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 入り口の前に立っている。来世の光忠がいる部屋の前だ。なんだかいやに緊張して中に入る事が出来ない。今からしなければならないことを考えればそれも仕方がないことだ。
 鶴丸は懐に入っている小瓶を服の上から触れて自分の状況を思い返した。

 


「感動して泣くかと思ったがな、『泣き虫さんの鶴丸さん』よぉ」
 

 口の中の飴をがりごりと噛み砕く音と共に主が喋り出す。話す言葉とその態度に鶴丸の夢の余韻も一緒に噛み砕かれて、現実へと引き戻される。
 

「そのあだ名で呼ばないでくれ」
「そりゃ、こんなあだ名をつけたお前さんの片翼に言ってやれ」

 

『泣き虫さんの鶴丸さん』
 

 光忠がつけたあだ名の一つだ。一つというのは他にもあだ名があることを示している。代表例としては『悪戯っ子鶴丸さん』『物吉くんのお父さん』『白いお爺ちゃん』『鳥類』等。光忠が鶴丸に説教をするたびに増えていく。ちなみに今回の重傷帰還で説教があった場合のあだ名は『串刺し焼き鳥』あたりだろうなと予想している。
 光忠がつけたあだ名の通り、鶴丸は涙もろい。
 短刀達と人魚姫を読んで泣き、かわいそうな像を読んで泣き、ごんぎつねを読み聞かせている時など途中で読めなくなり、短刀達にあやされたくらいだ。
 そんな涙もろい自分を、年寄りは涙腺が緩くなるらしいと照れ笑いで誤魔化す鶴丸に、光忠はそうじゃないと頭を振った。

 

「鶴丸さんは感情が豊か過ぎて頭の処理が追い付いてないだけ。みんなは貴方があまりに刀だから感情が拙い。表現が下手というけれど、貴方は繊細なんだよ」
 

 と涙を浮かべる鶴丸のうなじを優しく撫でた。優しい思い出だ。
 もっともその後、まあこれとそれとじゃ話は別だけどね!とそのまま首根っこを捕まれて、泣いたって無駄!皆!『泣き虫さんの鶴丸さん』が通るよ!説教部屋使うね!と声を上げる光忠に説教部屋まで引きずられていった思い出も込みだが。

 

「言えるなら言うさ。でも正直、怒る光忠超怖い」
「ほんっと、恋愛がいいことばかりじゃねぇっつー、いい見本だな」

 

 ま、見てる分には楽しいがなと流して、座布団の上で座りなおした。空気が変わったのを感じ鶴丸も居住まいを正す。
 

「で、あの光さんについてのこれからなんだが・・・・・・。燭さんが帰ってくる前に、光さんを現代に帰さなきゃなんねぇ。でなきゃ燭さんが時空の扉に弾かれちまうからな。だから光さんに、さぁ現代に帰ってくださいと言いてぇ所なんだが、」
 

 めんどい問題がある。と言って、主は長い説明を始めた。

 あの部屋の光忠は魂こそ燭台切光忠と同一だが、体は当然ただの人間である。神気もなければ霊力もない普通の人間。その人間が、ある種の神域である本丸に足を踏み入れるとどうなるか。
 主は恐らく自分達と同じような世界には見えていないだろうと推測した。魚の目から見たような世界、あるいは精神がいかれた人間の心情風景のような世界に見えているのではないか、との考えだ。

 

「ごっちゃんに連れて越させたのはごっちゃんが一番神気が弱いからだ。あんまり光さんの精神を刺激したくなかったからな」
 

 神域にいることで通常より神気で覆われている刀剣男士も、人間の目には歪んで見えるのだという。
 

「なら、後藤ではなく人間の君が光忠に会えばいいんじゃないのか」
「お前さんがもし精神がおかしくなりそうな異様な世界に迷い混んだとして、そこに元気ぴんぴんの人が自分に近寄ってきたらどうする?」
「何か驚きをもたらしてくれるんじゃないかとわくわくするな」
「警戒するんだよ、普通はな」

 

 鶴丸の回答を取り上げもしないでそのまま続ける。
 

「可愛いスラちゃんが『ぷるぷる、僕悪いスライムじゃないよぅ』って言ってきたら、そんな警戒しないだろ。だけど、異空間で元気な人間とかそこに居るはずのない知り合いっつーのは大抵敵なんだよ」
 

