次の日眠らないまま仕事に行った。泣き腫らした目を誤魔化すことは出来ないが、せめてとマスクをつけた。このまま会えば長谷部に心配かけそうで、いつもより大分時間をずらす。何年振りかに乗った朝の満員電車は、都合よく長船を疲れさせてくれる。ぼろぼろのよれよれになっている理由を手に入れたのは有り難かった。
出社早々人事のメンバーからやはり心配されたが満員電車を理由にすると渋々納得してくれた。目の腫れにも気づいているだろうに、それ以上何も聞かないでいてくれた。
大事な仲間だ。その仲間達に間違った自分を知られなかった。それが、一番安堵した。自分は選択を最後の最後で間違えなかったと自分自身を納得、させられた。
その日の業務は何事もなく過ぎた。
そして、一日が経ち、三日が経ち。一週間、一ヶ月、二ヶ月過ぎた。
朝、長谷部と会わなくなったこと、そして鯰尾がよく心配そうな視線を投げてくること以外は前と変わらない生活を送っている。
長谷部と会わなくなったがそれは避けている訳ではなく、単に長谷部が忙しくなっただけの話だ。連絡は取り合っているので交流がなくなったわけではない。だけど、会わなくなったのが原因なのか、噂を流した張本人を脅したからなのかわからないが、長船と長谷部の噂はあの日からぴたりとやんだ。人の噂も七十五日と言うけれど大分短い命だったなと思う。
鶴丸とはもちろん、会っていない。元々同じ会社にいても4年間一度も交流がなかったのだ。保険証のことがなければ、今だってなかったままのはずだった。だから日常に於いて鶴丸を連想させることはない。営業一課エースの鶴丸だが、何故か人事部ではその話をとんと聞かなくなったことも幸いだった。
でもひとつだけ。財布の中に入っている鶴丸のメモだけは捨てられなかった。綺麗な字を見ていると、鶴丸の柔らかで低い声が甦って、捨てることができなかった。「君が、好きだ」と言ってくれたあの声を忘れたくなかったから。
長船はまだ、鶴丸が好きだ。間違っているけど、普通じゃないけど、やっぱり好きだった。話したのも数回、直接会ったのも数回。トイレでの強烈な出来事もあったが、それでもここまで好きになっているのは不思議だ。やっぱり普通じゃないからかなとちょっと諦めることが出来た。
鶴丸が好きだ。だから、まだ怖い。鶴丸と会う前と同じ生活をしているのに、鶴丸と最後に会った二ヶ月前から何一つ変わっていなかった。
「よし、終わり」
水曜日、早帰りデーだ。デスクの上を片付けて鞄を取った。今日の夕食は何にしようかと考えながら席を立つ。皆にお疲れさまでしたと声をかけて人事部を後にしようとしたその時。
「光忠、いくぞ」
長谷部が現れ開口一番言った。
「は、長谷部くん?直接会うのは久しぶり、だね?急にどうしたんだい」
「呑みにいくぞ、ついてこい」
「え、え?今から?」
親指を立ててグッと自分の背後を指差す。ヤンキーみたいな仕草だ。
「長谷部さん、よろしくお願いしますよ!頼みましたからね!」
「任せておけ」
帰り仕度中の鯰尾がぴょこんと触覚を揺らし長谷部へと手を振った。お互い知り合いのようにしているが、初耳である。
「えっ?二人共知り合いなの?」
「この間、鯰尾から声を掛けられてな。まぁ、そんなことはいい。いくぞ。俺も今日は用があるんでな」
「用があるのに、呑みに行くのかい?また、今度に、」
「今日しか時間が取れないんだよ、嬉しいことにな!」
と言うわりには顔は苦々しい。それだけ忙しいということだろうが、長谷部にとっては喜びのはずなのに、珍しい。
「良いから、行くぞ」
「ちょっと、長谷部くんっ、待って!」
「いってらっしゃーい」
珍しく強引だなと思いつつ、にこやかな鯰尾の声に見送られて長谷部の後を追いかけた。
着いたのはいつもの店。つくねの美味い安い居酒屋だ。今まで黙っていた長谷部が、つくねと烏龍茶と生ビールが届いた所で口を開いた。
「元気か、光忠」
「う、うん」
「ほら、つくねだ。食べろ」
「ありがと」
