次の日。
長船は昨日と同じように出社した。最近は前より遅い時間の為、出社のタイミングが鯰尾とちょうど一緒となった。鯰尾にしたら早い時間ではあるが。
始業前に給湯室で共に二人分のお茶を煎れる。
「長船さん、どうでした、昨日?長谷部さんに話し聞いてもらえました?」
「鯰尾君、長谷部くんと知り合いだったんだね。びっくりしちゃったよ」
「そんなことより!ね、長船さん、笑ってみてください。笑顔、笑顔!」
「えっ、えっ?こ、こうかい?」
「うーん、まだダメかぁ」
鯰尾にいきなり二本の人差し指で口角を上げられる。それに表情を合わせてみたが鯰尾は納得しない様子だ。
「どうすればいいんだろう。俺、あんまり悩んだことないからわからないんだよね~。わからないなぁ。わからないけど、情報って大事だよね」
「おーい、鯰尾君ー」
「仕方ない!俺の偵察力で入手した情報を発表しちゃいましょう!ね、長船さん!」
「わっ、びっくりした」
今まで盛大な独り言を披露していた長船が今日に顔を近づけて来るものだから驚いてしまう。今日の鯰尾はいつもに増して元気がいい。若いっていいなと年上の人間に聞かれたら怒られそうなことを思う。
「この間から売り出してるうちの商品あるじやないですか」
「あるね」
「あれ、うちの会社にしては前代未聞の売り上げらしいですよ!」
「らしいねぇ」
「ありゃ、驚きませんか」
「そりゃあ、自分ちの会社だもの」
商品開発部門にいる長谷部が忙しいのもそれが理由のひとつになっている。想像以上の発注に商品の製造を急ぎつつ、売れているこの商品のバリエーションを増やそうと大わらわなのだ。
「営業一課がこの商品担当してるじゃないですか」
「してるね」
「一課の壁見ました?各人の売り上げが貼ってあるんですけど。っていうか今時まだあんなローカルなことしてるんですね」
「その時の営業部長の方針によるみたいだけど、ああした方が売り上げいいみたいだね。目に見える方が皆焦ったり、やる気出たりするみたい」
「あ、わかります!俺、子供のころからご褒美がある方が頑張れましたもん」
「うん?うーん、まぁ、それと一緒、かな」
人って目標があれば意外と大変なことでもぴょーんと飛び越えちゃうものですもんね!と笑う鯰尾は、きっと幼い頃からそういう感じだったのだろう。細かいことは気にせず、前を向いて一生懸命な彼らしく。
「じゃあ、あの人もなんかご褒美があるのかも」
「報奨金は出るだろうね」
「そうですよねー!だって本当に一人だけぶっちぎりでしたもん、鶴丸さん!」
「・・・・・・さすがはエースって、ことだね」
「すごいですよ!たぶん歴代売り上げナンバー1です。長船さん、売り上げ成績今から見に行きません?ほんと、もう、笑っちゃいますから」
「いや、僕はいいよ」
「そうですかー、じゃあ俺もやめときます」
長船が断ると鯰尾はあっさり引いた。煎れたお茶を持って、給湯室の入り口に立つ。後ろから着いて行く形になる長船に向かって優しく微笑む。いつもとは違う表情におや、と思う。
「俺、努力は報われてほしいタイプです」
「そうだね、僕もだ」
「後、良い人には良いことが訪れてほしいタイプ!」
「っはは。それも同じ」
「ね!大丈夫、世の中そうなるように出来てますから!厳しいことばかりだけど、世界ってちょっとだけ、優しいものでもあるんです。うちの兄弟達も言ってました。・・・・・・だから、今日も一日頑張りましょうね、長船さん!」
「うん、頑張ろっか」
鯰尾の言いたいことはよくわからなかったが、にかっと笑う笑顔は朝からの活力の源にしては十分だ。早帰りデーだった昨日の分の仕事は今日に残っている。仕事の手を抜いていたつもりはないがなんだか妙に仕事が溜まっている気がした。昨日の長谷部や、見知らぬ青年。そして今の鯰尾のお陰でちょっと気力が戻っている。今日は少し遅くなってもいいから仕事を片付けようと決めた。
皆がお疲れさまと言って帰っていったのが数時間前。人事部どころか会社内でも残っているのは数人だろう。仕事の終わりにも目処が立ち椅子にもたれ掛かって伸びをする。
「はぁ、」
腕をだらんと下げて天井を見上げる。自分のデスクの真上にある蛍光灯だけが煌々と光って、長船の目に人工的な光を降らせる。
