爽やかな光が障子の向こうにはあるのに、障子を通すと何故かどんよりとした空気を際立たせる光へと変わる。まだ、外が雨だったらこの空気も、雨の重さに溶け込めたかもしれないのに。
「不毛だ・・・・・・」
「不毛だよなぁ・・・・・・」
「非生産的だ・・・・・・」
「まったくもって」
「あーたーらーしーい朝が来たーぜつーぼーのあーさーだ」
「おい、現実逃避で一人だけ壊れるのはなしだぞ」
ぐちゃぐちゃの体を並べて二人してため息を吐く。曖昧な記憶とは言っても断片的にどんな風にぐちゃぐちゃになったのかは覚えている。だからこそ二人はこうしてため息を吐いているのだから。
「腰重い、中、気持ち悪い」
「俺は背中が痛い。肩も痛い」
はぁ、と二人でまた幸せを逃がす。自由になった幸せはこんな二人、二度とごめんだと帰ってはこないに違いない。僕が幸せそのものだったらこんな浅はかな二人に降り注いだりはしたくないし。
「・・・・・・いつまでもこうしちゃいられない。取り合えず、身支度を整えようぜ。二人が揃ってからきっかり二十四時間後にはここを出なきゃならん」
「はぁ、そうだね、そうしよう。っ、」
申し訳程度に掛けられていた上掛け布団を肩から羽織り、立ち上がろうとする。そうすると、太ももを伝う感覚。垂れていく早さは粘度を感じさせて、それが僕の中から出てきたものだと瞬時に理解した。
カッと、頬が熱を持つ。
「?どうした」
「い、いや。何でも」
ない。と、言いたいけど、何でもない振りで立ち上がり、歩みを進めたら既に色んなものが散乱している床をこれ以上に汚してしまいそうだった。
固まる僕に彼は、ハッと何かに気づいた雰囲気を発して羽織を身に付けて炊事場へと消える。ガシャガチャン!と音が始まったと思いきや、すぐ焦ったように帰ってきた。手には水を張った木桶と湿らされた手拭い。
「わ、悪い」
「い、いえ。こちらこそすみません」
居たたまれなさから思わず敬語になってしまう。
「後始末、手伝う」
「けけけ結構です!」
その手から半ば奪うように木桶を取った。
「だが俺が、」
「本当に良いから!ちょっと足とか拭くだけで、大丈夫そうなら浴室行くし!それより部屋の片付けして!!」
「は、はいっ!」
気まずさを大声で誤魔化す僕の声に彼がびくっと反応してすぐ身支度と部屋の片付けに取り掛かる。彼の視線が離れた所でサッと太ももを拭く。中腰で待っている間にも結構な量が垂れてきていた。何て言う生々しさ。八つ当たりみたいにちょっと強めの力で拭って、その生々しさが床に落ちそうにないと確認をしてから立ち上がり、建物の奥、厠の隣にある簡易的な浴室へと滑り込んだ。
その直前彼の「こりゃあ・・・・・・生々しいな・・・・・・」と、途方に暮れる声が聞こえた。
全面的に同意するよ。
そんな一悶着を乗り越えて、僕達は身支度を整え、建物の中を来たときと同じ状態へと戻した。そうするとあっという間にここを出る時間となった。
「あー・・・・・・」
「えーっと・・・・・・」
二人の間には何となく気まずい雰囲気と、体を繋げた二人に訪れるのだろう独特な空気が流れている。居心地が悪いのに、このままだと離れがたいような、そんなあべこべな感じだ。
何を言ったものかと思考を巡らせて、僕は二つのことを思い出した。そうそう、別れ際にやろうと思っていたのだ。玄関で向かい合う僕達。僕と同じようにそわそわと落ち着かない彼に僕はバッと両手を翳す。
「むーん、むーん」
「!?な、何事だ!?どうした!?急になんの電波を受信した!?」
「受信じゃなくて送信中」
「電波を!?」
突拍子ない行動に取り乱す彼。この人かなり悪戯特化なんだろうけど、自分が驚くのは慣れてないんだろうなぁっていうのが分かった。
「違うよ、貞ちゃんの気を送ってるのさ」
「貞坊の?」
