光忠と初めて言葉を交わした日から数ヵ月たった。鶴丸の予想と反して二人の適度な距離は中々定まらなかった。それは鶴丸が光忠に対して、構いすぎてしまう、というだけではない。光忠もまた、鶴丸に対してよく構ってくれるのだ。
季節は夏。前期試験を終えた鶴丸は項垂れながらタバコに火をつける。試験の出来に落ち込んでいる訳ではない。ただ単に暑い。それだけだ。かといってクーラーの冷たさもそこまで得意ではないので、鶴丸以外人がいないオープンテラスで項垂れていた。
「暑い」
一人呟けば、とんとんと肩を叩かれる。なんだと気だるげに振り向こうとすると、ぷにぃと長い指で頬を潰される。それ以上振り向けなくて視線だけやれば、そこには悪戯が成功した子供の顔で笑う、光忠が立っていた。初めて会話した日の印象そのままに、光忠はとても人懐っこかった。そして黒かった。夏だからもちろん半袖ではあるが、熱中症にならないかと心配ではある。黒は彼のこだわりだから鶴丸には何も言うことはできないが。
「この俺を引っ掛けるとはなかなかやるな」
咥えていたタバコを、口から離して笑えば、悪戯っ子も空気だけを吐き出して笑った。自然な流れのまま向こう側ではなく、鶴丸の隣に腰を下ろす。そして二人で向かい合った。距離が近い。一枚の紙を共有するし、同じ向きの方が見やすいので気がつけばこのポジションになることが多かった。
タバコを咥え直す鶴丸に、にこにこ顔の光忠がスケッチブックを取り出した。そして該当のページを探して開く。すでに文字が書いてある。
『便利なもの作ってきた!』
「ほお?」
『じゃじゃーん!!』
スケッチブックを更に捲れば、一枚全部に広がる、効果音を文字にしたカラフルなページが現れる。鶴丸に見せるためにわざわざ色をつけたのだろう。その姿を想像して微笑ましくなる。
効果音のページをそのまま机の上に置き、大きめの鞄の中を探る。程なく見つかった物を机へと並べていった。
「これは、プラカード、か?」
短くなったタバコを押し付けながら聞けば、光忠が机の上の小さなプラカードを手に取り掲げた。そこには『Yes』と書いてある。文字を見るに、光忠の字ではなく、機械で印字されたもののようだ。
その返答にまじまじと机の上に並ぶ文字を見た。『No』『うんうん』『成る程』『それは違うよ!』『異議あり!』『格好良い!』『格好よくない』など、どうやらこのプラカード、リバーシブルで使えるらしい。何となく、大人のラブグッズ、所謂Yes、No枕を思い出していると、光忠が『Yes』を置いて、スケッチブックを捲る。
『簡単な返答のプラカードを作ってみたんだ。これならつるさんを待たす時間が減るだろう?』
ナイスアイディアを形にしてみましたと自信満々にスケッチブックを見せる。片方の手が『格好良い!』プラカードを掴んで、ぴょこぴょこと上下に揺れた。
確かに筆談となれば、短い問答であっても時間がかかる。会話はテンポが大事だから、このプラカードを使って手間取る時間を減少させようというのは良い案だ。何より光忠が鶴丸との会話をより気軽に出来るようにと、時間と労力を割いてくれたのがとても嬉しい。
「うーん」
だというのに、鶴丸は首を捻る。胸ポケットのタバコの箱から一本だけを新しく取り出した。
明らかに乗り気でないその態度に、光忠が開きっぱなしのページに急いで書き込む。
『ダメ? よくない?』
しゅんとしながら『格好良くない』プラカードを弄り始める姿は、本人には悪いが可愛く見える。
「ダメと言うか、俺はきみの返答を待つのは別に苦じゃないしなぁ」
その言葉に、光忠が視線を上げた。
「短い簡単な返答でも、文字というのは感情が乗るだろう? きみがにこにこ笑いながら『そうだね』と書くのと、きみが不服そうに『そうだね』と書くのは同じ文字でもきっと違って見えると思うんだ。それがどんな短い言葉でも、俺はきみが表情と文字、両方に感情を乗せている様を見るのが好きだな」
会話のテンポの為にその瞬間を減らしてしまうのは、とても惜しいことに思えた。例え『うん』という短い了承の言葉でも、その瞬間の光忠から生み出されたものがほしい。
「プラカードは便利だが、出来れば文字にしてほしいと言うのは俺の我が儘だ。きみだって、疲れるだろうしな。まぁ、だからたまにはプラカードお休み日というのを作ってもらえると嬉しい」
