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 次の火曜日も、その次の水曜日も、その次の木曜日も鶴丸の気分は晴れなかった。何故か元気が出ない。反比例して、隣の長船はどこか浮ついているような雰囲気をしていた。
 二人の間の落差のせいだろうか、いつもみたいに退屈だなんだと嘆きながら長船に絡む元気もない。


「ここ数日退屈だって嘆かないじゃないですか。良いことありました?」
「君にはこの顔が良いこと有ったように見えるのか」


 見かねた長船から話しかけてくる始末だ。誰のせいだという言葉を飲み込んでじとりとした眼差しを投げてやった。


「成程、彼女と喧嘩したんですね?良かったじゃないですか」
「何が良いんだよ」
「人生、谷があるから山がある。人生楽ありゃ苦もあるさ、涙の後には虹が出るとも言いますよね。平坦な道なんてつまらないでしょう。感情も一緒です。落ち込んだり、上がったりし続けたらいつか退屈もなくなりますよ。良い傾向です」


 知った顔でそんなことを言うものだからやけに癪に触る。「そーかい」と不機嫌も隠さず言った。最近、彼への返事のほとんどがこれである。ガキな自覚はある。
 どこが先輩だと自分で突っ込みたくなる鶴丸にも、ここ数日間の長船は何も言わなかった。一週間前なら「子供ですか貴方は」と呆れたため息が溢されただろうに。
 「すみません。明日、お休み頂きます。また月曜日。それまでに彼女さんと仲直りしてくださいね」と残して長船は帰っていった。
 鶴丸は膨れ面で「お疲れさん」と返しただけだった。四日連続、長船を飲みに誘わないのもこの半年で初めてのことだった。今の長船とはいきたくない。酒が入ったら言わなくていいことをいってしまいそうだから。

 


 金曜日隣の空いたデスクを見て、早朝から溜め息が出た。


「今日は、絶対一日が長いな」


 いつも以上に。
 半年前はそれが普通だったのに、今は構う相手がいないだけで時間の長さにどっと疲れてしまう。


「もういいや。今日は誘われてもどこにもいかん。早く帰って寝よう。明日も明後日も早く寝よう。早く退屈な時間を終わらせよう」


 何もしていないのに非常に疲れた心持ちだ。長船がいようがいまいがやることは一緒なのに。


「長船・・・!俺の心のオアシス・・・!」
「お前、ホンっトに長船好きなー」


 通りすがりの同僚が平然と話しかけてくるからすかさず指を突きつけてやった。


「おいこらぁ、君!長船に変な事言っただろう!?」
「い、言ってねえよ?尻に気を付けろって言っただけだぞ!?」
「言ってるじゃないか!」
「冗談じゃん!!」


 こんなやりとりだって、暇つぶしにもなりゃしない。
 やはり今日は早く帰って寝るとしよう。退屈な時間を少しでも消化しなくては。

「のに、何でこんな日に限ってぶつけられるんだよ・・・・・・」


 不満げに呟く。駅の改札を抜けながら。
 会社の駐車場で車をぶつけられてしまった。相手は会社の人間だ。別のフロアの顔を見たことあるくらいの面識のない女性社員。
 顔を青ざめさせた鶴丸より若そうな女性社員が言うには、前方から来た別の車を避けようとして停めてあった鶴丸の車にぶつけてしまったとのことだった。思わずおいおいマジかよ、と肩を落としそうになるのを堪えた。
 相手は自分が全面的に悪いと言っているし、修理代や代車費用もすべて支払うと言っている。何より鶴丸は乗車していなかったため怪我もしていない。警察を呼んだりして多少時間をとられてしまったが、相手を責める程のことでもないだろう。
 しかし、


「よりによって急な雨なんだよなぁ」


 代車は明日持ってきてもらう手筈になっている。今日は会社近くの駅から電車でこの街中心の駅に行き、バスに乗り換えて帰宅をすることにした。飲み屋街からなら自宅は割と近く、よく会社に車を置いてタクシーで帰るのだが、今日は飲み屋街に行くつもりはない。早く帰りたい。
 それでこちらの街中央の駅に着いたまではいいが、外はどしゃ降りだ。天気予報では一日晴れだと言っていたのに。鶴丸と同じく天気予報に騙された多くの人々は自分の鞄を頭上に掲げて駅の中へと駆け込んでいく。
 鶴丸は今からここを出なければならない。と言ってもバス乗り場が集中しているこの駅のバス停には長い屋根が有るからそこまで濡れはしない筈だ。ただ横雨だし途切れてるところもあるからダッシュで走れなければならない。
 冬の雨の濡れるなど、絶対に風邪を引くに決まっている。


