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 鶴丸と電話をした日から、長船は生きた心地がしなかった。朝の日課の新聞タイムだって、無意味に紙を捲るだけ。趣味の料理だって、何だか手抜きになってしまっていた。自分以外に食べてくれる長谷部に振る舞うことがない為余計そうなっているのだろう。
 長谷部とはやはり朝の時間に会えていない。忙しいから仕方がない。しかし、水炊きの店の場所と予約した時間を連絡した際、わかったと返事が返ってきたので、金曜の夜は大丈夫なようだった。
 そう、鶴丸から電話で言われた時は、思い出せなかったが金曜は長谷部と約束をしていた。それに気づいた時被らなくて良かったとどうしてか思った自分に、何でだよ!?と、心の中で盛大に突っ込んでしまったのは、大分格好悪い話なので、誰にも言うつもりはない。
 鶴丸との、約束。それが生きた心地がしない理由だ。次の日、断ろうとはした。けれど、長船は鶴丸の連絡先を知らなかったし、他に用もないのに食事を断るためにわざわざ社内電話を掛けるのも気が引けた。
すっぽかすと言う選択肢は相手が誰であっても長船の中には存在しないので、結局鶴丸との約束は守られることが決まっている。

 今日は金曜日。長谷部との約束の日だ。
 昼食も終え、いつもなら頑張るぞーと気合いを入れ直す午後になるのだが、今日は、というか今日もそんな気にはなれない。
 午後の始業時間には時間がある。お茶を煎れ直しておこうと給湯室へ向かった。

 

「なんなんですか、それ!?」
「ねー、腹立つよね!」
「腹立つって言うか、そんなこといってる人にドン引いてますよ!」

 

 給湯室から声が聞こえた。女性社員と鯰尾の声だ。何やらヒートアップしている。
 

「昇進したからっていう妬みですか?だからって、そんな噂流すなんて俺、信じられません!」
「本当だよー、冗談として面白がってる人もいるみたいだけどさ、私らからしたら気分最悪だよ。だって身内がさ、」
「どうしたんだい二人とも?」

 

 二人で話している所に入っていくのもどうかと思ったが、会話の雰囲気に声を掛けずにはいられなかった。特に鯰尾は本気で怒っている様に見えた、誰かに嫌なことを言われたのだろうかと心配になる。
 声を掛けた長船に、二人は一瞬驚いた顔を見せたが、女性社員は気遣わしげに、鯰尾は不服そうに表情を変えた。

 

「長船さん、大丈夫ですか?」
「え?」

 

 心配をして声を掛けたはずなのに、逆に女性社員が顔に見合った声を投げ掛けてくる。
 

「先週から元気ないですよね、それってあの事が原因、ですか?」
「あ、あの事って・・・・・・」

 

 元気がないと言われればそうだが、表に出していたつもりはない。隠していたことを指摘されて狼狽える、以上にその原因を言及されて焦りが表立ってしまう。
 長船がいつものように過ごせない原因――明日に控える鶴丸との食事。けれど、それは誰にも言っていないことだ。この二人が知るわけないのに、どうして知れ渡っているのだろう。

 

「えっと、ね、」
 

 とにかく弁明をしなければと口を開くが続かない。だから、なんの弁明なのだと、自分の中から声が聞こえたからだ。
 黙る長船に、不服そうだった鯰尾が近寄ってきて背中をぽんぽんと、元気つけるように叩いてきた。

 

「気にすることないですよ、あんなの!俺、ちゃんとわかってますから」
「そうそう!そうですよ、噂なんて気にしちゃダメ!」
「へ?噂?噂って・・・・・・ごめん、何の話だい?」

 

 てっきり鶴丸との話かと思いきや、思いがけない単語が飛び出してきて首を捻る。二人は顔を見合わせてぼそぼそと話始めた。


「あれ、もしかして長船さん、知らない?」
「じゃあ、知らない方がいいよね。下らない話だし、説明するのも私、嫌」

 

 二人は瞬時に笑顔に変えて何でもないです!と誤魔化そうとした。
 

「な、何でもなくないよね?今の流れじゃさすがに誤魔化されないよ」
「何でもないですって!長船さん、小さいこと気にしたらダメですよ!前を見て堂々と生きていきましょう!俺みたいに!」
「いやいや、そういう話じゃなくてね」
「あ、私昼一番でメールチェックしなくちゃいけないんだった~」
「俺も、電話を掛けなくちゃいけなくて~」
「ちょっとっ、二人とも!」

 

 にこやかにけれどどこかそそくさと二人は給湯室から出ていってしまった。カップを持って立ち尽くすしかない。
 

「何なんだろう・・・・・・でも、良かった」
 

 噂とは一体なんの話だ。そう思うのだが、鶴丸との食事が知れ渡ってる訳ではないとわかり、安堵もしている。
 会社の人間と食事に行くだけなのに何故こんなに知られたくないのだろうとは、自分でもやはりわからない。

 

「おーい!長船ー!」
「はい!今行きます」

 

 お茶を煎れながらそれが何故なのか考えようとした所に先輩から呼ばれ、急いで席に戻る。今考えることではないと自分を納得させて思考を切った。

 

 

 そして、夜。
 会社から直接、長谷部との待ち合わせ場所である店へと向かった。店員に予約の名前を告げるとお連れ様がお待ちですと席を案内される。どうやら長谷部の方が早かったらしい。
 個室はとらなかった為、仕切りだけが他の客との壁になっている。通路の端、堀炬燵の座敷に見慣れた背中があった。主役が上座を空けてどうするんだと思いながら、その背中に声をかける。

 

「やぁ長谷部くん、待たせてしまってごめん。なんだか久しぶりだね」
「ああ、いや。俺も今来たところだ。確かに久しぶりに感じるな、二週間くらい会ってないだけなのに」
「ね、ほんと。あ、長谷部くん席そっち。今日の主役は君だよ」

 

 平日はほぼ毎朝会うのが普通だった為だろうか、感じる懐かしさに目を細めながら靴を脱ぐ。そして下座に座る長谷部の方へ行こうとすると手をしっしっと払われた。
 

「こっちでいい。そっちだと通路に人が通る度気になる」
「だから個室にするって言ったのに」
「店員をすぐ呼べないのも嫌なんだ。大体仕事の話でも、大層な話でもないのに男二人で個室もないだろう」

 

 結局上座に座った長船に長谷部がドリンクのメニュー表を差し出す。どっちが主役かわかったもんじゃない。
 

「俺は取り合えず生にする。お前は?また烏龍茶か」
「うーん、どうしようかな」
「たまには呑め。介抱ならしてやる。これが俺の昇進祝いの席と言うなら、俺はそっちの方が嬉しい」
「そう言われちゃったら、呑まずにはいられないよ。じゃあ、僕も生ひとつ」
「よし。すみませーん!」

 

 長谷部が振り返って通路に向かって声を張る。主役にやらせることじゃないが、その背中がどことなくうきうきしているように見えたので、好きにさせることにした。
 しばらくして鍋のセッティングとビールが届き、店員が去ったところで二人でジョッキを掲げた。

 

「それでは、長谷部くんの昇進を祝いまして、乾杯!」
「乾杯。ありがとう」

 

 長谷部は呑み干し、長船は一口だけごくりと呑んだ。久しぶりに感じる冷たい喉ごしが心地いい。
 

「長谷部くん、新しい所、どう?うまくやっていけそう?」
 

 ぷはぁと、軽く息ついて長谷部へと問いかける。
 

「まだわからないことも多いが、まぁ、なんとかやっていけそうだ」
「そっか、それはよかった」

 

 どうやら大丈夫の様だ。長谷部の実力ならと、そこまで心配もしていなかったが本人の口から聞けば安心感も増す。
 

「お前は」
「ん?」
「お前は大丈夫か」
「え・・・・・・」

 

 長谷部と違い、異動も昇進もなかった長船が、二週間たかだかでそんな大きな変化があるはずもない。だというのに長谷部は自分を気遣っている様だ。こんな短い期間の変化を探るとは何と言うか、非常に、らしくない。
 それともやはり、そう言わせてしまう程自分は元気がないだろうか。明日の事が、こうして長谷部と呑んでいるであっても、引っ掛かっている、それは事実だ。

 

「長谷部くん、あのさ」
「あんな噂、今時も流れるものなんだな」

 

 長谷部になら鶴丸との食事のことを、こうして今も抱えている正体不明の何かを相談してもいいかもしれない。そう思って口を開けば、長谷部が長船の言葉を待たずして自らの言葉で遮った。
 噂というキーワード。確かそれは昼にも聞いた。恐らく偶然ではない。相談事は一先ず置いて、その内容を聞くことにした。

 

「噂・・・・・・って、なんだっけ?」
「お前、知らないのか?俺とお前、付き合っているそうだぞ」
「は?」
「俺が今回昇進したのは、人事部のお前とデキていて、お前が上の誰かに枕をしたからそのお陰だとかなんとか。もっと詳しく言うならお前が俺の"オンナ"なんだと」
「はあああああ!!??」

 

 テーブルを両手でガン!と叩き立ち上がりかける。振動で水炊きの水面が危うく溢れそうになったが、それを気にする余裕などない。
 

「な、なんだよ、それ!?」
「お前、本当に知らなかったんだな。結構、広まってるらしい。俺が新しい所につく前にはもう言われてた」
「それって、内示からすぐってことじゃないか!っていうか知らないよ!それどころじゃなかったし、え、ちょっと、はぁ!?」

 

 噂。昼に鯰尾達が言っていたのはこれか、と軽く目眩がした。
 

「意味が、わからない」
「な。最初聞いた時会社なのに大爆笑だったからな。しばらく動けなかった。俺から就業時間を奪うとは許しがたい」
「そうじゃないだろう、長谷部くん・・・・・・」

 

 長谷部はあっけらかんとしている。その姿を見れば、こうして立ち上がっている自分がバカみたいで、すごすごと座り直す。周りの客は自分達の騒がしさに忙しくて、立ち上がった長船のことなど誰一人見ていなかった。よかった。
 

「笑えないか?最高に面白いだろう」
「いやぁ、笑えるけど。僕も会社で聞いてたら大爆笑だった自信があるけどさぁ。何そのトンデモ理論」
「大半が冗談として面白がってるみたいだけどな、なんと中には信じている奴もいるらしい」
「わぁー最高だね入る会社間違えたかな!」

 

