だ。それでも空いた時間を見つけては二人、時には友人を含めた三人で会い、休みの日は二人で一緒に出掛けたりした。

 それでも特別な、恋人らしいことはない。好きだと言い合っただけで、付き合おうと言ったわけではなかったのが原因だろう。それを今更言うのも気恥ずかしくて、あの時衝動のまま言えば良かったと後悔したが、意気地のない鶴丸は忙しさを理由に言葉にしようとしなかった。好きとは言えても付き合おう、恋人になろうとは案外言えないものだ。
 だから、本当に側にいる時間が今まで以上に増えただけだ。その時間の中にはデートといっても差し付けないかもしれない、と鶴丸が淡く思っている時間も含まれていることだけが救いだろう。


 その二人の時間を図書館で過ごすことも多かった。鶴丸は卒論の資料を探し、光忠は課題をするという二人には持ってこいの場所。並んで座りお互いのことをしながら、一つの紙の上で会話をしていく。沈黙しか許されない場所であっても、二人にとっては何の問題でもない。周りが沈黙を守る為に一人の世界に没頭する中、鶴丸と光忠は二人の世界を構築することが出来る。そのことになんだか優越感を覚えた。そして、沈黙の世界は自分を光忠と同じ立場に立たせてくれるような気がして鶴丸は図書館デートがとても好きだった。
 夏休みは電車に乗って海に行き、秋は紅葉の中、手を繋いでただ歩いたり。光忠の二十歳の誕生日がきた時は、記念だといって、二人がはじめて会った場所の目の前のスナックで酒を飲んだ。和服の美しいママ(男ではあった)が「二十歳の誕生日かい!めでたいね、じゃんじゃん飲んじゃいなよ!」と勧めてきて、折角の誕生日に二人揃って意識を失うという大失態を犯した。ムードもへったくれもない。大学生らしいと言えばらしいが。
 冬が来れば寒さを理由に身を寄せ合うことができた。黒いコートに身を包む長身と、一つの長いマフラーを巻いて、身長差で自分の首を絞めてしまったり、手袋を忘れたというわざとらしい理由をつけて、繋いだ手をポケットに入れて街を歩いたり。クリスマスはイルミネーションを見ながら、サプライズで用意していたプレゼントを渡せば、光忠も同じことを考えていたらしくて、笑いながらプレゼント交換をした。
 正月は人混みに流されながら初詣に行って、迷子になったお互いを必死に探した。おみくじは二人とも大吉だったから、新年早々神様に嘘をつかれた!と笑ったものだ。


 春に出会って、次の春に好きだと告げて、その次の春がくるまで、光忠はずっと鶴丸の側にいてくれた。表情がなかった顔に、時にかわいく、時に美しく、時に恐ろしい、いっぱいの笑顔をのせて。声は出ないままだったがそれは些細なことだ。問題ではない。光忠が側にいてくれればいいのだ。鶴丸は心を殺さずに生きていけた。光忠がいるだけで、心が生きていた。
 だけど、また春が来てしまった。光忠のお陰で桜が平気になったはずの春。卒論も順調に終わらせた鶴丸が大学を卒業して社会人になり、光忠が三年にあがり就活が始まる季節だ。卒業の歌の歌詞が表す別れの時。
 卒業をしたからといって、光忠との繋がりが無くなるわけではない。だけど確実に共に居られる時間は減るだろう。鶴丸の就職先は同じ県内ではあるが、勤め始めれば一週間に一度会えればよくて、もしかしたら一、二ヶ月会えないこともあるかもしれない。それがすごく不安だった。
 社会に出ることが、というのも少なからず不安ではある。しかし光忠に会えないことに比べれば些末な事柄だ。鶴丸は光忠に依存している、前の春からはますます傾倒している自覚があった。光忠がいるから自分の心は動く。離れてしまえば、またタバコの量が増えるだろうとわかっていた。また心が死んでしまうとわかっていた。
 弱い男だ。これは余りにも情けない。光忠に話せば、格好悪いと卒業を気に距離を置かれるかもしれない。そんな臆病なことも考える。光忠のお陰で動く心はいつのまにかじわりじわりと、自身の心を蝕んでいった。