「久しぶり過ぎて乗り場を忘れたな、あっち、だったかな」


 黒い毛糸の手袋に包まれた手を無意識に擦っていた。友人から貰った手袋が車に入れっぱなしになっていたのだ。事故車として回収されていった車から取り出し、せっかくだからとつけた。ただ着けてみて、やはり手先の冷たさはあまり変わらないことがはっきりした。勿論だからと言って友人の厚意を無下にするつもりはないけれど
 しばらく、ざぁざぁと音が降っている暗闇を、駅の中から眺めていた。冬の夜は一年の中で一番暗く、雨雲が空を塞いでいるから重さを感じさせる暗さが広がっていた。この駅は隣接のショッピングモールで照らされているからまだ視界は広がっているが、外灯がなければ歩くのも難しい。
 一向に弱まらない雨に、よし。と気合いを入れて一歩踏み出す。革の靴の先が、いくつもの雨粒に打たれ始めた時。
 ぼう、と影が目の端に写った。気がつかなければ鶴丸と入れ違いになっただろう影は、ふらりと駅に踏み入れて、既にびしょ濡れだった駅の床の水の量を増やした。
 全身ずぶ濡れの影は、駅内の光に照らされても影のままだった。ふらりゆらりと一歩ずつ歩く姿に生気を感じれることが出来なかったから、そう見えたのかもしれない。
 濡れた落ちた髪は俯いた顔を隠し、黒く長い影の姿は不気味だ。駅を出入りする人は驚き一瞬立ち止まり、影を不気味そうに一瞥しながら避けていく。
 鶴丸も知らないフリをして他の人間と同じように駅を出ていくべきだ。変なことには巻き込まれたくない。そう思うのに。


「・・・・・・長船?」


 気づいてしまった。顔も見えない影が長船だと。
 名を呼ばれた影は、ゆっくりと鶴丸を見る。鶴丸は気がつけば駆け寄っていた。


「長船、どうしたんだ!?こんなずぶ濡れで!」
「・・・・・、さん、」


 長船は鶴丸の顔を見て何かを言ったが聞き取れない。自分で問い掛けながら理由はどうでも良かった。今はずぶ濡れの長身をどうにかしなければと言うことで一杯だった。


「タオルは?持ってないのか?くそ、俺もハンカチしかない。寒いよな?待ってろ、なんか拭くもの買ってくるからな」


 水を吸いきれなくてなっているコート越しに肩を掴む。毛糸の手袋に雨水が染み込んでいくが構いはしなかった。そのまま温めるように擦る。そんなことはしても意味はないし、それより体を拭くものを与える方が先だと分かっていても。


「っふ、」
「長船?」
「ふふ、っは、ははは」
「ど、どうした?」


 今まで生気なく立ち尽くしていた長船だったが、自身の肩を擦る鶴丸の手袋に包まれた手を見た瞬間、いきなり肩を揺らした。
 状況についていけなくて目を白黒させるしかない。


「こういう時は現れるなんて、・・・・・・ひどい人。自分勝手な人」


 滴る水の合間から詰る言葉が聞こえる。けれどその声色は耳に心地よく、どうしようもないほど柔らかだった。
 横から眺めても雨水を含んでいる黒髪の幕は決して彼の表情を明かしはしない。優しい声で人を詰る長船の顔を。
「長船、大丈夫か?」


 背中に手を添えた。驚かしてしまうかと思いきや、彼は体を強張らせることなく、ゆっくりと鶴丸を見る。
 黒髪の幕の合間から二つの瞳が鶴丸を見て、細められる。


「怒ってないよ」
「え」
「今さら、僕が怒ってるんじゃないかって心配になったんでしょう。大丈夫、怒ってないよ」


 だから安心してね。そう囁いた。


「仕方がないことだもの。言ってもどうしようもないことだもの。ただ、僕は忘れられなかったから、忘れたフリ、しても、上手く忘れられないから、だからどうしようもなく、」


 隠された幕の中からなら安心して言えると言いたげにふんわりと微笑みが乗る。


「辛いだけなんだ」


 言われた鶴丸は固まるしかなかった。長船の言葉に思い当たる節があったからではない。むしろ彼が何を言っているのか、彼の言葉は鶴丸を戸惑わせるばかりだ。
 しかしそれ以上に辛いと言った彼の、まるで愛しいものを見る様な眼差しに固まるしかなかったのだ。
 鶴丸以外には優しい表情が多い彼だが、その比ではない。優しい微笑みさえ向けられたことのない鶴丸でも分かる。彼の目には今、彼の最愛の相手が映っていることを。
 どうして、長船は自分をそんな目で見るのだろう。
 背中に添えていなかった方の手が、鶴丸の意思とは無関係に動く。雨水か、それとも違う何かが伝う頬へと、黒い毛糸の指先は近づいていく。


「っ、」
「っおい!?」


 触れる寸前、長船の体ががくんと大きく崩れた。
 咄嗟に両肩を掴み、倒れそうになっている体を支えた。しかし長船の体は一向に自立しようとしない。体躯の良い体の重みは鶴丸の両腕に掛かってくるばかりだ。


「長船!どうした、おい、長船っ!」


 大きく呼び掛けても返事がない。鶴丸を映していた瞳は濡れた睫毛に閉ざされており、苦し気に寄った眉頭が、滴る前髪の間から見えた。刺す冷たさに全身を打たれた体が、笑いではない震えに支配されている。当たり前だ。こんな風が入り込む入り口と、人間の熱気と湿気が息苦しく漂う駅内の間で冷えきった体が暖まる筈がない。
 更に濡れた衣服は一方的に体温を奪っていくのだから、長船の一挙一動に戸惑っている場合ではなかったのだ。
 己の迂闊さに舌を打つ。力が抜けているせいで一層重くなっている体を、風の入り込む入り口付近から風が当たらない壁側に支えながら歩かせる。
 立つこともままならない長船を、壁を背に腰を下ろさせる。本当はこんな所に座らせたくなんてない。申し訳ない気持ちのまま鶴丸は自らが着ていたコートを脱ぐ。そして寒さに耐えることも難しくなっている長船の背中から羽織らせた。


