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 爽やかな朝。
 仄かに香る程度にフレグランスをつけ、最後にもう一度髪型をチェックすれば完成。
 脱衣所を出れば煎れておいたコーヒーはちょうど飲み頃になっている。音が筒抜けになるほどの安いマンションな訳でもないが、万が一にも下の階の部屋に朝から不快な音をさせないように、イスを軽く持ち上げて引いた。
 出来上がった一人分の席に腰を下ろし、コーヒーを啜りながらテーブルに置いておいた新聞を捲る。
 タブレットやスマホで読めばいいと親友は言うけれど、こうしてコーヒー片手に紙媒体の活字を読むのが好きなんだ。そう言った長船に、親友が「お前が好きなのはそんな朝を過ごしている自分だろう」と鼻で笑ったのを忘れることはしばらくないだろう。
 そんなことを思い出しつつ視線を落とした先の新聞。今日も様々な記事が載っている。大きな見出しに殺人報道、そして大企業の情報流出、地方政治家の問題発言、子供への非道な虐待、いじめの自殺、後半になればなるほど記事は小さくなっていく。まるでその記事の大きさに比例して、その事実も小さいもののように感じさせた。そんなわけはないのに。
 まるでひっそりと囁いているような記事の中にひとつ、『同性愛パートナーシップ証明書』の文字があった。二人の女性の名前が載っており、そのうちの一人は自分と変わらない年齢のようだ。同性愛者パートナー条例に関する運動が何処何処であり、彼女達はその参加者だと書いてある。ジェンダーフリー、日本も同性愛者を受け入れる社会へ。と御大層なことを書いてあるわりにはその記事はなるべく読者の目につかないように、隅っこに追いやられていた。

 

「すごいな」
 

 コーヒーの香りと共に零れた呟きは純粋な感嘆ではなかった。異国の変わった文化をテレビで見た時に自分が呟いた声と同じ響きだと、他人事のように思う。
 最初から無味のガムを当然のように吐き出す、そんな味気なさ。そして吐き出されたガムには興味はない。家を出る時刻を告げるスマホのアラームを指一本で素早く止めて、新聞をなんの名残もなく閉じた。自分が会社に遅れたって、細やかな記事ひとつなりはしない。自分にとってはこの新聞に載っているどの記事よりも重大な事件となるだろうに。と、考えるのは大袈裟だろうか。しかし、事件の渦中にいる当事者以外の人間は、たぶん皆そうだと思う。新聞やテレビなど結局は他人事だ。
 なるべく大きな音を立てないように席を立った。
 空になったカップをシンクに置く。洗うのは帰ってきてから。少し色がくすんでいる気がするのでハイターに浸けるのも忘れないようにしよう。
 準備しておいた鞄を手に取り玄関へ向かう。ぴかぴかと手入れがされている革靴に爪先を突っ込み琥珀色した靴べらで踵を誘導した。
 全ては準備万端、出発するだけ。玄関のひやりとしているドアノブに手をかけ、誰もいない部屋を振り返る。

 

「いってきます」
 

 ただの習慣だ、当然返事はない。ドアノブを回すと同時に足を進め、外へと踏み出した。ちゅんちゅんという鳥の声を聞きつつ鍵をしめる。
 家から出ればそこは戦場。毎朝のことなれど身を引き締める思いでスーツの襟を正した。

 満員電車でもみくちゃにされるなんてごめんだと、新入社員の頃から大分早めに出社するようにしている。その習慣は6年経っても変わっていない。
 自分の勤める会社を目の前にしても周りに出社している人間はほとんどいなかった。

 

「おはよう」
 

 今更なんの感慨をもなく見慣れた景色を流して歩みを進めていると、声をかけられた。この早い時間に出社して、自分に挨拶をしてくる相手など限られている。そうでなくても親友の声を忘れてしまうほど薄情ではないつもりだ。
 