「悪かったな、本当はもっと早く呑みに来たかったんだが、本命にかまけてキープのお前を疎かにしてしまった。許せ」
「っぐ、食べてるところに笑わせないでよ、喉に詰まらせたらどうするんだい」
真顔で本気の冗談を言うものだから噎せそうになる。二ヶ月振りとなると面白さも増すと言うもの。烏龍茶を流し込むことで、詰まりを素早く対処した。
「なぁ、光忠。俺の本命な、他に男がいるんだ」
長谷部は冗談を続ける。それに乗らずにはいられない。
「知ってる。すっごいよね、男だけじゃなくて女もいるし」
「そうなんだ。俺だけにしろと言っても、聞きゃしない。きっと今も他の男の元にいるんだ。だけど、俺にはあいつしかいない。あいつがいてくれればそれだけで幸せなんだ。他のやつは惨めだと俺を笑うが、お前は俺たちを祝福してくれるよな?」
「もちろん、僕たち親友じゃないか。長谷部くんが幸せなら、僕はそれでいいんだよ」
「ああ、ありがとう。親友だもんな。俺だってそうだ。お前には幸せになってもらいたい。俺みたいに世間から惨めだと言われる恋じゃなくて、世の中全てから祝福されるようなそんな恋をしてもらいたい」
長谷部は滅多に見せない笑顔でにこっと笑う。ぽかんと見ていると生ビールを一気に呑み干して、それでなと続ける。
「お前はどんなやつと結婚したいんだ。聞かせろ」
「へ?結婚?結婚って、僕まだ、」
「はい、まずー?身長はどれくらいだ?髪の長さは?年下、年上?料理好きか?好きな音楽は?特技はあるのか?御随意にどうぞ」
「ご、強引!え、でも、そうだな、うーんと」
鶴丸が頭に浮かんでいるのを打ち消して頭を捻る。そういえば結婚をするにもいい年だ。今までは相手がいないからとのほほんしていたが、本気を出して考えるべきだろうか。新しい、正しい恋をすれば間違いもなくなるかも知れない。
「髪は、そうだね。ロングかな、黒髪の艶やかな子がいい。身長はあまり低すぎないで僕の、肩くらい。それで大人っぽいフェミニンな衣装をよく来ている」
「ふんふん、それで?」
「化粧は濃すぎない方がいいな。あと爪も長すぎるのはあんまり好きじゃない。色は別に気にしないけどね。あ、口紅は赤めがいいね。肌は自然な色ならなんでもいいかな、サロンでガンガン焼いてるのはうーん、やめてほしいかも。あと、姿勢がいい子。うん、だいたいそんな感じの子がいいな」
指を折りながらその女性を想像する。立っている自分に、想像した女性が甘えて腕を絡める。皆が見てるよと苦笑いしても、いいんだもんと彼女は笑うだろう。
人々が行き交う街の中。昼間の明るい太陽の下でデートをするのだ。人々は二人を見たり、見てなかったり。さっきの人、君を見てた。あの女の人はあなたを見てたわと二人で笑い合う。誰にも臆することのない正しい恋。幸せな――。
「そいつが、お前を幸せにしてくれるんだな?」
「え?」
「その、見た目だけの、中身が一切ない。お前が安心するためのアクセサリーが、お前を幸せにしてくれるんだよな?」
なら、俺は祝福してやろうと長谷部は腕を組みながら言う。
「アクセサリーって、そんな。中身は皆違うから、特に想像しなかっただけで」
「想像出来なかったんだろうが。他の人間を思っているんだから当たり前だ」
「他の、人間」
「俺はな、光忠。あんまり言いたくないが、お前の親友だぞ。お前の幸せを、何があっても全力で祝福する人間だ。その俺に、嘘の祝福をさせてみろ、絶交だからな」
あまり言いたくないという単語に突っ込めないまま長谷部のなんだか怒ったような声を聞いている。口の中に残っていたつくねの味が苦く感じ始めた。
「この人と幸せになって見せるから祝福しろ!ぐらい言って見せんか。生気の抜けた面しやがって。そのくせ何でもないって笑うのはお前を心配してるやつを余計に心配させるって自覚しろ」
「長谷部くん、もしかして、全部知ってるの」
「知ってるわけあるか。こっちは毎日死に物狂いで働いてるんだぞ、知ってたらエスパーだろうが」