「すぐ戻る」


 腕を通さないコートを前で合わせてやりながら話しかける。長船は聞こえているのか、いないのか。どちらにせよ返事を待たないまま鶴丸は、長船の側を外れ駅から駆け出した。
 途端に大粒の雨が鶴丸の体に叩きつける。冷たい雨が、刺すように首から背中に入り込み、視界を雨粒が打ち付ける度体温が下がっていく。たった数秒でこれだ。
 長船は一体どれ程の時間雨に打たれていたのだろう。駅の入り口に現れた姿を思い出す。そもそも彼に何があったと言うのか。
 だが今はその理由を考える時ではない。バス乗り場近くのタクシー乗車場へと着いた所で頭を振った。
 客待ちをしているタクシーの窓を叩く。運良く運転手は人柄の良さそうな人間で、ずぶ濡れの客がいきなり窓を叩いてきてもどしゃ降りを理由にして鶴丸に気を使ってみせた。
 運転手に乗車するのは一人ではないと告げ、手伝ってほしいと申し出た。傘を持った運転手と二人して長船の元へと戻り、なんとかタクシーへと乗せた。


「お客さん、どうしますか。近くの病院に行きますか?」


 運転手が、鶴丸と鶴丸の肩にもたれ掛かっている長船を交互に見る。鶴丸も首を傾けて長船の様子を視た。唇の色が悪い。震えているのは寒いからだと思うが、まさか熱が出ているのか。
 体温が下がっているだけだとしても、軽く見ることは出来ない。運転手の言う様に病院へ連れていった方が良いのかもしれない。


「・・・・・・いや、ちょっと待ってもらっていいですか」


 一瞬迷って、運転手の提案を止めた。そして長船に「悪い」と声を掛け、不自由なまま重みを感じる体に手を伸ばす。
 鶴丸のコートの下、長船のコートのポケットに手を入れる。左右両方何もない。
 続いてズボンのポケットを探ると、後ろのポケットに目当ての財布があった。その財布から彼の保険証を取り出した。免許証は持っていない様だ。
 保険証は今の会社で発行されているものだ。ならば住所も今彼が住んでいる所の筈。


「すみません、この住所に行って欲しいんですが」


 口頭で住所を告げる。運転手は分かりました、とすぐに車を発進させた。
 本来ならば病院に連れていくべきなのかもしれない。けれど、この状態の長船を病院の待合室で待たせるのは酷に思える。それよりも、彼が安心出来る場所で早く冷えた体を温めてやりたい。そう強く思った。
 思ったより長い時間を掛けて、タクシーは長船の住む場所へと着いた。そこそこに大きいマンションだった。オートロックじゃないのが救いだ。
 部屋の号室は覚えている。エレベーターで階数を上がり、玄関の前に立つ。意識の薄い人間を支えて辿り着くには中々の道のりだった。それでも酔っぱらった同僚や上司に肩を貸した時の心境とは大きな差があるが。
 既にタクシーの中で財布からカードキーを借り出している。それを手に持ちながら、少しだけ迷った。長船は、きっと自分の家に踏み入れてほしくないだろう。飲みに行くのも頑なに断る鶴丸には。
 それは分かっている。かといって、ここで長船を一人に出来るだろうか。時折、声は漏らしていたが意識がはっきりしている様子は未だない。そんな彼を玄関に詰め込むだけで大丈夫なのか。
 大丈夫じゃない。絶対後悔する。それにそんなことをするくらいなら、ここまで付き添ったりするものか。
 結局鶴丸は、本人の承諾を得ないまま部屋へと上がることを決めた。カードキーを差し込み口に近づける。すると、ガチャと音がした。カードキーはまだ差し込んでいない。
 薄暗いマンションの廊下に縦長の光が差し、ちょうど目の前に立っていた鶴丸の目を眩ます。しかし強い光ではない。暖かな、家庭の明かりだ。


「え?」
「あれ?」


 思わず声に出すと、光の中からも不思議そうな声がした。それは玄関のドアの向こう側。
 鶴丸が開けたのではない、勝手に開いたのだ、内側から。
 声のした方に目線を下げる。すると玄関のドアに手を掛けて、ぽかんと口を開けてこちらを見上げている小さな子供がいた。
 部屋を間違えた。そう思い、顔を上げて部屋の号室を確認する。しかし、そこには長船の保険証に記載されていた号室と同じ数字のプレートが鈍い金色を反射させていた。やはりここは長船の部屋。
 ならば、この子供は誰だ。長船のなんだ。

まさか、息子?

 思い至り、少し警戒している子供を凝視する。さらさらの髪質で丸い頭。大きくてきらきらと光る目の形や色。相違している部分ばかりだが、似ていると言えばどことなく似ている。雰囲気の様なものが。
 独身だと思っていた。実際独身だと言っているのも聞いたことがあるし、恋人もいないとも言っていた気がする。だが、子供がいないとは確かに一言も聞いたことがなかった。
 まさか、待ち合わせとは息子のお迎えのことだったのか。
 言葉を失うとはこの事だ。馬鹿みたいにその子供を見つめてしまう。
 物言わず凝視してくる見知らぬ大人に、警戒を通り越して怯え始めた子供はこちらを刺激しないようにかゆっくりと玄関のドアを閉めようとし始める。
 しかし鶴丸が制止する前に、鶴丸の隣の人物を見て大きく目を見開いた。


