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 僕がこっそりと主の名前を、恐らく政府に申請している名前であって、本名ではないそれを彼に耳打ちしてから数日後。
 その日出陣から帰ってきた僕は、主から話があると呼び出され、そのままの格好で部屋へと失礼した。強敵はいなかったから服もそこまで汚れておらず、主の前に最低限の清潔さを保って座れることに安堵していた。


「燭台切、お疲れさまでした。疲れている所に悪いね」
 

 顔つき、体つきと同様に男とも女とも取れる声が労りの声をかけてくれる。それが嬉しくて自然と表情を作る力が抜けた。
 

「僕の方こそ戦帰りそのままでごめんね。気を付けたから部屋は汚してないと思うけど」
「私が呼び出したのだから、燭台切が謝ることはないよ。君ってまったく優しいなぁ」

 

 主は、ははと笑う。優しいのは主の方だと僕は思うのだけど、主は僕をよく優しいと評してくれる。僕は主が大好きだ、親愛と敬愛の両方を持っている。だから主が悪としているものを隠しているのは後ろめたくて、優しいと言われると時々居心地が悪くなった。
 目の前で優しいと言われた今もやはり居心地が悪くなって、主の目から隠れたくなる。だから主の優しい、には答えないで、それで?と話を切り出した。

 

「話って何かな?」
「あ、そうそう。燭台切、ご指名だよ」
「え?」
「他本丸刀剣男士の交流遠征。知ってる?」
「しら、ない」

 

 交流遠征とは初めて聞いた。交流自体はお互いの本丸に行ったり、演練場で話したりで、どの本丸でも行われている。しかしそれに遠征がつくとなると聞いたことがなかった。
 

「そのままの意味だね。昔からなんだけど、時々他の本丸と遠征先がだだ被りすることがあるんだ、これだけ本丸があれば当然って話だけれど」
「確かに」
「でね、そこで思い付かれたのが交流遠征。いっそのこと他の本丸の刀剣男士同士が交流することを目的として遠征したらどうかな?ってことになった」
「それの利点は?」
「お互いの進軍状況の把握や敵のより深い情報交換、個体差の認識、後は身内の愚痴吐き、とかね」

 

 身内だからこそ言えないこともあるでしょうと主は苦く笑った。確かに、身内の愚痴を身内に吐くのはなかなか出来ないものだ。仲が良ければ良いだけ、そうだろう。
 小さな不満も吐き出せず、自身の中に溜まっていく。中々戦場に立たせて貰えない練度が上がりきった刀等は特にストレスの捌け口がないからいつか息詰まってしまうかもしれない。
 それを本丸から離れて別の本丸の刀に愚痴を聞いてもらうことで緩和する、中々良い案に思えた。
 成る程、と僕は深く頷いた。頷く僕を見ながら、主は、他に・・・・・・と呟いて、若干嫌そうに顔を歪める。

 

「恋に堕ちた、別々の本丸に存在する刀剣男士の逢瀬の為、とかね」
「え・・・・・・」

 

 苦々しさを隠さず言った主を呆然と見た。その視線に気づいた主が、ハッと気づき慌てて両手を振る。
 

「ご、ごめん!もちろん燭台切やうちの子達がそんなものを持っているはずないって、わかっている!中には、そういうのを目的としている刀達と審神者がいるってことだよ!」
「う、うん」
「まったく、その審神者達も何考えていたんだろう。刀が恋情を抱くなんて異常だよ。崇高な使命を持った刀を間違った方に背中押すなんて、審神者失格だ」
「・・・・・・そう、だね」

 

 そうかな、とは言えず、結局歯切れの悪い同意を返す。こういう風に嘘を吐く度、自分をどうしようもない奴だと思う。主に与えてもらった体に宿した心で主に嘘をつくなんてと罪悪感に苛まれる。
 