火をつけないタバコを弄りながら伝える。せっかくの厚意に自分の我が儘で水を差してしまうのは決まりが悪く、視線は俯いてしまう。それでも譲りたくないことだった。
鶴丸の目の端に入っていた光忠の手が、プラカードを掴み直ぐ様鞄へ放り投げていく。雑な入れ方に、怒らせてしまったのではないかと心がひんやりした。光忠が怒ればどうなるのだろう。またあの人形めいた表情に戻ってしまうのだろうか。
恐る恐る視線をあげて見るが、光忠の表情は読めなかった。スケッチブックで顔が隠れていたからだ。
「光忠?」
声をかければ、手のひらがずずいと現れる。ちょっと待ってという意味か。ふぅーと息を吐く音が聞こえたと思えば、ペンを走らせて、鶴丸へと差し出した。
『ぷラかード、もういい』
「へ」
『つかわないdeath』
「きみ、むちゃくちゃ怒ってないか!?」
片方だけの目を吊り上げている光忠の頬はわずかに赤い。そして現れた文字の物騒さが、その頬の赤さと共に光忠の感情を伝えている。おそらく怒りだろう。それはそうだ、せっかく使ってきたものをあっさりいらないと言われれば腹も立つ。だけど、鶴丸はどうしても、その印刷された字で光忠と会話したいとは思えなかった。どうしたものかと頭を悩ます。
「こんにちは」
爽やかな声が鶴丸の後頭部に当たる。上半身を倒して、仰ぎ見れば見慣れた王子が立っていた。黒色の光忠を見た後だからか、髪より薄い水色のサマーセーターを着た友人は一層爽やかに見える。
「やぁ、いちご」
「貴方が誰かと一緒とは珍しいですな」
「光忠だ!」
「ああ、貴方が光忠殿ですか」
光忠はわりと話題人ではあったが、弟しか見えない友人は顔を覚えていなかったようだ。鶴丸の一言に合点が言ったと笑った。
光忠は突然現れた夏の王子に意識が持っていかれ、先程の感情を忘れた風に見える。そのことにほっとする。
「光忠、俺の友人のいちごだ。可愛い名前だろう。可愛いのは名前ばかりだから気を付けろよ」
安堵した鶴丸が笑いながら言えば光忠が慌てて立ち上がり、頭を下げる。距離が近いものだから鶴丸の頭にぶつかり二人でくらくらした。
「ははは! 見た目の美しさに反して中々お茶目な御仁ですな。よろしくお願い申し上げる、光忠殿」
友人が光忠に近づき、王子さまスマイルを浮かべたまま手を差し出す。それを握り返す光忠はその笑顔に見とれているようだった。
美しい男というものは時に一瞬で敵を作るものである。手にしていたタバコに火をつける。友人がまったく仕方がないと言いたげに距離を取った。
「貴方という人は・・・・・・。まぁ、いいでしょう。席をご一緒したいのですが、よろしいですかな?」
「もちろん」
「その割りにはバリケードを張ってらっしゃる」
友人は苦笑いをして鶴丸の斜め前、光忠の向かい側について、スマホを取り出そうとする。鶴丸はお構いなしにタバコの煙を見つめている。
光忠はどう話を始めようかと悩んでいるのかペンを握り、手を彷徨わせていた。鶴丸と友人の雰囲気に戸惑っているようだ。友人と二人の時は大抵こんな感じではあるがそれを知らない光忠には気まずい沈黙に感じるはずだ。友人もそのことに気付いている。
しかし鶴丸から何か発言しなければ、友人も光忠に声をかけにくいだろう。先ほど二人の握手の際、鶴丸が面白くなさそうな態度を見せてしまったばっかりに。
――何がどうと言うわけではなかったんだが。何故あんな態度をとってしまったのか。
あれでは友人が気を使うのも無理はない。普段であれば弟ではない鶴丸の機嫌など歯牙にもかけないくせに、ここぞという時は気は使ってくれるのだ、この優しい友人は。
「お、そうだ。光忠、さっきのプラカード活用してみたらどうだ? いちごに試してみろ」
自分のせいで友人二人に気を使わせるのも嫌だった。燻らせていたタバコを離して、光忠へと声をかける。
「プラカード、ですか?」
会話のきっかけを見逃さずにいてくれた友人が首を傾げて鶴丸を見る。本当に察しがよくて優しい、鶴丸にはもったいない友人だ。
「そう、光忠が作った画期的なものだ。光忠、いちごはなあることに関しては大層話し好きなんだが、中々人に聞いてもらえないんだ。きみのさっきのプラカードを使ってこいつの話を聞いてやってくれないか?」
