「――つただ、みつただ!」
声がする。愛しい人の声だ。泣いていた顔と声が心に残る。
「光忠、おい!光忠!」
「なかないで、大丈夫、僕はここにいる」
そろりと腕を上げながら、目を開ける。そこにはやはり愛しい人の顔があって、光忠の心はぎゅうと締め付けられる。上げた腕で目元を拭おうとすれば、その手をがしりと捕まれる。強い力だ。
「泣いてない、泣いてはないが・・・・・・はあぁぁぁ、心配した。心底、心配したぞ。ほんっとうに、心配した」
「いた、・・・・・・手ぇ。痛いよ」
ぎりぎりと締め付ける手の強さに顔を歪めれば、すまんすまんと謝られ、力は緩まるが、手が離される気配はない。
「大丈夫か?何があった?二日もの間どこに居た?」
「何が、あった?どういう・・・・・・っ!?」
霞がかった頭が晴れていく感覚。がばりと身を起こす。それまで自分が横たわっていることにも気がつかなかった。
「国永さん!?」
「そう、国永さんだ。君に会うために、はるばる山から出てきた国永さんだぜ」
「あれ!?ここ、何処!?なんかもっとぐにゃってしてて気味悪くなかったっけ!なんかすごいオーラの黒い生き物がそこかしこを縦横無人に闊歩して――」
辺りを見回せば、夜に向かう途中の空が赤と紺を混ぜながら星達を一つずつちりばめている。子供たちすらいない、公園だろうこの場所の周りには、変質者出没注意ののぼりが結界のように囲んでいて、この敷地を隔離していた。ここは光忠の家からそう遠くは離れていない。何故、自分はこんなところに?混乱しながら先程まで自分が身を置いていた状況を舌に乗せていれば、強い力で抱き締められる。
「落ち着け。急かすように聞いて悪かった。君はちょっと混乱しているようだ。話すのはゆっくりでいいから。な?」
「・・・・・・うん」
国永の腕の中は安心する。ほぅと息をつけば知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜けた。
「今日、何曜日?」
「日曜日。金曜から君と連絡がとれていなかった」
「日曜日ぃ!?」
「仕事はたぶん行ったんだと思っていた。家にスーツが脱いであったからな。その記憶はあるか?」
思い返す。ぼんやりとだが、記憶があった。恋人との久しぶりの逢瀬を控えていつもより少々浮かれた自分は、お茶の好きな上司に茶菓子を持っていったのだ。ちょっとした手作りの。それはみんなにも好評で、残業続きで疲れた顔をした親友も顔を綻ばせたくらいだ。
「あるよ。金曜は仕事に行った。残っている仕事死ぬ気で終わらせて家に帰ったんだ。だって、次の日国永さんがくる予定だったから。土曜に出勤したくなくてさ」
「何時くらいに帰った?」
「んー、ちょっと遅かったかな。帰ってから、シャワー浴びて・・・・・・部屋の片づけを少ししようと、いや先に料理の仕込みをしようとしたんだ。そしたら、材料が足りなくて、」
残業続きで、失念していた冷蔵庫の中身に溜め息をついて、光忠のアパートからそう離れていない所にある24時間営業のスーパーへと足を運んだのだ、確か。
「入れ違いになったか」
「入れ違い?」
抱き締められたまま鶴丸の顔を見る。
「君を驚かせたい一心で、最終電車に飛び乗ったのさ。最終電車で恋人に会いに行くってドラマチックだろ」
「国永さんの所、電車通ってないじゃない」
国永が住んでいる山は光忠の住んでいる都会から、遠く離れた田舎にある。電車は通っていないため、長い間バスに揺られなければならない。飛び乗ったのは最終電車ではなく最終バスのはずだ。
「一日一本しかないバスを『最終』バスと言うのは、ちょっとずるい気がしてな。実際その後に乗った電車は最終だったし、許してくれ。あと、ここだけの話し、タクシーも使った」
心底真面目な顔をして懺悔する国永に笑ってしまう。手段など別にどうでもいい。光忠を驚かせたいという気持ちからだとしても、少しでも早く会いに来てくれたのだから嬉しくないはずがない。