 声が棒読みになるのも仕方ない。冗談としてならまだしも、こんな下らない噂を信じる様な社員がいる会社に入ったことを本気で後悔仕掛けてしまった。
 

「ま、恐らく俺への妬みから流された噂だろう。出所はおおよその検討がついてる。特に害もなかったし、俺は余り気にしてなかったが、お前にまで被害が及んでたら申し訳ないからな、一応気遣ってみた」
「一応は余計だよ」
「噂も知らなかったくらいだし、大丈夫ってことだろう」
「そりゃあ、そうだけどさぁ。・・・・・・はぁ、驚いた」

 

 口直しにビールを口に含む。温くなりそうだったのでそのまま流し込んでいった。
 

「おお、一気呑み。珍しいな、動揺してるのか」
「動揺してるっていうか馬鹿馬鹿しすぎて呑むしかないっていうか。皆どれだけ暇なの、どれだけ毎日退屈なの。こんな噂が会社中を闊歩するなんて」
「全くだ。誰と誰が付き合おうが心底どうでもいいのにな。次、何呑む」
「レモンサワー!」

 

 長谷部が自分の焼酎と一緒に頼むのを見ながら溜め息をつく。何て馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて確かに笑えてくる。溜め息を、今度は笑いの息に変えながら配膳されていた前菜のサラダを取り分け始めた。
 

「ふっ、・・・・・・っはは!そっか、僕が君の恋人かぁ!それは光栄な話だね!」
「悪いな、光忠。お前は所詮キープ。俺には本命がいる」
「おや、初耳だ。誰なんだい、その泥棒猫は」
「お前も知っている奴だ。そいつの名前は『仕事』と言ってな。俺はあいつがいないと生きていけないのさ」
「そりゃあ、勝ち目がないねぇ。大人しく身を引くとしよう。はい、長谷部くん。サラダ」
「ああ、悪い」

 

 長谷部がサラダを食べ始め、また口を開く。一体いつぶりの野菜接種なのだろう。聞くと倒れそうになりそうだから、聞かないでおいた。
 

「真面目な話、仕事と結婚したい。俺の心をときめかせるような仕事と結婚して、そして、沢山の仕事を産んでほしい」
 

 長谷部が話してる時に、女性店員がレモンサワーと焼酎を運んできた。その時長谷部の言葉が聞こえた様で、一瞬『何言ってんだこいつ』という顔をしたのを長船は見逃さなかった。
 長谷部が仕事一筋なのに自分は慣れっこでむしろ好ましいと思っているが、他の人間はそうではない。女性など、今の長谷部の言葉はドン引きだろう。これでは恋人はまだ出来そうにない。
 しかし、親友の自分が長谷部に与えるのは現実ではなく、優しさと祝福であるべきだ。

 

「そっか・・・・・・僕は祝福するよ」
「さすがだ、親友。そう言ってくれるのはお前くらいさ」

 

 レモンサワーを掲げて言えば、長谷部も焼酎を差し出し意味もなくまた乾杯をした。口に含んだレモンサワーはすっきりとしていて、呑みすぎてしまいそうで怖い。明日は用事があるのだ、気を付けなければ。

 

 

 


「うえぇ、きもち、わる・・・・・・」
「悪い、途中で止めればよかった」
「だい、じょうぶ。しばらくすれば治る、はず。ごめん長谷部くん、水もらっていいかい」

 

 気を付けなければと思っておきながら、あの後長谷部と話ながら酒を呑み進めてしまい、店を出る頃には前後不覚状態になってしまっていた。
 最初の宣言通り長谷部が介抱をしてくれ、一人で帰すのはよくないと判断したのだろう。図体のでかい酔っぱらいを抱え、長谷部の自宅へと連れ帰ってくれた。
 ひとつしかないベッドに寝かして、起きて早々苦しさで呻く自分にこうして水を差し出してくれている。

 

「ごめん、長谷部くん。ほんっとにごめん。君のお祝いの席で、僕っていう奴は」
「俺が呑んでほしいって言ったんだ。俺の方こそ悪かったな」

 

 空になったコップを受け取りながら長谷部が謝ってくる。自分の許容範囲を越えて呑んでしまったのは自分自身だ。長谷部が悪いことなど何もない。ずきずきする頭を押さえながらそれを伝えようとするが、長谷部は長船でなくベッドのサイドテーブルに置かれている時計にチラリと視線をやった。
 

「お前今日、つ、・・・・・・大事な用があるんじゃなかったか?」
「へぁ?」
「昨日、お前、言ってたぞ。今日、用事があるんだ~って。時間、大丈夫なのか」

 

 何度か起こしたが、お前ずっと呻くだけで。と言う長谷部の言葉に、さーっと血の気が引いた。昨日、酒を呑んでから、そして今長谷部に言われるまですっかり忘れていた。今日は夜に鶴丸との食事があるのだ。
 鶴丸と約束をしてから一度も、忘れられなかったその約束を、どうして昨日今日に限って頭から抜け落としたのか、自分を呪いたくなった。しかし、そんな暇は一切ない。長谷部の視線を追って時計に目をやれば、時刻は昼過ぎを指していた。
 今から一度家に帰って、シャワーを浴び、着替えなければならない。ゆっくりしている時間はなかった。

 

「ごごご、ごめん長谷部くん!僕、帰らなくちゃ!」
「俺の家のシャワー使ってもいいぞ?」
「ありがとう、でも、ここだとフレグランスないし、シャンプーもいつものじゃないし、何よりこのままの服じゃ行けない!」

 

 慌ただしく荷物をまとめて出ていこうとする長船に長谷部が、お前がそんな格好で外に出ようとするなんてな、と苦笑いする。
 そして、ぽんと何かを投げて寄越す。反射でそれを受け止めれば、両手に落とされたのはヘアーワックスだった。

 

「寝癖。せめて直していけ。後で自己嫌悪に陥る」
「ありがとう、長谷部くん!」

 

 自分の性格を把握している長谷部に感謝して、ワックスを手のひらに素早く馴染ませる。鏡を見る時間も惜しいなんて初めてだ。前髪も後ろに撫で付けて簡単にオールバックにする。
 

「本当にごめんね!また埋め合わせする!」
「別にいい。昨日のお前、面白かったしな。じゃあまた来週」
「うん!じゃあね!」

 

 嘘ではなく本当に楽しげな長谷部が玄関先まで見送ってくれるのに手を振り、ドアが閉まったと同時に猛ダッシュを掛ける。
 出発ギリギリの電車に飛び込んで、頭の中で準備のシュミレーションをしながら電車に揺られた。電車から降りればまた猛ダッシュ。
 二日酔いに全力疾走だ。やっと家に辿り着いた時は色んな意味で息も絶え絶えだったが、それにも構わずそのまま風呂へと直行した。走ったことで流れた汗も綺麗さっぱり洗い流し、風呂を上がる。そこからは朝の準備と一緒なので、ポンポンと準備が進んでいく。
 これなら間に合いそうだと安心して、粗方の準備を終えた時気づいた。

 

「服・・・・・・どうしよう」
 

 クローゼットの前に立ち尽くす。
 鶴丸は仕事中に、仕事のことでお礼がしたいと言った。ならば、これは仕事の食事であって、服装もスーツがいいだろう。
 しかし、今日は土曜日。わざわざスーツを選ぶべきだろうか。鶴丸がスーツでなかった場合、土曜日なのにスーツ。他に服を持っていないのか、なんて思われたりするのは避けたい。
 かといって、あまりカジュアル過ぎても店の雰囲気や鶴丸の服装とちぐはぐ過ぎるのも嫌だし。でも気合いを入れすぎて、たかが食事なのになんて思われてしまったら・・・・・・。
 そんなことを思いながら、クローゼットの中の服を引っ張り出してああでもない、こうでもないと体に合わせたり、離したり。気づけば家を出なければならない時間が迫っていた。

 

「ああもう、これでいいや!」
 

 結局選んだのはジーンズと白のVネック。そして黒のジャケット。アクセサリーは迷って、時計だけを身に付けることにした。まさに無難な格好。
 もう一度髪型と服装を鏡でチェックしてから、家を出る。
 辺りは暗くなり始めていた。約束の時間まではまだあるが、夜が近づいていることが気持ちを焦らせる。
 電車に乗る以外は無意味に早歩きで移動する。そのお陰で約束の30分前には待ち合わせ場所についた。会社からもそう離れてはいない、噴水のある公園だ。
 目立つところがいいだろうか、そうすれば鶴丸が来てもすぐわかるはずだと、噴水近くのベンチを探す。
 空は茜が消え去って、紫から紺、そして一つの星が現れた。公園の電灯が、それを合図のようにぽつぽつと灯りを灯していく。
 そうすると、噴水の、一番近くの街灯下に浮かび上がる人影があった。ぼんやりと照らされる背中に、ベンチを求め彷徨っていた足を止める。
 慌てて時計を見た、そしてスマホも。なんなら公園の時計も見上げ、見にくいながらも必死に目を凝らして時刻を確認する。全てがやはり、待ち合わせ時間の30分前を示していた。
 見間違いかと思い、街灯下を見つめた。やはり、いる。待ち合わせ相手の、鶴丸の背中に間違いない。
 どう見ても今着いた様子ではない。そのことにハッとして、髪や服を最後の足掻きとばかりに手で撫で付け、そして待たせている背中に慌てて駆け寄った。

 

「つ、鶴丸さん!」
「ん?やぁ!長船くん!・・・・・・だよな?」

 

 駆け寄りながら名前をどもる自分を鶴丸は振り返り、夜にしては少し眩しい笑顔を見せる。
 

「そうです、長船です。ごめんなさい、待たせてしまったみたいで・・・・・・」
「俺も今来たところさ!」
「でも、今、」

 

 待ち合わせ時間の30分前。街灯に寄りかかっていた姿はそれよりも前に来ていた様に見えた。それを口に出せず、口ごもると、鶴丸は長船の言いたいことがわかったらしく、にこにこ笑顔を少しだけ困ったもの、どこか恥ずかしげなものへと変える。人差し指で頬をかりかりと掻いた。
 

「いや、何と言うか、昔から楽しみなことがあると居ても立っても居られない性格でな。ちっとばっかし早くついてしまったのさ。この年でも子供っぽさが抜けなくて自分でも恥ずかしい話ではあるが」
 

 そう言って鶴丸はにかっと今度は子供の様な顔で笑いかける。そして呆けて何も言えない長船の頭の天辺から足先まで視線を塗らして、うんうんと満足げに頷いた。
 

「それにしても、君は、男前だな!その服、とても似合っている。」
「あ、ありがとうございます」

 

