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 結局答えが出る筈もなく。
 月曜日、鶴丸は少し早めの出社をした。長船の体調が良くなっていれば、長船も既に来ている筈だ。
 鶴丸が自分の部署に入ると、鶴丸のデスクの隣、既に自分のデスクに着いている長船の姿があった。


「おはよう、もう体調は良いのか」


 後ろから声を掛けると長船は椅子ごと振り返り、そしてその場に立ち上がった。


「おはようございます。金曜日はご迷惑をお掛けしました。お陰さまでよくなりました」


 いつも以上に丁寧に礼をされる。デスクに鞄を起きながら、気にするなと片手を振った。


「もうなんともないなら良かった」
「すみません、実は僕金曜日の記憶がほとんどないんです。駅でなんとなく貴方にあったような気がしたんですけど、夢だった様な気もしてて。子供達から貴方のことを聞かなかったら分からないところでした」


 そして、これ足りるか分からないですけど、と封筒。両手で差し出されるそれの中身が何かなんて受け取らなくても分かる。


「あれが夢じゃないならタクシー、乗りましたよね」
「夢だぜ、そりゃあ」
「じゃあどうやって僕を家まで連れ帰ったんですか?」
「そりゃあ俺のテレポーテーションで、」
「嘘ばっかり言わないでください」


 鶴丸がそ知らぬ顔で椅子に腰かけても封筒が引っ込められることはない。長船の性格から言って迷惑をかけた上にタクシー代も受け取って貰えないとなると落ち込むのは分かっている。責任感の強い奴は他人に頼るのも、自分で後始末出来ないのも苦痛な筈。
 自分の年上の見栄で遠慮するのは却って可哀想だ。


「分かった。なら、これは君との交流費に使うとしよう」


 すごく微妙な顔をされたが文句は言われなかった。受け取られないより戯れ言を聞き流す方がましとでも思ったのだろう。鶴丸は戯れ言のつもりはないが。
 ちらりと壁に掛かっている時計を見た。早く来たお陰で始業時間よりまだ来ておらず、出社している社員もまだ疎らだ。


「長船」
「・・・・・・何ですか」
「君の、待ち合わせのことなんだが」


 封筒を鶴丸に渡し、始業準備をしていた長船が僅かに鶴丸を見る。鶴丸がいつもの様に、肘をデスクに掛け、体ごと長船を見ていることに眉尻を下げる。


「仕事中ですよ」
「まだ始まってない」


 さっき確認したことだ。今日の時間の進みが通常の倍でない限り始業時間はまだ来ていない。


「悪い、君以外の人間から事情を聞いてしまった」
「謝る必要はないですよ。あの子達が話してしまっただけです。それだけ心配をかけた僕が悪いんです」
「君の待ち合わせの相手を探す手伝いをさせてくれないか」


 回りくどい言い方をしても仕方がないので単刀直入に言う。


「なんの為に?」
「俺が腹立つから。俺の可愛い後輩の人生を解放してもらう為に」
「そういうの、余計なお節介って言うんですよ。迷惑とも言います」
「言われると思った」


 長船はそうですよね、さすがにそこまで馬鹿じゃないですよねと笑った。「さすがにそこまで」と言う部分に若干引っかかりを覚えたが余計な事は言わなかった。


「僕の人生を心配してくれてありがとうございます。でも、もういいんです。もう待つの、止めましたから」
「何?」
「あ、そうだ。僕、貴方に他にも渡すものがあったんでした」


 ぽんとわざとらしく手を叩いて鞄を探る。といってもそれは短い間で、すぐに手に紙袋を取り出した。二人のデスクの真ん中の鶴丸側寄りにそれは置かれた。


「手袋、忘れられてましたよ」
「悪い。だがそんなことより長船、さっきの待つのやめたって言うのは、」
「そんなことよりって言ったら駄目ですよ。それ彼女からのプレゼントでしょう」