「ごめんなさい、燭台切。気分を害した?」
 

 しょぼくれる僕の理由を別だと思い込んだ主が気遣わしげに、僕を覗き込む。本当に、優しい主。
 

「まさか!僕の知らないことがまだ沢山あるんだなぁって考えてただけだよ」
「そうか、それなら良かった・・・・・・。あ、それで、燭台切。最初の交流遠征の話に戻すね」
「うん。ご指名、だったね」
「そうなんだ、私も相手の本丸を知らないのだけれど、先方が何故か君をご指名でね」

 

 主がその本丸の審神者の名前を教えてくれたけど、まったく聞き覚えがない。思わず首を傾げる。
 

「心当たりない?」
「うん・・・・・・」
「相手は、そこの鶴丸国永を行かせるらしいよ。二人での交流遠征を希望している」
「ふぁっ!?」

 

 鶴丸国永、の名前に数日前の記憶が一瞬にして甦る。間違いない、彼だ。燭台切光忠に片恋をしている、彼。僕と話すための時間と場所を手に入れると言っていたが、あれはこのことを言っていたのか!とようやく気がつく。
 変な声を上げた僕に今度は主が首を傾げる番だった。

 

「燭台切?どうした?」
「えっ!う、あっ、あ~!!思い出した、お、思い出したナァー!そうだった、僕約束をしてたんだっター」

 

 我ながら棒読み極まりないと思ったが主は気にせず、約束?と繰り返した。
 

「そうなんだ!この間、そこの本丸の鶴さんに出会ってねちょっと世間話をしたんだ。そしたら、そこの本丸、貞ちゃんがまだ顕現してなくて、僕・・・・・・燭台切光忠がノイローゼ気味らしくって」
「あらら」

 

 貞ちゃんが本当にいないかどうかなんてわからなかった。違ったら、主が確かめたらどうしようと思いつつも口は止まらない。
 

「どうすれば、いいんだろうって。兄貴分として、どうやって僕や伽羅ちゃんを元気付ければいいだろうってちょっと悩んでるみたいだったから、僕で良ければまた話を聞くよって、約束したんだ」
「そういうことか・・・・・・」

 

 主がうんうんと頷くのを見ながら、よくもいけしゃあしゃあと口からでまかせを吐けるものだと自分自身に呆れた。これじゃ本当に詐欺師みたいじゃないか。
 

「それなら、この交流遠征の申請は間違いではないんだね?」
 

 主の問い掛けにこくこくと頷く。
 

「よし、わかった。申請を受けよう。一週間後、行ってもらうことになるが、いいね?」
「は、はい」
「それにしても、相談かぁ。・・・・・・・ふーん」

 

 主が政府から支給されているタブレットを手に取り、操作しながら呟く。早速申請を受理しているようだ。主は指の動きは止めないまま、タブレットを見下ろしていた視線を上げて僕を見据えた。下からの視線なのにやけに威圧感を感じる。
 

「・・・・・・本当に、それだけ?」
「っ!」

 

 心臓が鷲掴みされたように感じて、こめかみに冷や汗がじわりと生まれた。
 

「私は、わかっているんだよ。燭台切」
「あ、主・・・・・・」

 

 やはり主は騙せなかった。それはそうだ、人から作られた僕達が、創造主である人を欺くなんて出来やしない。もしかしたら、主は僕がこの胸に、主の思う悪を秘めていることも知っていたのかもしれない。
 断罪せんとする神様の目に耐えきれず、ごめんなさいと頭を下げようとした。けれどそれよりも先に、主がニコッと、慈悲深い微笑みを乗せる。

 

「燭台切も愚痴が溜まっているんでしょう」
「え?」
「燭台切、いつも優しいから。そりゃあ怒る時もあるけど、私達に言えずに我慢していることが多い。前からストレスが溜まっているんじゃないかって心配、していた」

 

 今度は別の理由から言葉が紡げなくなる。
 

「愚痴、いっぱい聞いてもらっておいで。なんなら酒も持っていきなさい、ね?」
「あ、ありがとうございます、主」

 