「しばらくは、わくわくどきどきしながら部屋で待っていたんだが、一向に帰ってくる気配がない。電話もしても、出ない。というか家に置きっぱなし。こりゃおかしいとさすがに思うわな。君がこの街で行きそうな所なんてわからなかったが、取り合えず外に探しに行った。時々家に戻ったりしてな。後で家に帰ったら驚くぞ、危機迫った俺からの書き置きという名のラブレターの山に。それを読んで一緒に赤に染まろうじゃないか、なぁ?」
「そんなに?」
「生きた心地がしなかった。君がまたふらりと居場所を求めに行ったのかと」
前科があるため何も言えない。しかしその前科があったからこそ、ふらりと訪れた山の中で国永と出会うことが出来たとも言える。国永と不思議な少年との出会いがなければ、光忠は今ここに存在していなかっただろう。
「僕の居場所はもうあるんだ。ここにいるよ。心配かけてごめんね」
国永のうなじに手を滑らせて優しく撫でた。その感触が光忠の胸を、甘く締め付ける。泣いている愛しい人を慰める夢の感触。
「ねぇ、僕。夢遊病なのかな」
「どうしてそう思う」
「この二日間の記憶はないんだ、どうしても思い出せない。でも、夢をね、見ていたよ」
「夢?どんな」
瞳を閉じて、今もその続きを見るように光忠は話し始めた。おぞましい、異形のモノが蔓延る世界に迷い込む夢。訳もわからず、ただ帰りたいと怯える夢。
二人は抱き締め合う体を離して、並んでベンチに腰かける。薄いVネックのセーターだけでは少し寒い。金曜の夜も急いでいるあまり失敗したと体を震わせたのだった。
国永が家から持ち出してきたのだろう、ベンチの背にかけていた光忠のジャケットを羽織らせる。優しくて暖かい。
「国永さんも出てきたんだ」
「俺も出たか、当然いい役割だろ?」
「ううん。国永さん、妖の仲間だから。国永さんの見た姿に化けて、僕を騙す役」
「それ、俺じゃないじゃないか」
がっかりとする国永は本当に残念そうだ。しかし国永でないのは当然だと思う、あの世界に人間である国永がいるはずがない。
「でもね、国永さんだったんだ」
違うと言うには彼は余りにも国永でありすぎた。光忠が国永を間違う訳がない。だからこそ、光忠はあんな条件を飲んだのだ。あんな。
「えっと、それで、その国永さんとね、『仲良く』したんだよ」
「ほぉ、『仲良く』」
「『仲良く』したら帰してくれるって言うんだもん」
「まさに化け物の所業だなぁ」
国永の目の温度が、外の気温に並ぶくらいに下がる。夢の登場人物である国永に怒っているようだ。
「でも、国永さんも辛そうだったよ。たぶん本意じゃなかったんだと思う。国永さん、他に好きな人がいるみたいだったから」
ぎゅうと締め付けられる胸に、無意識のうちに手をやっていた。夢の中の話だと言うのに、思い出すだけでこんなにも胸が苦しい。愛しい人から与えられる、愛も欲もなく義務のように与えられるだけの快楽は光忠の体だけを喜ばせ、心は置き去りにする。それが辛くないはずがない。そのくせ夢の中の国永は、光忠の想い人に嫉妬するようなそぶりを見せ、光忠を混乱させるのだ。光忠を見ていないくせに。
初めて会った時から夢の中の国永は光忠を通して他の誰かを見ていた。ずっと。光忠を抱いている時すら。彼の口から溢れた愛しているという言葉さえも、きっと光忠に対してではない。例え、愛の言葉と共に光忠と名前を呼ばれたって、それは都合のいい自分の耳が拾った音の並びにしか感じられなかった。夢の中の国永が、魂をかけるように愛を叫ぶ相手は、光忠ではないだろうから。
愛していると言われるのは何よりも苦しかった。心のない交わりより、光忠ではない相手に捧げる愛を持ち出す国永は、心が千切れるほどに。嫌だ、やめろ、嘘だと喚かなければ心がおかしくなりそうだった。その愛を受け取ってしまえば、光忠はたぶん言ってしまっただろう。帰さないで、離さないで、他の誰の元にも行かないで、と。既に、光忠ではない誰かがいる場所にすがりついて懇願したに違いない。
「光忠?」