 春が来た。平気なはずの桜が咲く。弱い男はその下に子供を見た。あの時埋まっていれば、全部終われていたのに。依存するものが離れれば立っていられないのだから、土に横たわり埋まってしまえばいいと言うような目をした子供を。その幻覚を振り切れないまま、卒業を明日に控える。

 

 


「鶴丸殿、飲みすぎです。明日は卒業式典ですよ、酒の臭いをさせて出席などみっともないことをしてはいけません」
「どぅわいじょうぶだー! おれはげんきだから、ちゃんといえるろ! 『みんなで行った、修学旅行!』っていえばいいんだよなぁ?」
「それは小学生の時にするやつでしょう。あなたは大学生です、この春から社会人!」


 ふわふわとした頭の外で爽やかな声が鶴丸を叱る。光忠が提案した『二人とも卒業おめでとう会』は例のスナックで慎ましく開かれた。


「せっかく光忠殿が、卒業式の当日は家族で祝いたいよねと気を遣って前日にしてくださったのに、ちゃんと式に出られなかったらその気遣いも台無しになります! ねぇ、光忠殿?」
「みっちゃんもそうだよーってさ」


 こくこくと頷いただろう光忠の内面をスナックのママが代弁する。


「あ、みっちゃんいいよーこんだけで。お祝いだからね、サービスさ! いいんだって、あたしもあんた達にはいつも楽しませてもらったしね! 寂しくなるなぁ。たまには遊びにきてよ? みっちゃんだけでもいいからさぁ」


 会計をしている光忠にママが話しかける。二十歳の誕生日を一緒に祝ってから、正確には言われるがまま素直に杯を進めてぶっ倒れてからママは鶴丸と光忠、時々一緒にくる友人をとても気に入ってくれていた。


「ん? ああ、いーえいーえ、どういたしまして。旦那がいない時にまた絡まれたらこの次郎さんが追っ払ってやるからね、すぐ駆け込んでおいで? あはは、赤くなってかわいいねぇ、みっちゃんは」


 鶴丸と光忠が酔いつぶれた日、お互い何を言ったか全く覚えていないが、その日からこのスナックでは鶴丸は光忠の旦那と言うことになっている。


「では私は光忠殿の父親ということでお願い申し上げる。戸籍上の」
「こらぁ! まだあきらめてなかったのかきみはあ!」
「痛っ!」


 爽やかな声が不穏なことを呟くのでふわふわの頭でそのまま頭突きする。ごいんと鳴ったがくらくらの頭が益々くらくらして、吐き気がひどくなっただけで問題はない。


「こーら、入り口で騒がないどくれよー。ああ、みっちゃんのせいじゃないよ。はい、これお釣りね。あと、これ預かってた荷物。すごく重い、けどこれ何が入ってるんだい? っていうか持てる? あそっか、みっちゃん力持ちだもんね。ついつい忘れちゃうけど、こないだもビール瓶運ぶの手伝ってもらったんだった」
「みつただー! はやくしろー! おいてくぞーいちごを」
「顔面蒼白で何をおっしゃいますか。あなたこそ置いていきますよ。私は光忠殿と帰ります。いえ、むしろ帰りません。明日の朝、今日と同じ服を来た二人で卒業式典へと、」
「もういっぱつくらいたいようだな!? つぎはくちからもでるぜ! いやでもきがえにかえらなくちゃいてなくなるよらぁ!?」
「その死なばもろとも精神やめていただきたい!」


 ぎゃあぎゃあと騒いでいれば左隣に慣れた温もりが与えられる。何か大きな荷物をもった光忠がいた。


「ほらほら、みっちゃんを困らせるんじゃないよー」
「ママ殿、ありがとうございました。また来ます」
「うん、待ってるからねー。いつか、いっちゃんの弟達も一緒にね」
「はい、必ず。ほら、鶴丸殿も」
「またくる!」
「はぁい! 楽しみにしてるからね。気を付けて帰るんだよー」