 頭を深々と下げて、畳に擦り付けた。大袈裟だねぇと主は笑っている。
 ああ、救えない存在だ、僕は。ありがとうと言う心の内で僕は、ごめんなさい、主と何度も繰り返した。

 

 


 そわそわとしている間に一週間はあっという間に過ぎていった。
 遠征先に出発しようとする僕を、主と貞ちゃんや遠くから伽羅ちゃん、そして鶴さんがたった一日のことにも関わらず、送り出してくれる。

 

「いってらっしゃい、燭台切」
「はい。いってきます、主」
「むーん、むーん」
「ふふっ、どうしたの、貞ちゃん」
「今、みっちゃんの体に俺の気を送ってるんだ。みっちゃんもその鶴さんにあったらこうして俺の気を伝えてくれよ!そしたら、その鶴さんとこの本丸にも俺がくるはずだぜ!」
「さ、貞ちゃん。なんて天使なんだい君は!」
「どこの本丸のみっちゃんでも、悲しませることは本意じゃないからな!って、苦しいぜ、みっちゃん~」

 

 ぎゅむぎゅむと貞ちゃんを抱き締める僕の背中にコツ、と何かが当たる。
 

「ん」
「伽羅ちゃん、どうしたんだい」
「持っていけ」
「これ、僕の好きなお酒・・・・・・」
「あんたにじゃない。相手方の燭台切光忠にだ」
「天使その2!!」
「ぐっ、おいっ」
「あだだ!みっちゃんっ、俺、挟まってる!」
「ははは。伊達組は、相変わらずあったか家族だねぇ」

 

 わいわい賑やかな僕達に主が笑い声を立てる。そんな光景を鶴さんが近くで見ていた。唇を尖らせ、ちょっと面白く無さそうに。僕の交流遠征を知ってから、もっと言えばその相手を知ってからずっとこんな感じだ。
 想い人が楽しくなさそうなのは僕としても嫌だったけど、どう宥めても駄目だったのだ。

 

「鶴さん」
 

 貞ちゃんと伽羅ちゃんを解放して、鶴さんへと近づく。
 

「機嫌を直して、鶴さん」
「気に食わん」
「鶴さん・・・・・・」
「自分の所の弟分くらい自分で慰めてやれないで兄貴分を名乗るなって感じだ」

 

 鶴さんが相手を気にくわない理由はそれだ。一日でも僕が取られるとか、そう言った理由では、一切ない。
 

「鶴さんは、兄貴分としての鶴さんに対して厳しいよ。みんな鶴さんみたいに、愛情特化してるわけじゃないんだから」
「だが、」
「第一、鶴さんは僕がノイローゼになってないから、彼の苦労は分からないでしょ?」
「俺なら、君のノイローゼだって受け止めきるぜ!」

 

 無理だね、と言いたかった。もし僕が鶴さんの恋心からノイローゼになったって、鶴さんには受け止めることなど出来やしない。
 理解出来ないものを受け取ることなんて出来ないんだから。

 答えの代わりに、その額を人差し指と中指の二本でズビシっと指した。
 

「痛ぇっ」
「根拠のない自信に釘を刺しました」
「釘じゃなくて、指!」

 

 酷いと額を擦りながら涙目で見上げてくる人にフッと、微笑みかける。
 

「安心してよ。僕、鶴さんを困らせること、しないから」
「光坊」

 

 そう、何一つ、そんなことしない。鶴さんを困らせることなんて。
 笑う僕に鶴さんは額を擦っていた手を離して、両手を広げた。その意図を瞬時に理解する。

 

「よしこい」
「やだ」
「貞坊や伽羅坊とはするのに、何故俺は拒否する!?差別だぞ!」
「だって、」

 

 鶴さんのことが好きだからとは言えない。
 絶対引き下がらない瞳が寂しそうに僕を見る。ずるい、ずるい、ずるい。酷い。

 