「おはよう、長谷部くん。今日の朝食も10秒チャージ?」
 

 振り向きつつそう言えば、そこにいたのはやはり、長船の同期で親友の長谷部だった。
 

「今日は握り飯だ。栄養バランスも考えておかかと明太子にした」
「おにぎり2個だけの時点で栄養バランスも何もあったもんじゃないと思うけどね」

 

 コンビニの白いレジ袋を得意気に掲げながら言う長谷部に軽く突っ込みをしつつ、鞄を探る。物を探しながらだと当然通常の歩調よりゆっくりなってしまうのだが、後ろから追い付いた長谷部が自分を追い越していくことはない。一人の時はいつも颯爽と、ちゃきちゃき歩く長谷部が歩調を合わせてくれているからだ。
 厳しい物言いや生真面目すぎる所から、何だかんだと言われている長谷部だが心根はとても優しい男だと知っている。そうでなければ6年も親友を続けているはずもない。

 

「はい、よかったらおにぎりと一緒にどうぞ」
「いつも思うんだが、俺に朝会わない時はどうするんだ」
「僕のお昼が一品増えるだけの話さ」

 

 軽いプラスチックの音をさせながら出した使い捨てタッパーに入っている野菜炒めを、長谷部がぶら下げているビニール袋の中へ突っ込んだ。
 

「ちゃんとお箸もらってきてるんだね」
「お前と会う確率の方が高いからな」

 

 確かに自分もいつも決まった時間に家を出ているし、同じく時間にきっかりしている長谷部とここで会う確率は非常に高い。
 もちろん電車の遅延など様々な理由で会わないこともあるが朝挨拶を交わすことのほうが多い。長谷部もまた6年前から変わらない習慣を過ごしているようだ。

 新入社員の頃、朝誰もいない給湯室で10秒チャージ真っ最中の長谷部を見たのは同じく6年前。まさかそれが朝食かと問いかけた長船に、そうだときっぱり頷いた長谷部と、今隣を歩く長谷部を比較してみると、あまり違いはないものの、アラサーの顔つきになったなぁと思う。
 昔はもっとぴりっとしていた気がする。新入社員の頃から周りに溶け込むことのない雰囲気を醸し出していたのは確かだ。自分としては、その新入社員の中で浮いた存在だった長谷部に対して割りと好感的だった。
 きつい物言いだが、仕事に対する姿勢はきちんとしていたし、朝も自分と同じくらい早く来て、就業前の準備など誰に言われることもなく率先してやっていた。同じ課の女性社員がかわいいだの、今度同期で合コンをするのだの、学生気分が抜けきれないままだった他の社員より、一人ぼっちの長谷部の方が自分にはよほど好ましく見えたものだ。
 そんな浮いている存在だった長谷部のあまりにも酷すぎる食生活を聞いて卒倒しかけたあの日からこうしてちょくちょく自分の作ったものをお裾分けしている。それがお互いに親友と認める存在になるきっかけとなるのだから、人生というものはよくわからないものだ。

 

「お前も仕事で疲れてるだろうに、相変わらずマメに自炊してるんだな」
「僕のは趣味だから。ストレス発散も兼ねてるんだよ。長谷部くんが仕事のストレスを仕事で発散してるのと同じでね」
「変わったストレス発散だな」
「君ほどじゃないさ」

 

 なごやかに談笑しながら歩く。と言っても会社前から、階段で別れるまでの短い距離だ。自分が向かう人事部のフロアと長谷部が向かう商品開発部のフロアは別になる。なるべく体を動かしたい自分と、自分で階段を上がった方が早いと言う長谷部は、エレベーターを使うことはない。動機は違うがこういう所も気が合うんだよなぁ、と共に階段を上がりながら思ったりする。
 

「じゃあな、光忠。朝食もありがとう、早速食べる」
「給湯室で立ち食いなんてやめてほしいんだけどねぇ。まぁ仕方ないか。あ、そうだ、長谷部くん」
「なんだ」
「今日早帰りデーだろ、呑みに行かないかい?」