「おおおじちゃん!?」


 今度はドアを大きく開きながら、身を乗り出してくる。そのまま長船にしがみつきそうな勢いだったので先に止めた。


「お、おっと?やめときな、君まで濡れちまうぞ。全身ずぶ濡れだからな。大丈夫、怪我を負ってる訳じゃない」
「ほんとう?」
「本当さ。俺は長船の同じ会社で働いてる鶴丸って言うんだ。君は?」
「けんしん。長船謙信」
「謙信、悪いがちょっと手伝ってくれるかい。彼を早く暖めてやりたいんだ」
「うん!」


 謙信が長船の何だとしても今は深く考えている場合ではない。長船を心から心配している謙信は間違いなく鶴丸の協力者、それで十分だ。
 謙信が招き入れてくれた長船の部屋へと入る。


「タオルと彼の着替えを準備してくれないか。後、脱衣所はどこだい」
「こっち!」
「分かった、こっちだな」


 水を吸って重く張り付いた靴は脱ぎにくい。何とか長船の分まで靴を脱がして廊下を歩く。濡れた靴下が廊下にくっきり水の足跡を二人分ずつ作っている。
 脱衣所に着いた。長船に羽織らせていた鶴丸のコートを剥がし、脱衣所内に置いてあった洗濯籠に入れた。その下の衣服は腕を通して着用しているから脱がすのは骨が折れそうだ。


「もってきたぞ!」
「ありがとう。続けざまに悪いが、着替えも手伝ってもらっていいか」
「うん!」


 鶴丸が長船の体を支えている間に、謙信に洋服を脱がしてもらった。上半身が露になったところで大きなバスタオルでくるむ。
 しなやかな筋肉がつく体は冷えているはずなのに、手袋を外した手で触れるとタオル越しにも関わらずとても熱く感じた。熱が出始めている様だ。
 もたもたはしていられないと、体の水分をタオルが吸いきった所で、謙信が持ってきてくれたパジャマへと着替えさせる。
 抱える鶴丸が濡れたままだと着替えさせた意味がない為、謙信が出してくれた長船の服を借りて着用した。ただ、そのままだと手足の裾の長さ有り余ってしまうのできちんと捲って。
 謙信の案内で、寝室へと向かう。そこでようやく彼を横にさせることが出来た。
 体をくるむ形で毛布を掛ける。さらに掛け布団をかけてやる。明るく落ち着いた場所で改めて長船の顔を見る。少し呼吸が早く浅い。やはり熱が上がってきている。


「おみずとぬらしたはんかちもってきたぞ!」
「ありがとう」
「鶴丸さんもどうぞ!おみずでいい?」
「勿論。ありがたくいただくな」


 乾かしてやれなかった髪が気になり、額に張り付いていた前髪を左右に払っていた所でお盆を持った謙信が寝室にやってきた。ストローまで持ってきてるなんて気が利く。


「おおおじちゃん、おみずもってきたぞ。のめる?のまなきゃだめだぞ」


 謙信が甲斐甲斐しく飲ませようとする。長船はやはり苦しそうに早い呼吸を繰り返すだけだったが、謙信がストローを長船の口許にくっ付け「おおおじちゃん」と何度か呼ぶと、初めて反応らしきくぐもった呻きを出した。


「・・・ぅ、」
「おおおじちゃん!だいじょうぶ!?おみずのめる?」
「かげ、みつ?」
「え?」
「だいじょ、ぶ・・・・・・。このくらいの傷、手入れ部屋いけば、すぐ治るから・・・・・、おじい、ちゃんは大丈夫、だよ。ながみつ達と一緒に、良い子で待ってて」


 そしてまた、小さな呻き。困惑している幼い子供と顔を見合わせた。


「おおおじちゃん、へんなこといってる」
「熱が上がってきて意識が朦朧としてるのかもな。水は飲むだろうからストロー、口の中にいれてやりな」
「うん・・・・・・」


 口にストローを含ませると、コップの水はあっという間に空になった。二杯分飲み終えた長船を見て、やはり病院に連れていかなければいけないなと考えた。ただ、ようやく暖かい所に連れてこれたのだから、冷たい雨が降る外にはまだ出したくない。しばらく様子を見ることにした。


「謙信、色々とありがとうな。君がいてくれて本当に助かった。俺一人だったら手間取って、まだ彼に寒い思いをさせていたかもしれない」


 長船のベッドの側に腰を下ろしたまま、台所から戻ってきた謙信に話しかけた。


「これくらいどうってことないぞ!ぼく、たくさんおてつだいできる!」


 胸を小さな手でトンと叩く。しかしすぐ何かに気づいた顔をして、鶴丸の側へとちょこんと座った。


「鶴丸さん、おおおじちゃんをつれてきてくれてありがとうございました」


 ぺこりと丸い頭がフローリングに敷いてあるカーペットに落ちる。
 気は利くし、礼儀正しい。謙信自体の性質と育て方が良いからだ。


「あのまま放っておけなかっただけさ。ご丁寧にありがとう。ところで謙信、彼のことを『おおおじちゃん』と呼んでるよな?君たち二人は親子じゃないのか?一緒に住んでるんだろう?」