「・・・・・・僕は鶴さんを困らせないのに、鶴さんはいつも僕を困らせる」
「すまん!だが、諦めてくれ!」
「もうとっくに諦めてます。・・・・・・はぁ、はいはい、いってきます鶴さん」
「ああ、気を付けてな、光坊!」

 

 両手を広げて一歩踏み出すと、ぎゅうと抱き締められてそのまま背中をぽんぽんと叩かれる。体はすぐ離れたのに、その感触と貞ちゃんや伽羅ちゃんよりも低い体温はじっとりと僕の中に残った。
 鶴さんはもう何でもないように貞ちゃんと伽羅ちゃんにくっつきその両肩を楽しそうに抱いていた。彼の親愛は当然ながら僕一人に留まらない。そう、親愛さえ。
 僕をこんな気持ちにしておいて、酷い。酷い人。奥歯と頬の内側の肉を噛んだ。だけど一番酷いのは二人のように親愛を素直に受け入れられない自分なんだよなぁと、じゃれる三人を眺めた。

 

 どこか重くなった気分のまま、主と三人に見送られ僕は本丸を後にする。
 時空の扉を出て、少し歩いた所に遠征先である、その建物はあった。二人が滞在する為だけの小さな小屋だ。汚くはないが随分と年季が入っているのは外から軽く見ただけでもわかった。
 恐らく政府所有の建物だから、外敵から侵入されたり盗聴をされることがない仕様にはなっているだろうけど。
 そんなことを考えつつ、玄関に辿り着いた。

 

「お邪魔、しまーす」
 

 入り口の引き戸をがらりと開ける。
 

「わっ!!」
「わぁ!!??」
「はっはっはっ!君、いくらなんでも油断がすぎるぜ。刀剣男士たるもの、いつでもどこでも警戒は怠っちゃあ、いかんぞ!」
「ちょっと、貴方、ねぇ・・・・・・」

 

 引き戸を開けた格好のままため息をついて、がくりと肩を落とす。驚いた、以上に非常に呆れた。
 

「怒ったか?」
「怒ったって言うか、どうして鶴丸国永ってどれもこれも、って呆れてた」
「ははは、どうしようもない刀だよな、鶴丸国永ってやつは!さ、いつまでもそんなとこに立ってないで中に入れよ!」
「どの口が言うのかなぁ!?」

 

 僕が大声を上げても彼は笑うばかりだ。最初、といっても本当は二度目の対面だったあの日、僕は彼に怒りを露にしたせいか、彼に対しての遠慮があんまりない。彼も彼で、本当に怒った僕を見ているからこれが大した怒りでないことがわかっている。
 同類である、と言うことを抜きにしても非常に楽に感じた。
 まったくもう、とぶつぶつ呟いたまま靴を脱ぎ、室内へと上がった。想像よりは広く感じたがやはりこじんまりとしている。二人には十分だから別に構わないが。
 既に居間で寛ぎ始め出している彼の隣に僕も腰を下ろした。

 

「久しぶりだな」
「そうだね」
「上手くいっただろう?」
「交流遠征、知ってたんでしょ」
「そういう話を聞いた気がしたんだ、勘違いかもしれないから確実とは言えなかった」

 

 座ったまま後ろ手を突いて、彼がぐーっと背中を伸ばす。
 

「貴方の所の主にはなんて言ったの」
「ん?特には何も。そういうのがあるなら行きたいって、演練場で友人が出来たから会いたいって言った」
「それだけ?」
「後、行かせてくれたら、少し悪戯を控えるとも言った。そしたら、是非行ってくれってさ」

 

 日頃の行いって大切だよなって笑って言うけど、それはそういう意味ではないと思う。この人かなり悪戯特化な鶴丸国永と見た。
 

「君は?なんて言ったんだ?」
「えっと、先方の本丸には貞ちゃんが顕現してないから、燭台切光忠がノイローゼ気味で、その相談がしたいと言われたって、主には言ったよ」
「・・・・・・君、えすぱーってやつか?」
「えっ、本当に来てないの?」
「来てない。君のところにはいるのか。いいなぁ、貞坊。早く会いたい」