 三人で肩を組んだままぺこりと頭を下げて店を出た。


「さて、この酔っぱらいどうしましょうか」
「みつただとかえる」
「いつもならそうしたでしょうが、今日のあなたは悪酔いされてますし・・・・・・え?何ですか光忠殿?」
「みつただとかえる!」
「静かに! えっと、いつも通りで大丈夫、と? 本当ですか? この人すごく面倒くさいことに・・・・・・ああ、用が? そうでしたね。そういうことならわかりました。ここで帰らせて頂きますね」


 鶴丸の右側から声が聞こえて、左から首を動かす気配がする。


「ほら、鶴丸殿。しっかり」
「みつただ、だっこ」
「どれだけ光忠殿に甘えるつもりですか。この方はあなたの母君ではないんですよ」


 自分だって光忠の父親になろうとしていたのに、鶴丸が光忠を母親にしようとして何が悪いんだと頬を膨らませる。
 ふわりと体が浮いて光忠の体温が密着する。


「ああ、光忠殿、姫抱きは揺れるから吐き気が、」
「みつただのひめだっこはリムジンなみのあんていかんだぞぉ」
「経験済みとは驚きですな。確かに背中で吐かれるよりはいいかもしれません。両手さえ離せば巻き込まれなくてすみますし」
「いちご、おんぶ」
「御免蒙ります。貴方私の背中で吐くつもりでしょう」


 そこで、今までふざけあっていた友人の顔が真剣にな顔つきに変わった。


「鶴丸殿、光忠殿に甘えられるのも今日までですからね。明日卒業式という門出で腑抜けた態度を見せた時は、私とて黙っていませんよ」


 真剣な瞳は強い気持ちを伝えてくる。酒に浸された脳では上手く受け取れないはずなのに、友人の言わんとしていることが光忠に関することだとはわかった。何も言えない鶴丸に瞳が優しく細められる。


「明日、満開の桜の下、貴方と笑いながら新しい旅立ちが出来ると信じております」


 にこっと笑った顔に含んでいるものは何もない。満開の桜のというキーワードに過敏に反応しているのは鶴丸に原因がある。


「光忠殿、重いのに長々とすみませんでした。鶴丸殿のこと、よろしくお願い申し上げる。どうか、末永く」


 いつの日かと同じように頭を下げる友人をぼうと見る。

 鶴丸を抱いたままで頭を下げることの叶わない光忠が鶴丸の頭上で力強く頷いた。


「それでは、また明日。おやすみなさい」


 暗い夜の静寂さに似合わない爽やかさを残して、友人は帰路についた。残された二人がその背中を見守って、ようやくして光忠が歩き出す。

「みつただー」


 腹で組んでいた両手を、光忠の首に回した。街灯がちらほら立っているが、黒い服の光忠は闇に溶けていて抱き上げられている鶴丸であっても、そのまま闇に消えてしまうのではないかと不安になった。


「いなくなるなみつただ。俺のそばから離れるなー」


 違う。夜じゃなくても光忠は鶴丸の側を離れる。昼間は世界に溶け込めない、黒く浮いてる光忠であっても鶴丸の目の届かない所に残るのだ。
 新しい門出?この子を残して。鶴丸は生きた死体になって、鶴丸がいなくなった光忠はまた表情を消してしまう。それを喜べるはずがない。不安だ、心配だ。一緒にいなくてはいけない。ずっと離れずに一緒に。