 現代人はゲームとか漫画で学ぶからな、ファンタジーとやらを。と鶴丸がよくわからない例えを見せる。
 

「ならば何故俺を連れてきたんだ?君の理屈で言えば、俺は彼の精神を刺激してしまう方だと思うんだが」
 

 案の定これだぜ、ともう完全に乾いている胸元に手をやる。あの時の殺気だっている光忠を思い返せば、自分が彼とあったのは間違いだったのではと鶴丸は思う。
 説明モードの主がそこでようやく表情に変化を起こした。わずかながら、笑っているような、意地の悪そうな複雑な顔だ。

 

「そこは、なんつーか、前世の恋人だからさぁ。一人だけ姿がちゃんと見えて、それをきっかけに前世の記憶取り戻すとか、・・・・・・あるだろ、そーゆーの」
「いや、知らん」
「あんだよ。割りと王道のパターンとして。光さんもそうなっかな、そうなったら後々の処理も楽になんなぁと狙ったわけだが、ダメだったようだ」

 

 そこで残念そうなものを見る目で鶴丸に視線をやる。まるで鶴丸の思いが光忠に届かなかったと言わんばかりだ。
 

「まぁ、それは良い。お前さんを呼んだのは他にも理由がある。こうして長々と説明をしている理由だ」
 

 長々としている自覚があったのか。鶴丸が、こうしている間に後藤が光忠を時空の扉の元へと連れていき現代に帰してやれば良いのに。スライムとやらの後ならば人間は、警戒せずに着いていくんだろう。と思っている矢先の言葉だったので一瞬心が読まれたのかと驚いてしまった。
 来世の光忠に会って話をしてみたいが、彼の精神が侵されてしまうと聞いてしまえばそれも諦めるしかない。彼は鶴丸の知ってる光忠ではないが、愛する者の来世の姿だ。同じように慈しみ守りたい存在である。だから一刻も早く帰してやるべきと思う鶴丸に主がひとつ爆弾を落とした。

 

「鶴さん、光さんと契れ」
「ちぎる?」

 

 頭の中の辞書を捲り、契るの意味を、調べる。契るとは、契るとは?この主がただ契約しろと言うはずがない。
 

「肉体的に契って、光さんを加護しろ」
「にくた・・・・・・、んん?」

 

 脳内で頁を捲る手が止まった。悲しいかな、調べなくても意味を理解してしまう。聞き返したのは、聞き間違いかと思ったからだ。
 

「神域に足を踏み入れた人間がそのまま元の世界に帰ると、妙なもんに好かれやすくなんだよ。だから、帰す前にお前さんと光さんが契って、こいつは既に売約済ですって印つけて帰す」
「よし分かった。主は俺を担いでいるんだな。なんだ、いつも驚きを撒き散らす俺への意趣返しか?」
「俺はそんなに暇じゃねぇ」

 

 次から次へ予想外の事ばかり言われて現実逃避に近い言葉を吐いた鶴丸を、主が一呼吸で切り捨てる。予想しうる事ばかりでは心が死んでしまうというのがいつもの鶴丸の主張ではあるが、こうも連続で続くと驚きの飽和状態になってしまう。
 

「俺に、来世の光忠を、抱けと?」
「別に嫌ならいい。お前さんが前世の恋人であったから一番に相談しただけだ。お前さんにとって来世の存在は燭さんと完全に別物だと言うならそれも納得する話しではある」

 

 なら、誰に頼むかなという主の呟きに、ぎくりと体を揺らす。
 

「倶利さんとうぐさんは間違いなく承諾してくれるだろ?へしさんも主命なら聞いてくれそうだ。ああ、やっちゃんもいいかな」
「やる!俺がする!」

 

 挙がられた名前によって、彼等と光忠が契りを交わす妄想が鶴丸の頭に浮かび上がった。それをごまかすように声をあげる。自分が光忠を抱くという声を。もっと言えばしっかり挙手までしている。
 

「なら、これな」
 

 どうせ鶴丸が自ら名乗り出ると予測していた主が、鶴丸の手に小瓶がぽとりと落とす。飴の次は飲み物かと首を傾げた。
 

「それは飲むなよ。そいつは、魔法の薬だからな」
「魔法の、くすり」
「飲んだら眠って、起きたら忘れてるってな。沢山飲めば沢山忘れる、素晴らしい薬だよ。今回の件を問い合わせた時に回答と一緒に政府から送られてきた」