 

 まさか本当に当たっていたとは。主に言ったことが全部嘘にならなくてよかったと思う反面、切実な彼の羨望に外れていればよかったのにとも思った。
 

「もしかして、ノイローゼっていうのも?」
「それは、外れてるな。確かに、かなり寂しそうではあるがノイローゼって程じゃあない」
「そっか、」
「あの子には、支えてくれる相手がいるから」

 

 何でもないように言う言葉なのに、さっき以上の羨望が聞こえる。
 言葉を探す僕の側に彼は手をつき直して、そこを支点に僕へと体を近づけてくる。唇が耳に触れそうな位置で、なぁ、と囁いた。

 

「な、なに。近いよ」
「酒、呑もう」
「こんな時間からぁ!?まだお昼にもなってないじゃないか!」
「固いこと言いっこなしだぜ!時間は二十四時間。明日の朝までしかないんだから、それまでは楽しく過ごそうじゃないか!」
「話するんじゃないの」
「するする!愚痴は酒のツマミさ!」
「えー・・・・・・」
「付き合ってくれよ光坊、鶴さんからのお願いだ!」
「付き合うから、その反則技今後一切禁止ね」

 

 鶴丸国永であることを利用する彼の頬をぐにっと引っ張る。いてて!と大袈裟に声を上げる癖に、もうしませんとは言わない。またやるな、この人は。
 どうも、御しきれない、まぁ、相手は鶴丸国永だから御しきれるとも思ってないが、彼にため息ひとつ。頬を摘まんでいた指を離して、持ってきた荷物を探り、主が持たしてくれたお酒と本丸で作ってきた肴を取り出す。彼も自分の荷物を引き寄せて、同じように酒を取り出した。そして炊事場の方へと歩き、小さなグラスを二つ手にして帰ってきた。

 

「いやー!昼前から、酒か!しかも燭台切光忠と!最高の贅沢だな!」
「自堕落だ・・・・・・」
「たまには自堕落もいいじゃないか!非日常を楽しもうぜ!」

 

 僕の隣にどかりと座り、グラスの一つを渡してくる。良いのかなぁと独り言ち、そのグラスを受け取った。
 

「さぁ、呑みな!そいでお互い溜まってることを吐き出そうぜ!」
 

 受け取ったグラスに彼が楽しげに酒を注いでくる。とぷとぷと言う音は笑い声みたいで、愚痴をツマミに、という割に楽しい席になりそうな予感がする。なんだかんだ、僕も楽しみにしていたのかもしれない。だって、誰かと想い人について語る、なんて初めてだったから。
 なみなみと注いでくれたグラスを慎重に下ろして、今度は僕が彼のグラスに酒を注ぐ。そして言った。

 

「僕の愚痴と肴、もう食べられません。なんて言うの、なしだからね」
 

 もちろん!と彼は一層楽しげに笑った。

 

 


「それでね、鶴さんったら酷いんだよ。冬は一人じゃ寒いって言って布団に潜り込んで来るんだ。足が冷える~暖をくれ~って足を擦り付けて来るの」
「二重の意味で鬼の所業だな!」
「夏は夏で、厠の帰りに部屋を間違えて、帰るのが面倒くさいって入ってきたこともあってさ。暑いって、肌蹴けさせた着流しから見える鎖骨その他諸々が、もう、目の毒っていうか、もはや致死量越えた猛毒で」
「よし!死罪決定!」
「やだ、だめ、殺さないで。あの人悪気ないから」

 