「貞ちゃんがね、僕を見送ってくれる時にこうやって、僕に自分の気を送ってくれたんだ。それで、貴方にも同じように僕から気を送ってくれって。そうしたら貴方の本丸にも貞ちゃんが来るって言ってたよ」
「ははっ、そうかぁ。それは効き目がありそうだ」
納得した彼は嬉しそうに笑う。空気が明らかに軽くなった。良かったと胸を撫で下ろして、僕は荷物の中から酒瓶を取り出す。
「これは伽羅ちゃんから。僕の好きなお酒」
「君の?何故それを、」
「貴方の本丸の僕、ノイローゼだってことになってるから、元気つけようとしてるんだよ。でも好きなものがわからないから、同じ燭台切光忠である僕が好きなものを贈ったんだと思う。大丈夫、アルコール度はそんなに強くないよ」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「貞坊も、伽羅坊も天使だなって・・・・・・」
「何しみじみ言ってるの。それ、この世の真理だから」
当たり前のことを言うものだから呆れてしまった。貞ちゃんと伽羅ちゃんが天使なのは僕達が生まれる前から決まっていたことだ。何を今さら。
それを態度で示す僕に、君、保護者過激派タイプなんだな。とよくわからない言葉が寄越された。人をスパルタ教育ママみたいに言わないでほしい。
ぼーんと音がなる。古い時計の鐘にも聞こえたが、そんなものはここにはなかったし、建物全体から聞こえたから、恐らく遠征終了の合図なのだろう。すぐにこの小屋を出て自分の時空の扉の元に行かなくてはならない。
僕達は顔を見合わせた。
すぐ、彼が玄関の引き戸をがらりと開けて外へと出る。僕も後へと続いた。
彼は右に立っていて、僕は左側へと帰らなければならない。建物を出てすぐのここが、別れ道のようだ。
「ありがとうな、これ。あの子に渡すよ」
「うん、よろしく伝えて。後、諦めないで、貞ちゃんは必ず来てくれるから。とも」
「ふっ、わかった。それも伝えておく」
片手をあげて彼は歩き出した。玄関から出た時と同じように、やはり僕もそれに倣って、別れの言葉を言わないまま彼とは反対方向に歩き出す。僕の本丸に帰るために。
同類の僕には分かった。今の彼の心境が。僕達は今、本丸に帰るのが怖いのだ。
時空の扉を抜けると僕の本丸へと着く。昨日僕が出ていった時と何も変わらないその場所には、貞ちゃんが立っていた。
「貞ちゃん!」
「みっちゃん!おかえり!そろそろだと思ったぜ!」
「うん、ただいま!」
僕の姿を見つけるなり、そんな風に満面の笑みで迎えてくれた。
交流遠征の感想を聞きたがる貞ちゃんに当たり障りのない言葉を使って感想を作って渡し、共に主の部屋へと向かった。
数分で主の部屋へと着いた。僕が主に報告する間、伽羅ちゃん達にも僕の帰還を知らせるのだと、主と僕の笑顔を背中に受け止め貞ちゃんは廊下を走っていく。
貞ちゃんがいなくなった所で、主に向かって頭を下げた。
「ただいま帰りました」
「うん。おかえりなさい、燭台切。どうだった?」
「主のお陰で、愚痴沢山吐いてきた」
「あはは、それはなによりだ」
本当は、主が嫌悪するようなことをしてきたと言ったら主はどんな顔をするだろう。情欲を悪とする主から貰った体を、欲にまみれさせ、悪に堕とした僕を許してくれるだろうかと、笑う顔を見ながら思う。胃が、ぎゅぅと重く締まる。
「相手の鶴丸は?」
「ちょっと、辛そう、だったかな。僕、余計なこと言ったし」
「燭台切は優しいから、鶴丸の辛さも和らいだろうと私は思うよ」
「そう、かな。今頃、彼も・・・・・・いや、そうだね。別れる時は笑っていたし、そうだといいな」
なんて、口では言うけど、今頃彼も僕と同じ気持ちでいるのは間違いない。主と話していても、こうして逃げ出したくなるのだ、本人を目の前にしたら叫び出しそうで怖い。
「燭台切、昨日結構飲んだでしょう」