 そういう鶴丸こそ、白いジャケットがよく似合っていた。私服姿どころかスーツ姿すらまともに見たことはなかったが、きっといつも仕事している時とは違う雰囲気なのだろう。スーツで来なくて良かった。
 鶴丸からの称賛を貰い、自分も「鶴丸さんこそ、素敵です」と言おうとするが、なんだか恥ずかしいことの気がして言葉が喉で引っ掛かる。これが他の人間なら「すごく似合ってるよ、素敵だね」と何でもなく言えるのに。
 しかし社交辞令に対してお返しの言葉もまともに言えない長船を、鶴丸は気にした様子もない。ずっと楽しそうな笑みを浮かべている。

 

「さて、こんな所で立ち話もなんだな。少し早いが店に行こうか。話をするならそこでゆっくりしようぜ」
「はいっ」

 

 鶴丸が、長船の背中をぽんと叩く。一瞬のそれが、背中に手形が張り付いたんじゃないかと思わせるほど感覚が残った。
 なんだこれ。そう、立ち止まることも出来ない。先を歩く鶴丸が振り返って長船を待っている。慌てて小走りで追い付いた。鶴丸は何がおかしいのか、ふふっと笑い、さあこっちだぜと長船を引き連れて歩き始める。
 店でゆっくり話そうと言った鶴丸の言葉に従ったのか、いつもであれば何かしらの話題を振るはずの自分が言葉少なく、会話はほとんどなかった。鶴丸はたぶん、話好きな方だろう、黙っているのは恐らく長船に合わせてくれているに違いない。
 そのまま店へと二人で入った。安そうな店ではない。けれど高級過ぎることもなく、程よく賑わっているようだ。ちょっと上品な居酒屋、という感じだった。
 服が浮きすぎるでも、釣り合わなさすぎるでもない店の雰囲気にホッと安堵の息を、心で吐いた。
 白と黒の男二人を見つけた店員がにこやかに近づいてきて、お二人ですか。と訪ねてくる。それに、鶴丸が、予約していた鶴丸だが、と告げれば、こちらですと案内された。
 土曜の夜、時間は少し早いが、客はそれなりにいた。賑やかな店内ではあるものの、まださすがに酔ったものはいないのか、酒に削られた声はまだ聞こえない。案内される途中で見かけた三人ずつ対面に座っている男女は自分の名前を順番に言っている所らしい。合コンなのだろう。
 店員が店の奥まで進み、閉まっていた目の前の引き戸を開けた。中は個室。座敷ではなくテーブル席だ。促されるままに足を踏み入れると4人掛けの席があるその室内がなんだか広く感じる。

 

「さ、長船くん。どうぞ」
 

 店員が一度去って部屋の入り口に立ち尽くしていると鶴丸から声を掛けられた。
 

「あ、すみませんっ」
 

 下座の席に腰を掛ければその真正面の席に鶴丸が座った。
 

「さて、まずは飲み物だな。何を飲む?」
 

 ドリンクメニューを差し出して鶴丸が聞いてくる。何という失態、こういうのは後輩である自分の役目なのに何をぼさっとしてるんだと心で自分を叱咤した。
 

「すみません、気が利かなくて」
「ん?ああ、気にしないでくれ、俺はいつもこんな感じだ!むしろ忙しないだろう、悪いな。さっきから急かすようで」
「いえ、とんでもない」
「早く君と話がしたくてな!」

 

 だから早く乾杯したくて堪らないんだと言ってくるその人に、長船はなんだか叫び出したくなるのを堪えた。実際叫び出してもいいと許可が出ても何を叫べばいいかわからないが。
 

「酒は何が好きなんだ?酒は呑むんだろう?営業だったしな」
「それが、実は、あまり強くなくて・・・・・・」
「そうなのか!そりゃあ営業時代苦労しただろう!営業は呑めない時でも呑まなけりゃならないからなぁ」
「そうですね、営業時代は大変でした。取引先だけじゃなくて、先輩達にも呑みに連れていかれて。よく、潰されてました」
「ははっ、可愛がられてる新人は特にそうなるよな!ああ、納得だ。まっ、でも今日はそんなことにはならないぜ。好きなものを飲めばいい。君に無理を強いるつもりは毛頭ないからな」

 

 お、ちゃんとノンアルコールもあるぞと、鶴丸はドリンクメニューを指差して見せてくれる。これが他の営業の先輩ならば「吐くまで呑め!吐いたらその分呑め!」とアルハラ全開だろうに。
 優しい人なんだな、と思う。いや、これが普通のことなんだろうが、他の人より優しく感じるのだ。

 

「俺は生にしとこうか」
「じゃあ、僕はノンアルコールのサングリアで」

 

 手元の呼び出しボタンを押して、店員を呼んだ。店員が承りましたと部屋を出ていき、部屋に沈黙が流れる。これは、失敗しただろうか。酒を呑まなければ、なんだか場が持たないような、気がした。
 しかし鶴丸にはそんな様子もなくにこにことしている。コースを予約しているのか、手書きのお品書きを見て、中々美味そうだなと感想を述べていた。
 程無くして前菜と共に飲み物が運ばれてくる。それぞれ飲み物が手元に来たところで鶴丸がジョッキを持ったので、それに倣う。

 

「突然の誘いだったのに、来るって言ってくれてありがとうな」
「いえ、えっと、こちらこそ誘って下さってありがとうございます」
「今日は楽しもう、乾杯」
「か、乾杯」

 

 きんっ、と二つのガラスのぶつかる音がした。お互い一言飲んで、ジョッキとグラスをそれぞれ置いた。
 今度はぼさっとしないようにと、早速前菜を取り分ける。茶そばのサラダらしい。美味しそうだ。

 

「なぁ、長船くんはいくつだ?」
「年ですか?28です」
「そうか、俺は35だから7歳差か」

 

 そうだった。保険証を見たとき大分若く見えると思ったことを思い出す。下手すれば長船よりも年下に見える。
 

「そうでしたね。保険証見たときビックリしました。鶴丸さん、すごく若く見えますよ」
「いやいや、若いっていうよりいつまでも子供なのさ。というか、そうだ、保険証!ありがとうな、助かったよ」
「すぐ再発行してもらえてよかったですね。保険証は大切ですから」
「全くだ。君が優しく丁寧に説明してくれたお陰で事なきを得た。そうそう初めて電話した時に思ったんだが、君の声はいい声だなぁ」

 

 取り分けた茶そばを鶴丸の前に置くと同時にそんなことを言われる。
 

「声を聞いて、ずっと聞いていたい声だと思ったのは君のが初めてだった。心地いい声だ。あの説明だけで終わるのが惜しくて意味もなく営業の話を振って電話を長引かせてみたりしたんだが」
「な、」

 

 あの質問にはそんな意図があったのか。それを知らされて何を言えばいいのだ。自分も似たようなことを考えていたと、暴露すべきなのか。
 

「その相手が君だったんだから、俺の勘は捨てたもんじゃない。いや、違うな、財布を無くしてラッキー!ってやつだな。ん?どうした長船くん、食べないのか?」
「食べますけど・・・・・・」
「なら食べようぜ。いただきます。・・・・・・ん、こりゃうまいな」

 

 鶴丸が綺麗に箸を持ち、茶そばを食べる。きっとペンの持ち方も美しいのだろう。書かれた文字の美しさを思い出しながら長船も箸を持った。茶そばは上手い。上手いが飲み込むのに少し苦労した。
 

「なぁなぁ、長船くん」
「な、なんでしょう」
「君は何が好きなんだ?休日は何してる?趣味は?本は読むかい?それともアウトドア派か?好きな色は何色だ?お気に入りの香りは?」
「へ?」
「小さい頃は何になりたかった?動物は好きか?四季ではどれが一番好きなんだ?高校は共学だったかい?あとな、」
「ちょ、ちょっとっ!質問多すぎですよ!そんな一気に答えられません!」

 

 マシンガンの如く質問を撃ちまくられて慌ててしまう。箸を置いて、ストップをかけた。鶴丸の顔を見れば、目がきらきらと輝いている。好奇心を抑えきれませんとこんなにはっきり描いてある顔は初めて見た。今もストップをかけたのに、そわそわと明らかに長船の答えを待っている。
 自分でも言っていたけど、子供みたいな人だ。そういえば、2回目の電話の時もそんな感想を抱いた気がする。営業のエースなのに、良い年した、優秀な大人なのに。
 むしろこういう風に他人に興味を持つことが営業では大事なことだったんだっけ、と数年前を思い出す。
 何にせよ、目の前のきらきら輝く瞳は、本当に子供の様で、愛らしく思えるくらい面白い。

 

「ふふっ、そんなに一遍に聞かなくても、ちゃんと答えますから。僕、逃げたりしませんよ?」
「っ、」

 

 笑いながら僅かに首を傾ければ鶴丸は目を少し見開いて唇をぽかんと開けた。なんだろう、その反応は。まさか、本当に自分が質問が嫌で逃げると思っていたのだろうか。そんなことするはずないのに、発想がおかしな人だ。
 

「っははは!自分から質問攻めにしておいて驚くなんて、鶴丸さん、面白い人!」
「今のは、驚いたんじゃなくて、いや、うん、驚いた。驚いてる」
「そんなに?ふふ、変なの・・・・・・っとすみません」

 

 自分の口調が崩れているのに気づいて慌てて手で口を塞ぐ。子供の瞳に笑ってしまったが相手は会社の先輩だ。何を馴れ馴れしくしてしまっているのだろう。
 

「あ、待ってくれ。敬語じゃなくていい。今みたいに、自然な口調で話してくれないか」
「でも・・・・・・」
「難しかったら、無理にとは言わない。だけど、口調が崩れてもそれを変に直そうとしないでほしい。お願いだ」
「わ、わかりました」
「ああ、なら話の続きをしよう」

 

 長船が頷くと、鶴丸は嬉しそうにまた質問を寄越し始めた。今度はひとつひとつ渡されるそれを、長船も丁寧に紐ほどくように答えていく。
 鶴丸の目がやはり輝いているからだろうか、それとも一度笑いを挟んだからだろうか。最初からすれば信じられないほどリラックスして話すことが出来る。自然に近い自分の答えに、鶴丸の楽しそうな反応が返ってくるとこっちまで楽しくなってくる。鶴丸の最初の質問弾丸を撃ち返した頃には、二人しかいないはずの個室は、個室の外の笑いの総数と同じくらいの笑いで満ちているような気がした。

 

「はー、おっかしい。鶴丸さん、話のセンスありすぎますよ」
「はは!君こそ!後、良い声で下らない冗談言われると面白いのはずるいな!」
「くだらないって、ひどいなぁ!高校生の僕にとっては渾身の冗談だったんだから!」
「あっははは!!可愛い!高校生の君、可愛いな!」