長谷部の言葉は正しい。長船は鶴丸のことを誰にも話してはいないし、昇進したばかりの長谷部は忙しく人の色恋沙汰にかまけている暇はなかった。知っているはずもない。それにしてはさっきからの言葉は的確に長船の胸を突いてくる。その疑問が伝わったのか長谷部が握った拳でこつんと長船の頭を小突いた。
「知らんが、親友のことくらい、だいたいわかる」
「長谷部くん・・・・・」
「俺は正直、お前が幸せなら相手がどんな奴だろうどうでもいい。鳥だろうが犬だろうが猫だろうが男だろうが女だろうが家族だろうが宇宙人だろうがな。お前が毎日のほほんといつも通りであるなら、それでいいんだ」
だから、そんな顔のままでいるなよ。ちゃんと笑ってろと長谷部が組み直していた腕を解く。怒ったような、でもそれ以上に心配して労わるような言葉と声だった。
それを真正面から受けて、テーブルの空いてる部分に突っ伏した。
「ごめん、今ちょっと顔見ないで」
「泣いたのか」
「泣きそう、長谷部くんずるい」
長谷部はそう言ってくれたが、長船の怖さはやっぱりなくならない。長谷部に、この人と幸せになりますと、鶴丸を紹介することはないだろう。長船が泣きそうになったのは、長谷部の気持ちが嬉しかったからだ。
突っ伏した手に持っていたつくねの串の感触がなくなった。加えてもぐもぐと何かを食べる音がする。
「焼酎が呑みたいな。すみませーん、焼酎水割りで。あ、ロクヨンでお願いします」
「・・・・・・長谷部くんのバカ」
「ふん、好きなくせに」
「大好き!!」
「すみません、このバカにつくね二本お願いします。あ、揚げ豆腐と冷やしトマトと明太子ポテトと豚の角煮も」
二人でいつものように呑んで食べて別れの時間。祝い事でもないのに、支払いはすべて長谷部持ちだった。
「早い解散で悪いな。今日は親戚が来る予定なんだ」
「えっ、ごめん。そんな日に」
「別に問題ない。あいつも子供じゃないしな。今日に限っては、お前の方が優先順位が先だった」
「今日に限って、って強調するのやめよう?」
長谷部は冗談だと肩を竦めるが、本当か疑わしい。でも、こうやって長船を元気付けるために忙しい合間を縫って一緒に呑んでくれた。その事実はすごく嬉しい。久しぶりに心からの笑顔が浮かべられる。
「ありがとう長谷部くん。元気出たよ」
「そうか」
「うん。本当にありがとう。嬉しかった」
「ああ、まぁ、お前の好きにしろ。俺に言えるのは結局それだけだ。・・・・・・じゃあな、そろそろ帰る」
「うん、またね」
いつもは駅に共に行くのだが、今日は急ぐからタクシーを掴まえると言った長谷部は長船と反対側に歩き始める。酒を呑んでいるとは思えないほど颯爽で、迷いがない。どんな暗闇でも先が見えているように歩く姿は、我が親友ながら格好良くて、羨ましかった。
そこで突然長谷部がくるりと振り向いた。大きめの声を出す。
「そういや、俺の出世祝いの日な!あの日の夜のこと、お前覚えてないかも知れないが!」
「うん?なぁに!」
「明日、食事に誘われてるんだって言ったお前、知り合ってからの6年の中で、一度も見たことないくらい嬉しそうに笑ってたぞ!」
「え」
「それだけだ、じゃあな!」
と、今度こそ長谷部は去っていった。
その背中を見送って長船は駅の方へと歩き出す。駅のホームに辿り着いて、ベンチに座り電車を持っている間、考えていた。
今まで生きてきた自分。初めて鶴丸と話した日からの自分。これからの自分。
よく考えて見れば、今まで幸せだと思ったことはなかったように思える。不幸な過去や辛い思い出があったわけじゃない。ただ、毎日をそのまま享受して、自分が正しいと思っている選択をしてきた。そういう山も谷もない生活。それをこなしていれば両親もいて、友や仲間がいてそれなりに満たされて生きてこられた。
この年まで恋愛も何度か経験してきたけど、生き方と同じように、正しそうな子と波のない付き合いをしてきた。その結果、いつも自然消滅という形で終わる。でもそれは正しいを選んだ結果だったから後悔することはなかった。
だから間違う自分なんて考えたこともない。そんなことをしてしまえば、長船は自分を許せないだろう。人から白い目で見られる選択をする自分を許せない。