「お酒臭いよね、さっき貞ちゃんにもいつもと臭いが違うって言われちゃった」
貞ちゃんは勘が鋭い。酒臭い、じゃなくて「なぁーんか、いつもと臭いが違くねぇ?」と言われたときは心臓が止まりそうになった。
「臭いもだけど、顔とか目、死んでいるよ。どれだけ飲んだの」
「僕の許容量を越えていたのは確かだね」
「まぁ、それくらいストレスがあったってことか。今日は非番だから、ゆっくりおやすみ。みんなには言ってある」
「ありがとう、格好悪くて情けない話しだけど、体が怠くてね。ありがたく休ませてもらうよ」
主の気遣いを受け取る資格はないと分かってる。けれど、体が怠いのはどうしようもなくて、恥を忍んで受け取った。二日酔いのせいもある、だけど倦怠感の最大の理由は彼を、体に受け入れたからだろう。気力でいつも通りに振る舞ってるけど、結構、辛い。
「鶴丸が言ってた通りだねぇ」
「・・・・・・え?」
出てきた名前に固まった。僕のこの体の状態を、鶴さんの言う通りとは、どういう意味だと頭が一瞬真っ白になる。
「きっと、相手の鶴丸に付き合って二日酔いで帰ってくるだろう、って」
「あ、そ、そうなんだ」
「今日の非番をお願いしてきたのも鶴丸だしね。あと、大倶利伽羅と太鼓鐘。後でお礼、言うんだよ」
「うん・・・・・・、そうするよ」
そこで話が終わり、主の部屋を後にする。肩に重いものが乗っている錯覚を覚えながら廊下を歩き始めた。今、あの人と顔を合わせたくない、と思った矢先。
「わっ!!!!おかえり、みつぼ、」
「わぁっー!!!???」
今一番会いたくない人、と心に浮かべた、その鶴さんに背中から声を投げられて廊下に転がった。無様過ぎるのに、それどころじゃない。
「どっどどどうした光坊!?そんなに驚かせてしまったか!?転がるほど!?」
「だ、大丈夫。大丈夫、大丈夫、大丈夫だからっ!何でもない、大丈夫!」
「大丈夫じゃないだろ、明らかに。そら、」
挙動不審この上ない態度で、上半身を起こす僕へ、鶴さんが手を差し伸べる。
「いい、大丈夫」
「何で拒否するんだ」
「僕、弟分失格なんだ。鶴さんに優しくされちゃいけない馬鹿野郎だから」
「帰ってきて早々なぁにを言っとるんだ、君は」
突如意味がわからない理由を並べる弟分だなぁと言いたげに、鶴さんは困惑の声を出して、伸ばしてこない黒い手を迎えにいこうとする。
「馬鹿野郎なんてそんなことあるもんか。例え何があったって君は俺の可愛い弟分だ。どうした、まだ酒が残ってるのか?」
知っている、そんなこと。何があっても可愛い弟分なんてことは。だから僕は、こうやって無様に立ち上がれないでいるんだから。
「光坊、何でさっきから俺を見ない」
「それは・・・・・・」
「何をしているんだ、あんた達は」
鶴さんからの指摘に言い淀む僕にぶっきらぼうを装った優しい声がかけられる。
「伽羅ちゃん、」
「伽羅坊ー、光坊が俺を避ける!」
「いい年して頬を膨らませるな。どうせ、あんたが光忠を困らせたんだろ」
「困らせてないぜ、驚かせすぎただけだ!」
「一緒だろうが。・・・・・・?光忠、どうした、何故いつまでも座り込んでいる」
泣きつく鶴さんの肩を押して、伽羅ちゃんが近づいてくる。首を僅かに傾げることで、毛先に向かって赤く染まっている茶色の髪がぱら、と落ちる。
鶴さんとは違う金の目は見ても大丈夫。視線を髪から移動して、伽羅ちゃんの顔を見た。
「伽羅ちゃん、ごめん。なんか驚いたら、体から力が、」
「立てないのか。・・・・・・国永」
「背中から声をかけただけだぜ!?」
「うん、僕が勝手に驚いただけ。元から体が怠いのも自業自得、だけどこのままここで座りっぱなしも格好悪いからさ、手を貸してくれないかい?」
「えー!?何で伽羅坊には甘えるんだよ、俺は拒否したのに!」
「国永うるさい」