 上がった頭はふるふると振られる。それによってキューティクルたっぷりの髪があまりにもさらさら揺れるので、頭を撫でたら気持ち良さそうだという感想を持った。


「ぼくのおうちはこのひとつしたのかいにあるぞ!あとね、おおおじちゃんはぼくのおとうさんの、おとうさん」
「はっ!?」
「のきょうだいのこども。ぼくのおとうさんたちといとこだっていってた」
「だ、だよな?一瞬驚いたぜ・・・・・・」


 一人胸を撫で下ろす鶴丸を余所に、謙信は自らの従伯父の顔を覗き込む。そしてなんだか悲しそうな顔をした。


「おおおじちゃん、きょうおやすみっていってたけどまたあそこにいってたのかなぁ」
「あそこ?」
「んと、そのまちでいちばんおおきなきのある、きれいなほしがみえるとこと」
「?どこだそりゃあ」
「まちあわせばしょ」
「待ち合わせって、長船がいつも言ってる?」


 こくんと縦に振られた頭に驚きで目を見開いた。


「あれ、嘘じゃなかったのか!?」
「うん」
「だって、ほぼ毎日だぞ?俺が誘う度待ち合わせしてるって、」
「おおおじちゃん、じかんがあるときはいつもそこにいってるぞ」
「うっわ・・・・・・、マジか。甲斐甲斐しいってレベルじゃないぜ。ってかそんなに誰を待つっていうんだ」


 言いながら、相手は分かっていた。毎日毎日、待ち合わせをして会いに行く相手など恋人に決まっている。それにしても毎日待ち合わせとは面倒くさい。いっそ一緒に暮らせばいいのに。
 そう思う鶴丸だったが、謙信の言葉は鶴丸の予想外のものだった。


「わからない」
「わからない?ってどういう、」
「そのひと、いつもこないから」
「は!?来ないって、相手が?」
「うん」
「来ない相手との待ち合わせに行ってるのか、こいつは?毎日?」


 信じられない気持ちが早口で問い質させた。詰め寄られても謙信は怯えなかったので良かったが。


「おおおじちゃん、ぼくよりちいさいくらいのときからじかんがあればいつもそこにいるの。そこでいつもだれかをまってるんだって。ずっとまえにまちあわせのやくそくしただれかを」


 ゆっくり丁寧に説明してくれる子供にぐらりと目の前が揺れる気がした。


「・・・・・・君より小さい頃から?嘘だろ?」
「ほんとうだぞ!おとうさんたちもしんぱいしてよくついていったっていってたもん!」


 心外そうにぷくぅと膨れる柔らかそうな頬。分かっている、この素直そうな子供が嘘を吐くはずないと。
 愕然とした気持ちになり、取り繕いもしないで長船の顔を見た。


「・・・・・今日もその待ち合わせ場所にいたってのか?わざわざ有給とってこの寒い中?一日中?」
「おおおじちゃん、あつくてもさむくてもいちねんじゅうじかんがあったらあそこにいくんだ。おやすみとっていくのははじめてだとおもうけど」


 正気の沙汰ではない。毎日毎日、一年中、十数年、来ない相手を待ち続けるなど。
 鶴丸以外には優しくて、鶴丸だけにはすまし顔で、つれない長船。鶴丸の退屈を言い当てた唯一の人間。面白いやつだと思っていた。けれど、こんなことを内に隠していたとは。見抜けなかった、何一つ。
 長船の一途を通り越した執着と同じくらいその事実が鶴丸を打ち付ける。


「でも、そのひとこないの。そのまちでいちばんおおきなきがあって、きれいなほしがみえるところでまちあわせねっておおおじちゃんとやくそくしたのに。うそつきだ。うそついたらいけないんだぞ!」


 鶴丸のショックを知らない謙信は悲しげに憤慨している。幼い謙信にとっては長船の異常さが分からないのだろう。大好きな従伯父はこんなにも待っているのに、そんな心境なのだ。大半の人間が大人になるにつれ色んなことを忘れていくなど知らないから。


「・・・・・・そう、だな」


 そうじゃないとは言えない。遠い過去の約束など忘れられるのが普通だとは。


「でもおおおじちゃんは、きままなひとだからってわらうんだ。きょうはくるかもしれないしね。って、いつもまちあわせばしょにいく。でもぼく、ほんとうはまいにちすごくかなしいってしってる。おおおじちゃんがかなしいと、ぼくもすごくかなしい」
「謙信・・・・・・」


 言いながら大きな目には水の膜が張っていき、うるうると零れそうになるくらい揺れる。しかし涙の粒になる前に、小さな拳が強めに拭った。
 その精一杯の矜持を見て、子供を慰める様に頭を撫でてやるなんて出来やしない。鶴丸は謙信の涙目に気づかなかった素振りで、長船の方を向いた。