けれど長谷部は、お前が幸せならいいと言った。そしてその幸せは、たぶん、自分の心に従う先にある。酔って心の剥き出し状態だった長船を指摘したのはそういう意図だろう。
「でも、」
そこまでわかっていてもやはり怖い。引け目を感じてしまう。
駅のホームで一人首を振る。そこで、ふと周りが見えてくる。先ほどまで一緒に待っていた周りの人間が皆いなくなっている。そういえば、何やらざわざわしていた気もした。乗客の乗り降りの騒がしさだったのかもしれない。
時計を見ればやはり電車の時間は過ぎていて、長船は考えに没頭するあまり電車を一本流してしまったことに気づいた。
「何やってんだか、僕は」
溜め息をついた。肩が重く感じて両腕を上へと伸ばした。まだ、誰もいないのをいいことにそのまま後ろへ持っていき、座ったまま上半身全体を伸ばす。
そうすると自分の後ろ側が逆さまの世界となって視界に写る。そこに、一人の背中がある。
「あれ、あの子。まだいる」
長船が駅についた時にもいた青年。駅の乗り降りの看板を見ていた。あれから時間も経つのにまだ同じところで同じ看板を見上げていた。その青年首がこてんと倒れる。横から見たって線路図は変わらないと思うのだが、もしかして迷っているのだろうか。十中八九そうだろう。むしろあんなにわかりやすく迷っている姿は初めて見る。
さっき乗り降りした大量の乗客がいただろうに。誰か一人ぐらい声を掛けなかったのか、と思いながら長船は青年に近寄った。
夜は冷えるのに彼は軽装だった。上はカーディガンしか羽織っておらず、しかも肘下まで腕捲りをしていた。寒くないのかなとそこを見ていると、左手になにやら模様が描いてある。
まるで、龍が巻き付いているような。
ああ、成る程。だから明らかに迷っているだろう彼に誰も声を掛けなかったのかと納得した。確かにこんなものを腕に飼っている青年に、自ら声をかけて喰われようとする者は忙しない駅のホームにはいないだろう。
けれど、もうここまで来てしまった。何より、何十分もここで迷っている彼を放っておくことは出来ない。どうにかなるさ、と声を掛けた。
「君、大丈夫?」
茶髪の青年に後ろから声を掛ける。青年が振り返る。それによって動く髪。靡く髪が先端に向かって赤く染まっていた。
迷っているはずの青年は、急に声をかけてきたサラリーマンを見上げる。戸惑っている感じではなかった。まっすぐとした視線は迷いがなく、長船の瞳を射抜いてくる。強い意思を感じさせる目だ。
「誰だ、あんた」
「えっと、」
声をかけたのは自分なのに思わず、言葉に詰まる。誰かに似ている雰囲気に思案するより、そのまっすぐな視線に鶴丸を思い出して怯みそうになった。
だけど彼は鶴丸ではないと気を落ち着かせ、社交的に見える笑顔を浮かべた。
「突然ごめんね。君、迷っているように見えたから。僕でよければ道案内するよ?」
「・・・・・・」
「あ、えっと、怪しく見えるかな?大丈夫、どこかに連れていったりしない。この線路図使って説明するだけ。それなら安心でしょ?君、これの見方、分からないんだよね?」
「ああ・・・・・・」
「どこに行きたいの?」
なるべく安心させられようにこにこと問い続ける。青年はしばらく黙っていたが、ぽつりと駅名を言った。彼が言ったのは長谷部が住んでいる所に一番近い駅だ。降りるはずの駅を間違えたらしく、どう乗ればいいのかわからなくなったと付け加える。
「うん、そこならわかるよ」
声を掛けておいてこれでわからなかったら大分恥ずかしい。よかったと心の中で息を吐くが、大人の見栄で面には出さない。
線路図を使って説明をして、わからない所を持っていた紙に書いて補足した。青年がわかった、と頷いてくれたのでどうやら大丈夫そうだ。
「またわからなくなったら電話して、説明してあげる」
と、スマホを出せば青年はふるふると首を振った。
「いい。そこまで迷惑はかけない。あんた、どれだけお人好しだ」