 

 料理も締めのご飯類が運ばれて来ていた。話に夢中で中々食べ進めていない。最初は酒がなければ場が持たないのではないか、と思ったのが嘘のようだ。
 

「鶴丸さん、ご飯。冷めちゃうから食べてくださいね。あ、飲み物、次何飲みます?甘いの好きなんだっけ?カシスオレンジにします?」
「する!」
「はーい。じゃあ僕はノンアルのモスコミュールにしよう」

 

 新しい飲み物が来て、食事を少し進めていると鶴丸がよかった、と言った。
 

「何がですか?」
「今日、個室を選んだことさ。君の声がよく聞こえる。高級な店ではこんな風には話せないし、かといって騒がしすぎてもよく聞こえないからな」
「そう、ですね。僕も・・・・・・個室でよかったかも。それに高級な店より、居酒屋の方が気楽で好きなんですよ」
「たぶんそうだと思った。君、声が暖かくて、こう、硬質じゃないと言うのかな。きっと賑やかな所が好きなんだろうって感じがした」

 

 見た目からバーだなんだと偏ったイメージを持たれてばかりの自分の本質を、鶴丸が見てくれたような気がして、とても嬉しい。自分の笑顔がより深くなったのがわかる。
 

「そうなんです。長谷部くんとも、居酒屋ばっかりで。ここよりもっと気安い感じの」
「・・・・・・長谷部」

 

 今までにこにこしていた笑顔が少し固まった。突然現れた知らない名前に戸惑ったのだろうか。
 

「あ、長谷部くんって言うのは、僕の同期。今は商品研究室の室長してます。部署は違うけど入社した頃からずっと一緒で、親友なんです、」
「知ってるぜ」
「え?本当?あ、そっか」

 

 言われて気がつく。商品開発部門と営業部門は商品を通しての関わりが深い。それぞれの部署にいれば何かしら接点はあるはずだ。
 

「長谷部は、優秀だよな。仕事に対しての姿勢が良いし、責任感もある。物言いはぶっきらぼうな所もあるが、言葉は的確だ。有望株だな」
「そう、そうなんです!長谷部くん、あんな感じだからよく誤解されて、敵も多いんだけど、本当はすごく優しいんだ。昨日も、深酒しちゃってまともに歩けないような僕を家に泊めてくれて、一つしかないベッドまで譲ってくれたんです」
「、ほぉ・・・・・・君、酒は余り呑まないんじゃ?」
「そうですね、いつもは全然。でも昨日は長谷部くんの昇進祝いで、長谷部くんが呑んでほしいって言ってくれたから。僕も長谷部くん相手だと気が緩んでついつい呑みすぎてしまいました。それで、そんな醜態を。あれ、親友って言うにはちょっと頼りすぎてる気がするな」

 

 前日に散々迷惑を掛けたあげく、どたばたと慌ただしく去る長船に嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しかったと言ってくれる親友などこの先何人出来るだろうか。きっと、出来ない。長谷部が最初で最後の親友になる。
 

「長谷部くん、本当に優しいんです」
 

 そんな大事な親友を、鶴丸が誉めてくれる。ただでさえ開発部門と営業部門は仲が悪いのだ。成績不振の際は、お互いに商品が悪い、売り方が悪いと責任を押し付け合う。もちろん長谷部や鶴丸に関してそれはないだろうが、部署の雰囲気や刷り込みというのはある。印象はよくないはずだ。
 それにも関わらず鶴丸は誤解されやすい彼を優秀だと言ってくれた。さっき、自分の本質を見てくれた時より嬉しくて、ふわふわとした気持ちになる。
 鶴丸は、外見や人の噂等で人を判断するような人間ではないのだろう。そのことがとても、とても嬉しい。表情が自然と緩んでいくのを感じた。

 

「あの、鶴丸さん、」
「君たち、付き合ってるのか」
「・・・・・・え?」

 

 硬質な声色に、自分が言いたいことは瞬く間に消え去り、その空いた所がぽっかりとした空白になった。鶴丸の言葉が、遅れてそこに入り込むが理解までは追い付かない。
 

「鶴丸さ、」
「君が長谷部の恋人だと、噂が立っている。あれは、本当なのか」
「・・・・・・」

 

 鶴丸はこちらを見ている。きらきらと輝いている瞳ではない。感情が見えない瞳だ。真剣に、問いかけてるのだろう。真剣に、信じているのだろうか。あんな馬鹿馬鹿しすぎる噂を。鶴丸と長船がこうして、今ここに二人でいるのに。
 そう思った瞬間、今までふわふわしていたものが瞬時に冷たく凍りついた。この人は、あの噂を信じている。長谷部への内示から、噂はすぐ立ったらしい。鶴丸が食事に誘ってきたのは先週の水曜だ、その頃にはとっくに鶴丸の耳に入っていたはず。何せ、犬猿の仲である開発部門の噂だ。楽しい話題のひとつになっていたに決まってる。
 鶴丸自身がその噂を流したり、面白がったりするような人間には見えない。見えないけど、噂の張本人である長船をこうしてわざわざ食事に誘ったのは、好奇心旺盛さが噂の真意を確かめたくなったからかもしれない。だって、それ以外に理由がない、保険証やアドバイス如きでこんな風に二人きりで食事をするその理由が。
 なんだ、そうか。
 冷たい納得が、胃に落ちた。
 汗を掻き始めたばかりのモスコミュールを一気に煽って静かに置いた。そして財布を取り出す。

 

「今日はありがとうございました。楽しかったです、良い経験にもなりました」
「長船くん?」
「これ、足りなかったら請求してください。ご馳走さまでした」
「おい、」

 

 財布から出した万札をテーブルに出しながら立ち上がる。
 目を丸くした鶴丸も、慌てたように立ち上がる。テーブル越しに腕を捕まれそうになったがすり抜けた。入り口に近い下座だったのでそのまま素早く個室を出ていった。長船くん!と名前を呼ばれたけれど振り返ることはなかった。
個室を出た先。近くですれ違った店員が驚いたように人の顔を見る。出ていくのを咎められる前に、清算はもう一人がしますからと告げて立ち尽くす店員を通りすぎた。
 店の出口にたどり着く前、他の客の様子が見える。三名ずつ対面して座っていた先ほどの男女は、席替えをしたのか男も女も入り交じって座っている。男は女に、女は男に。自分の良い所を少しでも知ってもらおうと愛想を振り撒いて話している。実に、自然な光景だった。
 それを横目で流しながら、店を出る。早歩きと普通の速度の間の早さで移動して、一人電車に乗り込む。今日も夜の暗さが鏡に変えた窓に、私服姿の自分が映った。黒い鏡に浮かぶ自分はこちらをじっと見ていた。感情がない顔、それを同じような顔で見返してやる。理由なんてない。浮かぶ表情になんの感慨も起きない。頭も胸の中も空っぽで、夜に浮かび上がる自分の真似をするしかないだけだ。
 電車から降りて、また歩く。しばらくして自分の家に辿り着いた。鍵を開けた後。冷たいドアノブの感覚に、そこではじめて心が震えた。
 静かにドアを開けて靴を、玄関へと取り残すように脱ぐ。人工の明かりがない暗闇の中を、ただ歩いた。自分の家だ、暗くても何にもぶつからないままベッドへと倒れこむことが出来た。
 ジャケットも脱がないだらしない自分を、ベッドがぼふりと鈍く優しい音で包み込んでくれる。

 

「・・・・・・」
 

 なんだかすごく、すごく疲れた。今日のことも、先週の水曜日からのことも、初めて鶴丸からの電話を受けた日からの、自分のすべてが馬鹿馬鹿しくって、仕方ない。
 

「さすが長谷部くんだ。これであの時寝癖のまま外に出ていたら僕、今死にたくなってたよ」
 

 馬鹿馬鹿しい。けれど何が馬鹿馬鹿しいのかわからない。鶴丸と直接会って話したのは今日が初めてなのに。何故鶴丸と初めて話した日からの全てが空回りしたように思えてしまうんだろう。
 

「結局、よくわからなかったな・・・・・・」
 

 空回りした日々の中で、感じていた正体不明の自分の心。訪れる鼓動や戸惑いや、疲れ、衝動。何一つわからないまま、長船は一日を終えるのと同じようにこのベッドへと回帰してしまった。
 それは残念なことなのだろうか。空回りした、馬鹿馬鹿しいと思う、心底疲れた。けれど、今ここに一人、ベッドに倒れこんでいることに安堵もしている。
 冷たいドアノブを掴んで震えた心は笑いたくなるほどの馬鹿馬鹿しさと泣きたくなるほどの安堵だった。

 

「はぁー、」
 

 自分の溜め息が消えた後、外から笑い声が聞こえた。男女の声がやけに耳に響く。楽しそうだ。この瞬間、こんなに楽しくなさそうに溜め息を吐いてるのは世界で自分だけなんじゃないだろうか。そんなことを思ってしまう。
 

「・・・・・・お風呂、入らなくちゃ」
 

 重い体を何とか起こした。そういえば昼過ぎまで二日酔いで呻いたのだ。体がそれを今ごろ思い出したのかもしれない。明日は大人しく寝ていよう。たぶん、何もやる気は起こらないだろう。それが、わかる。
 重い体を引きずってシャワーを浴びてその日は眠った。
 次の日の日曜も、一日中布団で過ごした。体のだるさを言い訳にして。


 しかし月曜日となればそうはいかない。眠りすぎてぼんやり痛む頭を冷たい水で無理矢理覚醒させた。朝食と共に昼と、長谷部の朝食を準備して、朝食を胃に詰め込み、身なりの準備に取りかかる。
 コーヒーも新聞も、いつもなら日課として欠かさないがそんな気力もなく家を出た。少しもたついたからだろうか、日課を飛ばしたのに時刻はいつもと同じ時間だった。

 

「おはよう」
 

 会社の前。聞きなれた声が自分を呼んだ。振り返って、笑顔を作る。
 

「おはよう、長谷部くん。朝に会うのは久しぶりだね!はい、これ」
「ああ、ありがとう」
「土曜日はごめんね。っていう気持ちを込めて、今日は朝からお肉も入ってるよ」
「土曜日、あの後大丈夫だったか。ちゃんと間に合ったのか」
「うん、大丈夫だったー。迷惑かけて本当ごめん。後ワックスありがとう。長谷部くんの気遣いのお陰で助かったよ」

 