それをぼうっと見上げながら思い出すのは朝の会話。
「歴代売り上げナンバー1かぁ」
営業に居たからわかる。売り上げを伸ばすことがどれほど大変なことか。きっと就業時間だけでなく、休みの日だって駆け回っていたはずだ。夜は取引先と接待、多すぎる発注を受ければ開発部門や工場とも連絡をとらなければならない。鶴丸が優秀だからそこまで売り上げを伸ばせたのだろうが、並みの奔走っぷりではなかったはずだ。
「あの時言ったこと、正解だったな」
貴方は優秀な人。社会的価値のある人間だからこんなことでそれを無駄にしないで。と、鶴丸に理由を押し付けた言葉は正にその通りで、今さら自分の前に立ちはだかる壁になった。
でもあの時、間違わなくてよかった。間違った思いを今も持っているけど、二人で間違った選択をしなくてよかった。鶴丸の手を取っていたらこんな鶴丸の未来もなくなってしまう所だったのだから。
「好きじゃなくて、もういいよ」
僕は貴方が好きだけど。貴方は僕を好きじゃなくていい。
正しい世界で、あのまっすぐした目のまま生きてほしい。そしたら間違った思いも許せる。あの眩しい人を間違った道から正せたんだと、間違った自分を許せる。
怖くもない、卑怯でもない。鶴丸を好きなことを誰にも間違ったなんて、言われなくてすむ。
「幸せ、勇気、」
それらはきっと得られないけど、正しい世界で鶴丸を思えるのならそれで、いい。
「うん、それで・・・・・・いいよね?」
そう呟いた時、手元の電話が突如鳴り響いた。完全に油断していたので、ビクッと跳ねる。危うく椅子から落ちそうになった。
こんな時間に誰だろう。回線は外からのようだ。新卒内定者や、来年の採用案内の問い合わせだろうか。
慌てて受話器を取る。会社名と名前を名乗ったが、相手はすぐに話始めなかった。
「もしもし?」
もしかして悪戯電話だろうか、そう思った時、相手の息を吸い込む音がした。それに予感が、した。震えそうになる声で問いかける。
「・・・・・・つる、まるさん?」
「っ、」
相手は吸い込んだ息をそのまま飲み込んでしまった様だ。げほげほと咳き込む。何をそんなに焦ったのだろうか。はーと落ち着くまで辛抱強く待った。
「よく、わかったな!驚いたぜ・・・・・・」
「それはこっちの台詞ですよ。こんな時間に、どうしたんですか。また保険証でもなくしましたか?」
二ヶ月ぶりの鶴丸の声は少し固かった。懐かしい、嬉しいと思う前に、つられてこっちの声も固くなる。
「いや、君が残ってるって聞いて。・・・・・・ずっと君の声が聞きたかった」
「!」
誰に聞いたんだとか、何を言っているんだと言おうと思うのに、言えない。鶴丸が聞きたいと言ってくれる声も止まってしまった。
受話器を持つ手に力が入る。だから震えているのだと自分に言い聞かせる。
ダメだ。今、さっきまでの気持ちがもうぐらぐらと揺らぐ。鶴丸の言葉に、嬉しい、僕もだよと言ってしまいたくなる。それはダメだ。この電話を早く切らなくては。
「ごめ、なさい。今、仕事中だから・・・・・・」
そのまま電話を切ろうとする。本当に危険だと思っているなら宣言せずに切ればいいのに。最低限の礼儀が一言断りをいれたのだろう、きっと。
「待て!待て待て!俺に十分、いや五分でいい、時間をくれ!!」
「でも、」
「君に電話する勇気の為に俺は頑張ったんだぜ、頼む!!」
受話器から滲む必死さをそのまま断ち切ることは出来なくて、受話器を下ろすのを諦める。
「わかり、ました」
「ありがとう」
そんなあからさまにホッとしないでほしい。それだけでこっちは言葉を喉で押し止めるのに苦労するのだから。
「えっと、君が知ってるかどうかは知らないが、俺、今回売り上げ絶好調なんだ」
「知ってます」
「そうか!会社始まって以来の成績らしくて、」
「知ってます」
「お、おお。俺もさ、まさか自分がこんなに頑張るやつだとは思ってなくて、未だに驚いてる」
「そうですか」
「・・・・・・すごいって、思ってる」
「そうですね」
何を話始めるかと思えば、営業の話だった。朝鯰尾に聞いた通りの話だ。がっかりはしない。むしろ安堵した。また、好きだなんて言われるよりよっぽどいい。
「鶴丸さんは、すごいです」