 

 政府はこれで何人の記憶を奪ってきたんだろうなぁと、主が意味深に呟く。含みのあるもの言いに、主は政府があまり好きではないのだろうと感じた。
 

「光さんに会ったらこれを飲ませろ。話が通じるなら話で、通じないなら多少無理矢理でもいい。とにかく眠らせろ」
「事の後でじゃなくて、先に眠らせるのか?」
「でなけりゃ、素面で異形の存在に抱かれる事になるんだ。いくら大の男でも精神崩壊するっつーの。眠ってる間にすませちまえば、起きた時には、ここ一、二日分の記憶がない。くらいで済む」

 

異形の存在。
 

 人間の光忠にとっては例え鶴丸であっても化け物に見えるのだと、言外に主は再度忠告したのだ。
 あの光忠は、鶴丸の光忠ではない。それを忘れるな、と。それはあの光忠の為でもあるし、鶴丸の為でもあるだろう。
 仰々しく頷こうとした鶴丸に、主はこうも続けた。

 

「後、どんなに気分が盛り上がっても絶対痕をつけるな。赤くなる程吸うな、噛むな。どこをとは言わねぇが絶対に切れさせるな。起きた時、自分の体にそんな痕跡あったらそれこそ発狂もんだからな。ちゃんと掻き出して、清めとけ。舐めるのは許す」


「盛り上がれるわけないだろう。何の縛りプレイなんだ、これは」
 

 先ほどまでのやり取りを思い出して深い溜め息をつく。
 後処理やら、傷つけない等。それは当たり前のことだ言われるまでもない。しかし、噛むな吸うなとは。
 鶴丸の光忠相手ならば、その制約は拷問であり、一種の特殊な交わりとして興奮材料にもなるが。相手が来世の光忠となると、その言葉は途端に生々しく鶴丸の耳に聞こえる。失敗するな、だけど確実に中だけ汚せという即物的な強要だ。

 

「いかん、初めての時のみたいに緊張する」
 

 これでは勃つものも勃たない。
 そして、鶴丸にはまだ懸念することがある。

 

「あの子が初めてだったら、軽く折れるな。罪悪感で」
 

 来世の光忠がまだ、無垢である可能性だ。来世の鶴丸とは肉体の関係を結ばない愛を実らせているかもしれない。光忠が鶴丸を抱いてる可能性だってある。それならまだいい。しかし、単にまだ清い関係に過ぎず、今世の鶴丸と光忠が初めて共にしたあの甘酸っぱい夜をこれから過ごすというのであれば、鶴丸が今から行う行為は畜生にも劣るものだ。自分が来世の鶴丸の立場であれば、光忠の初めてを奪ったものなど切り捨て、墓に埋めて、暴いてやる。
 

「あああああすまん、来世の俺、後生だ。二度も光忠の初物を頂いてしまう俺を許してくれ。ああ、二人の初夜で『初めてにしてはすんなり入るな』ってことになりませんように、どうかどうか光忠がいつまでも初でありますように。俺の光忠はすっかり違うけど」
 

 人の恋路を邪魔するものなど馬に蹴られて死んでしまえ、この当て馬野郎!同じ顔の人間が鶴丸を罵倒する姿が浮かぶ。
 

「いつの間にか俺が当て馬になっているんだが。でも馬ってことは俺が蹴る方になってないか、これ」
 

 自分の妄想でに自分で突っ込んでいては世話がない。どうやら鶴丸は自分が思っている以上に混乱しているようだ。なんにせよ、鶴丸の行為によって来世の二人が修羅場にならないことを祈るしかない。はあ、と大きく溜め息を吐いて、鶴丸は涙目の目をこすった。
 やらねばならない。そうしなければ、鶴丸の光忠が帰ってこれないし、来世の光忠もまた帰った先で不幸に見舞われることになるだろう。

 

「えーい、ままよ!」
 

 静かに叫んで部屋に入ると、鶴丸が出たときと変わらない場所に彼は居た。鶴丸を見て一瞬怯んだが、すぐ毅然とにらみ返す光忠を見て、緊張感は何処へやら。鶴丸はなるほどなぁと呟いた。彼は光忠であるが、よくよく見てみれば違和感がある。眼帯が白い物であることや、衣服が見慣れないことだけではなく、彼の纏う気のようなものがやはり人間のそれであるのが理由だろう。
 逆にそれ以外は光忠そのものと言っても過言ではない。右目が隠されている所まで一緒とは。魂が同じと言えどもここまで同じになるものなのだろうか。もっとも鶴丸の光忠は、殺気を放ちながら睨み付けてくることなどないが。

