秋が枯れて、冬が降る。鶴丸と光忠はやはり一緒にいた。
そうして春が咲く時期が来る。鶴丸の苦痛が始まってしまう。今年は去年と違って桜も早咲きの様子。お陰で鶴丸は早い時期から憂鬱だ。
光忠は春が好きなようで、にこにことしている。その笑顔を曇らせるようなことはしたくなくて、桜が苦手なことを言いそびれてしまった。だからこうしてわざわざ花見をすることになっている。花見といっても桜が咲いてる道を歩いている程度のものだ。
スケッチブックを小脇に抱えて満開の桜並木を歩く黒い背中をゆったりと追いかける。黒と薄紅の相性はとてもいいらしく、時々鶴丸を振り向いて笑う光忠ははっとするほど美しい。初めて見たときのような人形然としたものではない。鶴丸を見てくしゃりと笑う、その人間らしい笑顔がとても美しいのだ。満開の桜の中、気分は最悪だが、その笑顔が見れれば幾分か救われる。
暫くは鶴丸にも笑い返す余裕もあった。しかし続く並木道が、永遠と先まであるように感じて、くらくらとする。
桜の木の下には死体があるという。鶴丸も埋まるべきだった場所。今もそうかもしれない。
聞こえるはずもないのに桜の降る音がする。桜の匂いも。夜になればあの地面を掘る、ざくざくとした音がなるのだろう。
バシン!と背中に衝撃が走る。
顔を上げれば視線が低い。どうやら気がつかないうちに踞っていたようだ。背中を叩いた本人、目の前の光忠が泣きそうな顔で見つめている。
「ど、した? なぜ、そんな顔を、している?」
手を伸ばして頬に触れようとした。持ち上げた自分の手が何故か震えている。
先に光忠の手が鶴丸の顔に触れた。そして首をぶんぶんと振る。スケッチブックは鶴丸の視線の先、先ほどまで光忠が桜を見ていた場所に落ちていたため、会話が出来ない。
光忠に何かあったのだろうか、それを知るためには媒体が必要だ。声がでないというのは、こういった時、もどかしい。
とりあえずスケッチブックを拾おうと立ち上がる。が、くらくらとして上手く立てない。桜の音が、煩い。
「すまんな、光忠。何でもないんだ」
「!」
光忠が、眉を吊り上げる。そして、
「うわ!?」
鶴丸の体を横にして、抱き上げた。俗に言う姫抱きというやつだ。
「み、み、みつただ!?」
鶴丸の声も聞かず、キョロキョロと辺りを見渡す。何かを見つけた表情をして、そこへと歩き出した。
鍛えられている体は、安定感抜群で鶴丸を運んでいく。大丈夫だ、下ろしてくれと口では言ってみるものの力が入らず、結局はされるがままだ。
――なんだこの体たらく。
格好悪いも極めつけ。よりによって光忠に姫抱きをされるとは。普段忘れがちだが、光忠は背も高く、力も強い。声がでないからか、年下だからなのか、鶴丸はついつい守ってやらなければと思ってしまう。だけど光忠はしっかりしている。出会いの時もそうだが、鶴丸の助けなど必要ないのだ、本来は。今もこうして鶴丸の方が助けられている。
到着した先はベンチだった。桜並木からは離れている。光忠は壊れ物のように腕の中の体を横たえようとした。
「だ、いじょうぶだ。座るくらいの力はある」
言葉に詰まりながら話す。呼吸も無意識に押さえ込んでいたらしい。桜の匂いを感じたくなかったからだろう。
言葉に従ってベンチへと座らせてくれた光忠は、目線を合わせるようにその場にしゃがみこむ。顔を覗き込みながら、両手で鶴丸の頬を包み込んだ。金色の一つ目は不安げに揺れている。
「大丈夫だって、言ってるだろう? 光忠、俺よりもスケッチブックだ。道に置きっぱなしだぞ」
ぶんぶんと首を振る。側を離れる気はないようだ。
「頼む、取ってきてくれないか。あれは、俺ときみが一緒に過ごした時間そのもの。俺にとって大事なものなんだ。あれが無くなるのは、嫌だ」
頼むともう一度懇願すれば、渋々両手が離れ、駆け出した。
「情けない・・・・・・」
その後ろ姿を見つめながら呟く。本当に情けない。
タバコの数も減った、心を焼くことも。全て光忠のお陰だ。
彼と出会う前の自分はどう日々を消費していただろうか、思い出せない過去は覗いてみてもほとんど空っぽで、ゾッとする。