安堵から気が抜けて、相討ちを打つだけだったのに、自分から言葉を付け足した。鶴丸はすごいのだ、それを自覚して正しい道を歩いてほしい。
「俺が?違う、違う!すごいのは俺じゃない」
「え?」
「すごいのは君だ。君!」
「僕?」
「君、一人の男の世界を作り変える力を持ってるんだぜ?」
鶴丸の声がはっきりと言い切った。すごいのは長船だと。何を馬鹿な事をいっているのだろう。
「僕は、なにも、してない。貴方が元々、優秀だから」
「君、前もそんなこと言ってたなぁ。営業エースって言われてるが、俺は人よりちょっとばかしコミュニケーション能力が高いだけさ。スタンドプレーが多い営業の中で仲間に助けてもらったり、営業と本来仲が悪い開発部門と交流持って、こだわりや俺達の気づかないセールスポイントを教えてもらってる。そういう人よりちょっとだけ違うことをしてるだけなんだ。俺が優秀なわけじゃない」
「それを優秀って言うんですよ」
「ははっ、夢見すぎだぜ!・・・・・・俺だってな、君と変わらんさ。むしろ君よりダメかもしれん。こんな年になって、恋に苦しんで七転八倒。君に電話をかける勇気がほしい、なんて思いつかなけりゃ、仕事にも身が入らなかっただろう、社会人失格男だぜ?」
鶴丸は恥ずかしそうに話している。また人差し指で頬をカリカリ掻いているのかもしれない。
「全部、君のお陰だ」
「・・・・・・やめてくれ。僕は何もすごくない。僕は何もしてない」
「言ったじゃないか。君は一人の男の世界を作り変えたって、俺な、君に会って世界が変わったんだ」
「大袈裟な、」
「俺の運命の相手は、世の中の半分にしか存在しないって思ってたんだ」
長船の言葉を遮って鶴丸は話す。声が聞きたかったと言うわりに、なんだよ。と思わずにはいられない。
「この年になるまで、のほほんと考えてたんだよ。俺の運命の相手は、世界を二つに割った片方にしか存在しない。だから探すのも簡単だ。って」
「片方・・・・・・」
「だけどなぁ、君の声を初めて聞いたとき、そうじゃないのかもと思った。俺は、世界の半分じゃなくて、本当は世界中走り回って、たった一人を探さなくちゃいけなかったんじゃないかって。君の声を聞いたとき、俺の世界が二倍に増えたんだ、この意味、わかるかい?」
世界の片方とは女のことだろう。それが二倍に増えたとは、男のことだ。本来運命の相手を探すのには存在していけない間違った世界。
「あの時は焦った。俺はどっかで一人の人間を見逃してたかもしれない。そう、思った。と、同時にだ、気づいた。それに気づかせてくれた相手こそ俺の、たった一人なんじゃないかって」
受話器を持ってないほうの手で顔を覆う。間違いない、今、電話越しに盛大に、口説かれている。
「君のことさ」
「僕は違う。それは間違いだ」
「本当の事なのに。伝わらんなぁ」
営業スキルは上がってるはずなんだがなぁと残念そうにひとりごちる。はぁ、と溜め息をついて、正直な言葉を伝えることにした。卑怯者と言われてもいい。鶴丸が自分を好きじゃなくても、もういいんだから。
「僕は、怖い」
「怖い?俺が?ヤバイ、これストーカーか?」
「違うよ、僕はね、貴方と一緒にいるのが怖いんだ」
「・・・・・・何故?」
「・・・・・・貴方が、好きだから。自分でも何故かわからないけど、信じられないくらい貴方のことが好きで、僕にとってこの気持ちが本当に、本当に大切だから、それを人に蔑まれたくないんだ。貴方の気持ちを受け入れれば、僕の大切なものが土足で踏みにじられる、僕はそれに耐えられない」
この際だから全部言ってしまおうと言葉を続ける。
「勇気が、持てない。貴方と間違った世界を生きていく勇気が。貴方を抱き締めて、肩越しに見える風景が人の蔑みなんて、怖い。僕は、幸せになれるのかい、貴方は幸せだと無理して笑うんじゃないかい。最後の最後に、来世でも結ばれようなんて、暗い海に身を投げるなんて僕は嫌だよ。貴方と、明るい所で、笑いたい、よ」
目からこぼれない代わりに言葉が涙の水分を吸って揺れる。会社のデスクで何故こんなことを言っているのだろう。
はー、と震える息をつく。性能がいい電話は全ての揺らぎを鶴丸に伝えてしまっているだろう。
「でも、そんなこと無理だから、僕は貴方の気持ちを受け入れない。僕の気持ちも差し出せない。貴方が好きだから。・・・・・・ごめんなさい、弱くて」
