鶴丸の願いが届いたのか、数日後の激しい雨で、あっけなく桜は散った。そして今は新緑の季節。長い連休も終わり、大学内にもだらだらとした風が流れる時期となった。桜が散った事で、気分も大分上昇している鶴丸は、それでもやはり煙を生み出している。相変わらず楽しいことはない。鶴丸は万年五月病みたいなものだ。
――退屈だ。
今日は講義がないと言って、友人は一日中休んでいる。今頃家で弟達の洗濯物でも干している頃だろう。鶴丸は講義に加えて就活の相談があった。サボるという選択肢は鶴丸にはなかった。
友人が休みとなれば、必要以上に誰とも会いたくなくて、人気のない所をひたすらぶらぶらしている。暇でしょうがない。
次の講義まで後二時間以上もある、時間がありすぎるのも問題だ。そこで、いっそキャンパスを出て、近くの本屋まで行こうと思い立つ。歩きタバコはいかんよな、と今さら気づいて、タバコを携帯灰皿へと押し付けた。
比較的人通りの少ない裏の門からキャンパスを出る。バス停が設置されている表とは違い、裏門を通る者は少ない。近くの寮やアパートに住んでいる者達が通る道ではあるが、それでも表の賑やかさに比べれば静かなものだ。
裏門から歩き続けて、静かな住宅街へと出た。昔ながらの寮やアパートと最近建てられたアパートが入り交じって並んでいる。学生に向けた食堂も何軒かあり、そこだけは静かな住宅街に似合わず、いつも繁盛しているようだ。
賑やかな食堂も避けながら、鶴丸は本屋を目指す。古本も扱っている、個人経営の小さな本屋だ。その本屋は静かな住宅街の中でもより一層静かで、鶴丸のようにわざと人目を避けて歩こうとしなければ見つけられない場所にある。一年の時に見つけて以来度々訪れている為、店主の老夫婦とはすっかり顔見知りだ。かと言って、老夫婦は無闇に話しかけてきたりせず、ただ立ち読みに訪れる鶴丸に椅子とお茶を差し出してくれる。鶴丸にとって数少ない憩いの場と言える空間。そんな場所だ。
無駄に広いのに、何時も人気がない住宅街の公園の中を通って、鶴丸は本屋を目指そうとする。
この公園に人気がないには理由がある。『この公園は呪われている』とまことしやかに囁かれているのだ。何でもこの公園にある、一本の桜は他の桜よりも赤く、それは桜の木の下に死体が埋まっているから、と誰が流したかわからない噂のせいで。だから、この公園は子供達も近寄ろうとはしない、そういう話を聞いた。
呪われているとは馬鹿馬鹿しい。桜の木の下には死体が埋まっているものなのだから、この公園の桜だけが呪われる訳がないと、鶴丸は思う。むしろこの桜の木の下には死体以外の別なものが埋まっているのだ、きっと。公園の中を歩きながら、そんなことを考える。
どちらにせよもう桜の時期は過ぎている。呪われているこの公園は寂しそうに緑の木々を揺らしているだけだ。
公園を通り抜ければ、もう少しで目的地の本屋に辿り着く。キャンパス内でタバコをふかしてぶらついていた時より、大分気分がよくなって、今日はどんな本があるかなと僅かに心を踊らせる。この間見つけた黒魔術の本だとか、妖怪全集だとか、非常に興味深く驚きが詰まった本を今日も見つけたいものだ。
「ここまでついてくるとか、マジウケんだけど。けーかいしん無さすぎ」
後数十メートルで目的地という所で突如、男の声が聞こえた。思わずチッと舌を打つ。せっかく気分が乗りかけていたのに、あまり柄の良さそうじゃない声に興醒めしてしまった。こういう声の持ち主は半分、とまではいかなくても二割くらいが鶴丸の全身を舐め回すように見て、そのうちの半分が鶴丸に対して絡んでくるのだ。しかもここは人気のない路地。周りにはやってるんだかやっていないんだかわからないスナックとその店の看板があるくらい。そんな所にたむろしている輩は十中八九、絡んでくるに決まっている。