 

 水曜日の本日は会社で定められている早帰りデーとなっている。いつも嬉々と残業をしている長谷部もある程度早く帰らなければいけない日だ。
 

「予定はない。行ってもいい」
「オーケー。じゃあいつもの店でね」
「お前あの居酒屋好きだな、酒呑めない癖に」
「あそこつくね大好きなんだ。それに居酒屋の雰囲気は結構好きだよ、賑やかだしね」

 

 それじゃあと次の階に向けて段差に足をかければ長谷部はああ、と一言返して歩いていった。
 その背中を目の端で見送りながら自分の部署へと向かう。
 長谷部の部署があるフロアより二階上のフロア。その中で『人事部』とプレートが掛けてあるその部屋の壁は不透明な磨りガラスになっている。誰かがいればすぐわかる。今はまだ誰も来ていないようだ、こんな時間にくるのは自分くらいのものだから当たり前だけど。

 

「おはようございます」
 

 誰もいないと分かっていても挨拶をしながら入るのはいつもの習慣。独り暮らしが長いため、自分の挨拶に返事が返ってこないことにも慣れっこだ。
 自分の席に鞄を置いて、給湯室に向かう。そこで台ふきを軽く濡らし誰もいない人事部の中を拭いていく。各人のデスクの上はなるべく触らない様に。皆触っても構わないと言っていたが、本人がいない所で物を動かすのは気が引ける。
 デスクや棚を拭き終わり、自分のお茶を入れて席に着く。
 昨日キリのいい所まで進めていた作業の確認やメールのチェックを始めていれば、そこで自分以外の社員が姿を表す。

 

「おはようございまーす。長船さん、今日も一番乗りですか?」
「おはよう。そうだね、今日もいつもと同じ時間に来たから」
「すごいなぁ。私なんか一秒でも長く寝てたいから起きるのギリギリですよ」
「満員電車が好きじゃないんだ」
「あー、確かにわかります。それに満員電車でもみくちゃにされる長船さんとかあんまり想像つかないかも」

 

 隣の席の女子社員が挨拶と共に朝の世間話を振ってくる。今日の化粧もばっちりで、一秒でも長く眠りたいはずの彼女の努力が伺えた。
 始業時間ギリギリに、入社三年目の男性社員が飛び込んできて、全員が揃った。本日は休みも誰もいないらしい。いつものメンバーでいつもと同じように戦いが始まる。
 人事部の仕事。新入社員の採用や育成、社員の評価などが主な仕事だと思われがちだが意外にやることは多い。会社の規模によっては総務と兼ねている人事部もあるだろう。
 会社の人事に関わること、つまり社員に関することは人事部に任せられる。仕事の内容が幅広くなるのは当然だ。

 

「あー、やな感じ~!」
 

 パソコンを挟んだ向こう側の男性社員が苦笑いを消した後、少しの沈黙を電話のがちゃん、と強めの音で掻き消した。
 

「どうしたんだい、鯰尾くん?」
 

 いつもにこにこしている彼が苛立ちを声に出すものだから問いかける。大体予想はつくが、入社三年目で今年人事部に来たばかりの彼では飲み込めないこともまだ多い。トラブルになる前に聞けることは聞いておいてあげたいと思う。
 

「今度、営業部の方でセミナーあるじゃないですかー。あれ、二課の方が提出期限過ぎてるのにまだ出席者の有無言って来ないんですよー。だから、催促の電話したら、「営業は忙しいんだ。人事部ほど暇じゃないんでね」って言われて・・・・・・」
「それは・・・・・・」
「期限破ったのはそっちなのに!って、思ったんですけどね。余計なこと言えないし、あはは~って笑い流してたんですけど、やっぱりやな感じだなぁって思っちゃって。なぁんで今に限って営業事務の子、席外してるかなー?俺、営業の人苦手~」

 