「・・・・・・そうだよな。約束を破られたら悲しいよな」


 長船が謙信より小さい頃には既に結んでいた約束となれば、十数年物だ。
 約束を交わした相手はどんな奴だったのか。長船と同じくらいの子供だった可能性が高い。きっとそうだ。だから約束は果たされていない。幼い頃に交わした約束なんて、成長するにつれ忘れていくのが普通だから。
 しかしそれが普通だからなんだと言うんだ。幼い頃の約束だからと言って忘れて良いはずも破って良いはずもない。
 現に長船は数十年、その約束が成就されるのを待ち続けている。その気持ちを裏切っていることは事実なのだ。
 約束を交わした相手が長船の様に誠実な相手であれば良かったのに。そうすれば、長船は傷つくこともなく。こんな寒い日に雨に降られる必要もなかった筈だ。
 そんなことを考えながら自然と、閉じた瞼に指が伸びていた。
 駅で会った時。待ち続けて傷ついた長船は、遠い日の約束相手の面影を鶴丸に見たのかもしれない。言いたいのに言えない相手に伝えた本心。彼はどうしようもなく辛いだけと溢した。けれど彼は約束を破った相手を見て笑った。
 心の底から愛しげに。
 その心境は鶴丸には分からない。待ち合わせの相手にも。長船にしか分からないことだ。
 いっそ泣いてくれたら慰めることも出来ただろうに。震える睫毛に、今も涙の雫は溜まっていない。それが却って痛々しくて、指先で目の縁を撫でてしまった。
 そうだ。泣いて泣いて泣きつくして遠い過去の約束など忘れてしまえば良い。相手が忘れたように。いや、それだけでは足りないか。
 ふぅふぅと熱い息を苦しげに繰り返す長船を見ていると、沸々とした怒りが沸いてきた。
 鶴丸の可愛い後輩をこんな風にしてしまい都合良く忘れている相手に腹が立ってきたのだ。そいつとの待ち合わせのせいで長船は鶴丸と飲みにも行ってくれない。


「取り敢えず、その男を一発ぶん殴らないと治まらんな」


 腹の虫が。


「そのひと、おとこのひとなの?」
「え?」
「おおおじちゃん、おとこのひとかおんなのひとかわからないってむかしいってたから」


 謙信が不思議そうに聞いてくる。そう言われればそうだ。特に何も考えずに男だと口をついた。
 鶴丸に向かってあんなことを言ったからてっきり相手は男だと思っていたが、相手は女性である可能性もある。幼い頃の性差は分かりにくいから、長船自身相手が男か女かも分からないのだろう。
 けれど何故か鶴丸はその相手は男だという確信がある。


「・・・・・・なんと、なく?」
「ふーん?」


 謙信が分からないまま相槌を打ち、首を傾げたと同時にピンポーン!と軽やかな音が、リビングの方から聞こえてきた。


「だれかきた!」


 すくっと素早く立ち上がり、謙信はリビングの方へと駆け出す。それを目で見送り、また視線を長船に戻す。


「どうしてその男に対する健気さを俺に、俺に対するつれなさをその男に見せられなかったかね、君は。待ち合わせに費やした時間で俺と飲みに行けば楽しい時間が過ごせたのに。馬鹿だなぁ」


 手品だって見せてやるし仕事の愚痴だって聞いてやる。その男が何もしてくれなかった時間で、鶴丸は長船の人生を少しでも豊かに出来たのに。


「頑固そうだもんなぁ・・・・・・」


 一緒に仕事をしていてわかったが長船は気が強い。物腰は柔らかで優しい――勿論鶴丸以外にだが、自分の中に絶対に譲れないものをはっきりと持っているタイプだ。こういうタイプは言葉で言っても納得しないことが多い。説得が難しい相手だ。


「・・・・・・探すか、その男」


 かといって長船のことを知ってしまったからにはこのままには出来ない。
 だから、探すしかないその男を。探して決着をつけさせよう。気に入っている後輩の人生が最低の男に消費されるのは我慢がならない。長船に新しい生き方を歩ませるのだ。
 長船がなんと言っても鶴丸は介入する。余計なお世話だなんだと言われようとも。


「俺にこんな弱っている姿を見せた君が悪い」


 額から旋毛辺りまでを手のひらでゆっくり撫でた。仕事中の彼なら「やめてください」と嫌そうに手を払うだろう。こんな悲しい夢を見ている様な顔はしない。
 撫でれば撫でるほど、悲しげになってくる表情は見ているこちらも辛くなってくる。
 可哀想にと呟いた所で、玄関の方から声が近づいてきた。謙信と、もう一人いる。


「いくらそういう理由があってもこれだけ遅かったら心配するだろー。ひとつしか階が違うっていったって、今の世の中何があるか分からないんだしさ」
「ごめんなさい」
「うん、分かったなら良いよ。次からは電話入れるんだよー」
「うん」
「あ、どうもー。すみませんね、なんかうちの大おじがお世話になったみたいで」


 ひょこっと、華やかさが寝室に現れた。明るい髪色に、整った顔立ち。アレンジされているがブレザーを着用している所を見ると学生――高校生くらいだろうか、学校ではまず間違いなく人気者である少年が、鶴丸に対して片手をあげる。


「俺は小竜。謙信の家族だよ、よく似てないって言われるけどね。大おじのことは安心してください。後はこっちでするんで」


 小竜という少年は軽い調子で話ながら寝室に入ってくる。自分でも言ったが確かに謙信と似てない。


「・・・・・・ほんっと信じられないよねぇ。何してんだか、この人。こんななって俺達がどれだけ心配すると思ってるんだろう」


 ベッド脇に立ったかと思えば、腰に手をあて上半身を傾ける。長い髪が長船の顔に掛かる。
 それも気にしないで微笑んでいる横顔は、どこかで苛立っている様にも見えた。
 しばらく長船の顔を見ていたが、髪を靡かせ上半身をもとに戻す。すぐに上着のポケットからスマホを取り出し、耳にあてた。