その空っぽの穴に今は光忠がいてくれる。友人もそうだ。彼らがいてくれるから鶴丸はその穴に体を横たえなくてもいいのだ。
そんな相手である光忠に心配されるのはすごく情けなかった。見栄を張りたいわけじゃないが、光忠の前では格好良くいたい。幻滅されたくない。なのにこんな姿を晒してしまった。
桜がなんだと言うんだ。もうそれこそ、何年も前のことだ。あの時より二倍以上の年齢になったのだから、忘れてもいいはずだ。どういう心理で、自分がこうなってしまうのかがわからない。
母親に桜の木の下に埋められかけたのがショックなのか。埋めきれてもらえなかったからショックなのかそれすらも。桜の木の下から逃げたいのか、それとも埋まりたいのか。わからなくて頭がこんがらがっていく。
――光忠の声が出ない原因もこんな感じなのだろうか。
「もどかしいな。思い通りにならない自分の体ってものは。好きな相手と花見も出来んのか、俺は」
笑っている顔を曇らせたくないと思っていたくせに、結局そうなってしまっている。情けない。
「・・・・・・ん?」
はて。今何を口に出しただろうかとこんがらがる頭を捻る。花見が出来ないと言っただろうか。桜が苦手な自分が花見を望むとは。
ばたばたと走る音が聞こえて顔をあげる。スケッチブックを抱えて近づいてくる光忠がいた。
「悪いな。持ってきてくれてありがとう」
片手をあげて言えば僅かにホッと息をつくのがわかった。光忠は持ってきたばかりのスケッチブックを開いて、もどかしげにペンを走らせる。
『大丈夫? 気分わるい?』
「大丈夫だ」
『顔すごく青かったよ』
情けなさが倍増だ。少し落ち込む。
「ちょっと目眩がしただけで、大したことはない。大丈夫」
「―!」
鶴丸の返答に光忠が口を開いて、何か言おうとした。表情からして怒っているみたいだがもちろん声は出ない。忌々しそうにペンを紙に叩きつけて書く。
『ウソつかないで!』
「嘘じゃ、」
そこまで言って、言葉を切った。目の前の顔が、悲しげに鶴丸を見ていた。先ほどまでは目をつり上げていたこともあって、その落差に戸惑ってしまう。
本当は桜が苦手だと言えば、彼はどう思うだろう。悲しい顔をさせたくない。だから大丈夫だと言っても彼は鶴丸の嘘を見抜いてしまう。かと言って本当のことを言っても彼は悲しむ。優しい子だから。
彼を納得させられるような本当のことを言わなければ。
――本当のことってなんだ。
人との関わり合いをのらりくらりとかわしてきた鶴丸にとっての真実は少ない。心を焼いて日々をただ消費してきた結果が空っぽの自分だ。光忠と友人がいてくれるその中を覗こうとしても深淵があって、そこは桜の木の下に繋がっている。
『あなたを愛しているから』
『すきってこと?』
女の声と子供の声が深淵から聞こえた。
「すきだから」
ポツリとこぼした。
「俺はきみが好きだから。そんな悲しい顔はしてほしくない」
好きならば、笑っていてほしいと思う。笑ってくれるなら、桜の木の下に埋まったって構わなかった。
――好きだから。好き、だか、らぁ?
「はああああ!?」
明瞭になった頭が口と直結して、声をあげた
「ま、待て! 待ってくれ! 今のは無しだ! はははははは! 何を言ってるんだろうな俺は! 答えになってないしな!」
桜で麻痺した頭も晴れるくらいとんでもないことを言ったと気づく。冗談にしようとしてるのに、あからさまな動揺が浮き出てしまっている。おかしい、何故だ。別に動揺することでもないはずだ。友人として彼を好きなことは間違いない。このままおかしな反応を続けていれば光忠が困ってしまう、何とかフォローをしなければ。
「ちょっと朝から体調が悪くてな、いつもより口が弛いらしい。思ったことがそのまま出てしまって・・・・・・って、だぁ! 違う! そうじゃないだろ!」
混乱の極み。脳内は阿鼻叫喚。自分の発言の焦りがまともなフォローをさせてくれない。
好きだからと言った。光忠が好きだからと。確かに光忠が好きだ。それは友人としての気持ちであって、決してそれ以外のものではないはずだ。
――本当にそうか?