 肩を竦めて、まっ、もう慣れてきましたけどね。と何でもないように鯰尾が言う。
 

「俺、二年間企画部と広報部だったから営業部ってどんな所かわからないんですけど、営業部怖そう~」
「そうでもないよ?営業部は営業部で楽しいさ。会社の花形、みたいな所あるしね。個々のスタンドプレーが多くて、個人の意志がそれぞれの仕事ぶりに反映される。皆仕事に対する熱意強いは思うよ。まぁ、商品開発部や研究室、人事部を特に目の敵にしてる人が多くてね、ここにいると怖い人達って思ってしまうかもしれないけど」

 

 よく人事部は会社の伏魔殿などとよく言われるが、その人事部にいながら営業部こそを伏魔殿の様に怖がる鯰尾に、営業部の内情を少し説明をする。未知なるものは怖いけど、知ってしまえばそうでもない、なんてことは多々あることだ。
 

「長船さん営業経験者ですか?」
「そうだよ。鯰尾くんみたいに、二年間他の所、僕の場合は営業部に居て、それから四年間ずっと人事部」
「はぇ~。長船さんがあんな怖い人達と仕事してたっていうイメージつかないなぁ。長船さん、すっごく優しいですもん。俺の兄に負けず劣らずですよ。俺、長船さんが先輩でホントよかったです」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいよ」

 

 鯰尾から感じられる好意になんだかくすぐったくなる。こうやって素直に人を褒められるのは彼の長所だ。
 

「長船さんと話してたら元気出てきたんで、また頑張っちゃいますよ~!さぁて、次はっと、」
 

 にかっと笑みを浮かべた後、鯰尾は切り替えて仕事へと戻る。こういう所も好ましい。自分がついつい彼を可愛がってしまうのは鯰尾の魅力故だろう。
 一生懸命仕事をする鯰尾を、微笑みを浮かべながら見つめて自分も仕事に戻る。
 女子社員が健康診断未受診者の予定に頭を悩ましているのを横で聞きながら、確認事項がある自作のリストに載っている社員達に電話を掛けて始める。
 数名の社員に電話を掛け、事務的に、あしらわれるように、時に長話に付き合わされながら社員との電話を終えていく。ある程度電話を終えた頃には、口角を上げたままだった頬が僅かに固まっているような気がした。
 電話は、声のトーンで相手に与える印象が大分変わる。直接対面する時以上に、口角を上げ、トーンを上げるように心掛けているのだが、それも長時間続けば口の端が疲れてくるのは仕方がないことだ。あーうーと口の形の運動をすることでそれを和らげる。
 お茶を一口含み、話すことによって渇いていた喉を潤した。そして、さて、次は。と、電話を掛ける相手をリストの中から探し出すように、指を紙の上へと滑らせる。
 辿り着いた名前に、指がピタリと止まった。何でもない漢字四つの名前。「営業一課」の下にあるその名前がリストの中から途端に浮き出るように感じるのは疲れ目がそんな錯覚を起こさせているのだろうか。
 ふっ、と小さく息を吐いて電話に手を伸ばす。内線番号をぽちぽちと押して、コール音が耳へと届いた。

 