――面倒くさい、非常に面倒くさい。
くるりと踵を返した。気持ちは既に本屋の入り口を跨いでいたが、無理矢理引っ張って、連れて帰る。絡まれる前に、この場を去りたかった。
「お前さぁ、マジ調子乗ってね? ちょっと目立つからってさぁ」
「こいつ、君のせいで、女にフラれてっからね。かなりマジギレだから。ヤバイよー謝った方がいいよー。あ、君しゃべれないんだっけ」
柄の悪そうな声に足を進めたが、続いた底意地の悪そうな声の言葉に足をピタッと止めた。
「はぁー? いやいや、しゃべれないとかそーゆーの社会じゃ通用しないから、声に出して謝るってさぁ、当たり前のことだろ、誠意だよ、せーい!」
「そう言ってやんなって。出来ないもんは仕方ないじゃん? でも、ほら誠意ってさぁ、他の方法でも見せれるもんだから。眼帯くんは眼帯くんなりの方法で、俺達に誠意、見せてくれるよねぇ?」
しゃべれない、眼帯くん。鶴丸の頭には一人の人物しか思いつかなかった。そしてそれは間違いではないだろう。もう一度踵を返して、誰にも気づかれないように、声のするほうを覗き見る。そこには鶴丸の想像通り、今日も全身真っ黒コーデの眼帯の君がいて、彼より背の低い男二人に囲まれている。
「なぁ、俯いてっけど話聞いてんの。こいつ、耳も聞こえないんだっけか?」
「聞こえてるでしょ。たぶんあれだ、お財布どこにしまったかなぁって考えてんだよ。急かしてやんなって」
そうして、男二人の笑い声が耳に届く。どう見てもカツアゲだ。
――助けを求められない弱者にカツアゲとは、最悪だな。
鶴丸は一度顔を引っ込めてため息をつく。苛立ちより、呆れの方が強かった。
鶴丸は特に正義感が強いわけではない。それでもやはり、こういうのは気分が悪かった。例えば眼帯の君が声を出せるのであれば、どうにか助けを呼べばいい。男なのだから多少怪我をしても自分の力で解決すべきだ、と思うのだが、それが出来ない彼にそんなことを思うのは酷なことだろう。
さて、どうするか。いつもであれば余計なことに巻き込まれたくないと、この場を後にするのだが、今の鶴丸の中にこのままこの場を去るという選択肢はもうなかった。ならば彼をつれて逃げるか、鶴丸が二人の相手をするか、だ。喧嘩は好きではないが、弱いわけではない。むしろ売られた喧嘩で負けたことなど一度もない。なまっちろいという自覚もある鶴丸のこの見た目に騙される輩が多いが、そういう油断している相手ほど鶴丸にコテンパンにやられるのだ。今回もそうだとは限らないが、負ける気はあまりしなかった。
鶴丸が、久しぶりの喧嘩を選んだ途端、鈍い音が静かな路地に響いた。無遠慮な力が何かにぶち当たった音。慌てて覗けば、一人の男が眼帯の君の鳩尾に拳を抉りこんでいた。
「ざーんねん。お腹の中には入ってないみたい」
「お前、手ぇ早いんだって。まだ考えてる途中だっただろうが」
「いや、お手伝いしてあげようと思ってさぁ? でも、今の衝撃でお財布の場所、思い出したかもよ?」
底意地の悪そうな声をした男が、歪んでいる性格を表した顔で笑った。柄の悪そうな男よりもよっぽど醜悪さが滲み出ていて、とても癇に障る。はっきり言ってすごくムカついた。
「おい、」
鶴丸が低い声を出しながら一歩踏み出す。正義感からではなく、ただ単にあの男の醜い笑顔を目一杯殴りたかった。
しかし男達は振り向かない。振り向けなかった。何故なら、片手で鳩尾を押さえて、背中を丸めていた青年が、ゆらりと立ち上がり、目の前の男を一発で殴り倒したからだ。底意地の悪そうな男が、どさりと地に倒れる姿がやけにゆっくりと感じる。