 

「それ以上近寄るな」
 

 鶴丸が足を進めたことで、光忠が警戒を強める。
 

「そう睨まないでくれ、別にとって食ったりしようってわけじゃないさ。君と話がしたいんだ」
「話?わざわざこんな所に連れてきて何を話すって言うんだい。それにその姿・・・・・・わかっているんだ、君が人間ではないってことは」
「確かに俺は人間じゃないが、見た目はもっと男前なんだぜ?君の目に写ってる俺は本来の俺の姿じゃない」

 

 会話が出来たことに一安心しながら、鶴丸は朗らかに話す。見た目はどう見えているかわからないが、少しでも警戒を解いてやりたい。薬を飲ますためでもあるが、怯えているようにも見える光忠は痛々しい。
 

「俺は君を元の世界に帰しに来たんだ」
 

 優しく鶴丸が諭すと、光忠がピクリと反応した。
 

「君は、俺たちの世界に迷い込んでしまったんだ。本来は俺の仲間が通る扉を開けてしまったみたいでな。最初は事情がわからず、こんな奥まで通してしまったが、君をどうこうしようと連れてきたわけではないんだ。その証拠に君は無傷だろう?誰も君に危害を加えない。ここに案内した奴もそうだったはずだ」
「確かに、あの小さいの、むしろ僕のこと心配してる見たいだったけど・・・・・・」

 

 完全に信用しているわけでもないが、実際なんの危害も受けていないことから警戒は少々薄まったようだ。自分がここに来るまでのことを思い返しているのだろう、むやみに怯えるのではなく、頭で考えている所が冷静だなと感じる。主が心配している程、光忠の精神は侵されていないのかもしれない。
 本丸も鶴丸も、彼の目にはそこまで悪いものには写っていないのではと鶴丸はわずかに安堵する。

 

「かえる、」
「ん?」
「本当に帰れる?僕の世界に?」

 

 そうして鶴丸を見る目は、疲れた光忠が、鶴丸に甘やかして欲しがっている時の目によく似ていていた。期待を含んだ目。おそらく彼は鶴丸の言葉を信じたと言うことだろう。
 何だ、案外楽に事が進んだなと思いながら鶴丸はもちろんと光忠に笑いかけた。

 

「ちゃんと帰す。君がいた世界、君の居場所に。浦島太郎ってこともないから安心しろ」
 

 理想の流れをつかんだことで安心したのは鶴丸自身だが、これからしなければならないことを考えると、申し訳なさと緊張で溜め息をつきたくなる。光忠に笑いかける顔にその思いを乗せるようなことはしないが。
 どれ程心の内で溜め息をつこうが、鶴丸がやらねばならない。こればかりは、誰にも任せられない事だ。

 彼が元の世界に戻ったとき妙な輩に狙われないためと主は言ったが、実は鶴丸が彼と契ることを承諾したのはそれだけが理由ではない。
 鶴丸の光忠と同じ姿をした彼を、誰にも抱かせたくなかったからだ。ここまで光忠と同じ姿の彼、彼のしどけない姿を誰にも見せたくない。中を暴かせたくない、その気持ちの方が、むしろ強かった。
 今世の光忠に一番近い存在の鶴丸でさえ、こうして対面していると彼が鶴丸の光忠であるように見えてしまう。彼を、いや、光忠を他の者に委ねるなど、鶴丸には考えられなかった。
 同一視している。彼は鶴丸の光忠ではないと解っているのに。頭での認識と心での認識にズレが生じてしまっているようだ。生まれ変わるということの不思議さを、今更漠然と受け止めた。
 輪廻転生。生まれ変わり。つい数刻前まで自分たちには魂がないと思っていた鶴丸にとって、他人事でしかなかったものだ。だが、鶴丸の目の前に彼が現れた。彼の存在は、鶴丸と光忠の今世の別れを示している。生まれ変わるということは、光忠の魂以外が滅びるということ。それが遅いか早いかわからないが、必ず終わりはやって来るのだ。
 いつか光忠と別れる日が来る、それはそうだ。どんなことにも終わりはくる。明けない夜はない、止まない雨もない、永遠はどこにもない。そんなことは意志を持つようになった時からわかっている。だから鶴丸は光忠と墓に入りたかった。共に土に融けて、二振りで星に融けてしまいたかった。諦めながらも永遠を望む、それほど光忠が好きだった。
 その光忠の終わりを示す存在が目の前の彼。その存在に思うところが一つもないと言えば嘘になる。しかし、彼がいることで光忠の終わりの先に、永遠を夢見ることが出来る。そう考えれば、二振りの終焉を憂う気持ちより、彼に対する感謝の気持ちが強かった。
 薬を飲んで、彼が眠りに落ちる頃彼に言いたい言葉がある。化け物からではなく、彼の魂を愛するものからとして。