「一緒に桜の木の下に埋まろう、光忠」


 にこっと笑いかけた相手が、鶴丸をぱちくりと驚いたように見る。瞬きすれば一つの月がついたり、消えたりして、それが意味もなく笑いを誘った。
 黙っていた光忠、もっとも両手が塞がっているので黙るしかなかった光忠が少しだけ足を早める。それでも揺れない腕の中はさすがだった。
 吐き気とぼーっとする頭を道連れに大人しくしていると、鶴丸を運ぶ足が道から逸れる。二人が自己紹介をした、最初の公園だった。夜の公園は街灯も少なく、人もいない。不気味な暗さが潜んでいた。光忠は怯まず足を進め、止めた。二人がスケッチブックを交わしたベンチの前で。近くには、噂の桜が満開の花を広げている。街灯の明かりが、その花びらの色が赤く染まっていることを教えた。
 光忠が、壊れ物を扱うみたいに鶴丸をベンチへ横たえ、そのまま闇へと溶ける。
 近くでがさごそという音がするので荷物を下ろしているようだ。それに安心して目を閉じた。学生最後の一日がこうやって終わっていく。生きていられる日が。
 ごろりと寝返りをうつ、と同時に地面に落ちた。ベンチから落ちるかもしれないと予測するのは酒浸しの頭には少々難しかったらしい。衝撃に呻く。すぐ吐かなかっただけでも自分は偉いと思った。
 近くにいるはずの光忠はやってこない。水でも買いにいってくれたのかとぼんやり考える。
 うつ伏せで地面に転がったまま目を開けた。見えるのは土と暗い闇と、ひらりひらりと舞う桜の花びらだ。
 吐き気を堪えて大きく深呼吸をすれば土の匂いと桜の匂いが広がった。見えるものとその匂いがあの日を思い出させる。過去と今が混濁しているのだろうか。近くからざくざくという音が聞こえる。


――母さん?


 響く音は幻聴にしては、はっきりしすぎている。酒に酔えばそういうこともあるだろうか。
 気になってなんとかだるい体を起こす。ざく、ざくという音はまだ響いている。その音がする方に目を向けると、桜の木の下に光忠がいた。手には折り畳み式のシャベル。一定の動きで、ざくざくという音を生み出している。穴を掘っているのだ。さぁっと酔いと共に血の気が引くのがわかった。


「何を、しているんだ」


 やっとのことで絞り出した声は震えていた。確かに一緒に桜の木の下に埋まろうと、言った。本心でもあるが酔っぱらいの戯れ言だ。光忠は本気にとったのだろうか。だけどなぜシャベルがある。埋まろうと言ったのはさっきの出来事だ、シャベルを準備する時間などなかったはず。
 光忠は掘り進めていた穴の近くにあったスケッチブックを捲る。


『離れたくないから』


 鶴丸が聞くことを予想していたページが答える。シャベルといい、この返事といい、光忠は今日この行動をとると決めていたようだ。
 その理由と返事の意味を混乱する頭で考えながら、遠い女の声が頭の中に木霊する。


『離れたくないでしょう?お母さんもあなたを置いていきたくないわ』


 そう言って穴に横たわる幼子に土をかけた、母の声が。

 

 


 鶴丸は幼少、体が弱く、外で遊ぶということを知らない子供だった。自分の布団から外を眺めるだけの毎日はとても退屈だったのをぼんやりと覚えている。だけど母がいたから寂しくなかった。看病で疲れているはずなのに、いつも鶴丸の相手をしてくれる優しい母親。母がいれば、退屈な世界でも鶴丸は平気だった。母親が余命幾分という病に蝕まれていると知るまでは。
 自分が死ぬしかないのだと知った優しい母は、優しすぎて自分の命よりも鶴丸の将来のことを心配した。
 体が弱くて外で遊ぶこともできない我が子。自分がいなくなればどうなるだろうと考えるのは母親として当然だったのかもしれない。心配のしすぎで不安に支配された母は、少しおかしくなってしまった。笑顔が優しかったのに笑うこともなく、人形のように表情を無くして鶴丸の側を離れなくなったのだ。言葉少なく、鶴丸の側に張り付く母は以前とは別人みたいで幼い鶴丸を怯えさせた。
 そしてあの日の夜、母は鶴丸を庭へと連れ出した。
 ざく、ざくと母が月に照らされた桜の木の下を掘る。鶴丸はそれを横で見ていた。きっと掘られているのは自分が入るための穴だろうと幼心にわかってはいた、恐ろしかったが逃げようとは思えなかった。別人のようであっても母親を愛していたから。
 子供一人入る分の穴が出来た時、鶴丸は母に聞いた。