「は? な、ちょ、まっ、ぐべぇ!」
突然の事に、人間の言葉を忘れてしまった柄の悪そうな男が、やはり人語ではない奇声を上げて、地に落ちる。綺麗な右ストレートが男の顔面に決まった。
男が地に落ちた音を最後に、辺りはしんと静まり返る。鶴丸の踏み出した足と、握りしめた拳が目的地を失い、途方にくれる。
――こりゃ驚いた。
心の中で呆然と呟く。
壁から三分の二だけはみ出している鶴丸に気づかない、眼帯の君は二人を殴る為に使った右手をぷらぷらと揺らして、ふぅと息をついた。肩を落として、首を静かに振る彼に声を当てるとすれば「やれやれ」と言った所か。普段見る、造り物めいた彼からは考えられない人間臭さに、鶴丸のほとんど死んでいた好奇心がうずうずと騒ぎ始めた。
「きみ、暗くて弱そうなのに強いんだな! 最高に驚かせてもらったぜ!」
「!?」
暴れる好奇心に任せるまま、ハイテンションで声をかければ、自分達以外は誰もいないと思っていたのだろう、眼帯の君がびっくぅと小さく飛び上がった。そしてずんずんと近づいてくる鶴丸を、驚いた表情で見つめる。
「近くで見ればでかいな! ああ、筋肉もある。これなら、先程はそんなに痛くなかったんじゃないか? 人は見かけによらないと言うが、きみの場合正にそうだな。いつもは儚い雰囲気を醸し出しているせいで、弱そうに見える」
ぺたぺたと腹筋を触りながら鶴丸は喋り続ける。鶴丸の足元のすぐ側で男二人が白目を向いて転がっているが、そちらには微塵の興味もない。
「おお、腕の筋肉も中々だ。鍛えてるのか? 俺はどれだけ頑張っても筋肉がつかなくてなぁ、羨ましいぜ」
咎める声がないのを良いことに、久しぶりにあった親戚のおじさんさながら、体に手を貼り付けて話をしていく。
「いやはや、先程の右ストレートかっこよかった。気分がすかっとしたぜ、なぁ?」
腕から肩へ手を移動して、称賛をくっつけた手のひらでぽんっと叩く。そしてようやく顔を上げて眼帯の顔を見た。すると眼帯の君は口をぱくぱくと開閉して狼狽えていた。どうやら自分が話せないと言うことをどう伝えればいいのか焦っているように見える。
眉根をへにゃりと下げて、困ったようにあわあわとしている姿は、今まで見たことのない姿だ。
――意外に子供っぽい表情をする。
それがますます鶴丸の好奇心を暴れさせる。
「すまんすまん! きみが話せないことは知っている。そんなに焦らないでも大丈夫だ」
安心させるように、にっこりと笑ってそういえば、あわあわしていた眼帯の君が、ほっとしたような顔をして、落ち着きを取り戻した。
「ここじゃ何だから、場所を移動しよう。少し歩けば公園があるからな、そこに行こう」
冷静になってしまえば、いつもみたいな表情のない顔になってしまわないかと、少々心配したがそんなことはなかった。突如現れた得体のしれない鶴丸が突拍子のない提案をしてもにこっと笑ってこくりと頷いてくれる。その様子はとても人懐こく見える。
近くに落ちていた眼帯の君の荷物を、本人よりもいち早く拾って、こっちだぜ、早く早くと急かしながら歩き出した。小走りで付いてくる彼に笑いかけて鶴丸は先程通り抜けたばかりの公園へと向かう。
「ほら、こっちだ。きみも座れ」
公園のベンチへと、腰を下ろす。近くには噂の、一際大きな桜の木が立っているが、今は桜は咲いていないし、何より目の前に鶴丸の興味を集めている存在がいるので気にはならない。彼の荷物を膝に乗せながら、自分の隣をぽんぽんと叩いて見せる。眼帯の君は素直にそれに従った。