先程光忠の怒りの原因になったプラカード、それを指差しながら懇願する。こちらも察しのいい友人である光忠がこくこくと頷いた。
光忠が鞄からプラカードを出し始めたところで、友人に話しかける。
「いちご、光忠に弟達の話をしてくれないか」
「お任せください!!」
先程までは正常だった友人がその言葉をきっかけに異常に目を輝かせる。鶴丸はブラコンスイッチを強制的に押した。
友人の弟話は長い。ある程度まではとても楽しいのだが、本当に長すぎて途中から耳を通りすぎてしまう。そのせいで彼が弟達の話を始めるとみんな然り気無くフェードアウトしてしまうのだと友人が嘆いていた。当然のことである。
しかし、これは一種の通過儀礼なのだ、友人と仲良くなるための。それを光忠にも経験してもらおうと考えた。ある意味人身御供ではあるが光忠は聞き上手だし、プラカードがあれば最悪心が置き去りでも相槌は打てるだろう。
光忠のプラカードを活用させることも出来るし、友人に光忠と仲良くしてほしいという意思表示も出来た。二人が話している間、タバコ数本分の退屈さを我慢すれば良いだけの話だ。
自分は友人の話を聞くつもりのない鶴丸は、簡単にそう思っていた。
「と、言うわけできっとまだ見ぬ弟達も愛らしいに決まっております! 家族全員が揃う日の為に邁進していきます!」
――やっと終わった。
空っぽになったタバコの箱をくしゃりとしたところで、ようやく友人の弟話が終わった。
鶴丸の予想より大分長かった。携帯灰皿の中身もぎゅうぎゅうだ。ため息をつく鶴丸の隣で光忠がパチパチと称賛の拍手を贈る。うんざりとしている様子もなく、心なしか涙目のようにも見えた。
光忠は鶴丸の想像以上に聞き上手だった。声が出ないのにも関わらず、プラカードと表情、仕草を使って相手の話を促していく。やはりテンポというのは重要らしい。光忠は人の会話のテンポを把握する天賦の才能があるに違いない。これで声が出れば彼は話術の天才だっただろう。天職は営業マンかホストかはたまた詐欺師か。
そんなことを考えていると、友人が拍手を贈っている光忠の両手をがしりと掴んだ。
「弟の話をこんなにも聞いてくださる方は初めてです!」
友人も光忠の聞き上手さに感動しているようだった。それにしては大分興奮しているようだが。
「この胸の高鳴りはなんでしょう。これはそう、弟達が持久走大会で苦しみながらも諦めず走りきった時の感覚に似ております」
「きみは何を言っている?」
目を輝かせ頬を染めて話す友人にとても嫌な予感がして、口を挟む。咄嗟に二人の手も引き離す程に。しかし友人は気にせず光忠を見つめている。光忠も『うんうん』というプラカードで相槌を打って友人の話を促す。
「光忠、今はその相槌要らないな? それしまいなさい。いちごの話は聞かなくていい」
鶴丸が光忠の耳を塞ごうとするが、友人が喋る方が早かった。
「光忠殿、出会ったその日に、と驚かれるかもしれませんが、私はこの出会いを運命だと、そう感じております。ですから聞いていただきたい」
「おいこらまて俺を通せ。まず俺に説明をしろ」
「私と結婚していただけませんか」
「こらあああ!!」
嫌な予感が的中どころか想像以上で思わず叫んだ。予想外の驚きは好きだが、この件に関しては話が別だ。机を両手で叩きながら腰を上げる鶴丸を他所に光忠がプラカードで相槌を打つ。
『なるほど』
「プラカードやめなさい! っていうか、そんなこと俺が許さん!」
「焼きもちですかな? 心配なさらずとも、貴方のことも好きだと申し上げたでしょうに」
「焼きもちじゃなくて! 男同士! NO! 結婚、NO!」
友人がとんでもない告白、いやプロポーズを投下してから鶴丸は大声を出しっぱなしだ。自分でも珍しいどころの話ではなかったが、全力で阻止をしなければいけない気がした。
「だいたい、弟達は私だけの弟達ですって言ってただろう!? 光忠と結婚してしまえば、光忠にとってもきみの弟達は義弟になるんだぞ、いいのか!?」
「あ、大丈夫です。養子縁組すれば戸籍上は親子になりますからな。弟達と光忠殿はおじ甥の関係になります」
「それガチなやつ!!」
夢見る目をしておきながらいやに冷静なことをいう友人に王子様の幻想が崩れていく。むしろ、死んだように眠る美女に口付けて、訳もわからず目覚めたところをかっさらっていく王子の手腕を思えば童話の王子そのものなのだろうか。