 はははと笑う自分を長谷部がじっと見つめる。そしてそっと、そうか。と呟いた。
 

「光忠」
「なんだい、長谷部くん」

 

 自分より下にある長谷部の横顔。視線は会社をひたりと見据えていて、長船を見てはいない。太陽の光が会社の窓に反射している、眩しくないのだろうか。
 

「良い店と良い娘を知っている。今から一緒に行かないか」
「長谷部くん。僕、そこ知ってるよ。その店の名前『会社』って言うんでしょ。『仕事』って名前の良い娘達が沢山いるんだよね」

 

 本人は大真面目の可能性もあるが、朝からおかしなことを言う。きっと、長船のいつもと違う何かを察して元気付けようとしているのだろう。長谷部のこういう所が大好きだ。
 

「長谷部くん、バカだよね」
「お前、バカな奴大好きだろ」
「うん」

 

 周りに他の人間がいれば噂が真実として流れること間違いなしの、キャッチボールをしつつ階段で別れる。別れ際に背中をぽん、と叩かれた。感覚は背中に残らず、すぐ消えた。

 長谷部と別れていつも通りの仕事が始まる。心がどうあっても、仕事は出来る。口角をあげて話せば、電話だっていつもと同じ声が作れた。電話先で噂を持ちだしてくる輩もいたが笑って流してやった。会社内を歩くときひそひそと聞こえる話はどうやら自分のものだったと今になって気づいたのは自分でも本当に笑ってしまったが。
 そんな一日を過ごす長船を、ちらちらと、目の前の鯰尾が時折視線を渡してくる。どうしたの、と言いたくて見つめるといつもお互いに何かに遮られる。結局話は出来ないまま、退社時間となった。

 

「お疲れさまでした」
「おっ疲れさまでしたー!」

 

 定時上がりとはいかないが今日は比較的早めに退社することが出来る。
 ちょうど同じ退社時間になった鯰尾と並んで出ていこうとする。鯰尾はこの後予定があるだろうか。なければ食事にでも誘ってみようかと考える。
 鯰尾も女性社員も、恐らく先輩も長船と長谷部の噂を知っている。それでもずっと変わらない態度だった。下らない噂だと、一蹴して怒ってくれたのも実際見ていた。
 職場の人間関係にとても恵まれていると思う。大事にしたい。だから今日の鯰尾の視線が気になった。何か言いたそうにも見えたのだ。悩んでいることや言いたいことがあるなら、聞いてやりたい。自分の心の疲れなんて二の次でいい。
 そう考えている所に、先輩社員が二人の元にやって来て鯰尾ーと呼んだ。

 

「お前、帰るならこれついでに持っていってくれ。資料室の主に」
「ええー!?俺ぇ?」
「お前会ったことないだろう。一回見とけって」
「ないですけど。だって、なんかいつも白い布被って資料室の影に潜んでるって。でも通勤している姿をみたものは誰もいないって聞いたことあります。それホラーじゃないですか!俺、そういうのダメです!」
「いーいから行けって。俺、あのフロア怖ええんだよ。俺、昔から霊感あってさ。あのひんやりする感じ。人もあんまいないし。あー鳥肌立ってきた」
「自分が怖いからって!ずるいですよ!っていうか霊感とか絶対嘘ですよね!?」

 

 二人がわーわーと騒ぎながら書類を押し付け合う。仲がいいなぁと思うが、このままでは埒が明かない。手を伸ばしてその書類を二人から引き抜いた。
 

「え」
「おい、長船」
「これは僕が持っていきますよ」
「いいって、こいつに持っていかせれば」
「ちょっと!あ、でも長船さん本当にいいですよ。俺持っていきます」

 

 先輩の言葉は不服そうだが、長船に持っていかせるのも戸惑いがあるようで鯰尾は書類に手を伸ばしてくる。それを首を振って拒んだ。
 

「怖いのを知ってて持って行かせられないよ。それに、僕その例の資料室の主知ってるから、久しぶりに挨拶でもって思ってね」
「お前、知り合いか?あいつと?」
「彼、一年後輩なんです。いつの間にか資料室の主、なんて言われてるけど。良い子ですよ、一生懸命で、真面目で。仕事に集中しすぎる所もあるけど」
「お前って、ほんと、なあ。色んな変わり者をそこまで褒められるのはお前くらいだって。・・・・・・んじゃあ、そういうことなら頼んでいいか?」
「はい」

 

 悪いなーと言って先輩は自分の席へ帰っていった。隣で鯰尾の特徴ある一本アンテナがへにょんと垂れる。
 

「長船さん、ごめんなさい。俺が最初から受け取っとけば良かった。俺、一緒に行きます!」
「いいよいいよ。気にしないで。本当に顔見たかったし」
「でも・・・・・・」
「だーいじょうぶ。僕、こんなことでぐちぐち言うように見えるかい?」
「全然!!」
「よかった。ね、なら安心して帰ってね。また明日」
「・・・・・・はい!お言葉に甘えます。ありがとうございます、また明日!」

 

 にこっと人好きする笑顔を見せてぶんぶんと手を振りつつ鯰尾は帰っていった。あの笑顔を作れるなら、鯰尾は大丈夫だろう。心配する程のことはなかったようだ。それに安心しながら、長船は資料室へ向かった。
 

  久しぶりに会う後輩は変わらず綺麗な顔をしていてそれを口に出せば、「綺麗とか、言うな」と拗ねられてしまった。そういえば彼は入社当初もこんな感じで、彼の同期達だけではなく、先輩、上司を困惑させていたのを思い出す。
 しかし話せば素直で真面目な好青年。そして仕事が出来るからこそ、この膨大な資料があるこの部屋を一人で任せられている。布を被ったり、いつもの発言など、人から誤解されやすい部分だけが一人歩きして彼の良い所を掻き消されているのはとても歯痒い。長谷部のことと言い、世間っていうのは全く見る目がない、と時々腹立たしくなることもある。
 当の本人はそんなこと気にしている様子もないが。今日も「ここは快適だ。俺は一生ここで働くからよろしく頼む」と人事部である自分にさりげなくお願いしてみせた。そんな権限ないが、いいよ、と言ってしまいたくなる。年下や、子供には弱い自覚がある。彼もそれを知っていて、こういう時ばっかり年下を見せてくるからずるい。
 少しだけ話して資料室を後にする。いつもは遅くまで残っているらしい資料室の彼も今日は用事があるだとかで、足早に帰っていった。白い布をとった彼は世間が望むような真っ当な人間に見える。きっと彼を穿った見方で見ている社員は、彼が資料室の主だとは一生気づかないに違いない。

 

 何となく寒々しい廊下に一人立っている。元々資料室の他には臨時会議室と言う名の空き部屋と倉庫しかないフロアだ。
 人の気配がしない場所は、確かに人以外のものが潜んでいる気になる。と言っても自分はそういうのが全く怖くないタイプの人間なので、なんの怯えもなくこつこつと廊下を進もうとした。その時、背後からぎぃと音がする。何事だと振り向けば、非常階段に通じる入り口から、社員が一人、出てきた所だった。
 顔は見たことがある、しかし名前は思い出せない。そういえば昔、先輩が良い一服場所があると言っていた。全部屋禁煙であるこの会社で、バレずに吸える場所があるのだとか。そのうちのひとつが資料室横の非常階段だったはずだ。一番サボれる、知るものが知る穴場、とかなんとか言っていた気がする。自分は喫煙者じゃないのでうろ覚えだが。
 サボりかぁと思いながら気にせず立ち去ろうとする。長船が顔を覚えなくったって、構わないだろう。上司は意外と部下を見ている。彼には正当な評価が下されているはずだ。

 

「あれぇ、お前、長船じゃねぇか」
 

 足を踏み出す自分の名前を、知らない声が呼んだ。いきなりお前呼び。仮に相手が年上だとしても初対面の人間に対してお前呼び&呼び捨ては如何なものだろう。サボる人間はこういう所も常識がないものなのか。
 

「だよなぁ。その顔、間違いない」
「確かに僕は長船ですけど、何か用ですか?」
「なんだよ、その目。さっすがあいつのオンナだな。似た者夫婦ってか?」
「はぁ?」

 

 一人で下卑た笑いを含んでいる男に、ごく自然と冷たい声が出た。間違いなくあいつとは長谷部のことだ。そして、この男は長谷部を敵視している。それが態度と言葉に滲み出ていた。
 

「なぁ、あいつはそんなにいいか?そんなでかい図体したお前がオンナに成り下がるくらい?」
「言ってる意味がわかりません」
「そんなに凄んで見せても夜はあいつの下でひぃひぃ泣いてるんだろ?ははは!!」
「はっ、馬鹿馬鹿しい。失礼します」

 

 言葉が通じない相手と話す時間など持ち合わせていない。迷わず男に背を向けて歩き始めた。
 

「待てって。いいのか、人事部が汚い手を使って自分の男、昇進させるなんて」
 

 男が腕を掴んで引き留める。
 何も言わず振りほどけば、ちっ、つまんねぇのと吐き捨てた。

 

「乗ってこねぇんだな。長谷部の野郎もそうだった。せっかく噂流したのに、つまらねぇ」
 

 その言葉にこつこつ鳴っていた自分の靴が止まった。
 

「いいけどよ。噂にしちゃ中々いい広まり具合だ。あーあ何であいつの昇進前に思い付かなかったかねぇ、俺は。もう少し早くしてればあいつの昇進もなかったのかも知れないのに」
 

 ぶつぶつと男は言う。長船が近づいていることも気づいていない。
 

「腹立つぜ。あんなくそ生意気な年下に俺が越されるなんてよ、何の為に俺が」
「思い出した」
「あ?」
「あなた、結婚されましたよね。一年前くらいに」
「そ、それがなんだよ」

 

 何で知っているとは言わなかった。人事部がある程度社員の情報を把握していることは知っているようだ。しかし、自分の事が人事部に知られているというのを重要視していないのは愚かとしか言いようがない。仕事や評価だけじゃない、ある程度のプライベートだって人事部には集まってくる、だから人事部は中々他の部署と交流を持てない。人事部が社員の事をなにか零せば、ほぼ真実だと認識されてしまう。それは噂レベルではない。
 

「相手は確か、うちの役員の遠い親戚のお嬢さんだったはずだ。なるほど、出世を狙って結婚したのにも関わらず、自分が気にくわない年下の男にあっさり立場を抜かれて悔しいんですね?」
「な!」

 