「本当だな!」
「・・・・・・」
全部言い切った。半泣きで。神妙に自分の気持ちを伝えたのに、返ってきたのはからからとした明るい声だ。若干イラっとする。
「切ります」
「短期は損気!」
「うるさい」
「だってしょうがないだろう!盛大な愛の告白を受けたんだぜ、今!」
「貴方・・・・・・、話聞いてたの?僕は、だから、ごめんなさいって言ったんだよ」
「ごめんなさいって言うのは俺の方だろ」
「はぁ?」
え、今僕の方が改めてフラれたの?と突如言われた言葉に狼狽える。いや、別にいいのだが。結果は変わらないし。だが腑に落ちない。
だけど鶴丸はごめんな、と繰り返す。
「君は、俺に勇気をくれた。俺の世界を変えてくれた。だけど、俺は君に勇気を与えてやれない。君が怖がる全てから、君を守るって、君に信じさせることが出来ない。それは君が弱いからじゃなくて、俺に原因があるんだよ」
「え、違う。そういう意味じゃなくて、悪いのは僕。僕が怖いから」
「だから、それを取り除けるほどの甲斐性が俺にまだないってことさ」
うーん。どうするかなぁと聞こえる。何が、どうするんだ。
「取り合えず、僕は死にませんと言ってトラックの前に飛び出せばいいかい?」
「は!?絶対やめて!!」
「じゃあ、もっと売り上げをあげればいいか?誰が何を言ってきても、社会的弱者が俺に意見するとはな!と高笑いできる地位を手に入れるとか?無理じゃないかもな。君がいれば俺はなんでも出来る気がする!あ、それとも逆転の発想で、二人で未開の地に籠るか?あの個室みたいに二人っきりになれば、君も素直になれるし、他人の目がなければ怖くないだろう?」
「こ、個室って」
トイレでの出来事が頭をよぎる。それがどもりとなって現れた。察しの良い鶴丸が気づき、電話口でプッ、と噴き出す。
「あっはっはっ!食事での席の個室に決まってるだろう!えっちなやつだな!!」
「ち、ちがっ」
「まぁ、俺は、ああいう君も大歓迎だぜ?」
「っ、」
わざと低くなった声がぞわぞわと背中を駆け上がってきて受話器を落としそうになる。あの時の声を彷彿とさせるのは卑怯極まりない。
さっきから完全に鶴丸のペースだ。こんなはずではないのに。自分の気持ちばかりだなと鶴丸に幻滅してほしかったのに。頭を抱える長船に鶴丸が声を穏やかなものに変えて、耳を撫でてくる。
「俺たちさ、直接会ったのって二回しかないよな」
「え?うん・・・・・・」
「そりゃあさ、怖くなるってもんさ。俺、君が不安な時に一度も抱き締めて宥めたことがないんだ」
「あ・・・・・・」
言われて気がつく。こんなに好きになっていたからあまり考えたことないが確かに二回しかあったことがない。鶴丸と直接話すより、鶴丸のことで悩んだり不安になっていた時の方がずっと長いのだ。一人で抱え込んでいた時間の方がずっと。
「だから、俺と、会ってくれませんか」
鶴丸の声が、ちょっとだけ固さを復活させる。それに気づいて鶴丸の声に神経を集中させた。
「さっき、俺からの電話を君が取ったように、いつだって君の側で君の名前を呼ぶから。受話器を取る様に俺の手も取ってくれませんか」
「何故、敬語・・・・・・」
長船は、特技と言うほどではないけど、電話越しの相手がどんな表情でどんな感情を抱いているか、なんとなくわかる時がある。鶴丸の電話をとった時は気が動転していてわからなかったが、今は鶴丸がどういう状況なのかとてもよくわかった。
「ふっ、」
「・・・・・・」
「ど、どれだけ緊張してるの、貴方!ふふ、はっははは!!」
「わ、笑うな!笑うなら俺の前で笑ってくれ!」
「あははは!!なんだい、営業はいったいいつから電話を絡めた口説きトークを教えるようになったんだ!受話器を取る様に貴方の手を取ったらお互い変な感じだよね、シュール系コント?」
「口説き文句にダメだしとか、鬼!!」
「くくっ、ダメ、お腹痛いっ」
鶴丸が耳元で抗議をしている。たぶん、涙目で。それもわかってしまって尚更笑ってしまう。優秀な大人なのに、子供みたいだ。まっすぐな好意、ご褒美があるから頑張る、わかりやすい緊張。放っておけないなぁと思ってしまう。