「ぼくがここにはいるの?」
「そうよ」
「どうして?」
「このままだとお母さんと離ればなれになっちゃうから」


 シャベルをからんと放り投げて母親は手を差し出す。


「離れたくないでしょう? お母さんもあなたを置いていきたくないわ。あなたがここに入ったらね、天国に行けるの。お母さんももう少ししたら天国に行くから、そうすればあなたとずっと一緒にいられるわ。お母さんと一緒は嫌?」
「いやじゃないよ! ずっといっしょがいい!」
「お母さんも同じ気持ちよ。あなたを愛してるから」
「すきってこと?」
「そう、好きってこと」


 母親がそこでふんわりと優しく笑った。鶴丸の大好きな優しい笑顔。嬉しかった。嬉しくて、鶴丸は喜びのまま穴の中へと寝転んだ。土の匂いと降り注ぐ花びら、桜の匂いも感じる。穴の中から見上げる母親は、月の逆光で表情は見えない。だけど優しい笑顔を浮かべているのだと思って、鶴丸はやっぱり嬉しかったのだ。
 足元、胸、腕、顔以外が土に埋まっていく。最後まで母の顔が見れるのは嬉しかった。桜の花びらが顔に降ってこそばゆかったのだけは困ったが。土の重みが鶴丸を潰し始める。それでも、顔は埋めきられていなかった。
 早く埋めきってくれればいいのに。天国って素敵なところって聞いたことがある。花が沢山咲いてるところはあるだろうか。母が来る前に摘んでおきたい。初めてだけど、花冠というものも作ってみよう。母は嬉しそうに笑って受け取ってくれるはずだ。天国は幸せな所、母もまた毎日優しく笑ってくれる。桜の木の下って、素敵な所に繋がっていたんだ!そんなことを考えながら、埋めきられるのを待っていた。だけどその時は来なくて、いつの間にか母は見えなくなっていた。
 どれほど待っただろう、そんなに長い時間ではなかったはずだ。鶴丸は異様な状況の中天国を夢見て、実際眠っていた。目覚めた時は、辺りが騒がしくて、体は軽くて、知らない大人と仕事が忙しくてなかなか会えない父親に囲まれていた。
 状況がよくわからない鶴丸がその時知ることが出来たのは、母親がその桜の木の下で首を吊って死んだということだけだ。

 天国に行けなかった鶴丸は、あの日と同じように自分が入るための穴が掘られていくのを見ている。掘っているのは光忠だ。母ではない。
 恐ろしいと思う。死に対しての恐怖は生き物の本能に組み込まれている。しかしやはり逃げようとは思えない。鶴丸は光忠を愛しているから。依存の影に隠れていた、光忠への思いはやはり確かに愛であり、母親へとは違う恋であると、目の前の人物を見ながら思う。心を生かす為だけの依存であれば共に天国に行けることをこんなに幸福だとは思わないだろう。
 動かない鶴丸を余所に光忠は掘り進める。大きい穴だ、光忠の腰くらいまである。二人が入れるくらいの広さもあった。短時間でここまで掘れるのは、意外と体力バカな彼くらいなものだ。ようやくそこまで掘って、光忠がシャベルを穴の外へと置く。
 そして鶴丸の足元に転がっている荷物を指して、次にこいこいと手招きをした。鶴丸の反応も確かめずに、穴の脇に置いたスケッチブックを取るためこちらへ背を向ける。本当ならばここで逃げるなりなんなりするべきだ。それでも鶴丸は逃げる気になれず、誘われるままに穴へと入った。
 二人が入れるギリギリの穴の中、光忠がスケッチブックを捲り、事前に書いただろう文章差し出す。


