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「長船さん、すみません。手伝ってもらっても、いいですか?」
「もちろん。何をすればいいのかな?」

 

 隣の女子社員が長船の答えに感謝を表しながらリストを渡してくる。
 

「この人達に電話を掛けてもらいたいんです。メールで再三健康診断の案内してるのに、受ける受けないの返事してくれなくて。たぶん忙しくて忘れてるのかもしれないけど」
「わかった。受けるか受けないかと、日程を確認すればいいんだね?」

 

 リストを見ながら、受話器を取った。そして次々掛けていく。リストの中には長谷部もいて、すまん。忘れていたと、とても素直に謝られた。
 リストの半分まで来て、ある名前に辿っていた目が止まる。その四文字を指で撫でて、まったくもう、と口に出さないように呆れた声を飲み込んだ。
 長谷部といい、忙しいから仕方ないとは言え自分の体にはもっと気遣うべきだ。人のことは過保護なのに。
 ふっと、息を吐いて、内線をぽちぽちと押していく。受話器を取って、コール音を聞き流す。今の時間、いるだろうか。いなければ帰ってから聞けばいいか、とぼんやりそんなことを考える。

 

「はい、営業一課、鶴丸です」
 

 いた。
 

「あ、もしもし?国永さ、っ・・・・・・ツ、ツルマルサンデスカ?」
 

 一瞬、世界が時を止めたような感覚。
 

「え・・・・・・?」
「今のなし。電話掛けるところからやり直します」

 

 そのままがちゃんと受話器を置いた。焦っている為、強く切ってしまった。
 でも顔には出さない。すぐ内線をぽちぽちと押して受話器を耳に当てる。1コールどころかぷるるるのぷ、の音すらなる前に相手が電話に出た。

 

「もしもし、君の国永さんだ」
「お疲れさまです、つ、る、ま、る、さん。人事部の長船で、」
「いいんだぜ。さっきみたいに国永さんって呼んでも。こっちには誰もいないしな」

 

 このはしゃぎっぷり。だろうと思った。
 

「は、何ですか僕そんな電話掛けてませんけど、それより先日送った、健康診断の」
「おいおい、他人行儀すぎやしないかい。今朝も一緒にコーヒーを飲んだ仲だろう」

 

 そんなもの毎日飲んでるのに何を嬉しそうに言っているんだか。長船をからかえるのがかなり楽しいと見える。
 

「ちょっと、話し聞いてもらっていいですか」
「国永さんって言ったら聞く」
「っばかじゃないのっ!?」

 

 小声で返した。
 

「君から言ってきた癖に」
「だから、わざとじゃっ」
「なら俺が呼んでやろう!・・・・・・光忠、今日も好きだぞ、愛してる」
「今!仕事!!中!!!!!!」

 

 またがちゃんと電話を叩きつけた。ぜーぜーと肩で息をする。自分の呼吸で誤魔化さなければ今の国永の声が甦ってしまうからだ。あの声には滅法弱い。会社で走っていけない感覚や記憶が体を駆け巡ってしまう。
 ここが家なら枕なりなんなり叩きつけられるのに。だけど家では自分の方が圧倒的不利なのでそれが出来た試しはない。
 はあー、もう。と溜め息をついて、周りの静けさに気がつく。嫌な予感がしておそるおそる顔をあげると、人事部内の全ての視線が集まっていた。

 

「え、えーっと・・・・・・」
 

 ああ、いつかこんな日が来るのではないかと思っていたが、まさかこんな形で知られることになるとは。自分の愚かさが心底憎い。
 さて、どうしようか。と悩む。皆の、自分を見る目が変わるのを怖くないと言えば嘘になる。
 だけど、もう間違いだと糾弾されたって、「悪いけど、幸せになったもの勝ちだよ!」と言えるくらいには、国永への気持ちを強固なものとしている。出会った当初ではこうもいかなかっただろうが、国永と共に過ごした日々が長船の世界をすっかり変えてしまった。
 だから、大丈夫。
 まっすぐ目を向ける。臆することなんてなにもないのだ。

 

「今のは、」
「長船さん!今日呑みに行きましょう!」
「へ?」

 

 鯰尾が立ち上がりながら目をキラキラとさせている。
 

「そうしましょう!私、お店予約しますね!」
 

 女性社員が拳を強く握る。何て言う力強さだろう。
 

「え、え?」
「決まりですね!皆で行きましょう!ねっ!」

 

 鯰尾が、先輩社員の方にも声を飛ばす。先輩は何故か目頭を抑えて、うん、うんと頷いていた。
 結局拒否権はないまま、長船も強制参加となった。

 その夜の人事部メンバーのテンションはそれはもうすごくて、鯰尾は背中をばしばし叩いてくるし、女性社員はよかったよかったと頭を撫でてくるし、先輩はひたすら泣いていた。いったい全体なんだと言うんだろう。よくわからないけど、皆が嬉しそうなので、ま、いっかと楽しみに便乗することにした。
 

 皆が、長船の代金まで払ってくれて、結局なんの呑み会だったのかわからないまま、帰宅する。冷たいドアノブを回して中に入ると、手に残った冷たさを瞬時に温めるような錯覚を起こす温かい光が家の中に灯っていた。
 

「ただいまー」
「お帰り、お疲れさん。呑み会、どうだった?」

 

 声を上げると、廊下の奥から国永がひょっこり現れる。靴を脱いで近づいた。脱いだスーツを国永が受け取ってくれる。いつもは反対だからとても新鮮だ。
 

「楽しかったよ。なんか皆すっごいテンション高くてさ」
「そうか、そりゃ何より!飯食ってきたんだろ?風呂沸かしてあるから入りな」
「ありがとう、国永さん大好きー」
「調子いいなぁ、電話じゃそっけない癖に」

 

 あんな切られ方して俺は盛大に拗ねていると国永が唇を尖らせる。それで昼間のひと幕を思い出した。あれは国永が悪い。自分も悪いが絶対に国永が悪い。
 

「あれは国永さんが悪いんじゃないか」
「揶揄ったからって、あんなに怒らなくても」
「違う、電話で名前を呼ぶのがいけないんだよ」
「どきどきしたのか!」
「したけど、それだけじゃなくて。・・・・・・いつだって君の側で君の名前を呼ぶからって言ってくれたの忘れたの?電話越しじゃ、約束を反故してることになるんじゃないんですか?鶴丸さん?」
「へ」

 

 二人きりだと言うのに久しぶりに苗字を呼んだ。そして呆けている国永に、両手を広げて見せる。それでも動かない。わざとじゃないのは分かっているけど焦らされている気になる。
 

「僕は今、貴方の側にいますけど?」
 

 ニッと笑って見せると、国永はふるふると体を震わせ、そして人のだと言うのに、手に持っているスーツをぽいっと投げた。皺になったらアイロンを掛けさせよう。そのまま両手を広げてぶつかってくる国永には黙ってそんなことを考える。
 

「っ、好きだ、光忠―!!」
「うん、僕も好き!」

 

 お互いぎゅっと抱きしめた。長船より小さい国永を抱きしめても視界は広いままで、肩越しの世界は良く見える。
 だけどそこにあるのは人々の蔑みでもなければ、暗い海の中でもなかった。
 二人の私物が入り混じった部屋。そして遅れて見えてくるのは、自分へと口付ける為に顔を近づけてくる、国永の愛しそうな表情。

 

 国永で溢れる世界は、正しいのか間違ってるのかわからないけれど。
 幸せな世界であることには間違いなかった。

 

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