 電話の相手は自分とは何の因果も関係もない男。営業一課の鶴丸国永。
 明確に公言はされていないが、営業一課は他の営業課より優秀な人材が集められるという暗黙の事実がある。それは人事部で社員の評価を目にする長船も実際そうだと頷く話だ。
 その優秀な一課で、売り上げナンバー1なのがこの鶴丸国永という社員。自分が営業一課から人事部へ移動になった後、入れ替わりで、支社から本社であるここの営業一課へ帰ってきたのである。
 だから長船と鶴丸は直接共に働いたことはない。しかしここは人事部。ただでさえ社員の話はここに集まるのだ。営業一課のエースの話がここに届かないはずもなく。長船だけとは言わず、人事部全員がそうだろうが実際共に働いたことのない鶴丸がどういう男か知っていた。
 仕事面で優秀なのはもちろん、性格も明るくて、頼りがいがあるだとか。営業から何だかんだと注文を受け、フラストレーションの溜まるはずの営業事務の女子社員からは特に称賛の声がよく上がると聞いたことがある。
 それでいてスタンドプレーが多い営業マン同士でも上手くやっているというのだから、鶴丸のコミュニケーション能力というものはかなり高いと見える。
 そういう評価が耳に届く相手、でもそれだけ。多くの人間が働く会社では、一緒に働く社員より、知ってはいるが接点のない社員の方が圧倒的に多い。長船にとって鶴丸という男もそういう社員の一人にすぎない、はずだった。
 けれど、今こうして鶴丸の社内電話を鳴らしているコール音が直接自分の耳に響いている。そのきっかけはちょっとしたことで、人事部に身を置いているのだから当たり前の業務のひとつだ。
 きっかけは、鶴丸からの電話。それを受けた自分。

 

 受話器をとってからコール音が2コール鳴るまでの短い間にそんなことを思い返す。
 そして3コール目まで鳴り終わるのを待ってみたが、相手は出ない。外回りに出ているのだろうと結論づけてて受話器を持っていない方の指でフックを押そうと手を伸ばす。別に電話で確認しなければならないわけでもない。メールする程のものでもなかったから電話を掛けただけで、相手が不在となればメールを送ればいいだけの話だ。
 そんなことを考えているとフックを押す前に、突如コール音が途切れた。

 

「はい、営業一課鶴丸です」
「、っお疲れさまです!人事部の長船ですっ」

 

 電話を切ろうとしていたところに、出ないと思っていた人物の声が聞こえ、反射神経だけで頭にインプットされているお決まりの言葉を返した。完全に油断していた。声が思ってたより大きく出てしまう。
 

「ははっ、元気だな。良いことだぜ、長船くん」
 

 電話の向こうで、嫌味など一切含まれてない、柔らかく低い声が笑う。社員写真で見たことがあるが、儚そうな見た目の印象とはやっぱりちぐはぐだな、と恥ずかしさから逃避するように考える。
 

「お、お忙しい所すみません、先日お問い合わせ頂いた保険証の再発行の件なんですが、書類は書かれましたか?」
「ああ、書いてある。悪い、社内便で送るのを忘れていた」

 

 自分のことなのに君の手を煩わせてすまないと、電話口で先輩である鶴丸が素直に謝る。
 

「あ、いえ、気にしないでください。送って頂けたらすぐ手続きしますので」
 

 催促したつもりではなかった。ただ、保険証が手元になければ困るのではないか、そんな考えで電話をしたにすぎない。手を煩わせた、なんて大袈裟なことではないのだ。
 

「保険証がないと困るでしょう。財布をなくすなんて災難でしたね」
 

 その考えを伝えたくてそう言った。今はポイントや電子マネーなどもスマホで管理するのがほとんどとはいえ、財布をなくすのはかなりの痛手だろう。
 

「ん?ああ、まぁ、そうでもないぜ?」
 

 けれど鶴丸はあっけらかんと否定した。
 

「財布をなくした代わりに収穫があったからな!なぁ、長船くん!」
「え、何の話ですか?」
「最初の電話で君に聞いただろう。主婦に買ってほしい商品を置くならどんな店がいいだろうか、ってな」

 

 鶴丸の言葉に記憶の引き出しを開けていく。最初の電話とは、鶴丸が財布がなくなり、保険証を紛失したがどうすればいいかと人事部に問い合わせて来た時のことを言っているのだろう。
 その電話を受けたのが自分で、鶴丸に手続きの説明をした。確か、その説明の後に、鶴丸は関係ない話だが、ちょっと意見が聞きたいと言ってさっきの質問を長船に寄越したのだ。その会話を覚えている。あの時自分はなんと言ったか、そう、確か。

 