「もしもーし、父さん?あ、パパの方?うん、謙信いたよー。うん、大丈夫。招待状渡す為に大おじさんの帰りを待ってたみたい。ここから一歩も出てないって。というかさ、聞いてよ。大おじさん、なんか高熱出してるんだけど。会社の人に抱えられて帰ってきたって。うん、うん?うんそう、まーたあそこいってたみたい。もう本当さぁ」


 何やら理解が難しい切り出し方をして小竜は一気に話始める。謙信が困ったような顔で見上げているから、やはり小竜はかなり苛立っている様だ。


「えー?何?あははっ、本当だよ、招待状取り消しちゃおうかなぁ」
「だめ!ぜったいだめだぞ!」
「聞こえた?もー、皆この人に甘すぎ。そもそもパパ達が無理矢理にでも止めさせなかったからこうなってるんだからね!分かってる!?いや、分かってないでしょ、その感じ。あーあー信じられない、嫌になるよ。なぁんか遠くへ旅に行きたいなぁ。・・・・・・あ、そうだ。パパ、父さんにさぁ、お粥作ってって言ってよ。食べれば元気になるんだからこの人。スタンダードな梅のやつね?あ、もう作ってる?さっすがぁ~」


 笑って姿勢が変わったからか、小竜が鶴丸の方を向き、目が合った。


「あ、そうだ、会社の人。パパ、送れる?OK、聞いてみる。えっと、そこの、」
「鶴丸さん、だぞ!」
「鶴丸さん、ここまで何で来ました?車ですか?足がないなら送りますよ」
「あ、ああ。いや、大丈夫だ。気にしないでくれ」
「そうですか?大丈夫だってさー。うん、うん。分かった。このまま二人で待ってるよ。はーい、じゃあねー」


 ぴっ、と通話を切った。そして小竜は体ごと鶴丸に向き合う。


「本当にいいんですか?遠慮してない?身内が世話になったんだから送迎くらい喜んでするよ?」
「ありがとう。だが本当に大丈夫さ。それより彼を頼む」
「良い人~。まっ、有給中に馬鹿なことして自業自得の会社の人間にここまでしてくれるくらいだもんね」


 いくら身内と言えどあまりな言い草に同意も出来ず、曖昧に笑って誤魔化した。小竜の反応も理解は出来る。思春期の子供は、大人のすることに厳しくなるものだから。


「その洋服、大おじさんのだよね?鶴丸さんの服は?」
「あ、かんそうき!きっともうかわいてるぞ!ぼくみてくる!」


 謙信は自分の仕事だと言いたげにとたとたと寝室から走り出していった。


「氷嚢あったかな、この家。まっ父さんが持ってきてくれるか」


 小竜は自身の顎を持ち呟いている。
 熱も下がっていないし、今も辛そうではあるが長船は取り敢えず大丈夫そうだ。こんなにも心配してくれる人がいる。二人の――父さんだかパパだか分からないが、親もいるようだし車もある。いざと言うときは長船を病院へと連れていくことが出来る。
 それならば今、鶴丸が出来ることは何もない。この部屋を出たらタクシーを呼んで帰ることにしよう。
 謙信がまだ乾いていないと帰って来ない所を見ると服も乾いていることだろう。この大きすぎる服をひとまず着替えることにした。


「じゃあな、長船。早く元気になれよ」
「ちょっとくらい長引かないと反省しないよ。このわからず屋。俺がもう行くなって何回言ってもあそこに行くんだから」


 寝室を出る前に顔を覗いて別れの挨拶をしていると隣から嫌そうな声が飛んできて思わず笑ってしまった。


「君は待ち合わせ相手じゃなく待ち合わせ場所に行く彼が許せないんだな」


 謙信は待ち合わせ場所にこない相手を嘘つきだと悲しそうに責めた。しかし小竜は相手によりも待ち合わせ場所にいく長船に怒りを覚えている様だ。
 笑い掛けてくる鶴丸に、小竜は何でこの人待ち合わせのこと知ってるんだろう。みたいな顔をした。自分で散々言っていたが鶴丸が長船の待ち合わせのことなど知らないと思っていたらしい。
 しかし鶴丸が事情を知っていると察した小竜は、第三者が介入したことで少し落ち着いた様だった。肩を竦めて、大人の振りをしてみせる。


「そりゃあそうでしょう。人間生きてれば、約束を忘れることもある。なのにそれに執着し続けるなんて格好悪いったらないよ。大おじさんらしくもない。いくらその約束が大切でも、世の中広いんだよ?忘れられた約束よりもっと大切なことがあると思わない?」
「確かに、君の言う通りだ」
「・・・・・・それにさ、」
「それに?」


 小竜はまるで長船を説得するように閊えることなく持論を展開する。実際何度も長船をこう説得したに違いない。
 だが途中で少しだけ迷ったように視線を泳がせて言葉を切る。


「それに来ない人間をいつまでも待ち続けるなんてさ、大おじさんばかりが未練たらたらみたいで、悔しいじゃない。他人なんてどうでも良いよ、でも大おじさんには幸せになって欲しいし」
「小竜・・・・・・」
「ねぇ鶴丸さん、会社に良い人いない?この大おじさんに紹介してやってよ。清廉潔白な感じの人がいいな。純粋で、優しくて、この人のこと幸せにしてくれるような、さ」