 長船がくすりと笑って紙袋を指差す。彼女ではなく友人からではあるが確かに自分で買ったものではない。だがそれを誰にも言ったことはないのに、どうして忘れ物のそれを、長船はプレゼントだと見抜いたのだろう。


「貴方はそういう所に無頓着そうだから。指先が冷えても気にしないでしょう。触れられる方が相手の指先の冷たさが気になるものですよ」


 仲が良いんですねと微笑ましそうに言われて、よく分からないがイラッとした。居もしない彼女を褒められたって嬉しくともなんともない。ネタばらしをする気も起きなくて紙袋を中央から自分側へと置き直した。この話題はこれで終わりだ。


「長船、もう待たないってどういうことだ」
「・・・・・・話したらもう仕事始めても良いですか?」
「ああ」
「待つのも待たないのも一緒だからです」
「一緒?」
「先週の金曜日、本当はあの場所に全部捨てるつもりだったんです。最後の最後に思う存分待って、そして約束も何もかも忘れて生きていこうと。・・・・・・でも、出来なかった」


 長船は何故か楽しげに言い放ち、デスクの端を握って両腕を伸ばした。その分椅子と体に距離が出来た所に、上半身を倒した。端から見れば椅子とデスクを使って柔軟している様にも見える。


「僕はこの人生一生分使っても、絶対忘れられない。だから待ちません。もう場所なんて関係ないから。相手が僕を忘れていても、僕は四六時中想い続けて生きてやります。それが、せめてもの仕返し」


 そしてぱっと顔を上げた。その顔はやけに晴れ晴れとしていた。


「という訳で、仕事しましょうか」
「・・・・・・嫌だ」
「鶴丸さん」
「それじゃ駄目だ、長船。それじゃあ、君は」
「鶴丸さん、」


 通る声が名前を呼んだ。いつもは貴方と呼ばれることが殆どで、名前を呼ばれることは余りなかった。珍しいからだろうか、言葉が勝手に途切れたのは。


「長く話しすぎましたね。始業時間、来ましたよ」


 長船はニコッと笑い掛ける。優しげに。今まで鶴丸以外に向けていた笑顔を、鶴丸へと。
 そういえば今日一度も長船に雑に扱われていない。


「今日も一日頑張りましょうね」


 今まで雑に扱われていたのは何か理由があったのだと、その優しさだけの笑みを見て気づいた。そしてその笑顔は彼の中の明確な線引きなのだと。
 同時に、気づくのが少し遅かったとも何故か分かった。

 

 


「長船、この後時間ないか。飲みじゃなくても良い。少しだけ話をしたいんだ」
「すみません鶴丸さん。僕、スマホの調子が悪いので携帯ショップに予約してるんです」

「長船、奢るから昼飯食いに行こう」
「ごめんなさい。今日はお昼に銀行へ行かないといけなくて」

「ここ数日、幾らなんでも露骨に避けすぎだろ。少し話をしたいだけだ。どうしてそんな頑なに、」
「始業直前に給湯室に居座ったら迷惑ですよ。お茶なら僕が持っていきますから」


 月曜から木曜まで、鶴丸が仕事以外の話を仕掛けると、長船は笑顔で躱していく。優しい笑顔の癖に踏み込めないオーラの様なものを放つから、鶴丸もいつも一歩引いてしまう。
 お陰で仕事にも身が入らない。苛立たし気にキーボードの端を人差し指でトントンと叩いて、気づけば時間が過ぎていることもあった。隣の長船は鶴丸の苛立ちの原因に気づいているのに優しい微笑みで「疲れた時やイライラする時は甘いものが良いですよ」とチョコレートを寄越して来るのだ。並みの神経ではない。イライラしている人間がいれば人は少なからずその余波を受ける。
 なのに長船はそんな様子は一切ない。刃物を向けられても今の長船ならこの余裕を崩さないだろう。どんな修羅場を潜り抜けたらその精神力を身に付けられるのか。
 一人だけ余裕の長船にまた苛立ち、退屈を覚える暇もない。これではまるで普通の人間みたいではないか。