それだけの事で不思議な満足感を覚える。知らず笑みが広がる顔をそのままに、膝の上の荷物を彼に手渡した。よく考えてみたら、人質をとっていたようなものだ。しかしにこっと笑ってそれを受け取る彼は、そんなことを気にしている様子はない。
「さっきは不躾にすまなかったな。興奮してしまって、つい」
鶴丸が先程の馴れ馴れしさ、今現在も続いてはいるが、それを謝罪すれば、眼帯の君が頭を振る。そして、鶴丸から受け取った荷物をごそごそと探って、スケッチブックとペンを取り出した。声が出ない彼はそれで筆談をするようだ。スケッチブックを捲り、さらさらとペンを走らせる。書き終えて鶴丸に差し出した紙の上には、筆の速さにしては綺麗な文字が並んでいた。
『格好良いって言葉嬉しかったから』
そしてペンを持ったままの右手でゆっくりストレートを繰り出す。そのまま小首を傾げてにこっと微笑んだ。ずいぶんと可愛らしい仕草に、鶴丸の中の印象がどんどんと塗り替えられていく。
「心からの称賛だったんだが、喜んでもらえて何よりだ! おっと、名前を名乗ってなかったな! 改めて自己紹介させてくれ、俺は――」
ジェスチャーで、彼のスケッチブックにペンを走らせる了承を得て、鶴丸は言葉と共に、紙の上へ自分の名前を書いていく。彼が先程、鶴丸に向けて書いた文字の上に鶴丸の名前が現れた。
「ちなみに学年は三年。きみよりお兄さんだ」
スケッチブックから視線を上げて顔を見れば、うんうんと頷かれる。眼帯の君が右手を差し出すので、ペンを返せば、鶴丸の名前の横に彼が文字を綴っていく。
『知ってます。同じ講義取ってますよね?』
「お、気づいていたか?」
『目立つから』
にこっと笑う顔に含んだものは何もない。純粋に目を惹いたのだとそう言っているのだ。
「きみ程じゃあないけどな!」
そうでなければ、鶴丸が友人でもない他人のことをこんなにはっきり認識しないだろう。
「俺もきみを知っているぜ! えっと、あー、名前は知らんが」
危うく眼帯の君と呼びそうになって言葉を濁す。ほとんど何も知らない相手から、一方的につけられたあだ名で呼ばれていたなど、気持ちの良いものではないだろう。それに実際鶴丸は彼の名前を知らなかった。鶴丸の周りの人間からも彼は眼帯くんと呼ばれていたから。
名前を教えてもらってもいいかい?とスケッチブックを、人差し指でとんとんと叩く。彼は頷いて、紙の上にペン先を置いた。火と書いてその右側の上に、目を横にしたものを小さく書く。しかしそこまで書いて、上から重ねるように×をつける。そして横にひらがなで、みつただと書いた。隣に走り書きで光忠と読めなくもない文字もある。そういえば、彼の名字は難しいと誰かが言っていた。きっと読み方も珍しいものだろう。彼は、鶴丸を待たせない為にややこしい名字を省き、とりあえず下の名を書いたのだとわかった。
「みつただ、光忠か。ならば、遠慮なくそう呼ばせてもらおう! きみも俺のことは好きに呼んでくれ」
声が出ない彼は鶴丸の名を呼べないので、正確には書いてくれと言うべきか。
『つるまるさん』
「さんは省いて良いぜ? そしたら書くのも四文字だ」
『つるさん でもいいですか?』
「はは、きみが良いならそれで良い。あと敬語もいらん」
『OK!』
にこにこと光忠が笑う。鶴丸の見ていた眼帯の君は幻だったのかというくらいの感情を乗せた顔に、鶴丸は深く考えずに思いを口にした。
「こう言っちゃなんだが、きみはもっと暗くて可哀想な人間かと思っていた。俺の見ていたきみはいつも表情がなかったし、黒い服しか着ていなかったし。今も喪に服しているんだと」
その言葉に、光忠はぶんぶんと首を振る。
『もう何年も前のこと』
「そういう訳ではないって? なら何故いつも黒い服を着ているんだ?」
――何かもっと深い理由が?