やいのやいの言う抗議を一蹴して伽羅ちゃんは僕の前に膝をつく。差し出してくれたその手を有り難く取ると、鶴さんよりは少ししっかりしていて、僕よりは大分細い肩に手を回された。
「行けるか」
「うん、っと」
細い体になるべく負担をかけないように立ち上がる。本当は、一人で立てる、だけどこうでもしなきゃ鶴さんの顔を見なくてはいけなかった。こんな自分を小賢しいと思う。だけど今は、見られない、どうしても。
「ちぇ。光坊はいつも貞坊と、伽羅坊贔屓だ。俺は寂しい」
背中から冗談半分の寂しそうな声が聞こえる。伽羅ちゃんが隣で、日頃の行いだろうが、と後ろを振り返って答えるのを聞きながら、唇を噛む。
「ごめんね、」
続く二人の応酬にぽとりと落とす。
「ごめんね、鶴さん。ごめんなさい」
「光坊?」
「・・・・・・どうした、光忠」
「僕、本当に弟分失格だから、ごめんなさい」
「お、おいおい、今のは冗談だぞ、光坊。鶴さん全然怒ってないぜ!」
「光忠、あんた、体調悪いだろう。部屋に行くぞ、そしてさっさと寝ろ。ほら、」
リードするように足を進める伽羅ちゃんに従って足を踏み出す。僕と伽羅ちゃん、そしてもう一つの足音がぺたりとついてくる。
「国永、あんたはついてくるな」
「どうして。俺だって、光坊が心配だ」
「気を使うと余計に疲れる」
「君はいいのか、って聞くのは愚問か?わかった、退散しよう」
あっさりと引き下がってくれた。淡白なんじゃない、自分の心配を押し付けて相手を困らせないようにしたんだ。
足音は止まった代わりに背中にぽんと優しい感覚。
「ゆっくり休めよ、光坊。明日はまた、相手してくれな。鶴さんの顔見てさ」
じゃあな、おやすみ。と手が離れ、足音が遠ざかっていた。僕の部屋へとは反対方向に。
鶴さんがいなくなって二人で沈黙の廊下を歩く。後少しで僕の部屋という所で、僕は口を開いた。
「ねぇ伽羅ちゃん、僕を愚か者って言って」
「・・・・・・」
「救えない馬鹿野郎、浅はか、考えなしって言ってくれないか」
「あのな・・・・・・」
僕の部屋の前に着いたと同時に、伽羅ちゃんがため息を吐いた。そのまま部屋に入り、僕を床へと下ろす。襖の前に行き、床の用意を始めるその背中に頼み込んだ。
「こんなこと、伽羅ちゃんにしかお願い出来ないんだ、言ってくれよ」
「自分自身が責めるだけじゃ物足りないからって俺を利用するな」
「じゃあどうすればいいの」
「知らん。向こうの国永に何を言われたか知らないが、こっちに持ち込むな。あんなにわかりやすく拒否されれば、国永だってさすがに傷つく。心にもないことを言えと言われれば、俺も良い気はしない」
打ち返される正論にぐぅの音も出ない。だって、伽羅ちゃん。と、項垂れる頭に、いつもより流暢な言葉が続けられる。ちょっぴり怒っているし、大分心配をしている。
「あんたは、反省をしても後悔はしない。自分が今存在出来るのが様々な選択の上に成り立っていることを知っている。だから、自分も後悔しない選択をする。なのに、苦しむ。それはあんたが、自分以外の気持ちばかりを考えるからだ」
「そんなことないよ」
「ある。何か言いたいことがあるなら言えばいい。言われた方がどう思うかなんて、そこまであんたが考えることじゃない。あんたの口は、相手にとって心地いい言葉や相手を困らせない言葉ばかりを言う為だけのものか?自分に制限をかけるな。いつか身動きがとれなくなるぞ。・・・・・・もう、体があるのに動けないなんて、俺ならごめんだがな」
「伽羅ちゃんって、本当に、優しいよね」
「どこがだ。俺は遠回しに、愚か者だと言ったんだぞ。あんたの望み通り」
「違うよ。他人のことばかりで苦しむなって、言ってくれたんじゃないか」
床を整え、着替えまで出してくれた優しい子が、目線を合わせるように近づいた。
「弱っているのは、本当みたいだからな。俺でも、気を使うことくらいはする」