鶴丸は生きた死体だ。母親が鶴丸を埋め損ねたあの日から。幼い子供は心を殺さなければ、生きられなかった。
年々大きくなる桜の木の下への誘惑を誤魔化すように、死にきれなかった心をタバコで焼いて、体だけ生かしてきた。父親の為に独り立ちをするまではとそうしていたが、どこかで早く全てを終わらせたいとも思っていた。今も思っている。
だけど、光忠と出会った。彼はきっと、鶴丸よりも可哀想だ。それなのに彼は、可哀想じゃない。自分が格好良いと思う黒を着て、絡まれても負けないようにと自分を鍛えて、話せなくても平気だと開き直って、鶴丸の隣で誰よりも綺麗に笑う。羨ましかった。羨ましい。そして愛おしい。鶴丸の持っていないものを持って、鶴丸の隣に居てくれる光忠が。
しかし愛でもあり恋でもあるこの気持ちの中で一番大きいのは依存だと鶴丸は気づいてしまった。自分にとって光のような光忠に寄り添ってはじめて、心が動くのだから。寄り添っていなければ鶴丸の心は死んでいるのだから。
だけど、確かに好きなのだ。
彼が好きで、隣にいてほしい。彼がいなければ鶴丸は死体でしかない。どちらにせよ友人に対する気持ちとしては枠を越えている。
自分の想いに気付いた鶴丸があたふたと動かしていた両手を下ろして口を閉ざす。
黙ったまま光忠を見ればこれ以上ないほど赤い顔をした顔が目に入った。怒っているのだろう。
心配してくれたのに悪質な冗談ともとれる発言をしてしまったのだ、気を悪くするのも当然である。これで嫌われたらどうしよう。ますます桜が苦手になりそうだ。春の間だけ引きこもりになったらどうしてくれる。
だが、光忠は赤い顔のまま何もしてこない。立ち去ることも、背を向けることも。困ったように鶴丸を見つめ返す。その視線や仕草に怒りは含まれていない。
一つの目は水分が多く、瞳が光を集めてきらきらとして見える。声が出ない唇は震えていて、ムッと結ばれている様子もなかった。
心を殺していたツケで、人の心の機微がわからないのかもしれない。今頃自分の気持ちに気づくくらいだから、他人の気持ちなど察することなど難しい。
だが、そんな鶴丸でさえ、もしかしたらと淡い期待を抱くほどの表情がそこにはあった。
「・・・・・・すまん。本当のことだ。俺はきみが好きなんだ」
淡い期待に誘われるままに白状する。
『や』
続く言葉はやめてくれ、だろうか、やだなぁと笑う言葉だっただろうか。すぐにぐちゃぐちゃと黒の線が文字を掻き消す。
左手で前髪を上げた。額と、いつも隠れがちな医療用眼帯が見える。両方揃った眉は困りきっている。迷い子みたいだ。ただし顔は真っ赤だ。かわいい。
熱心に見つめている視線に耐え切れなくなったのか、泣き出しそうに顔を歪める。非常にかわいい。
『男どうし』
迷いながらそれを書いてまた、ぐちゃぐちゃと消すのを繰り返す。それを黙って見守る。
一通り、混乱した光忠が震える手でスケッチブックに手を伸ばす。葛藤があるのか、紙に滲むインクの線はおぼつかない足取りだ。笑い死にしそうな時でさえ、まだまともな線だった。
『す き』
ミミズが悶えながら這ったような字はいつもの光忠の字からほど遠い。それは彼の戸惑いや葛藤を表しているようだった。その線が表した彼の気持ちに、鶴丸は光忠を見つめる。視線を合わさず顔を赤らめた光忠はペンを置く。右手で今書いた文字がのたうち回るページごと破ろうと手をかけるが、それよりも早く鶴丸が手を押さえればようやく顔を上げた。赤い頬、潤んだ瞳、閉ざされた唇、全てに胸がどきどきとする。心が動く。
無言の咎めに光忠が観念したように破ろうとする右手を離す。そして二文字が書かれたページが見えるようにしながら、スケッチブックを鶴丸に押し付けた。まるでもってけ泥棒と言うように。
「これがきみの答えだって思っていいんだよな?」
「――」
押し付けたままの格好で固まっていた黒が、その問いに何呼吸分か後にこくんと頷いた。
「みつただ!」
「!!」
押し付けられたスケッチブックごと抱き締めた。厚い紙束がぐしゃとなる感覚があったがそれどころではない。
鶴丸より大きい体を逃さない様に力を込める。こんな気持ち初めてだ。
光忠の手がおずおずと背に回される。心臓がどきどきと音を立てる。遠くで咲き誇る満開の桜並木が目に入ったが気にならない。腕の中に光忠がいるのだ。光忠がいれば普通みたいに生きていける。
死体ではない鶴丸が桜の木の下に行く理由などないのだから