「長船、5分で良い。5分俺に時間をくれ」
「すみません、僕今から買い物に行かないといけないんです。売り切れてしまうから早く行かないと、」
「っいい加減にしろ!」


 金曜日の終業時間。さっさと帰ろうとしている長船を呼び止め、時間をくれと言った。すると長船は当然の様に断るからとうとう声を張り上げてしまった。


「少し話があるだけだ!どうして意固地に断り続ける!」
「僕も断り続けて心苦しいです。でも用事があるので・・・・・・」
「見えすいた嘘を・・・!」
「本当ですって、嘘なんてひどいですよ」


 長船は困った顔で笑う。その笑顔をやめろと吐き捨てそうになった。


「・・・・・・でもそうですね。避けている様に見られていたのなら謝ります。不快な思いをさせてしまってすみませんでした」
「そうやって、謝れば俺がそれ以上踏み込まないと思っているんだろう」
「踏み込んでほしくないのは事実ですからね」


 長船はさらりとした笑顔で認めた。あまりのあっさりさに二の句が継げない。


「鶴丸さん、貴方は僕のプライベートに土足で踏み込もうとしています。それを嫌がるのは当たり前じゃないですか?僕は貴方の後輩で面と向かって嫌だ。話をしたくないとは言いづらかった。貴方はそれを察していながらどうして避けるんだと怒っています。どちらが悪いのか、分かりませんか?」


 自身の肩肘を持った長船が分かりませんかと言いながら手で鶴丸を示す。
 展開されるど正論。分かっている言いたい事は。けれど、他にどうすれば良いと言うのだ。


「俺は、君を心配してるんだ。それは悪いことか」
「僕は何も心配されることはしていませんよ」
「いつまでも何かに縛られる生き方を心配してるんだ!自分の人生をそいつの為に浪費する必要なんて・・・・・・!」


 いつの間にか他の社員が遠巻きに見ていた。いつも適当な態度の鶴丸と好青年の長船が口論をしていればそうなる。お互いこの半年対立なんてしたことがないし、お互い以外の相手にも感情を露にしたことなどなかった。
 当たり前だ。どうでもいい相手なら怒りだって沸いてこない。
 今回のことだって長船でなければ興味のない些末事だ。鶴丸の記憶に残らない。
 無言で睨み合う。睨んでいるのは鶴丸だけだが。長船はやはり困ったように笑っているだけだ。つまり、鶴丸の話を聞く気がないと言うこと。


「ど、どうしたんだよ、皆して黙って突っ立って。何?なんかあった?」


 静けさが包む部署に、能天気な声が辺りを見渡す。何時ものように終業時間前からタバコを吸いに行き、今帰ってきたのだろう。鶴丸の同僚が辺りをキョロキョロと見ている。


「って、いたいた。おーい鶴丸~、今日飲みに行くけどお前も来るだろー」


 周りの雰囲気も察せないのか、もしくは原因は鶴丸ではないと思っているのか。同僚は皆の視線の先に鶴丸がいると気づくと親しげに手を上げてそんなことを言った。
 チッと舌を打つ。周りにもはっきり聞こえた筈だ。


「今取り込み中だ。見て分からないのか」
「いや、だって、飲み・・・・・・」
「行くわけないだろう、この状況で」
「そんな~、お前数に入れてるのに、予約どうするんだよ~。お前の手品の盛り上がりほしいよ~」
「知らん。勝手にしろ。どうでもいい」


 早く去れと一瞥する。今どうでもいいことで介入されるのは腹立たしい。
 すると長船が一歩近づき、


「駄目ですよ、他の人に当たらないでください」


 嗜めると宥めるの中間ぐらいの口調。そして同僚相手に微笑み掛ける。


「すみません、この人彼女いるので付き合えないんです」
「えっ、嘘だろ!?俺知らなかったんですけど!でもそれじゃあ仕方ないなぁ。あー・・・・・・、マジか。なら追加メンバーどうするかなぁ、やっとこぎ着けた受付嬢各種だし・・・・・・」
「人数合わせでよければ、僕が行きましょうか?」
「マジで!?」
「・・・・・・長船」