「他のことは嘘ばかりとでも言いたげだね。僕、伽羅ちゃんに嘘なんてつかないよ」
「知っている。どれだけ隠し事はしてもな」
「・・・・・・」
「さっさと寝ろ」
額で熱を測って、そう言った。
「伽羅ちゃん、」
「今度はなんだ」
出ていこうとする背中に声を掛けた。
「伽羅ちゃんは、さ、輝く月だったり、満開の桜だったり、鮮やかな夕焼けだったり、雪解け後の緑の息吹だったり。そういった綺麗なものを誰と見たい?」
振り返って障子に手をつく姿はとても絵になる。仕草のひとつひとつが洗練されている伽羅ちゃんは、諦めた顔を作るだけでも格好良い。
「・・・・・・どうせ、国永や、貞や、あんたに、月見だ、花見だ、何だかんだと引っ張り出される。俺がどう見たいって思う余地なんかないだろ。ここの連中も祭り好きだし、騒がしく見ることになるんじゃないか」
「あはは、そうだね。たぶん、貞ちゃんや鶴さんもそう言うよ、みんなと見たいってね」
「あんたは違うのか」
「僕もみんなと見るのは楽しくて好きだよ」
その答えに伽羅ちゃんは片眉をぴくりと寄せて見せる。答えが、答えじゃないことに気づいているのだろう。けど、仕方がないやつだ、って態度だけで済ませてくれた。やっぱり今日はすごく甘やかしてくれてる。いや、いつもかもしれない。
「ここまでしてくれて、ありがとう、伽羅ちゃん」
「体調、ましになったら湯を浴びろ。あんた、いつもと違う臭いがする。おやすみ」
そう言い残して、伽羅ちゃんは障子を締め切った。そのまま廊下を静かに去っていく。
伽羅ちゃんの気配が完全に遠ざかった瞬間、着替えもせず、僕は伽羅ちゃんが準備してくれた布団にうつ伏せで倒れ込んだ。顔を、押し付けて、ゔゔゔゔーと獣の様に喉で呻く。
独りになったことで、昨日の彼との情事から、ここに至るまで、その全てが頭の上にのし掛かり、ガンガンと殴ってくる。
まず、罪悪感で泣きそうだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
繰り返す謝罪を吸い込んでくれている布団をバシバシと叩く。恩知らずも良いところ。
伽羅ちゃんの言う通り、僕は彼と一夜を越えたことを後悔しているわけじゃない。酒の勢いが主な理由ではあったけど、それでも本当に後悔する選択なら、僕は絶対選ぶことはなかった。つまり酔った僕は彼と体を繋げることを後悔しないだろうと踏んで彼を受け入れたということになる。そして現に今の僕もそれ自体を後悔しているわけではなかった。
なら好きな人がいるのに、その想い人以外と体を繋げた罪悪感?それも違う。片恋に操立ても何もあったもんじゃない。
だけど僕は独り謝罪を繰り返す。それは何故か。
僕は、鶴さんが気味悪がっていた情欲に、鶴さんを突き落としたのだ。
正確には鶴さんではなく別の本丸の鶴丸国永である彼なわけだけど、僕は彼を、『鶴さん』と呼んだ。鶴さんと同じ顔に唇を寄せて、同じ白い肌に爪を立てた。あの優しい金が男の欲を宿した瞳に変わったのを、その眼で見つめられるのを、歓喜を持って受け入れた。彼を、鶴さんにして。
妄想で汚すのとはまた違う。本人を汚したりもしていない。だけど僕は、間違いなく鶴さんを、鶴さんが厭う物へと突き落としたのだ。
「あー!!!」
どうしようもない衝動から布団へと叫ぶ。布団は全て受け止めてくれる。この包容力と言ったら。布団の付喪神に恋をすればよかった。
随分前のことになるが、別の本丸で、そこの燭台切光忠が横恋慕していた審神者を神隠しした、という事件を聞いたことがある。僕は、恋の苦しみを理解してる。だからその燭台切光忠も苦しかっただろう、と話を聞いて思った。だけど、同時にゾッともした。好きな相手を無理矢理奪う、という思考回路が僕には理解出来なかった。理解したいとも思わなかった。
自分と同種のはずなのに理解が出来ず気味が悪くて、自分と同種の話だから、なんだか自分自身が気味の悪い所に堕ちた気がしてならなかった。