『桜の木の下は素敵なところ』


 見えた文章に、どくりと心臓が脈を打つ。


『こんな深さ、僕以外中々掘れないでしょ? だから、そうそう見つからない』


 どっどっと脈打つ音が耳に響く、だけどやはり逃げ出したりはしない。脈打つ心臓とは別に内心はとても凪いでいる。


『つるさんに相談もしないでこんなことして、ごめんね。でも、僕達には必要なことだと思うんだ』


 鶴丸も光忠と同じ気持ちだった。離れないために、一緒に埋まって天国に行こう。桜に酔った頭はただただ光忠の言葉を肯定するだけだ。
 光忠が優しく笑ってくれるなら、それでいい。花冠を送ろう。天国でずっと一緒に。
 先程まで、匂いだけで吐きそうになっていたとは思えないほど、桜の香りが甘く誘う。うっとりと光忠の頬に手を伸ばした。
 光忠もその手に恍惚と目を閉じて笑った。そして、ゆっくりとスケッチブックを捲る。

『というわけで、宝物を埋めまーす!』
「ふあ?」


 甘美な雰囲気に似合わない、空気がはみ出たような声を出す。光忠が鶴丸の片手に抱えられていた荷物を受け取り、自分の足元へと落とす。


『鶯のぬいぐるみ、龍のキーホルダー、藤で染めた手拭い、桃色の髪止め、小さなはさみ、学校の卒業アルバム、両親の写真』


 恐らく宝物と言っていた、荷物の中身が書いてあるのだろう。ページが捲られていくのをただ見送るしかない。
状況についていけないのだ。ぽかんと見守る鶴丸に、最後のページが開かれた。

『スケッチブック』

 思わず光忠の顔を見上げる。向けられる視線も気にせず、手の中のスケッチブックをぽいと荷物の中に放り込む。今までのスケッチブックもすべて荷物の中に入っているに違いない。


「っ!」


 音にならない声がでた。二人で埋まると思ったときはむしろ凪いでいた心が、激しく動いて光忠の行動を否定する。
 そのスケッチブックは鶴丸にとって大事なものだ。はじめての自己紹介、何でもない会話。海で濡らして滲んだインクと、ページに挟まれている拾った紅葉もある。クリスマスのサンタの絵描き勝負はいつ見てもあまりの酷さに笑えるし、つるさん!と紙に大きくかかれた文字は初詣でお互い迷子になった時、切羽詰まった光忠が鳥居の下で頭上に掲げていたものだ。
 スケッチブックには二人の思い出がつまっている。出会いから、今日まで。あの日、桜の時に、震える線でかかれた『す き』というたった二つの文字も。
 それが土に埋められてしまう。


――嫌だ。


 やめてくれ、と言いたくて、荷物に落としていた視線を上げた。光忠ももちろん鶴丸を見ていると思ったが、そうではなく、一つの目をぎゅっと瞑って首を押さえる姿がある。開いた口からは、はーっと言う呼吸と言うには痛々しい音だけが繰り返し吐き出されている。
 彼は無理矢理にでも声を出そうとしていた。


「バカ! そんなことすれば、喉を痛める!」


 声を絞り出すように、喉に力を込める手を慌てて叩く。鶴丸の迫力に大人しく手を下ろした光忠の表情は、残念そうに唇を噛んでいる。どうして出ないんだと言いたげだ。


「そんなすぐに治るものか、待つって言っただろう!」


 強い口調で叱る。二人で天国に行くという先程の考えとは矛盾した言葉だったが光忠が起こす行動の驚きの連続にそんなことは気にしていられなかった。
 しょんぼりとした唇が、出ると思ったのに、と音もなく動く。スケッチブックは足元にあるのに使う気はないようだ。


「俺に何を、言いたかったんだ」


 今度は強い口調にならないように問いかければ、拗ねた目をちらりとよこして、鶴丸の手をとった。そうして、一文字ずつ手のひらに書いていく。


『タ』
『イ』
『ム』
『カ』
『プ』
『セ』
『ル』
「タイムカプセルぅ?」


 書かれた文字を繰り返す。


『さくらの木の下は、すてきなところにつながってる』


 じっくりと時間をかけて、鶴丸の手のひらに伝えていく。


『10ねんごのせかい』


――10年後が素敵な世界?