 自分の端整な顔を指差し、数合わせと卑下するその腕を掴む。今までの人生の中で出したことのない低い声が出た。空調が聞いている部屋の温度が下がったのが自分でも分かる。


「どういうつもりだ?」
「鶴丸さんが僕の人生を心配してくれてるので、僕なりに謳歌してるところを分かってもらおうかなーと思いまして」


 冷え冷えとなっているだろう刺す視線にも長船はやはり笑っている


「どういう神経をしてるんだ」
「僕は結構、図太いですよ。貴方が心配する必要なんてないくらい。だから、ね、そんなに怒らないでください」


 鶴丸さん、と強すぎる力で長船の腕を掴んでいた手に、大きな手が触れる。咎める為ではなく、優しく、そっと。鶴丸の心をあやす様に。
 自分の為ではなく、鶴丸の為に怒りを鎮めてほしい。その意図を理解したのに手を離さないわけにはいかない。気づかない振りをしてこのままでいれば長船が本気で困ってしまう。
 それが分かってしまうから、奥歯を噛み締めて手を離した。


「ありがとうございます」
「・・・・・・俺も行く」


 長船ではなく同僚を振り向いて言った。


「えっ、いいよ。お前彼女いるんだろ?それにもう人数集まったから、」
「行く」
「鶴丸さん、会社の先輩同伴の合コンは僕もちょっと恥ずかしいです。保護者同伴みたいで」
「俺は男性陣の演出オプションだ。人数にいれなくて結構」
「って言ってもお前、」
「・・・・・・こうなると聞きませんよ、この人は。先輩、手品師のオプション付きで参加してもいいですか?」
「時間もないし、仕方ねぇなあ!野郎ども、俺に付いてきな!!」

 

 


 

 


「身長高いですよね~バスケとかしてました?」
「バスケは体育の授業の時くらいかな」
「えー、じゃあ他のスポーツは?」
「特には何も。帰宅部だったし。あ、スポーツじゃないけど園芸係とかしてたかな。あとは、料理実習とかも好きだったよ。懐かしなあ。料理するのは今でも好きなんだけどね」
「料理?リアルもこみちじゃないですか~!」


 長船の周りに複数の三人の女性陣が取り囲んでいる。他の二人は三人の男性と会話をしているが、特に盛り上がる様子もなく、楽しげな三人の女性に時おり羨ましそうな視線を投げている。


「失敗したぁ」


 テーブルの端でその様子を観察していると、人数からあぶれトイレに行っていた同僚が鶴丸の隣に座った。


「毎日見ててなんか普通になってたけどあいつくっっそイケメンだったわ。お前みたいな女子が気後れする美人系じゃなくて女子が大好物のイケメン。しかもコミュ力高いし、何だよあそこキャバクラ?無料で女子がちやほやしてくれるキャバクラなの?」
「・・・・・・」
「んでお前はずっと怒ってるし。合コンに仕事の人間の喧嘩持ち込むなよー。あー失敗した、これ長船一人勝ちじゃん」


 鶴丸の肩に腕を回し天井を仰ぎ嘆いている。負け試合だと確信しているらしい。


「なぁー、来たからにはせめて手品しろよー!俺の心を慰めろー!」
「・・・・・・」
「無視かーい!お前何そんなに怒ってんの?お前とは結構長い付き合いだけどお前がそんなんなってんの初めて見たわ。長船、そんなヤバイことしたの?お前に?」
「・・・・・・いや」