 男が愕然と長船を見る。よく顔が見えた。そうか、この男があの噂を流した張本人か。腹の底が冷えていく。噂自体はそこまで気にしていないつもりだったが、そうでもなかったらしい。第一あの噂がなければ鶴丸からあんなことを言われることもなかったのだ。長谷部を陥れようとしたのも気に食わない。そう思えば自分でも知らないうちに笑顔がにっこり作られる。
 

「役員の直接の家族には到底なれない。でもあわよくば目をかけてもらえるかも。狡猾な考えで結婚したものの、その恩恵は全く得られない。そりゃあ、イライラもしますよね。その上、欲求不満じゃあ、倍増だ」
「な、何がだよ。欲求不満ってどういう意味だ」
「どういう意味?そのままでしょう。あなた、奥さんに夜のお相手されてないんじゃないですか?」

 

 自分より大分下にある固まる男の顎を人差し指ですっと掬って持ち上げた。そして唇を近づけて囁く。
 

「だから僕を厭らしい目で見てたんですよねぇ?」
「は、はぁ?なに言ってんだ、頭おかしいだろ」
「だってそうじゃないとおかしいでしょう?どうして僕の方がオンナだと思ったんですか?僕の方が彼より大分身長も高い。僕達が付き合っていると聞けば、大抵の人は身長が低い彼を女性役と見なすはず。そして、そっちの方がきっとダメージは大きいんだ。オネェと言ってしまった方が皆連想しやすいから。でも、あなたは、わざわざ、僕をオンナだと指名した。それってどういうことかわかります?」
「っ、離せ」
「あなたが僕のことをそういう目で見てたってことですよ」

 

 目の前にある耳に息をフッと吐き出せば、ひっと声が上がった。情けない声だ。
 

「彼を蹴落としたいなんて建前でしょ?あなたは僕に一番近い彼が羨ましかったんだ。最初から、そう言ってくれればよかったのに」
 

 男がどういう意味だと震える声で問いかけてくる。笑うのはまだ我慢した。
 

「なってあげますよ、あなたのオンナに。あの噂、あなたと、僕のものにしましょう。ああ、噂じゃないですね、事実だ。ふふ、奥さんへの挨拶はいつ行きましょうか、今から、行きます?」
 

 指を顎から頬へと滑らせる。怯える目を上から見つめて笑顔をより深く刻んだ。
 

「っ、ふざけるな!誰がお前なんかと!このホモ!」
「あはは、残念っ。ま、でもまだ噂を流すつもりなら気を付けて。僕はね、噂の相手は本当に誰だって構わないんですよ、彼でも、・・・・・・あなたでもね」

 

 そこで笑みを消した。暗にこれ以上変な噂を流せば自分の立場も危うくなると、伝える。今度は『本人から会社中に宣言』されるのだ。しかもいつもは社員について黙している人事部が。噂とは違う。そして男は遠い親戚とは言え役員の家系に入っている、顔を汚したと会社を辞めさせられることになるのは明白だ。
 男は一層強く震えて、顔を青ざめさせる。潔く敗けを認めたようだ。

 

「くそっ!」
 

 捨て台詞にもなれない感情だけを吐き捨てて男は去っていった。あっさりと帰るものだ。すみませんでしたと謝罪のひとつもない。別に構いはしないが。
 

「事実を流したくなったらいつでもどうぞー。あなたが世間の目に耐えられるなら。まぁ、無理だろうけどね。・・・・・・っはは、あっはははは!!!」
 

 誰もいなくなった廊下に長船の笑い声が響く。怪しすぎると思ったが止められない。
 

「あの顔!!まるで人を人喰いみたいにっ、あははっ、くくっ、はははは!!」
「やけに楽しそうだな、長船くん」
「、っ!?」

 

 体を折り畳んで、一人廊下で笑っている。そこに声を掛けられた。先ほど感じた人成らざるものだろうか。ああ、それならよかったのに。だけど、この声は人間の、一人の男の声だ。
 どうか違いますようにと思いながら恐る恐る振り向く。見つめる先には足の透けた幽霊、なんてものは当然いなくて。しかし幽霊なんかよりよっぽど会いたくない人間が立っていた。

 

「つ、鶴丸さん・・・・・・」
「土曜ぶりだなぁ、長船くん。いやはや、元気そうで何よりだ」

 

 かつ、かつ。と鶴丸がゆっくり歩いてくる。誰もいない廊下に一人でいるのはあんなに平気だったのに、歩いてくる鶴丸が今はとても怖く感じる。
 鶴丸の目が笑っていない。

 

「資料室に用があって来てみれば。今の、中々面白いパフォーマンスだったぜ。近くで見ていて圧巻だった。くだらない冗談も交えての、驚きある見世物だ」
 

 ゆったり歩いて、目の前で止まった。そのまま静かに手を伸ばす。緩やかな動作からは考えられないほど強い力で腕を捕まれた。
 

「痛っ」
「だが残念だ。俺は笑えない冗談、は好きじゃない。・・・・・・何故あんなことを言った。あんな煽るようなことを言って、相手が本気にしたらどうする」

 

 痛いと訴えるのも構わず、力を込め続けてくる。そしていきなり説教だ。相手が怖いとは言え、さすがにムッと来る。
 

「本気?本気って何でしょう」
「君を抱けると勘違いするってことだ」
「抱く?僕を?それこそくだらない冗談だ。見てたでしょ、あの怯え様。未知の人種に会ったような恐怖と拒否反応。あれは煽ったんじゃなくて脅したんです。あなたも未知の人種のレッテルを貼られるんだぞってね。それが怖くてあの男は逃げ去ったんですよ」
「・・・・・・何もわかってないな、君は。あの怯えはな、外的要因からじゃない、内的要因からだ。だから下手をすれば相手は本気にする、と言った」
「意味がわからない。それにどうでもいいことだ。誰が何をどう本気にしたって、トチ狂って僕に触れてきたって、そんなの振り払うだけ」

 

 鶴丸の言葉の意味がわからない。意味を理解したいとも思わない。早く鶴丸から離れたい。土曜日に存在していたはずのふわふわしていたものが、今は最初からなかったかのように冷え冷えとしたものだけが胸の中に座っている。
 

「僕、喧嘩強いんで。自分の身は自分で守れます。そんな、同じ部署でもない、会社の先輩に。心配して頂くことなんて何もありませんから」
「・・・・・・ほぉ?」
「だから、痛いって!っ、うわっ」

 

 強く捕まれた腕がギリギリと締め上げられる。我慢出来る強さを越え、強めに声をあげたが、そのまま腕ごと体を引っ張られていく。
 

「な、なに。なんだよ、離して」
「・・・・・・」

 

 つかつかと鶴丸が前を歩く。何処に連れていかれるのか、そう思った矢先、鶴丸が横に曲がった。このフロアにある唯一のトイレだ。
 鶴丸は何も言わないままそこに入っていく。途中入り口の隅に立て掛けられていた清掃中の看板を後ろ足でガンッ!と蹴った。

 

「わっ、ちょ、ちょっと!」
 

 長船が寸での所でよけると、倒れた清掃中の文字が男子トイレをひとつの空間として廊下から隔離した。
 見慣れた男子トイレのはずなのに一気に見知らぬ地に来たような違和感を覚える長船を掴んだまま、鶴丸は一番奥の洋式トイレの個室に入った。捕まれたままの長船も追うように入るしかない。

 

「っ!?」
 

 個室に足を踏みいれた瞬間、洋式トイレのタンクに押し付けられる。蓋がしまっていてよかった。清掃が行き届いている綺麗なトイレとは言え、便器の中に膝を突っ込むのは勘弁願いたい。
 一瞬の安心の後、がしゃんと言う音で我に返る。振り向こうとした所に捕まれたままの腕が背中に周り、締め上げられた。

 

「い、っ!」
「自分の身は自分で守れるんだろ?なら、そうしてもらおうじゃないか」
 

 便器の上に乗り上げた長船の片膝と足を押さえるように、鶴丸の片膝が乗せられる。咄嗟にタンクへ手を突いて体を起こそうとした途端、背中で締め上げられている腕を更に引き上げられた。
 痛みに抵抗することが出来ず、上半身はトイレのタンクへと押し返されてしまった。

 

「下手に動くと痛い目見るぜ。もっと上手に抵抗しな。そうしないと、こうやって、」
「っ、何、を・・・・・・」
「自分の体を好き勝手されてしまうぞ?」

 

 柔らかさの欠片もない冷えた鶴丸の声に身を竦ませるのとは別の理由で体が動く。鶴丸の右手がスラックスの布越しに長船の太ももを這う、その感触。
 さっきまで鶴丸の右手に腕を捕まれていたのにいつの間に、と驚く暇もない。
 太ももから上に向かってゆっくり上がってくる手は、前に背中を叩かれた時と同じようにやけに感触を残していく。布越しなのに肌を這う感触がねっとり、と感じて体が震えた。

 

「やめ、」
「震えている場合か?口先だけで否定しても相手を付け上がらせるだけさ」

 

 そして鶴丸の手が腰へと触れて、そのままカチャカチャと音を立て始めた。その音が長船のベルトを外そうとしている音だと、わかった。ここまでくればこの状況の意味がわかる。わかるしかない。
 わかったからといって冷静になれるわけもなかった。どうすればいい、混乱した頭で考える。焦りからまともに頭が回らない。
 その間にも鶴丸の手は進んでいく。片手のわりにあっさりベルトをはずし、ファスナーのジジジ、と乾いた音がする。
 嫌だと思うのに、どうやってこの状況を抜け出せばいいか思い付かない。声を上げればいいか、しかしこのフロアには今誰もいない。偶然誰かが通って長船の声を拾ってくれるとは考えにくい。もし、運良く通りがかったとして、その後のことを考えれば、声が出なくなる。だって、もし誰かにこうやっているのを見られてしまったら――。
 結局腕を掴んでいる鶴丸の力が弱まるのを、待つだけになってしまう。機を窺って、されるがままになる。
 けれど鶴丸は待たない。ファスナーから離れた右手は、なんの障害もなく下着の中へと滑り込んだ。

 

「ひ、」
「こんな簡単に侵入を許すとはな」

 

 冷たいのに、怒っているのがわかる声。なのに長船の中心に直接触れている手は、すごく熱い。その熱が下から、上へと長船を擦りあげていく。乾いた手で強く擦っても、摩擦で痛みを感じるはずなのにそれがない。
 下から聞こえる、布や、考えたくないない何かが擦れる音に紛れて僅かに、ぬるついた粘着音がした。鶴丸が直接触れたのは今しがたなのに。その事実に、熱が頬を叩きつけた。

 