弟以外に発揮しないだろうと思っていた友人の本気に戦慄する。
自分でもよくわからない必死さ。友人が弟と結婚すると言い出したってここまでならない。弟愛も、とうとう一線を越えてしまったかと頭を痛めるだろうが、それでもその愛が本物であれば陰ながら見守ることになるのだ。さっきはああ言ったが、男同士でも近親でも友人が選びとった愛ならば鶴丸が口を挟むことではない。
しかし相手が光忠であると言うなら黙っているわけにはいかない。
――その理由は。
たぶん光忠が口をきけないからから、だと思った。それ以外に理由がない。
「ずぇーったいダメだ! なぁ、光忠! ・・・・・・光忠?」
自分は光忠の代弁者だ。だからこんなに必死になっているにすぎない。たぶん、そうなのだろう。
同意を得るように顔を向ければ、光忠は机に顔を伏せ震えていた。鶴丸の心配気な声に顔をあげて、ようやく震えの原因を知るに至る。光忠は声もなく大爆笑していた。しかし笑い声がない大爆笑など悶え苦しんでいるようにしか見えない。
「だ、大丈夫か?」
『NO』
「だよな! きみ、どうみても笑い死にしかけてるもんな!!」
何が彼の琴線に触れたのかがわからない。友人のプロポーズはツボに入るくらいおかしかっただろうか。確かにおかしいはおかしいのだが。
光忠が立ち上がっている鶴丸を見上げる。荒い呼吸を繰り返しながら頬を染め上目遣いに見てくる姿に、何故かドキッとした。
「破廉恥ですな」
「なななな何がだ!? 人の思考を読むな! だいたいきみがとんでもないことを言うから!」
「何故冗談にそこまでムキになるのかがわかりません」
「じょ、冗談だと?」
「冗談に決まっているでしょう。ねぇ、光忠殿?」
光忠が涙を拭きながらこくこくと頷く。未だ震える手でペンを握った。
『じょーだんに全力でノっていくつるさんすごくおもしろかった。2人ともいいコンビ』
「光忠殿がいたからこその反応ですよ」
『そうなんですか?』
「はい。ああ、敬語はお止め下さい。私のこの口調は癖でして。光忠殿には、普通に接していただいた方が嬉しいです」
『OK!』
二人が顔を見合わせてにこにこしている。その風景はメルヘン世界の王子達の麗しい姿だ。
それにうっとりするよりも鶴丸には気になることがある。
「いちご・・・・・・」
「はい。なんでしょうか」
「本当に冗談か? それにしては熱演だ」
確かに友人は、鶴丸に対してもプロポーズだなんだと冗談を言ってくる。しかし、あそこまで熱っぽくは言ったりしない。先程の言葉は、何か強い意思があればこその感情に見えた。怪しむ鶴丸に友人はにっこりと笑う。
「バリケードのちょっとした仕返しに、と思いまして」
――いちごだけは敵に回さないようにしよう。
友人の笑顔に、そう心に誓った。ぶるりと震える鶴丸に少しだけ笑みを和らげて、光忠を見つめる。
「光忠殿、この人は本当に面倒くさくて、気分屋で、仕方がないところが沢山あって、本当に面倒くさい人ですが」
「二回も面倒くさい言うな」
「良いところもありますので、どうかよろしくお願い申し上げる」
席を立って、その場で頭を下げる友人をぽかんと見つめてしまう。同じ身長だから、中々見ることのできない友人の青い旋毛がとても新鮮に見えた。
光忠も一呼吸後慌てて立ち上がり頭を下げる。鶴丸も倣った方がいいだろうか。自分が驚きで動けないとは思わなかった。
「かまってちゃんですから本当に面倒くさいですが」
「俺、そんなに面倒くさいかなぁ!?」
あまり面倒くさいと言われるとさすがに落ち込む。他人の評価はどうでもいいが、友人からは気になるのだ。友人に対してはかまってちゃんだという自覚があるから尚更。
光忠は友人の言葉に慌てて首をふる。
『逆だよ。つるさんが僕にかまってくれてるんだ。かまってもらえて、僕嬉しいよ』
「み、」
「あー! 光忠殿本当に可愛らしい! 鶴丸殿にはもったいない!! うちの家族に迎え入れたい!」
「やっぱりきみ、本気だろ!」
周りに誰もいないのをいいことに、友人と光忠の出会いの日はとても騒がしかった。いつも心を焼いている鶴丸も珍しく感情が忙しい日となり、夏の暑さが余計に暑くなったのをよく覚えている。
その後更に暑かっただろう夏休みはほとんど覚えていないというのに。