 否定の為に首を振った。
 女子に囲まれて楽しげに笑っている長船。まだ最初の一杯しか飲んでないのに酒に弱いのか、少し頬が赤らんでいる。酔いが陽気にさせているのだろう。口調も砕け、随分とリラックスして見える。それとも、プライベートではあれが普通なのかもしれない。
 何にせよ、今の時間を楽しんでいるのはまるっきり嘘ではなさそうだ。
 心の中に誰を秘めていようが、長船はそれなりに楽しい人生を送ることが出来るのかもしれない。
 普通の人間は、叶わない願いや、引きずる思いがあれば今ある環境を不幸だと思いがちだ。だから何かを抱えたまま生きていくのは難しい。
 けれど、信じられないくらい一途で、辛いと言いながらも愛しげに見つめて、相手が忘れても自分は忘れず思い続けるそれがせめてもの仕返しと笑った、その懐の深さと神経の図太さを持つ長船なら。人一人に対する大きな思いを抱えたままでも、幸福だと思える人生を歩むことは出来るのかもしれない。
 ならば鶴丸が心配する必要は本当にないのだ。長船の人生を思いやって怒っても、その人生が幸福なものであれば心配からの怒りは、本当にただの迷惑でしかない。


「なぁ鶴丸、前から俺がネタにしてたやつさぁ」
「手品して、帰る」
「えっ?お、おう?はいはーい!皆ちょっと注目ー!今からこいつが手品しまーす!」


 テーブルの上の紙ナプキンを適当に何枚か手に取った。それを重ねて簡単に折り、筒上にする。それを持ち上げ、穴が貫通していることを皆に見せた。
 全員の視線がその穴の中を通り抜ける。勿論長船の視線も。
 腰を上げて立ち上がる。その筒上の紙ナプキンを持って長船のテーブルに近づき、口をつけただけの長船の二杯目のグラスを手に取った。
 そして左手に筒、右手にグラスを持つ。長船の頭上で。


「これ、零れないってやつ?」
「あるある。テレビでやってるの見たことある~!」
「えーでも紙ナプキンただ折っただけでしょ?むりくない?」
「まーまー。見ててって、こいつの腕なかなかだから」
「えーでもー」
「うーん。僕もちょっと怖いかな」


 女子に賛同する長船が背後に立っている鶴丸を仰ぎ見る。


「鶴丸さん、ちょっと怖いので、せめて肩にしてもらいません?」
「俺を信用してないのか?」
「してますよー、でも髪にはちょっと敏感なんです。あ、カツラじゃないですよ?」


 だからお願いします。上気した頬で情けなく請う。


「・・・・・・」


 無言で頭上から肩へとずらしてやった。


「皆はちょっと離れてた方がいいかも。万が一、綺麗な服や髪が濡れたら大変だから」


 紳士スマイルを浮かべたまま長い腕のバリケードを広げ、長船派周囲にいた女子を離れさせた。そして姿勢を正し、太腿の上に拳を置いた。


「はい、鶴丸さんどうぞ」
「じゃあいくぜ。3、2、1――」


 カウントの終了と共にグラスを傾ける。薄い琥珀色の酒は店内の照明を受けきらきらと光りながらゆっくりと重力に従っていく。筒の丸にみあった細さで落ちていく酒の線は、手元が狂うこともなく紙ナプキンの中を上手く通っていった。
 そしてその先は――。
 当たり前の様に長船の肩を濡らしていった。ただの紙ナプキンを筒上に折っただけのものだ。勿論酒をどこかに飛ばすなんてこと出来る筈もない。予測出来ていた結果だ。


「きゃーっ!濡れてるー!」
「ちょ、すみません!おしぼりください!」


 半信半疑で見ていた周りは、結果を見て納得や幻滅。それよりも先に慌ただしく騒ぎ立てる。
 静かなのは、鶴丸の手品の腕前をよく知っている同僚と、仕掛けた本人である鶴丸と、被害者の長船の三人だ。


「あーあ。やっぱり」
「悪い、失敗した」
「失敗とは違うでしょう」


 長船はこんな時でも笑っている。肩から染み込んで濡れたスーツの腕を掴み上へと引き上げた。抗うことなく長身は立ち上がる。
 急にどうしたんだと戸惑う周囲には目もくれず、静かに驚愕し続ける同僚を見た。