正しい世界に鶴丸を残しても、子供の様なこの人は迷子になるかもしれない。一人で堂々と立っていながら、線路図を横から眺めていた青年の様に。迷子に声をかける勇気なら長船も持っている。
「はぁ、そうだね、仕方ない。たぶん、周りの世界にかまけてる暇なんてなさそうだもん」
もし万が一、同性愛者の証明となるように新聞に自分の名前が載ったって、その隣には鶴丸の名前も載るのだ。それは長船の大変な日々の証明であるようにしか感じない。この鶴丸という男の側にいるのだから。たぶん、そうなる。他人の目を気にしたり、恐怖を感じる暇があれば、良い方だろう。
「っていうか、どんな記事が載ったってさ。世間の人たちは自分が遅刻するかどうかの方が重要だろうしね」
「よくわからんが、そうそう!」
「適当なこと言って・・・・・・もう、切るよ!」
椅子から立ち上がりながら言うと鶴丸が絶望感溢れる「え・・・・・・」という呟きを返す。また笑いそうになって、呆れた声をわざと作った。
「名前、ちゃんと呼んでよ?シュールコント、付き合うから」
「それって、」
「今、どこ?」
「噴水のある、公園。街灯の下」
「ちょっと、終業時間から何時間経ってると思うの。待ち合わせ時間三十分前ってレベルじゃないんだよ」
「居ても立っても居られなくて・・・・・・」
「・・・・・・ばか」
本当に子どもみたいなんだから。
ポロっと涙がこぼれたけど、笑って気づかない振りをした。
「すぐ行くから、待っててね」
「待ってる。永久に待ってる」
いつまでだって。好きだ、光忠。そう言って電話は切れた。鶴丸の声はもうない。ツーツーとした音が耳に残された。
「・・・・・・ちょっとさぁ、」
受話器を置いて、デスクに両手を突く。またもや危うく転けそうになった。
「電話で名前呼ばないでよ。僕の側で、名前呼ぶって言ったじゃないか。今のは卑怯だよ・・・・・・」
頬が熱い。噛み締める様に目を閉じると、好きだ、光忠と言う声が脳に鳴り響く。柔らかく、低い声。愛しくて、愛しくてたまらないそんな声と、表情。
「ずっるい!」
バッと顔をあげた。そして急いで鞄を取った。電気を落として足早にフロアを後にする。鶴丸がこの冷える中、何時間も長船を待っている、急いであげたい。違う、それだけじゃなくて、早く、会いたい。
「あ、でも、少しだけ」
エレベーターを待っている時間も惜しくて駆け降りる階段の途中、営業部門があるフロアへと向かう。鯰尾が言っていた鶴丸の営業成績を、鶴丸が電話を掛けるための勇気だと言ったものを自分の目でも見てみたかった。他の課には一人二人、人が残っていたが、一課には誰もいなかった。久しぶりだなと思いながら顔だけ除かせる。そして、成績を見る。
すごいグラフだった。鶴丸がぶっちぎり1位。
「っ!」
口許を手で押さえてそこを足早に離れた。会社を出るまで、そのまま。出た瞬間、とうとう我慢出来なくて、一人爆笑してしまった。
「あっははははは!!!鯰尾くんの言う通りだ!!」
鯰尾が朝言った通り、笑ってしまう。だけど、たぶん鯰尾が言っていた意味とは違う。
「ふふっ、もう、子供なんだからなぁ」
今日だけでも何度目になるか分からないその感想。
笑い涙を拭いながら長船は歩く。時折思い出しては声に出して笑ってしまった。人通りが少ないとは言え、皆無ではない。人気のない方へ笑いながら歩いていく長船を、腕を組んだ男女が奇怪なものを見る目付きで見てくる。けれど、長船はそれに気づかない。
頭の中は、成績表が浮かんでいる。売り上げグラフの天辺。たぶん鶴丸が自分で買ってきたんだろう、大きなハート型のシールが張ってある。グラフはそこを目指して一直線。そのシールには、『電話をする勇気!!』と書かれていた。
それは、今、長船の財布に入っている少しよれよれになってしまったメモに書いてあるのと、同じ、綺麗な文字で。
「今から貰うはずだったのに。もう、勇気、出ちゃったな」
貴方が好きだよ、だから貴方となら幸せになってみせると言う、勇気を。
「こうなったら、何でもこい、だ!」
鶴丸が前代未聞の売り上げを叩きだしたのなら、自分だってそれ相応の努力をしてみせよう。そしたら間違いの自分だって胸を張れるはずだ。
こんな臆病者の世界を変えてしまった鶴丸はやっぱりすごいと笑って、長船は足を早めた。