僕が今回したことは、それに似ている。鶴さんが知れば、あの時僕が感じた以上のおぞましさを感じるだろう。だって遠い本丸の話じゃない、いつも隣で素知らぬ顔して笑っている弟分が、自分を気味が悪い所へと突き落としたのだから。
もちろん鶴さんに知られることはないけど、自分の欲の為に鶴さんを堕としたのが、苦しい。
「せめて、鶴さんが別の人と付き合ってたらここまで罪悪感はなかったのに・・・・・・」
恋を、情欲を気味悪がる人でなければ、せめて。
「いいなぁ」
そんなこと言ったら彼に憎まれるだろうか。
彼の想い人は、恋を幸福にしている人だ。例え横恋慕でも、そっちの方がましに思えた。
いや、まし所ではない。そうであれば僕の願いは叶うのだから。
でも彼は今ごろ僕を羨ましがっているかも知れない。お互いないものねだりだ。
「でも、初めてわかってくれた」
この気持ちや、燻る熱を。のたうち回る程の苦しみも。
貞ちゃんも伽羅ちゃんも僕の臭いがいつもと違うと言った。でもその意味はわからないだろう。簡単に清めただけでは消えない、滲み出る情交の色の意味が。この本丸の刀はほとんどがそうだ。一振りだけ、もしかしたらわかるのではないか、という刀もいるけど確かめることは出来ない。情欲を悪とするここで、確実じゃないことを聞く度胸を僕は持っていなかった。
だから僕は優しい家族に囲まれていてもずっと独りだった。孤独という意味じゃないが、他に理解をしてくれる人がいないという意味では間違いなく独りだった。
「・・・・・・独りで耐えるのって、辛かったんだ」
ここまでの罪悪感を今まで持ったことがないっていうのもあるけど、今までずっと独りで気持ちを抑えていた。それが当たり前。誰もわからない感情を持ってしまったのだから、と自分を納得させていた。
だけど彼は、わかると理解してくれた。僕がわかる気持ちを見せてくれた。気持ちを分けあって、分かりあうことを知ってしまった今、独りで耐えるのはとても難しく感じる。
お酒が飲みたい。この気持ちわかる!?って愚痴を言いたい。
その気持ちわかるよって頷きたい。
抱き締め合いたい。
「あああああああ本当僕って、救えない!!!」
布団を通して自分自身に叫ぶ。そしてごろんと仰向けになった。
目を瞑ると数時間前の欲を宿した二つの金がすぐ瞼に甦る。みつただ、と切羽詰まった様に求められる声、迸る熱。
だけどここは、親愛だけの神様達の住居。過ぎ去った一夜など夢幻と変わりない。
「・・・・・・明日は、鶴さんにごめんねって言わなきゃ」
その親愛だけの目を見て。
その日は夜まで自室で過ごして、夜中にこっそり浴場へ行った。すっかり自分の匂いだけになった僕は鶴さんに昨日はごめんね、体調悪くてさ。と次の日に謝って、後はいつも通りに振る舞った。
鶴さんは何も悪くない。理由もなく、可愛がっている弟分に避けられたら伽羅ちゃんの言う通りいくら鶴さんでも傷つく。鶴さんと話す度チクチクと罪悪感が刺さっても僕に選択肢なんてなかった。
そうしていつもと変わらない日常を過ごす。
交流遠征からだいたい一ヶ月経とうという所で出陣は5回。練度が上がりきっているし、数が増えた刀剣全体の練度を底上げするため順番に出陣をしているとなれば納得の回数だ。とはいえ、このもやもや、じくじくとした胸の霞を晴らすには至らない回数。もっと戦場に出たかった。なんなら本丸で鶴さんと顔を合わせずずっと戦場で敵を切り、少しでもスッキリしたいのが本音だったりする。
いや、ちょっと嘘をついた。苦しくても、やはり僕は鶴さんの顔を見たい。ずっと側にいたいと言うのが本当に本当の本音だと付け加えておこう。
本音はそうであるものの、胸がすくことはない。ストレスを吐き出すことも、もちろん想い人を想う気持ちもなくならず、僕は途方に暮れていた。