「染みになる前にちょっと水に浸けてくる。俺達のことは気にしないでくれ。場を白けさせた責任を取ってそのまま帰るから」


 そして返事を待たずに長船を連れ立ってその場を立ち去る。


「・・・・・・お前、やっぱりガチで好きじゃん」
 しんと静まり返って背後から、同僚の小さな呟きがはっきりと耳に届く。
 
言われなくても自分で薄々感づいてたわ、ちくしょう。

 そう言い返したいのを堪えて店の外へと出た。

 

 


 忘年会シーズンはどこの飲み屋も人が多い。飲み屋が連なる道もいつもの倍近い人に溢れていた。視線を走らせて、夜の街の花屋の隣。テナントが入っていない地下の店に入る為の階段を降りた。
 まだ深い時間ではないので、泥酔して横になっている酔っぱらいも、熱烈なキスを繰り返しながらお互いの服をまさぐるカップルもいなかった。誰にも邪魔させれることなく一番下まで降りていく。テナント募集の張り紙がしてある、閉ざされた扉の前に長船を立たせた。


「スーツ、染みになる前に水に浸けてくれるんじゃなかったんですか?」
「そいつはもう手遅れだ。クリーニングじゃなきゃ落ちない。代金は出す」


 長船の濡れた腕の横に手を突いた。ここまで大人しく着いてきたのだ、今さら逃げ出しはしないだろうが。


「絶対こういう行動を取ると思った。意外と激情型なんだから」


 街の明かりが届かない所で静かに微笑む。酒が入った眼差しはいつもの強い意志が大分ぼやけているのに、まるでうんと小さい子供の不始末を許してやっている雰囲気を醸し出していた。


「今回はもう仕方ないけど、次はこんな乱暴なことしたら駄目だよ。でないと、いつか貴方が損することになる。人の噂や評価は馬鹿には出来ないから」
「そんなことはどうでもいい。どうせ退屈なだけの人生だ」
「どうしてそんなことを言うの」


 口調が崩れたまま長船は笑顔を消した。鶴丸が怒っても馬鹿な行動に出ても笑っていた男が、鶴丸の興味なさそうな一言に初めて悲しい顔をした。


「あんなにやりたいことが沢山あるって言ってたじゃないか。人に生まれるのが楽しみだって・・・・・・。今世で大切なものも、ようやく持てたんだろう?一緒に人生を楽しめる相手を。なのに、どうしてそんなことを言うんだい」
「君こそ何を言っている。酔っぱらってるのか」


 鶴丸の理解の出来ないことで顔を歪める長船の頬はまだ赤い。思考が乱れているのだろう。こんな時に説得するのはフェアじゃないだろうか。でもこのチャンスを逃したら後がない気がする。


「俺は別に、俺の人生の良し悪しを論じたくて君を連れ出したわけじゃない。俺は君の待ち合わせの相手を探したいんだ。その手がかりになることを君に教えてほしい」
「・・・・・・探して、どうするって言うんだい」
「忘れたことを君に詫びさせる。そして、君の中に残ったそいつへの思いを全部持ち帰ってもらう」
「あっはははは!!!」


 笑い声が階段内に反響する。響いたことを踏まえてもこんな大きな声を立てて笑ってる姿は初めて見た。


「それを貴方が言うのかい!すべて忘れた貴方が!っふ、はははっ!相変わらず人を笑わせるのが上手だなぁ」


 笑いすぎて涙が滲んだ目元を拭ってもまだ笑いは収まらないらしい。腹を片手で抱えている。


「あの日、結局諦められないと打ちひしがれる僕に追い討ちをかけるみたいに現れた。あんな時だけタイミングを外さないんだから。怒りを越えて笑うしかなかったよ。本当に酷い人、自分勝手な人」
「長船、君は何を・・・・・・」
「怒っていいのは僕の方だよ。だって貴方あれだけ僕を薄情だって揶揄ったじゃない。それなのにどういうことかって、もうね、全力で殴ってもいいレベル。そしたら意外と僕もすっきり気持ちを切り替えられるかもしれない。・・・・・・だけどさ、だけど」