そんなことを考えながら鶴丸が訝しげに聞くと光忠はわずかに視線を泳がせた。そしてスケッチブックを一枚捲り、新しくなった白紙のページにさらさらとペンを走らせる。
真剣な顔立ちだ。書いている内容も深刻なものかもしれない。この短い時間で、光忠が実に素直そうな男だと知った鶴丸はそこで初めて自分の失言を自覚した。
立ち入ったことを聞きすぎたかと今更後悔する。鶴丸だって何故死に装束の色を好むと聞かれれば、あまり楽しい気持ちにはならない。例え、笑い話のように話してもだ。
書き終えた光忠が自分の書いた文字を眺めてうん、と力強く頷いた。大丈夫と自分に言い聞かせているようにも見える。素直な光忠は、きっと自分のことを素直に書いたに違いない。見せたくないなら見せなくてもいいと言わなければ。
だが鶴丸の中で騒ぐ好奇心達が一瞬だけ鶴丸の言葉を押し留めた。その一瞬が、光忠が鶴丸に対してスケッチブックを見せる時間を与えてしまう。差し出されたスケッチブックの上の、光忠の文字を目と共に口で読む。そこにはこう書いてあった。
「『だって、黒ってかっこいいでしょ?』」
心の中で繰り返してから、光忠を見つめる。そこには自信満々に目を瞑る姿がある。暗さも影も、可哀想の欠片もない素直な姿だ。
「あーはっはっはっはっ!!!」
「!!」
「確かにな!! 黒は格好良いよな! そうだそうだその通り!」
突然大爆笑した鶴丸に驚いた目を向けてくる。何故鶴丸が笑っているかわからないと首を傾げて不思議そうだ。フォローをしなくてはと口を開くが、笑いを含んだ言葉は、フォローにはならず光忠をますます不思議そうにさせる
――喪の黒ではなかったか。
鶴丸は笑いながら思う。何となく同族意識を一方的に持っていた所もあったが、今それが裏切られた形になった。しかしそんなことは些細なことでしかない。こんなに笑ったのは久しぶりだ。鶴丸はすっかり光忠のことを気に入ってしまった。
それから講義の時間が来るまで鶴丸は光忠と共にいた。そこで光忠についていくつか知ったことがある。例えば、光忠は声が出なくなってから幾度となく絡まれる事があり、その度に腕力で解決してきた為、喧嘩には滅法強い事。学内でいつも無表情なのは、にこにこしていると絡まれる事が多くなる為、無表情を貼り付けているという事、等。光忠は聞きたがりの鶴丸に嫌な顔ひとつ見せず、スケッチブックの上で話してくれる。
おかげで、今まで年齢どころか人間性まで感じさせなかった眼帯の君は、この数時間で十代の男の子へと変わった。
講義に間に合うギリギリの時間まで粘った鶴丸は、そこでようやく重い腰を上げた。
「さて、名残惜しいがそろそろ行かないと講義に遅れてしまう。光忠、付き合わせて悪かったな」
『楽しかったよ!』
「そうかい? そりゃあよかった。なぁ、またこうして一緒に話してもいいだろうか。きみも忙しいと思うが、たまにでもいい。寂しい俺に構ってくれ」
『僕でよければもちろん!』
にこっと笑う光忠に、鶴丸も相好を崩す。彼がこう言うのであれば光忠は鶴丸に構ってくれるだろう。
大学に戻る鶴丸と、今日はもう講義がないので家に帰る光忠は、手を振って別れた。
「と、いう事があってだな!」
「成る程ですなー」
「もうちょっと興味を持ってくれ!」
珍しくハイテンションな鶴丸にちらりと視線をよこして、ため息をつく。
弟達とのひと時を邪魔するなとのことだろう。鶴丸はへこたれないで言葉をつづける。
「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているから、というが、眼帯の青年が美しいのは声と筋肉を隠しているからなんだなぁ」
「そのような話聞いたことありません」
「じゃあ、美しいきみに聞くが、きみは何を隠しているからそんなに美しいんだ?」
「『弟を思う気持ち』ですかな。弟を想う兄の心ほど美しいものはありませんから」
「きみはブレなさすぎて逆に驚くなぁ」
「光栄ですなー。・・・・・・貴方こそ何を、いえ、何でもありません」
友人はそういって荷物を纏めた。そろそろ講義の時間だ。鶴丸もほとんど火をつけただけになってしまったタバコを携帯灰皿に押し付けて、立ち上がる。
「鶴丸殿、次の講義は、」
「日本史!」
「おお、早速ですか。通りでテンションも高いはずです。よかったですな」
スマホを直した、正常な友人は優しく鶴丸に話しかけた。鶴丸も友人の優しさとその言葉に親指をグッと立てる。
