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 出会って半年も経っていない秋。退屈な夏休みの憂さを晴らすように、鶴丸は光忠と過ごした。
 今までとなんら変わらない夏休みは本当に最悪に退屈だった。就活に勤しんでいる時はそうも言ってられなかったが、暑い夏のほとんどが心を焼いて過ごすしかない日となり忘却の彼方へ。それを通り過ぎた秋はどれ程待ち望んだものだっただろうか。
 後期は光忠との授業が被ることはなかった。学部も違えばそうそう被りはしないだろう。まして、三年後期となった鶴丸は就活がメインで講義も最小限しかとっていなのだから。それなのに、出会って時が経つにつれ、二人で会う時間は増えていく。

 初めて話したあの日の公園。相変わらず誰もいなかった。
 そんな中一人ベンチに腰かけている光忠の姿がある。本屋に居座っていた鶴丸を待っているところだ。待たせたなと声をかけようとして、悪戯心が沸き上がる。たいした悪戯ではないが、後ろから驚かしてやろうと思った。
 静かに光忠の背後に回る。本人は何かに視線を落としていて気づく様子はない。スマホではないようだ。近づくにつれてそれがスケッチブックだと言うことがわかった。


――何を一生懸命見ているのかと思えば。


 彼が見ているのは『つるさん専用にした!』と光忠が言ったスケッチブックだ。
 それを読みながら鶴丸を待っている後ろ姿がそこにあった。


――まるで待っている間の時間も、俺の時間みたいじゃないか。


 鶴丸が来るまでの時間は光忠一人だけのものだ。それなのに、鶴丸を待ちながら、鶴丸との会話を見返しているのは、それは間違いなく鶴丸と光忠の時間だ。光忠のことを考えながら、光忠の元へ向かう鶴丸も同様だっただろう。


「~っ!!」


――春が遠いからって浮かれすぎだ!


 人は春に浮かれるというが、春が苦手な鶴丸は春が一番遠い秋に浮かれるのかもしれない。今までそんなことはなかったが、新たな発見だ。


「わっ!!」
「!?」


 胸に沸き上がった何かの衝動を、最高の驚きに変えるべく、鶴丸は声をあげた。目の前の背中が面白いくらいに跳ねる。


「はっはっは! 驚いたか?」
「~!!!」
「すまんすまん、そんなに驚かせてしまったか」


 声を当てるなら「もー!ほんとにびっくりしたんだからね」という感じに鶴丸を見つめてくる。どれだけスケッチブックに意識を持っていかれてたのかは知らないが、余程驚いたようだ。
 大きく深呼吸をした光忠はそれでも、驚きが収まらないらしい。自身の左胸に当てていた右手を離し、その手で鶴丸の右手を取る。そして今場所が空いたばかりの光忠の左胸へと、鶴丸の右手を誘った。


「な、」


 光忠の鍛えている胸の感触が、右手を埋める。無意味にわきわきと握ってしまいそうなのを、押し止めた。そうすれば、服と筋肉の下にある光忠の心臓がどくどくと少し早いスピードで音を立てているのがわかる。確かにとても驚いてくれたようだ。
 しかし、鶴丸の耳にも同じスピードの鼓動が響いている。むしろこの右手から伝わっている鼓動は、鶴丸のものかもしれないと思うくらいに。
 ほら、鼓動早いでしょう?と光忠がこてんと首を傾げる。光忠はただそれを知らせたかったのだろう。


――色仕掛け。


 何故かその言葉が頭に浮かぶ。


「いや、ほら、すまん、違うんだ。その、驚いたら、声が出るかもしれないとか、そういう感じのあれが、な?」
『出ないよー!』


 別にそういう意図があったわけではないが、何やら茹った頭がやっとの思いで口にする。すると光忠の手が鶴丸から離れて言葉を返した。鶴丸の手もワンテンポ遅れて、離れた。
 離した右手を鶴丸自身の胸へとくっつけてみる。光忠と違って薄い胸からやはり早い鼓動がしている。


『たぶん両親を亡くした時のショックで出ないんじゃないかって言われてるけどね。自分じゃ自覚ないんだ。もう何年も前のことだし、何で出ないのかよくわからない』


 光忠がゆっくり筆を進める間に鼓動を抑える。前に光忠が文字を書く時間を待つのは苦痛ではないと鶴丸が伝えてから、光忠は文字を比較的ゆったりと書くようになった。文章も長めだ。
 待つ間の鶴丸も最近はタバコを吹かしたりしない。夏休みの間爆発的に増えていたタバコの量も、減ってきている。
 時に眺めて、時に返事をそわそわ待って、心を焼く暇がない。


『出なくてもそこまで困らなくなったけどね。筆談で大抵済むし、急いでる時はスマホに打った文章見せるし。別にこのままでもいいかなーって開き直ってるよ』


 鶴丸が普通の鼓動に戻った頃、光忠がスケッチブックを見せる。


「そうなのか。・・・・・・きみの声はかっこよさそうだから聞いてみたい」
『格好言良いかな? ずっと出してないからかすかすしてそう』


 今まで平然としていた光忠がそこで初めて困ったように眉を下げる。
 光忠の中には彼にしかわからない格好良いと格好悪いがあるらしい。光忠は人懐こく穏やかな性格だが、自分に対してはわりとシビアで、自分がその格好悪いに当てはまることを厭う。声が出ないということは仕方がないこととして受け止めているが、声が掠れてしまうことは光忠にとって格好悪いことのようだ。その基準は鶴丸にはわからない。
 ただ単純に鶴丸は、光忠の声を聞いてみたいと思った。


「なら俺が確かめてやろう」


 掠れてても良い。格好悪いなんて思わない。そんなこと誰にも言わせない。


「きみの第一声を聞くのは俺だぞ?」


 白い喉に手を伸ばして、約束を押し付ける。光忠の喉がひゅっと鳴ったが、やはり声はでないようだ。この喉が震えて、空気を伝い鶴丸の耳に音が届くのはいつの日になるだろうか。喉仏を人差し指ですりと撫でる。第一声がどうか鶴丸の名前であればいいのにと、思った。
 そのまま撫でていれば、喉仏が上下に動いて唾を飲み込んだのがわかる。よく考えれば、人間の急所である部分を不躾に触れてしまっていた。慌てて手を離した。
 離した喉の上の方から、ふぅという溜め息が吐き出される。鶴丸が突拍子がないことをしても、彼は咄嗟に咎める声を出せないのだから気を付けなければと少し反省した。
 秋と言ってもまだ夏が去りきっていない為、日差しは弱くない。まして、今日も黒い衣装の光忠は日差しを吸収する。彼は暑いのだろう。彼が少し赤くなっている顔をパタパタと扇ぐ。
 鶴丸も手伝って扇げば、何かを言いたげに見つめてくる。感謝の意志だけではない。どちらかと言えば鶴丸に非があるような顔だ。全くもって解せない。
 体温が下がったらしい光忠が、ペンを持ち、鶴丸の言葉に返事を寄越した。


『そうだね。卒業までに出ればいいな』


 卒業。それは鶴丸が、だろうかそれとも光忠が、だろうか。


「焦らせるつもりじゃないんだ、卒業後だって構わないんだから」


 卒業したからと言って二人の友情が終わるわけじゃないと暗に言って鶴丸は笑った。そうでなければ、懐に残っているタバコだけではこの心を焼ききれない。
 別れの日は来るのだろう。その区切りは鶴丸の卒業だ。
 しかし光忠と出会う前はどう日々を過ごしていたのか、鶴丸は忘れてしまった。
 

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