 笑いの涙を拭いきった長船は涙に濡れたままの指を鶴丸の頬に伸ばしてくる。頬に輪郭を涙の跡をつける様になぞる指先は、愛しさに溢れていた。鶴丸を見つめる表情と同じように。


「そんなにこの世に楽しいことなんてひとつもないって顔で心底退屈そうに生きていられたら、怒るに怒れないでしょう」


 顎まで滑らせて、両手が鶴丸の頬を包んだ。視線を合わせて言い聞かせる様に。


「だから貴方は僕の為にもこんなことをしている場合じゃありません。退屈な人生の中でやっと手にした大事なものを、ちゃんと大切にして、楽しく生きていかなくちゃ。それにね、沢山愛してもらった。二回目も貴方の時間を貰うなんて贅沢だってちょっと思ってたんだ。だから本当にもう心配しないで」


 ね?としっかりした口調。確信した。長船は酔ってなんかいない。それなのに鶴丸が分からないことを言うのは。


「君は・・・・・・俺に誰を重ねているんだ」


 長船は鶴丸に、誰かを重ねている。誰か?決まっている、長船の約束の相手だ。
 長船が鶴丸にだけ冷たかったのも、鶴丸が長船の事情を知った途端態度を変えたのも。長船が鶴丸の中に約束を忘れた相手を見ていたからだ。面影なんて輪郭のぼやけた幽霊のようなものではなく、約束相手そのものを、鶴丸の中に見ていた。
 いつから。最初からだ。最初に握手を交わした時。いや、長船が鶴丸を一目見た時から。
 その時から既に、長船は鶴丸と人間関係を築いていくつもりはなかったのだ。鶴丸の中の約束の相手しか見えていなかったのだから。
 鶴丸が今まで長船と過ごした時間や交わした会話、彼を思っていた時間とはなんだったのか。長船はそれについて申し訳ないともなんとも思っていない。怒りを通り越して呆れてしまう。


「成程、最初から俺のことなんて見えてなかったんだな」
「最初から貴方のことしか見てませんよ」
「嘘つきめ」


 吐き捨てると長船はくつくつと愉快そうに肩を揺らした。
 これは駄目だ。何を言っても無駄だ。全く違う人間に他の人間を求めるくらいだ、尋常ではない程長船に根付いている。
 長船に忘れさせるのは無理だと悟る。むしろごねればごねるほど、彼の中から消えていくことはないだろう。


「分かった。探そうとするのはもうやめた」


 お手上げだと、両手を軽く上げて見せた。本当?と嬉し気ににっこりと笑われる。うん、腹が立つ。言っても仕方がないので言及はしないが。


「最後に聞くぜ?本当にもういいのか?探さなくて」
「はい」
「相手が忘れてるかどうかなんて関係ないぜ?ふざけるなって殴ればすっきりする」
「良いんです。少し、残念だけど」
「君がそいつを探したいと言うなら俺は絶対にそいつを見つける。それでもか?今会ったら幻滅するような奴になっていてこんなもんかと自然と気持ちも冷めるかもしれないぜ?」
「そうだったらいいんですけど。人の一生なんて平気で2、3回分狂わせる魔性の人だから無理でしょうね。良いんですよ、天国で会った時にでも僕は一途だったでしょうって自慢してやりますから」
「そうかい。そこまで言うならしょうがないな。決着をつけさせるのは諦めよう」


 最後まで気持ちがぶれる素振りもまったくない。一途を通り越して馬鹿なのだろう。もはや憐れで救えない男だ。馬鹿は死んでもなおらないというから、長船は本当に天国でその相手に自分の一途さを主張するかもしれない。そんな主張をしてなんになるんだか。約束なんて忘れた相手だ、はぁ、そうですか。と返される落ちに決まってる。天国でも傷つくつもりなのか、この男は。
 勿論、そんなことさせる気なんてこれっぽっちもない。
 油断している馬鹿な男の胸ぐらを掴んで勢い良く引き付けた。近づいて来る丸く見開いた目から決して視線は逸さずに、