 ふわふわする頭で、目の前の人の膝に触れた。
 

「悪気がないからってなぁ!許されないことだってあるんだぞ!あの子なんてな!『鶴さん、背中流してあげるね』とかなんとか言って、一緒に風呂に入りたがるんだぜ!?」
「わぁ鬼畜!!」
「当然、俺はなんとか視線を逸らしつつ入る、が!どうしたって目に入る時は目に入る、あの白磁の肌が。んでな、白にはまた目立つわけだ、赤がな!恐らく昨晩に付けられただろう情事の跡がな!本人気づいてないから居たたまれないし、何より辛い!」
「気づかぬなら、殺してしまおう、ホトトギス」
「待って、上様!あの子、本当はすごく良い子だから!」

 

 酒を呑み始めて数時間、頭は確実にぼんやりしているのに、口は止まらない。頭を回転させなくても、もはや怨嗟に近い愚痴と言う名の恋情が次から次へと出てくるのだ。
 彼の愚痴を聞く度、彼よりましだなって、思った。だけど同じくらい、僕よりましじゃないか、と思うこともあった。
 数時間、想い人について語り合う僕らは同じくらい日々を謳歌していて、同じくらい毎日憐れだった。
 けれど酔った頭はそんなしんみりしたことも一旦横に置いてくれるから、とても良い。

 

「もうさぁ、いっそ肉欲だけでも、と思ったことも、正直あったよね」
「そうなのか?」
「親愛の情につけこんで、熱だけでも貰えないかなぁとか、そーんなかっこわるぅいことも考えたり、さぁ~」
「考えたけどー?」
「出来なかったぁ!」
「ははは!だろうなあ」
「だって、好きなんだもん」

 

 こーんなに!と想い人と同じ体に抱きついた。その衝撃で、彼の持つグラスから酒が零れたらしくて、あーあと彼が苦笑いよりも愉快そうに笑う。
 

「鶴さん、僕のこと可愛いから、お願い助けてっていったら、もしかしたら。でもさ、」
 

 何度も考えたことがある。親愛につけこんで懇願する僕に、鶴さんは困った様に笑って、頷く。そこまでを何度も考えたことがある。でも、その先はいつも思い描けなかった。思い描きたくなかったと言うべきか。理解し難いと思いながら、優しさだけで僕に触れる鶴さんを。
 

「理解出来ないことを押し付けるのは、かあいそうだよ。優しさにつけこむのは、ひきょうでしょー?そんなことしたらほんとうに、悪だ。あの人を困らせたくないもの」
「この気持ちを悪にはしたくないよな」
「そう!そうなんだ!」

 

 わかるなぁと、彼が酒気を含んだ笑いの息を言葉と逃がす。わかると思った。誰にとっても害にしかならないと、自分の気持ちを辛く秘めていた彼は、この考えを理解してくれると確信していた。
 

「俺は、体だけでもって思ったことはないなぁ」
「へぇー」

 

 抱きついていた体を離し、今度は体を横たえ、胡座を掻いている足に頭を乗っけた。ちょっと眠たくなってきたかもしれない。
 グラスを持っていない白い手が僕の頭を、慣れてなさそうな少しぎこちない手つきで撫でる。

 

「確実に、泣かせてしまう」
「憎しみって愛情より心に刻まれやすいらしいよ?」
「こら、唆そうとするな」
「あいたっ」

 

 鼻にでこぴんを食らってしまった。まったく、折れたらどう責任を取ってくれるのだろう。
 

「憎しみは、傷つけられたから持つものだろ。あの子を傷つけられるもんか、俺が」
「どんな時でも四六時中、貴方のことを考えてもらえるよ?」
「あのなぁ、そんなの全っ然魅力的じゃないぜ?わかってる癖に」
「えへへー」
「えへへー!じゃないだろぉ、まったく。あの子の優しさを守ることが俺の愛情なんだ。あの子の優しさを損なわせるものは、例え俺自身でも殺す」
「あははっ、過激派!」

 