『はなれたくない、けど、ちょっとははなれないといけないから、かってにやくそくつくっちゃった』
『10ねんご、いっしょにあけようね』


 ハッと、光忠の顔を見る。拗ねた目はもうなくて、にこりと笑って、言葉を続ける。


『す』
『き』


 その二文字を。
 スケッチブックには残らないその文字は、鶴丸の手のひらに残されて、そのまま心へと見えないインクを滲ませていった。


「っ、」


 溢れてしまわないようにすぐ口を抑えた。だけど、それは叶いそうにない。肩が震える、耐えろと思うが出来なかった。


「っはははははは!!」
「!?」


 突如深夜の公園へと響き渡る笑い声に目の前の闇がびくっと揺れた。


「タイムカプセルな! それはいい案だ、きみは天才だな!」


 近所迷惑だと堪えてもくっくっくっと笑いが漏れる。どうせ曰く付きの公園だ。心霊現象だなんだと噂がひとつ増えるくらいだろう。
 今度は光忠がぽかんとする番だった。喜ぶかどうかわからなかった鶴丸が大爆笑している理由を考えているのだろう。


「そうだなぁ、桜だって死体より宝物を埋めてもらった方が嬉しいだろうさ」


 桜の木の下には死体が。死ぬべきはずの子供がいると、それしか思えなかった。だけど光忠はタイムカプセルを埋めるという。それは鶴丸にとって革命だ。


「ここにタイムカプセルを埋めれば、俺は他の桜を見ても今日を思い出すだろう。俺は桜を見るたび嬉しくなって、桜が一番好きな花になるかもしれない。何せ、十回桜が咲けばタイムカプセルを開けられるわけだからな」


 笑いながらべらべらと話す鶴丸にようやく光忠がうんうんと相槌をうち始めた。


「なぁ、光忠。十年たって、タイムカプセルを開けたら、次はその時の宝物を埋めよう」


 光忠の左手を両手で取る。


「情けない話だが、俺は喧嘩は負けなしでも昔から力は強くなくてな、こんな穴は掘れん。きみがいなきゃ無理だ。それは十年後も一緒だ。そしてその次も。きみがいなきゃ俺は宝物を開けることも新しく埋めることも出来ない」


 情けない男だ。一人ではトラウマと死の誘惑にも打ち勝てず、一人で穴を掘ることも塞ぐことも出来ない。好きな子の前で格好もつけられない弱い男。一方鶴丸の手の中にある、土にまみれるこの手は強い手だ。スケッチブックに、この手のひらにたった二つの文字を表すだけで鶴丸を強くしてくれる手。
 いつの日か彼は、その唇からも鶴丸を強くしてくれる二文字を紡いでくれることだろう。その日まで、その日からも。


「だからな、だからずっと一緒にいてくれ」


 鶴丸は強くしてくれる手の左側、愛おしいを伝えてくれる薬指を握って、距離を縮めた。意味がわかってくれたらしい光忠は頬を染める。その顎や鼻先には土がついている、額にも。片方の手でぬぐってやる。いい男が台無しだ。それか土もまみれるいい男、かもしれない。
 目がかちりとあった。
 鶴丸が一歩下がりながら手を引く。身長差があるから仕方がない。穴の傾斜を利用して目線の高さが同じになったところで、顔を近づけていく。鼻先を擦り合わせれば、取りきれなかった土がざりっとなった。その僅かな感触を合図に目の前のひとつ目が閉じられる。それを見届けて、鶴丸も目を閉じて、唇を近づけた。
 重なる直前に光忠の唇が息で、鶴丸の名前を呼ぶ。それは音になったかもしれないが、もうひとつの唇がそれを飲み込んでしまったのでわからない。
 長く、隙間も許さないように重ねていた唇を離し、額を合わせてくすくすと笑う。土の匂いと桜の匂いを感じる。しかし嫌悪感も、おかしな願望もなく、ただただ幸せだった。
 この春から毎年桜が咲くのを楽しみになる自分がわかる。桜が咲かない間でもタバコの数は増えないだろう。離れる距離が、時間が長くても鶴丸はいつも光忠のことを思っている、光忠もそうだ。それは二人の時間に違いない。形に残るスケッチブックがなくなり、今までの会話を見返さなくても、二人にはその時間を過ごせると鶴丸はわかっている。
 足元の宝物に、他の桜よりもの赤めの花びらがヒラヒラと降っていく。幸福の中、鶴丸はこの桜と公園が何故噂になっているのかわかった気がした。恐らく人為的なものだろう。恋人達が春に逢瀬を重ねる為の。赤い桜はいい目印になったに違いない。そしてその度桜は赤く色づいていく。死体の血を吸っているわけではない。繰り返される、恋人達の逢瀬や誓いにあてられて、桜も体を赤く染めるしかないのだ。