 唇を尖らせ拗ねたように始まって小竜の本心は結局大好きな大おじへの気持ちの吐露で締め括られた。何だかんだと言っても、小竜も謙信も長船に対する気持ちは同じらしい。


「長船くらいの男なら俺が紹介するまでもなく引く手数多さ。だが本人がその気にならなけりゃどうしようもない」
「結局そうなんだよね。面倒くさいなぁ、この人。熱が下がったら約束に関する記憶全部ぶっ飛んでたらいいのに」
「おれもそうなりゃ良いと思うが難しい話だ。それにそれじゃあ気が済まないな。相手を探し出して一発殴るくらいしないと」


 右手で拳を作って見せると小竜は楽しげに笑い声を上げた。具合の悪い従伯父の前でもおかまいなしだ。


「はははっ!怖い人だね鶴丸さん。俺たち身内より怒ってるじゃん!」
「そいつのせいで長船が飲みに行ってくれないからな」
「しかもそんな理由?変わってるー」
「つるまるさーん!おようふくかわいてるぞー!ぼくのぼりだいつかってぜんぶとりこめたー」
「あっ、悪い謙信!全部君にやらせてるな!!」


 雑談を切り上げてすぐに自分の服に着替えた。最近の乾燥機はすごい。水に萎んでいた服一式が干したてみたいにふわふわあったかだ。これなら外の寒さにも負けない。タクシーを呼べば濡れることもないから、もう今日は凍えることはなさそうだ。


「長い間居座ってしまって悪かったな。服もありがとう」
「何言ってんの。こっちの方が世話になったのに」
「つるまるさん、かぜひかないでね?」
「ああ、気を付けるよ」


 気遣わしげに伺う上目使いにとうとう我慢が出来なくてその丸い頭を撫でてしまった。キューティクルたっぷりでさらさらで柔らかい。想像以上の触り心地だ。しかもちょっと恥ずかしそうで嬉しそうに目をぎゅっと瞑っている謙信がかわいすぎる。
 

「・・・・・・ねぇ鶴丸さん。俺達何処かであったことがあるかい?」


 長めに撫でくり回している鶴丸をジーッと見つめていたかと思えば、そんなことを真面目に問うてくる。


「今まで子供とは無縁の生活をしてたんでな。ないと思うぜ。特に君みたいな華やかな子なら覚えている筈だ」
「だよねぇ。俺も鶴丸さんみたいな大人見たら覚えてるだろうし。ごめん、変なこと言って。なんとなく思っただけだよ。気にしないで」


 小竜は鶴丸と共通の認識だったことで自分の中にあった不可解さに納得出来たらしい。世の中には似ている人間が三人いると言うし、何処かで鶴丸に似た人間を見かけたのかもしれない。
 その人間も鶴丸の様に人生に退屈して、何をしてもつまらないと嘆いているのだろうか。
 手を振り見送ってくれた子供二人に手を振り返しながらそんなことを思う。
 マンションを出るまでに途中で父さんだかパパだかとすれ違わないかと思ったが誰ともすれ違うことはなかった。謎は謎のままにしておこう。

 


 二日間の休日の間鶴丸は考えていた。長船の待ち合わせ相手を探す方法を。
 数十年前の約束の相手なんてそう簡単に探せる筈がない。まして長船でさえ性別がはっきり分からないというぐらいだ。うんと幼い相手がどう成長しているか、面影を辿って探し当てられるのか。問題は非常に難解だ。
 手がかりと言えば待ち合わせ場所くらいか。
 確か、その街で一番大きな木があって綺麗な星が見えるところ。
 謙信が言うには、その場所で長船は約束した相手を待ち続けているらしい。詳しい場所は分からないが長船には分かっているのだろう。
 待ち合わせ場所にかなりの曖昧さを感じるが、子供の表現と思えばその曖昧さがリアルを増す。ただ子供の思考は厄介だ。合理的な考えではないから。
 何を思って、何をしようとして二人はそこで待ち合わせをすることになったのだろう。他愛もないことだったのか。
 長船がここまで固執しているのに?辛いと思うくらいなのに?


「・・・・・・好き、なんだろうな。そいつのこと」


 分からないことばかりだがそれだけは分かる。辛いと言いながら微笑んだあの表情がすべてを物語っていたから。


「だがいくらなんでも幼少期の淡い恋をここまで引きずるもんなのか!?」


 頭を両手でがしがしと掻いて腰かけていた自室のベッドに後ろから倒れ込む。
 この二日間、長船の待ち合わせ相手の探し方を幾度と考えるが、何度もこの疑問に行き着く。
 約束を交わしてから今日まで他に良い相手はいなかったのか。どうしてそこまで他人を愛せる。それも十数年以上も会えていない相手を。


「本気で殴りたい、そいつ」


 仰向けから俯せの姿勢になって拳でがんがんとベッドを殴る。余程人の心を奪うのが上手い男だ。人の十数年の人生を掴んで離さない程に。


「絶っ対見つける。じゃないと長船は、何も出来やしない」


 同じ場所で同じ人間を待ち続ける。何処にも行けないし、新しい何かを見つけることも出来ない。そんなの、虚しすぎる。
このままでは駄目だ。どこかで清算しなければ。
 だから探し出すと心に固く誓う。
 そう誓った矢先、


「どうやって探すかなぁ・・・・・・」

 


 また振り出しに戻ってしまった。堂々巡りの、まるでループの様だ。
 退屈な時間を繰り返すなんてまっぴらなのに、鶴丸は二日間の休日を同じ思考に費やした。

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