「いってくるぜ、いちご!」
「はい、いってらっしゃい」
連休が明ければ、五月病にかかった学生は少しずつ講義に顔を出さなくなってくる。この日本史の講義も例外ではなく、初回の授業のおよそ半分が減っている状態だ。鶴丸に絡んでいたあの女子コンビもいない。あの二人に関しては四月の時点で来ていなかったが。
講義室に入り、キョロキョロと中を見渡すが、そうする必要もなかったほど目的の人物はすぐ見つかった。珍しいことに鶴丸より先に来ていたようだ。相変わらず黒のコーデで、最前列ど真ん中に座っている。左右の男女から熱い視線を向けられていることなんて気づいておらず、真剣にノートと向き合っていた。
滅多に座らない最前列に足を運び目的の人物に声をかける。
「やぁ、昨日ぶりだな」
「!」
「隣いいかい?」
こくこくと頷かれる。了承を得たので堂々と隣に座る。左右の男女がそれぞれ驚いたように、羨ましそうに視線を寄越してきた。光忠がにこっと笑っているのもその理由のひとつに違いない。
『こんにちは 今日同じ講義の日だったね』
「な、早速だ」
スケッチブックは机上になかったため、光忠はルーズリーフを一枚破り、挨拶と共に言葉を差し出した。嬉しそうな顔に鶴丸も楽しくなる。絡まれるのが嫌だから表情を消していたとは言っていたが、その考えより鶴丸への配慮の方が勝ったらしい。教授が来るまで紙上で取りとめない話をする。身を寄せ合いながら一枚の紙に書き込んでいくというのも中々に楽しい。
講義が始まれば流石に止めて、お互いが真剣に教授の話を聞き始めた。学生の本分は学業。考え方が古いと言われても、鶴丸にとっては頑として譲れない所だ。
「二人のやり取りは現代まで手紙が残っていて、あー、資料をコピーしてきたものが、確かここに、えー、」
淀みなく講義を進めていた教授が自分の鞄の中から資料を探る。ぱんぱんに膨らんだ、おそらく整理されていない鞄の中から目的のものが中々見つからないようだ。マイクを通した教授の声がないだけなのに講義室はやけに静かに感じた。突如訪れたわずかな空白に思い立って、鶴丸は自分のノートを少しだけ切り取り、そこに文字を書き込む。滅多に書かない絵文字もつけて、そのノートの切れはしを隣の光忠に、然り気無く差し出した。
光忠は、突然現れた紙切れに少々驚きながら目を通す。鶴丸は光忠の左隣に座っていたため、文字を追い終わった光忠の目が優しく細められたのが目に入った。あまりじっと見るのもどうかと思い、視線を教授に戻す。教授は未だ手間取っている。大した関心もないのに、他に視線のやりようもないので、頬杖をついて眺めることにした。少しして鶴丸の肘にわずかな感触があった。神経を集中していなければ気づかないくらいの。
視線を教授の袖についていた赤いインクの汚れに縫い付けたまま、何気ない仕草でそれを手にする。慌てて見るのもおかしい気がして、殊更ゆっくり俯いて、その紙を見た。そこには二人分の文字がある。
『午後も講義はあるかい? よかったら一緒に昼飯でも食おう(・◇・)<鶴だぜチュンチュン』
『僕、ご飯食べてる時は何も会話出来ないけど・・・・・・それでよければ喜んで!(鶴はチュンチュンとは鳴かないよね?)』
「あー、あったあった。グシャグシャになってるなぁ。まぁいい。えー、後で最後のプリントと一緒に配るけど、これがその資料の――」
目的のものを見つけた教授の声が機械を通して響く。最前列に座っている鶴丸には二重に聞こえて、そんなはずもないのに大声で咎められている気がした。咄嗟に手にした紙片を自分のノートの下にさっと隠す。光忠は教授の言葉をノートに取っている。生真面目な子だ。鶴丸もそれに倣ってペンを取る。
だが、その手はノートの上を滑らず、口許へと移動する。教授を見る鶴丸の目は真剣なはずなのに、何故かゆるゆると締まりが無くなった口許を隠す為に。
――まるで社内不倫だ。
社会に出たことも、まして不倫をしたこともないのにそんな言葉が浮かぶ。どうやら、新しく出来た友人、と言ってもいい存在に相当浮かれているらしい。沸いた言葉を吹き飛ばす為、そして緩んだ口許を引き締める為小さく咳払いをした。
今は、久しぶりに心踊るような新しい出会いにはしゃいでいるだけで、そのうち落ち着く。数ヵ月後には青い髪の友人と同じように、適度な距離を保てる自然体な、別の言い方だとあまり干渉し合わないような関係になるだろうと鶴丸は心の内で呟いた。