「その代わり、俺がそいつを忘れさせてやるよ」
「っ!?」


 囁いて口付けた。引き寄せた勢いのまま今度は後ろの扉に押し付けた。中に入り込もうと唇を食んで舌を割り込ませようとするが唇は固く結ばれている。暴れるのでもなく冷静に両肩を持たれて力を込めれる剥がしに掛かられた。
 動揺して翻弄されてくれないかと思ったが非常に冷静だ。慣れている、突然の事態にも。
 男の口づけにも。
 力に抗えなくて体を引き離されながら、ちくしょう、やっぱりな。と心の中で呟いた。まぁ、キスの襲撃自体は成功したので良しとしよう。


「っ、何をするんですか!」


 冷静な対処の割りに長船の態度は動揺していた。掴まれた両肩に指が食い込んで痛い。


「意固地にならないでください!たかだか会社の後輩のことですよ!僕が貴方の言うことを聞かないからって意地になってこんなことをして!誰かに見られたらどうするんですか!?やっと大切な人が出来たんでしょう!それを壊すようなことをしないでください!」


 肩を揺さぶりすがるように捲し立てる。その必死な様子に笑いが込み上げてきた。そっちこそたかだか会社の先輩の人生をそんなに必死で心配する必要なんてないのに。
 今までの半年もまるきり無駄ではなかったのかもしれない。少しだけ勇気付けられた。


「長船、明日は暇か?」
「何を言って、」


 揺さぶられながら誘いの言葉を掛けると長船は呆然と言葉を切った。


「ふむ、明日はだめか。なら明後日は?どうだ?」
「話を聞いてください!」


 明後日も駄目らしい。


「なら24日の月曜日だ。10時に駅前の広場で待ってる」


 もう変更はしないと日時と場所を告げる。その心境を悟ったのだろう。長船は両肩を掴んでいた手を離し、俯いたまま強く首を振った。


「・・・・・・行けません。24日は用事があります」
「用事なぁ。今度は誰を待つって言うんだか」


 この期に及んで吐かれた言い訳を鼻で笑ってやった。来たくないならそう言えば良いのに。
 ただ逆を言えば、そう言わないということは来たくない訳ではないということでもある。
 長船は鶴丸を心から拒絶出来ないのだ。長船にとって鶴丸の中に約束の相手がいるから。今はそれで良い。腹立たしいが利用させてもらおう。


「待ってるからな」
「僕は行きませんよ」
「待ってる」
「・・・・・・・」


 肩をポンと叩くと唇を噛んで押し黙った。しばらくここを動きそうにない気配を感じて、扉前に佇む姿に潔く背を向けた。一歩一歩階段を上がる。酔っぱらいの怪しい足取りが見え、飲み屋外の喧騒に頭を出した時ひとつ言い忘れていたことを思い出した。
 振り向き視線を下げる。高低差で長船の顔は唇しか見えなかったが、長船が振り向いた鶴丸に気づき、僅かに顔を上げたのが分かった。


「言い忘れていたが、俺に恋人なんていない。あの手袋は友人から礼にもらった物だ」
「え・・・・・・」
「ちょっと不利な状況なんでな。格好悪いが先にネタばらしさせてもらっとくぜ」


 じゃあな、と見えないのが分かっていて片手を上げて階段を後にした。
 さて、自分で自分を慰める為の言い訳を潰してしまった。これで長船が来なかったら本当に格好悪いままだ。
 けれど来なかった時の言い訳を用意したまま彼を待ちたくなかった。勿論確率を少しでもあげたいというのも本音だ。


「これで来なかったら25日、気まずいな・・・・・・」


 今から弱気になってどうすると我に帰り、気合いをいれるべく両手で頬をぱしん、と叩いた。

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