黙りこんだ光忠の手に鶴丸の手が重なる。暖かい手だ。ずっと冷たかった夢の中の手とは違う。
「ごめん、何でもないよ。それでね、それで、」
何故か目の前の国永と夢の中の国永を比べてしまった自分を誤魔化す様に、微笑みを浮かべてゆるりと首を振った。夢は夢。ただの夢。まだ寝ぼけている頭を明瞭にする為にも夢の話を現実の国永へと続けよう。
「国永さん、泣いてた」
そう、国永が泣いていたのだ。笑って、何かに耐えながら泣いていた。
温かい手で光忠の手を包んでいる国永の顔を見る。今の国永は泣いていない。
「俺は、君の夢に出てしまうほど君の前で泣いたことはないんだがなぁ。俺の心配が何処かで君に伝わっていたのかな」
いや、確かに内心泣きそうではあったと言いながら国永は遠い目をする。空がちゃっかり夜の顔をしはじめ、片目の光忠でもまだ見える明るさではあるものの、国永の白い輪郭をぼやかしていく。今まで気づかなかったがそのシルエットはいつもに増して乱れている気がする。きっと必死で探してくれたのだろう。
国永の肩に頭をこつんと寄せる。
「今は泣いてない?」
「君が見つかったからな」
「そう、よかった。夢では益々泣かしてしまったみたいだったから」
夢の中の国永であっても、その涙は光忠によく効くのだ。どうにか泣き止ませたくて、自分を愛していない彼を、慰めた。しかし、何故あの時『泣き虫』という言葉が出たのだろう。国永の涙など一度しか見たことがないのに。胸を締め付けながらも、また泣いて、仕方がない人と、僅かに甘く疼いた気持ちになった自分がとても不思議だ。
光忠の言葉も空しく、その間にも夢の中の国永は益々涙を溢していく。ほとんど機能しない、ふわふわした思考ではたいしたことは言えず、彼の頭をただ撫でることしか出来なかった。
「でも、国永さんの涙、すごく綺麗でさ。こっちは泣き止ませたいのに見とれそうになるんだもん。反則だよね」
耐えるように泣いていた彼が、途中から違う涙を流し始めたのだ。苦しくて悲しいだけじゃない涙。
あれはなんの涙だったのだろう。とても美しい涙だった。それは何よりも切なくさせる涙でもあったが。
美しい涙を流したまま、彼は光忠に言葉をくれた。
「そう、国永さん・・・・・・『彼』、何か言ってた」
暖かな言葉だった。降り注ぐ陽射しのような。
「――あ、」
「どうした、光忠?」
甘い味と塩の味がじんわりと口に広がる。彼の声が同じようにじんわりと頭と心に甦った。
込み上がる感情に胸を詰まらせながら口を開く。
「『生まれてきてくれて、ありがとう』」
その声が紡いだ言葉をそのまま繰り返してみた。声が震えている所まで再現してしまったのは光忠の意志によるものではない。光忠の胸もまた、あの時の彼と同じように震えているのだ。
「え?・・・・・・って、お、おい、どうした?光忠。何処か、何処か痛いのか?」
「わかんなっ、でも、なみだが、」
その言葉を口にした瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。拭っても、拭っても溢れてくる。
何故自分がこんなにも泣いているのか、理由はわからない。何故彼が自分の生を祝福する言葉をかけたのかも。けれどもその言葉が、他の誰でもない『光忠』に与えられた言葉だと言うことだけは、わかった。
昔、居場所がなく、自分の命を喜べなかった光忠の、生を祝福する優しい音。
腹の底がじんわりと暖かい。そこから何かに守られている、そんな気がする。
「光忠、」
『愛してる、光忠』
隣から、腹の奥から光忠の名を呼ぶ声がする。
愛しい、切ない、苦しい。
「ぼくも、あいしてる、」
「、――ああ」
「愛してる」
一つだけ頷いて、それ以上何も言わず優しく肩を抱いてくれる隣の彼を。光忠に祝福を贈ってくれた、そして今も光忠を守ってくれている夢の彼を。
あの時返せなかった言葉を繰り返す。今更、懺悔するように祈るように言ったって、きっと『彼』には届かない。それでも口に出さずにはいられなかった。
「僕も、貴方を、愛してる」