 

 桜の花びらが街に舞う頃。
 すっかり馴染んでいるスーツのジャケットを肩にかけ、鶴丸は公園へと足を踏み入れる。
 仕事の打ち合わせが長引いて、待ち合わせの時間を過ぎてしまった。辺りはすっかり暗い。少し前に遅れると連絡を入れたスマホには、僕もゆっくり行くから慌てないでという返事が返ってきていた。
 それでもなるべく急いできた場所は、暗く、やはり人気はない。相変わらずだなと辺りを見渡してから足を進める。赤い花びらが鶴丸の頭を彩れる距離になり、街頭に照らされた目的地に目をやれば、やっぱり先に持っている青年の姿があった。


「光忠!」


 名前を呼べば光忠が振り返る。
 相変わらずの医療用眼帯。だけど服は春に溶け込むような、闇には浮いている爽やかなパステルカラー。難しい淡い色にも関わらず、着こなしがまた素晴らしい。鶴丸を見つけたひとつ目は出会った当初より大分甘かった。


「鶴丸さん」


 光忠が深みのある優しい声で名前を呼ぶ。最初は案の定かすかすだった声も数年もたてばすっかり普通だ。
 今朝、共に家を出た時の笑顔そのままに、光忠は手を招いて鶴丸を呼ぶ。足元にはシャベルと袋、人気のない暗い公園に怪しい装いだが周りには誰もいないので問題もない。
 鶴丸はジャケットをベンチに置いてシャツの腕を捲る。着替えてくる暇はなかった。


「さて、気合を入れるか」


 この間光忠が、「そういえばタイムカプセルの中に鶴丸さんへの手紙を入れた気がする! やばい!」と言ってしまったことにより、二人の間でタイムカプセル堀り勝負が開催されることに決まったのだ。
 手紙を見せたくない光忠と何としても手紙を読みたい鶴丸で、どちらが先に掘り当てるかという勝負。体力には自信がないがそういうことであれば負けるわけにはいかない。


――勝算はある。例えばタイムカプセルと共に、初めてのキスの思い出も掘り起こして動揺を誘ったり、な?


 そんなことを考えながら鶴丸は腕を捲り終える。ベンチの上にはジャケットのほかに、光忠が家から持ってきてくれた、今日埋める宝物がある。二人で撮った写真やらお揃いのマグカップやら。そこに自分のカバンから取り出した桜柄の封筒をこっそり中へと入れた。


「次の十年後、恥ずかしくて死に悶えるのは俺かもしれんな」


 小さく呟けば痺れを切らした声が上がる。


「つるさん! 早くー! 先に掘るからね!!!」
「ああ! お手付き禁止だぞ! お手付きは問答無用で俺の勝ちにするからな!」

 暗い闇の中、満開の桜からひらひらと花弁が降り注ぐ。
 土の匂い、桜の匂い、静かな夜に聞こえてくる桜の降る音。それに誘われるように足を進めた。

 

 


 桜の木の下の一番の宝物は頬を膨らませて鶴丸を待っている。
 

10年前からの手紙

bottom of page