「っぁ、なん、で・・・・・・ちが、違う」
「きみ、・・・・・・」

 

 鶴丸の手が動く。今度はぬちゃと、はっきり聞こえる。一度だけではない。鶴丸の手が動く度に、厭らしい音がする。
 男だから刺激されればそうなる。これは生理現象だ。固く、高度を増す自分をそう納得させる。仕方がないこと。これが、この手が鶴丸でなくったってこうなっていた。絶対。だから、違う。違うのだ。

 

「っ嫌だ、違う、ひ・・・あっ」
 

 鶴丸は何も言わなくなった。ただ手だけが長船を攻め立てている。タンクにしがみついている手で、そこに爪を立てた。けれどつるりとした表面は力を込めることを許さず、体の震えを逃がさせてくれない。ぬるつきはひどくなる一方だ。
 トイレの白いタンクが、この場所で、こんなことをしている現実を突きつける。それが嫌で逃げるように目をぎゅっと閉じた。こんな今を、すべて否定したい。

 

「あっ・・・!」
 

 けれどそうすることで、聴覚と触覚が敏感になる。
 トイレ内に響く音が広がり、触れる鶴丸の手の熱さが、握り擦る、塗りつける手と指の形が良くわかる。
 鶴丸の手。ぐちゃぐちゃで、訳がわからなくなっているくせに、何故か頭の中に、文字が現れる。
 丁寧な線、長船くんから始まり鶴丸で締められたメモに並ぶ綺麗な文字。それを書く手はきっと紙の上を優雅に舞っている。次に浮かぶのは美しい箸使いの手だ。白い肌、白魚のような手、けれど節や浮かび上がる筋は男らしいそれ。その鶴丸の美しい手が、今は自分を擦りあげ、快楽の先走りで汚れている。

 

「い、嫌だ!嫌だ、こんなの!!」
 

 ぞわぞわと背中に何かが走る。初めての経験じゃないからそれが何か、わかる。
 

「くっ、ぅ、」
 

 体は意志とは逆で、この滾りを早く解放したいと熱を暴れさせる。今も、鶴丸の膝が、便器に乗り上げている長船の足を押さえていなければ、擦ってくる手が少しでもスムーズになるようにと膝をずらして足を広げてしまっていただろう。足の動きで鶴丸にはそれがわかってしまったかも知れない。
 それを生理現象だと、鶴丸以外でもこうなるとは、もう言い難い。だってこんなにも、頭の中があの美しい手で溢れているのだから。しかしそれを認めたいとは思わないのだ。

 

「あぁっ・・・!嫌だ!離、せ、っはなして!!」
 

 もはや懇願をした。この手の中で達してしまえば頭の中だけでなく、心までもぐちゃぐちゃになってしまうのがわかっているから。足ががくがくと必死な自分を嘲笑っている。もう、限界が近い。
 今まで黙って、手の動きを早く、的確に動かしていた鶴丸が、ようやく手以外に大きく動いた。背中にひたりとくっついていた鶴丸の体が一層密着する。熱さが伝わるような息が、耳元に触れた。

 

「おさふね、」
 

 一言。さっきまでの冷たさを溶かしきるどころか、湯をたぎらせるくらいの熱い、声。それが耳から長船の体の中に入り込んだ瞬間頭が真っ白になった。
 

「っ――!!!」
 

 気づけば背中を仰け反らせて体全体を大きく震わせていた。閉じていた目は勝手に開いて認識できないトイレの天井をただ眺めている。
 

「ぁ、あ・・・・・・、」
 

 体の震えが小さくなって、途端に身体中の力が抜ける。反っていた背中は骨が抜けたかのようにくにゃりとなり、正面の白いトイレタンクにしがみついた。
 自分の荒い息が聞こえる。肩で息をしながら、突いた手に顔を伏せた。ぐちゃぐちゃだ、もう、何もかも。
 そうしているとまたファスナーの上がる音と、カチャカチャとしたベルトをつける音がする。自身に触れる下着の生地は、濡れていない。長船の体液はたぶん、鶴丸の手が受け止めたのだろう。
 背中の密着と手の拘束が解けた。長船も自分で立てるくらいの力が戻っている。

 

「・・・・・・長船、すまない、俺、」
 

 声を掛けられた。正気だとわかる声が続きを言う前に振り向いて、その発信源に拳を叩きつけた。
 

「ぐ、っ!」
 

 いつもの半分の威力もない。それでも今の全力の力だ。鶴丸はトイレの壁に背中を叩きつけられた。心配なんてしない。営業の顔を殴ってしまったとか、傷害罪だ、なんてことも頭の外に飛んでいっている。
 

「嫌いだ!!貴方なんて、大嫌いだ!!!」
 

 痛みに歪む顔に、そう罵声を浴びせた。子供か、と自分で思うくらいのストレートな言葉。鶴丸が目を見開いたのを見捨てて、そのまま個室を飛び出した。
 清掃中の看板も飛び越えて、誰もいないのをいいことに廊下を走った。走りながら片手で自分の髪をぐしゃぐしゃと乱す。いつもなら絶対しない。だけど今は滲む視界を前髪で遮りたかったし、こんな顔を誰にも見せたくなかった。誰も自分を長船だと気づかなければいい。それが叶うなら、髪型が崩れることもいとわなかった。
 悔しい、そう心の中で叫ぶ。何が悔しい?男として惨めなことをされた!だから悔しい!と心の中で、自分自身が会話をしている。その感情は本当に悔しいの?鶴丸が自分の強い意志ではなくトチ狂って自分に触れてきたから、それに反応してしまったから、悲しいんじゃない?と自分の知らない自分が知ったような顔して言ってくる。前髪を更にぐしゃっと乱すことでそんな自分を掻き消した。
 髪形を崩したことが功を奏したのか、はたまた運が良かったのか、会社を出るまで誰かに声をかけられることも、知り合いに出くわすこともなかった。ホッとする間もなく足早に進む。このまま電車には乗れない。足は、人気の無い方へと勝手に進んでいく。
 夜へ、暗闇へ。自分がどこを歩いてるかわからない。暗ければいいのだ、人がいなければいいのだ。人の声がするのと反対の方へ歩いていく。楽しげな笑い声や喧騒が遠くなった所でやっと、立ち止まる。顔をあげればそこは、土曜日に鶴丸と待ち合わせをした公園、鶴丸を見つけた噴水前だった。
 愕然と立ち尽くす。街灯は長船を待ちくたびれたのか、何本かがちかちかと一瞬点滅した。
 噴水に一番近い街灯はそんなことはなく、健気に誰も待っていないその場所を照らしている。
 数日前。そこに、鶴丸が立っていたのだ。待ち合わせの三十分以上も前から。きっと、そわそわと。長船が来るのを子供のように楽しみにして。

 

「どうして・・・・・・」
 

 そんなことを思い出してしまうのだろう。さっき、大嫌いだと罵ってきたばかりなのに。
 大嫌い。違う。その言葉でしか、長船自身の渦を巻いてぐちゃぐちゃになった感情を鶴丸に伝えることが出来なかった。本当に嫌いであれば、今こうして街灯下の白い背中を思い出したりするだろうか。
 街灯の白とその場所が、ぼんやりとゆらゆらと揺れる。水の膜で歪んでいく。

 

「どうして?・・・・・・もうやだ、もう全然、わからないよ」
 

 その場で蹲りそうになったその時。
 

「長船!!!」
 

 人気のない公園に、自分の名前が響く。街灯下を見ても誰もいない。では、どこから、と背後を振り向く。するとそこには、息を切らせている鶴丸がいた。
 その姿に、怯えてしまう。

 

「ここに来たのか、長船」
「来るな、」
「さっきは悪かった。俺、怒りでまともじゃなくて、」
「来るなってば!!」

 

 鶴丸が腕を伸ばしてくる。掴まれる前に後退った。
 

「なんで来るんだよ!嫌いだって言っただろ!嫌いなんだよ、貴方のことが!僕はもう貴方に関わりたくない!放っておいてくれ!」
 

 嫌いじゃないのに、来てほしくなくて嫌い嫌いだと叫ぶ。帰って欲しい、来ないでほしい。揺らいだ視界と同じように揺れている心をこれ以上刺激しないでほしいのだ。
 

「・・・・・・それは、できない」
 

 鶴丸が首を振る。それが苛立たしい。どうしてと地団駄を踏みたくなる。
 

「なんで!僕と貴方はなんの関わりもない!なのに、なんで!」
「・・・・・・」
「何なん、だよ・・・・・・」

 

 喚く自分に黙りこむ鶴丸に力もなくなる。最後は呟くようになってしまった長船を、鶴丸は視線をあげて見つめた。子供のようなキラキラ、ではなく、真っ直ぐと一直線の光が宿っている。
 

「君が、気になっている」
「・・・・・・は、」

 

 言われた言葉が頭をノックする。けど中には入れない。
 

「君と電話で初めて話した日からずっと、君が気になっている。だって君は、たぶん、俺の、」
「まっ、待って、」
「いや、自分でも曖昧なままの気持ちや言葉を相手に委ねるのは卑怯だよな」

 

 人の制止も聞かないで鶴丸は自分を納得させる言葉を探す。その言葉がわかってしまう自分はエスパーかなにかだろうか。
 でも本人の口から聞くまでは、確定じゃない。だから耳を塞げ、ここから走り去れ、と自分に命令をする。なのに、手も、足も張り付いている。唇も制止の言葉をやめてしまった。
 鶴丸の唇が動くのをただ見つめている。

 

「俺は、君が好きだ」
「、」

 

 鶴丸が、言ってしまった。
 ぐちゃぐちゃになっていた渦が止まり、それを収めていた部屋全体が大きな音を立てて振動し始めた。あまりの力強さに、痛い程。

 

「君が好きだから、食事に誘った。噂も信じちゃいなかったが、でももしかしたらと不安だったんだ。君を不快にさせてしまうと分っていても、君の口から違うと否定して欲しくてあんなことを聞いた」
 

 鶴丸は迷いもなくまっすぐ立っている。疑いようのないまっすぐさで気持ちを伝えてくる。
 

「さっきも、君が相手を煽るような、他の男を誘うようなことを言うもんだから腸が煮えくり返ってな。何より、自分を貶めるような発言に聞こえて、許せなかったんだ。だからって、俺のしたことが許されるとは思ってないが」
 