 落ち着いてきた光忠と同じく気分が上昇した鶴丸は、んじゃ、腹くくるかとぐっと握りしめていた手のひらを開いて、懐に入れた。
 

「帰れる、あの人の、彼の所に」
 

 その言葉に鶴丸が光忠を見る。彼は安心したように、肩の力を抜き少しだけ笑みを浮かべた。
 

「――」
 

 そのまま唇が誰かの名前を呼んだ。それは音にはならなかったが、見ていた鶴丸にはわかった。その名前が鶴丸という音ではなかったということが。
 光忠が鶴丸を思う時と同じ顔をして違う者の名前を呼ぶ。同じ、魂で。
 鶴丸は目の前が黒く塗りつぶされた気がした。何故、疑わなかったのだろう。来世の光忠の隣に寄り添うのが、来世の鶴丸ではないという可能性を。本当に少しも、微塵も考えなかったのだ。生まれ変わっても鶴丸と光忠は巡り逢うと、自分達にも存在するという魂が惹かれあうと信じ切っていた。

 

なんて愚かしい。
 

 戻りたかったらこれを飲めと懐から出しかけていた薬をそのまま戻した。
 そしてだいぶ雰囲気が柔らかくなった光忠の肩を掴む。少々強い力になってしまったようで光忠の顔が歪むが鶴丸は離さなかった。

 

(わかっている)
 

 こんな気持ち、何の意味もないことを。彼は光忠ではあるけれども、鶴丸の光忠ではない。目の前の光忠にとって鶴丸は前世の恋人だが、本人はそれを知らないし、知ったとしても人間の光忠にとって前世など夢幻と大差ないだろう。つい先程まで、鶴丸にとっての来世が夢見るに値しない遠い話であったように。そして、何より光忠から見える鶴丸の姿は化け物でしかない。
 彼が祈るように鶴丸ではない名前を呼んだとしても、それは何の罪もないことなのだ。

 

(わかっている)
 

 この怒りも悲しみも理不尽なことこの上なく、その原因も自分勝手な、醜悪さから来ていることも。
 鶴丸がしなくてはいけないのは彼を彼の居場所に帰すこと。そのために彼を抱くこと。そして彼の精神を守るためにこの薬を飲まさなければならないということだ。
 だというのに、鶴丸の手は薬ではなく光忠の肩を掴んでいる。

 

(わかっている。ああ、わかっているさ)
 

 それでも鶴丸の手はやはり離れず、渦巻く感情と別に冷静な頭が、開きかける唇に静止を呼び掛けた。しかし鶴丸の中で暴れる感情がその静止を切り捨て、結局唇は言葉を紡ぐこととなる。
 

「ただ帰すのには条件がある」
 

 急に低く唸るような声を出す鶴丸に、目の前の金色が見開かれる。
 

(薬を飲ませろ)
 

 最後まで頭が叫び続ける。主が言っていた、異形の者に抱かれるなど精神を崩壊してしまうと。
 

(彼を壊すな、彼の魂を壊すな)
 

 鶴丸の頭の中で自分の声がする。
 

「その身を捧げろ」
 

 またもや頭からの指令は上手くはいかず、感情の指示するままの言葉が出てくる。
 鶴丸の言葉を聞いて、どういう意味と狼狽える彼に、歪んでいるであろう笑みを浮かべた。意味なんてわかっているだろうと思ったが、きちんと教えてやる。

 

「俺に抱かれれば君を帰してやる、という意味さ」

 

心と頭がバラバラで、もう、何が正しいのかがわからない。

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