 グラスに残れていた酒を、彼がぐいっと飲み干すのを下から見上げる。勢いついた酒は口の端から一逃れ、彼の顎を伝い、一粒僕の眉間に落ちてきた。なんか、涙みたいだ。
 塩辛いのかどうか気になって体を起こす。不思議そうに僕を見る顔に近づいて、涙に感じた酒で濡れている顎をぺろりと舐める。
 ただの酒の味しかしなかった。
 酒の味に途端に興味を失い、今度は何も動かない頬に手を伸ばし、ぺたぺた触れた。

 

「貴方、僕の好みの顔をしてる・・・・・・」
 

 真剣に呟くと、ようやくそこで表情筋が動いた。
 

「ぶはっ、あっはっはっ!そうかい、そりゃ光栄だ!君の顔も、滅茶苦茶俺のタイプだぜ!」
「声も、すごく心地良い」
「ふふ、君の声も実に魅力的だ!」

 

 彼は楽しそうに笑っている。
 

「好き、」
「っ、」

 

 だけどその顔は瞬時に固まった。
 

「君が好きだ、って言ってみて」
「何を・・・・・・」
「僕の顔を見て。君が好きだって言ってみて」

 

 驚愕に見開かれる目に、そういう顔じゃなくて、となんだか理不尽な感想を抱く。
 

「言えない?じゃあ、いいや。僕が言ってみる」
「待て」

 

 彼が焦った様に両手で僕の口を塞ぐ。音がなくなった部屋に、空のガラスが床に転がった音が響く。
 僕は何をしようとしているのだろう。彼は何を焦っているのだろう。酒に溺れた頭ではよくわからない。

 

「駄目だ、待ちなさい」
 

 もごもご口を動かす僕に、年上の刀は辛抱強く言い聞かせるみたいに話しかける。
 

「わかってるだろ」
 

 首を振る。そんなこと言われたってやっぱりよくわからない。
 

「光坊、鶴さんにはそんなこと言っちゃ駄目だ、そうだろ?」
 

 今後一切禁止と言った反則技を彼は繰り出す。やっぱりまた使った。僕に言うことを聞かせたくて使った反則技。
 僕はよくわからないなりにそんなことを考える。そしてよくわからないけど、この人、馬鹿なんだなぁってことはよくわかった。だって今、その反則技は逆効果だ。
 僕の口を塞ぐ白い手に、自分の手を重ねた。そして指先に少し力を込める。塞ぐ手をひとつ剥がした。

 

「待ってくれ」
 

 そう言うけど、手に力は込められていなかった。だからこんなにも容易く、剥がせる。もうひとつ、塞ぐ手を唇から剥がした。
 僕の言葉を遮るものは何もない。

 

「貴方が、好きだよ」
 

 僕は言う。想い人でない鶴丸国永に。
 

「貴方が好き」
 

 剥がしたまま掴まえていた手を、僕の頬に持ってきてそれに擦り寄る。好き、とまた呟いた。
 白い手、優しい手。僕に慈愛を差し出す手。好きだよ、好きだよ。貴方が好きだよ。そんな気持ちが込み上がってくる。
 頬に触れる指先がぐっと握るように力を宿すが僕の頬がそれを阻む。耐える為に込めた力を逃すしかない指先は、次第にゆるゆると僕の頬を撫で始める。僕が手を離しても、それは続く。

 

「『鶴さん』、」
 

 僕を見る瞳が怯える様に揺らいで、だけど一瞬で静かに凪いだ。
 

「鶴さん、って呼んで良い?それとも、別に呼ばれたい名前がある?」
「いや、それでいい。・・・・・・光忠って、呼んでいいかい」
「いいよ」
「・・・・・・本当は、俺には、許されない呼び方なんだ」
「うん、だから、今は呼んでよ。・・・・・・鶴さん」
「ああ、ありがとう。光忠」

 

 僕の想い人と同じ顔が近づいて、僕の唇を、あの人と同じ唇で塞いでくれた。その瞬間、まるで願いが叶った気がした。

 

 その後のことはあまりよく覚えていない。人の身で初めて感じた、他人の肌の熱さ以外のことは。
 

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