今まで無表情だった青年が初めて表情を緩めた。口角が僅かに笑っている。あ、笑うと可愛いなんてちょっと思ったり。
「そう?」
「まず俺みたいなのに声を掛けてくるのがおかしい」
「その腕のこと言ってる?」
「そうだ」
青年は腕捲りしてある左を持ち上げて視線を落とした。近くで見ればなんと見事な龍だろう。青年の腕に龍が掘られた経緯がちょっと気になる。ヤのつく稼業の跡取り息子、とかだろうか。
「これは痣だ」
青年は長船の心を読んだように言った。
「生まれた時からある」
「そっか・・・・・・それは大変だったね」
さぞかし苦労をしただろう。こんなものを飼っていたら、子供も大人も寄り付かない。その腕に龍がいる理由など人は興味を持たない。龍を持つ子供がいる、その事実が彼を人から遠ざけただろう。
何故かそう確信した。彼は正しい世界から理由もなくはね除けられてきた、それがわかる。
見事に見えていた龍が、急に酷いもののように見えて、見るのが嫌になった。けれど青年は静かに首を振る。
「そうでもない。こいつはずっと俺と共にいてくれた。一番の戦友だ。就職活動には支障が出てるが、どうにかなる」
「戦友、か。君、いい考え方するんだね、素敵だよ。・・・・・・皆見る目がないんだ、その龍ばっかり見て君の良さに気づいてない。勿体ないね」
「・・・・・・あんた、ほんと、心配になるくらいお人好しだな」
「そういうのじゃなくて、君みたいないい子が苦労する世界が歯痒いんだよ」
そう溢して、あれ、初対面の子に何を話しているんだと思う。誰かに似てる彼の雰囲気か、はたまた彼自身がそうさせているのかわからないが、感情がぽろぽろと口から出てくる。
「・・・・・・こんな世界、嫌いだな」
「俺はそうでもない」
「君、格好良すぎない?」
「まぁ、録でもない所もあるが。悪いことばかりでもないんだ。こいつもいるし、家族仲も悪くない。それに、たまにだが、あんたみたいなやつも出てくる。俺の世界はそう悪いものじゃない」
意思の強い瞳は世界に堂々と立っている証しだ。彼はものすごく、強い。何があっても揺らがない、きっと、ずっと。初めて出会った青年にそう感じた。
駅のアナウンスが響く。長船が乗る電車がもうじきやって来る。青年は反対方向だからここでお別れだ。
「時間だね」
「ああ、助かった」
「就活、頑張って。君なら絶対いい所が見つかる」
「そうだといい」
「・・・・・・僕も、君みたいに強くなれたらいいのに」
また零れた言葉。青年は手を伸ばしてくる。
「あんた、強いぞ。後、優しい。でなければ、こんな腕を持った俺に話しかけて来るものか。あんたは、たぶん、勇気が持てないだけだ」
そして青年より高い位置にある長船の頭を撫でた。セットを乱さないようにか、とても優しく。
「頑張れ」
そう一言残して青年は離れていった。その背中を見送る。そして、長船も自分の電車にのるべく背を向ける。ああ、嫌だ。すん、と鼻が鳴る。今日だけで二回も泣きそうになるなんて。最近涙腺が緩んでるんじゃないだろうか、格好悪い。
背中の方から愛想のない音楽と遅れて青年の声が遠く聞こえた。
「もしもし、おじさんか?ああ、悪い、電車降りる所間違えた。・・・・・・煩い、初めてのおつかいじゃない。何?・・・・・・母さんに言いつけてやる」
電話の相手が何か言ったのだろう、青年はちょっと笑いを含んで、もう遅い、知らんと答えていた。本当に彼の世界は悪くないものらしい。何故かそのことにとても安心した。
電車が来た。それに乗ってまた黒い窓を見る。
「勇気か・・・・・・」
座席に座らなかった為、すぐ側に立っている黒い鏡の中の自分が呟いた。
持てるだろうか、そんなもの。持てたら、鶴丸と会うことが出来るだろうか。それまで鶴丸は自分を好きでいてくれるだろうか。
「好きでいて、」
窓にこつりと頭を寄せた。
僕も貴方が好きだから。貴方も僕を好きでいて。
「はっ、やっぱり、最低だ」
こんな自分が勇気を持てるはずがない。頑張れって言ってくれたのに、ごめんね。と優しい青年に謝罪した。