 すまなかった、と頭を下げる。長い礼の後、鶴丸は姿勢を正した。そして深呼吸をして、もう一度、ひとつひとつの言葉を間違いなく伝えるように、声を出す。
 

「長船。俺は、君が好きだ」
 

 そんな声で、そんな視線。鶴丸の視線に射抜かれて身動きがとれない。
 

「・・・・・・君は、俺をどう思っている。やっぱり、大嫌い、か?」
「僕は、・・・・・・っ僕も、」

 

 その後の言葉を続けようとした。
 だけど、声は出てこない。
 遠くから男女笑い声が聞こえた。それをスイッチにして甦るのは、下卑た笑いやひそひそ話。蔑みを含んだ冗談や面白がる声色。
 それは、架空の噂話に絡み付く意志。嘘の話で作られた自分へのレッテル。
 そして次に浮かんだのは、何時ぞやに見た隅に追いやられている記事。並んだ女性二人の名前。彼女達と同じように"そうであること"を世に知らしめるその部分、そこに自分の名前が載る。普通じゃない、間違った感情を持ってしまったと、世間に知られる自分の名前。そんな光景が思い浮かぶ。そしてその記事を見た誰かがガムを吐き出すように、「すごいな」と笑うのだ。
 ぞくりと背中に悪寒が走った。さっきまで痛い程鳴っていた心臓に、冷や水をかけられたように感じる。

 

「長船?」
「!」

 

 伸ばしてくる手を咄嗟に裏手で払った。思いの外強くなってしまった手は、ぱしん!と音を立てて鶴丸へ拒絶の意志を伝えた。
 

「無理だよ」
 

 鶴丸の顔が見えないよう、見えない理由を作るように左手で顔を覆った。ぶらりと下がった右手の甲は、じんじんとした痛みを風に撫でさせている。何故だろう、さっき鶴丸の顔を殴った時より、ずっと、ずっと痛い。
 

「無理だよ」
 

 繰り返した。今度は自分に言い聞かせるように。
 

「・・・・・・・やっぱり、気持ち悪いか」
「違う!そうじゃない!」

 

 静かな声。離れた所から聞こえる楽しげな喧騒に隠れて、そのまま溶けてしまいそうな声色で鶴丸が呟くのを強い口調で否定した。
 自分を好きだと言った鶴丸を気持ち悪いとは思わなかった。思わなかったから自分はこんなにも冷たい、ざわざわとしたものを抱いている。
 痛みが多少和らいだ右手で心臓を掴んだ。

 

 この感情を何と言えばいいのだろう。嫌悪?おぞましさ?違う、そうじゃない。鶴丸の呟きを否定した言葉に嘘はない。
 好きだと言われて本当は、本当はとても嬉しかったのだ。一瞬世界が鶴丸で溢れたように感じるくらい。
 美しいものに触れる時のような、儚く尊いものに手が触れるぎりぎりのその一瞬までのような。その時に訪れる胸の鼓動が、鶴丸の好きだという一言によって自分に与えられた。
 けれど、そう。自分はそれに触れることをしなかった。伸ばしかけた手を引いた。
 その鶴丸の気持ちが、喉から手が出るくらい欲しくて欲しくてたまらない癖に。
 何故?自分の問い掛けによって、怖いからと。その感情に、気づく。美しく、儚く尊いものだとわかる鶴丸のその感情に、自分の感情や衝動のまま手を伸ばすのがひどく恐ろしい。
 自分が触れれば壊してしまいそうだとか、そんな他を思いやる恐怖ではない。
 鶴丸の感情に手を伸ばし、それを受けとることで、他と違う人間になるのが怖いのだ。後ろ指をさされ、ひそひそと笑われ、異端だと言われるのがたまらなく怖い。
 長谷部との関係を噂されたり、さっきの男を陥れる為の噂とは違う。もしまた他人から、異端の、同性愛者のレッテルを貼られれば、自分はもう笑って流すことは出来ない。
 何故なら今度は「本当のこと」だからだ。事実を指摘され、それを蔑まれれば、自分はどうすればいいのだろう。正せない間違いを糾弾されるのは、恐ろしい。
 そう、自分はずっと怖かったのだ。鶴丸と初めて電話で話した日から。鶴丸と言う"男"に惹かれていくのが怖かった、自分が普通の人間じゃなくなっていくのが怖かった。
 鶴丸と接触が持てれば心が踊り、それに気づかない為に心が疲れた。正体不明の衝動や空回りだって、鶴丸に惹かれていたからだとわかれば納得が出来る。それと同時に、鶴丸との食事の後、一人ベッドへ倒れた時の安堵の正体も。冷えた心は、自分は男を好きになったわけじゃないと長船を慰めてくれた。
 ずっと、鶴丸の声を初めて聞いた日から。気づきたくなかった、鶴丸に惹かれていく自分に。

 

「だって、男が男を好きになるなんて、」
 

 普通じゃないからと言いかけて、止める。今それを言うのは自分だけじゃなく、鶴丸の気持ちも否定してしまうことになる。鶴丸の気持ちを受け取りもしない自分に、そんなことする資格はない。
 迷って、口を開く。

 

「・・・・・・貴方は、優秀な人だ。社会的にも価値のある人。それを、こんなことで無駄にしないで」
「こんなこと、・・・・・・無駄」

 

 長船の言葉を部分的に繰り返す。それに頷きながら、自分はなんて卑怯なんだろうと思う。長船が鶴丸の気持ちを受け取らない理由を全て鶴丸に押し付けた。
 鶴丸が男の自分を好きになったから、鶴丸が世間から後ろ指さされてしまうから。だから、その気持ちを拒んだのだと言外、そう言った。本当は自分が怖いだけの癖に。自分の保身のために全部から逃げたいだけなのに。
 鶴丸は、長船を見ている。言葉の中にある、長船の卑怯さに気づいているかはわからない。その目はまだ曇らない。気持ちを拒まれたにしても、長船の卑怯さに幻滅したにしても、真っ直ぐな目が変わらないことに、心が揺らぐ。

 

「ひとつ聞いてもいいか」
 

 鶴丸が一歩近づいた。
 

「君は、俺のことを、」
「聞かないで。こたえられないから」

 

 答えられない。応えられない。首を振ってそれを伝える。自分の気持ちに気づいた今、嫌いだと言っても、きっと反対の気持ちが透けてしまう。鶴丸に対する気持ちはひと欠片でも、自分の口から吐き出すことは出来ない。
 

「なら、質問を変える。俺の気持ちは迷惑か」
「・・・・・・」

 

 迷って、迷って、言葉が出てこない。
 何も言えなくて、鶴丸がここに辿り着く直前、そうしようとしていたように、その場に蹲る。両膝の上に腕を組んでそこに顔を伏せた。長く息を吐く。
 今度もこたえない長船を急かすこともなく鶴丸はそこに立っている。顔を伏せた自分を見ている。
 長船は迷ったまま、伏せた頭をふるふると振った。
 鶴丸の好意は気持ち悪くない。でも受け取れない。全部鶴丸の為だ。こんなことで鶴丸の人生を無駄にしないでほしい。だけど鶴丸の気持ちは迷惑でもない。
 全て、この短い間に鶴丸へと伝えたこと。最低だ。救えないほど、卑怯で身勝手だ。
 鶴丸に自分のことを好きでいてほしい。自分は怖くて応えられないけど、なんて。
 伏せた顔を上げられない。鶴丸を見返すことさえ許されない気がする。この丸まった体を鶴丸が、調子に乗るな!と蹴ってくれればいいのに。
 だけど歩幅一歩分前にいる鶴丸から、フッと、笑ったような気配がした。そして、革靴のカツンという音が近づいた。鶴丸の気配も。

 

「それが知れたなら、いいさ」
 

 そして、伏せた頭にふわっと、温もりが訪れる。鶴丸の美しい右手。さすがに清められているらしい右手が、ぼさぼさの髪を優しく撫でた。
 

「苦しめて、ごめんな。悩んでくれて、ありがとう」
 

 その言葉と最後にもう一度、優しく頭を撫でる感触。この世に生まれた愛を、初めて辿るような手つきだった。そして、その手が離れた。
 

「っ、鶴丸さん!」
 

 顔を上げた。名前を呼んで何を言おうとしたのかわからない。わからないけど、鶴丸の名前を呼んだ。
 だけど、そこに鶴丸の姿はない。消えたと言われても不思議じゃないくらい跡形も無かった。既に去ったようだ。余りの素早さに、ポカンと誰も居ない空間を見つめる。

 

「・・・・・・そうだよね、ここにいる理由、ないよね。仕事の途中だったみたいだし、・・・・・・僕、拒んじゃったし」
 

 鶴丸がいなくなったとわかった瞬間。薄暗い街灯の白とそれを拒み闇に隠れる卑怯な黒が限界なくらいゆらゆらと揺れ、ぼやけていった。
 

「ぅ、う"ー」
 

 子供みたいな涙声の唸り。眉を寄せた瞬間、盛り上がった涙が目からひとつ零れた。それをきっかけに次から次へと、とめどなく涙が溢れていく。
 情けない、格好悪い。こんな自分は嫌だ、みっともない。そう思うのに、その辛さより強い心の痛みが涙を流し続ける。

 

「・・・・っ怖いんだ、・・・・・・好き、なのに。普通じゃないってわかってる、っく、なのに、何で、好きになっちゃったんだ。・・・っ・・・ぅ、好きだよ、貴方が、好きっ。だから、怖いよ!」
 

 この気持ちを蔑まれるのは耐えられない。鶴丸を思う気持ちを踏みにじられるのは痛い。鶴丸を好きでいることを間違いだと言われるのは怖い。
 

「すきでいて、おねがいだ、僕を、すきでいて。つるまるさん!」
 

 誰もいないのをいいことに公園で踞ったまま、大泣きをした。好きでいてと怖いを繰り返して泣き続けた。誰もいない世界ならこんなに素直になれるのに。そう思わずにはいられない。だけど世界には人が溢れている。今だって遠くで声が絶えず聞こえてくる。楽しそうな、はしゃいだ声で騒ぐあの男女達がこの世界の正しい姿。正しいを、暗い公園で独り、間違ってしまった長船が聞いている。なんて惨めだろう。でも間違った自分に相応しい姿だ。
 終電の時間になるまでそこにいた。でも電車には乗れなくて、タクシーを掴まえた。俯いて黙り込む長船を運転手は酔っぱらいだと勝手に勘違いしてくれたことだけが唯一の救いだ。これが、好きな男をフって大泣きした姿だと運転手が知れば蔑むだろうか、大笑いをするだろうか。そんなことを考えながら長船は窓に写る世の中の景色を拒むように目を閉じた。黒い窓に映る自分さえ今は見たくない。

 

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