そんなある日。
ほぼ自主的に行っている畑当番の仕事を終えた僕に、主から部屋へ来るように声がかかった。
「燭台切、ご指名だよ」
部屋を訪れるなり主がクスッと、おかしそうに言う。
「え?」
「また、先方から鶴丸との交流遠征の希望申請が来ている。あれから演練場で会った?」
以前、彼が言っていた通り演練場は広大で、何万もある本丸の一振である彼とあの日以来顔を会わせてはいない。
主の問いかけに、素直にそれを伝えた。
「と言うことは先方の本丸に太鼓鐘が来たという報告か、はたまた燭台切のノイローゼが酷くなっての相談か。・・・・・・それとも、先月愚痴り倒した君の様子が気になったか、だろうかね?」
「どう・・・・・・だろう」
言い淀んだ言葉を、愚痴った己を恥じているのだと勘違いしたらしい主は両眉を下げて、目を細める。
「どうする。行くかい?」
「ええと、」
「行っておいで。君にはガスを抜くところが必要だよ」
主の気遣いが与えられ、また胸に刺さる。小さくて、でも鋭利なものが。もう刺さりすぎて、これ以上独りで耐えることなど出来そうに、ない。
「・・・・・・行っても、いいかい」
「もちろん。なんなら定期的に行えば良い。一ヶ月に一度、とかさ」
「相手の都合もあるし、聞いてみるよ」
「そうしなさい」
「ありがとう、主」
一度あったことは、二度目になると前回以上にあっさり決まるもの。
斯くして僕たちは一ヶ月ぶりにまた会うことになった。
申請に返事をして一週間後、本丸を出る僕を貞ちゃんが見送ってくれた。伽羅ちゃんと鶴さんは別の遠征に出ている。
「とうとう向こうの本丸にも、俺が来たのかな!」
「どうだろうねぇ」
「来てなかったら、俺、そこの本丸に行っこうかなー」
「やめてよ、僕の方こそノイローゼになっちゃう」
本気を覗かせる発言をこっちも本気で止めに入る。可哀想な気持ちはわかるけど、冗談じゃない。貞ちゃんと再び会うために僕たち本当に必死だったのだ。雨に打たれたり、賽子に嘲笑われたり。自分の格好を省みず、毎回ぼろぼろになるまで貞ちゃんを探した。あんなに形振り構わず走り回ることもそうそうない。
屈んで視線を合わせる。絶対駄目と眼で訴える僕を貞ちゃんは大人びた笑顔で肩を叩く。
「じょーだんだって!拗ねるなよ、みっちゃん!」
「本当かなぁ」
「そりゃあ、俺はどのみっちゃんも大好きだから、別のとこのみっちゃんが苦しいのは俺だって辛いけど。俺はもう、あの日俺を見つけてくれた、俺だけのみっちゃんに会っちゃったからなぁ。俺のみっちゃんが悲しむことは出来ないや」
「貞ちゃん・・・・・・」
貞ちゃんは顔を近づけて、その可愛らしい鼻先を僕の鼻先へとすり付けた。
「だから、俺に出来るのは、気を送ることくらい!ほいほいっ、貞ちゃんパワー注入だぜ~」
頬に口づけられて、そのままぎゅっと小さな腕で抱き締められる。本当、もう、この天使は僕を喜ばすことしかしないんだから。
「だけど貞ちゃん。向こうにも貞ちゃん来たって報告かもしれないよ?」
「良いんだよ!どっちにしろ俺がみっちゃん抱き締めたかっただけなんだからさ!」
結婚して!!と、思わず冗談で、結構本気で言いかけて慌てて口を閉じた。貞ちゃんだって他の子同様、そういうのは理解出来ない。こんなに旦那さん力に溢れているのに。こんなこと純粋な親愛でやってのける恐ろしさと言ったらない。
僕はその言葉の代わりに貞ちゃんの頬に口づけた。ここの本丸にいる、ここの燭台切光忠である、僕の貞ちゃん。代わりなんてどこにもいない。
貞ちゃんはくすぐったそうに笑って、体を離した。大きな金色の宝石をきりりとした眉で凛々しく飾り立て、ニッとスマイルを見せる。
「いってらっしゃい、俺の相棒っ」
「いってきます、僕の相棒」
こんなに純粋に唯一だと。あの人にも言えたらどんなに良いだろう。