「学校周辺の店がいい、と君は言った。学校の周辺は迎えに来た親が駐車場で子供を待つし、ついでに買い物をする人が多いから、自分ならそういう店に商品を置いて貰えるよう営業をかけるってな」
「言いましたね、確かに」
「ビンゴだったぜ。こないだ営業掛けて商品を置いてもらえることになったんだが、今日追加発注の依頼がきた。売れ行きがいいんだとさ」
「そうですか、それはよかったですね」

 

 鶴丸が声を若干弾ませるように話すものだから聞いているこっちもつられてしまう。しっかりした優秀な大人なのに子供っぽい一面もあるのだろうかと、そんなことが頭に浮かぶ。
 

「君の着眼点がよかったんだ。さすがだな、元営業一課期待の新人長船くん」
 

 鶴丸の言葉に僅かに空白の間が出来てしまった。自分と鶴丸は営業部で被っていた時期等ない。長船が一課にいたのだって鶴丸は知らないはずだ。
 

「僕の事・・・・・・何で、知ってるんですか?」
「優秀な君を人事部に取られて、未だ悔しがってるやつは結構いるってことさ」

 

 にこ、と言うよりにやり、目の前に鶴丸の顔があったなら口許がそう笑ったのが見てとれただろう。電話口の相手がどんな表情や感情を抱いているのか、なんとなくわかってしまう。
 自分が営業一課にいた時、確かにそんな風に言われていたことがあった。しかしそれは先輩に背中を叩かれ「さすが期待の新人!」と揶揄われていただけのこと。今、営業全体のエースと言ってもいい鶴丸に語り継ぐことでも何でもないのだ。
 一課から人事部に異動が決まった時「あんな所、嫌になったらいつでも一課に戻ってこいよ!」と言ってくれた指導係や諸先輩達を思い出しながら、思わずこめかみを揉む。他の課と違って一課が人事部に対してまだ敵意が低いのは、その時のメンバーがちらほら残っているからだ。
 部署が変わっても覚えていてくれるのは嬉しいけど、今はそれがとても恨めしかった。変なことを言わないでほしい、恥ずかしいったらない。
 思わず黙る長船に、相手側が何かを察したように電話の向こうの表情を元に戻す。それがわかる声色で、ともあれ、と話を続けた。

 

「書類はすぐに送る。君も忙しいだろうに、気に掛けてくれてありがとう」
「い、いえ」
「お疲れさま」
「お疲れさまです」

 

 鶴丸が静かに受話器を下ろすの聞き届けてから、自らも同じように受話器を下ろした。
 

「ふぅー」
 

 何故か溜め込んでいた息を深く吐き出した。ドッと疲れた気がする、理由はわからないが。
 

「長船ー、悪いが今回の辞令を・・・・・・って、どうしたお前、体調でも悪いのか」
「え?長船さんが体調不良ですか!?」
「嘘!頭痛いんですか?熱測ります?」
「へ?あ、いえ!平気ですよ!元気、元気!!」

 

 仕事を持ってきた先輩社員が、深く息を吐いている長船を目敏く見つけ気遣わしげに声を掛けてくる。それに連鎖して人事部内の視線が一気に集まってきて、慌てて首と両手をぶんぶんと振った。
 皆が手を止めるほどのことではない。だめ押しでにこっと笑えば、皆の目にちゃんといつもと同じ笑顔に映ったのだろう。僅かにざわついていた空気が皆の表情と同じように和らいだ。

 

「あービックリした。長船さんいつも元気だから何かあったのかと思いました」
「あはは、ごめん。ちょっと肩が凝ったかなぁって思っただけだよ」

 

 明らかにホッとしたように息をつく向かい側の鯰尾に、オーバーだなぁと思いつつも先程よりも自然な笑みが浮かぶ。
 しかし先輩社員は何処か難しい顔のまま、ホントに大丈夫かぁ?と問いかけた。

 

「まぁ、何かあったら言えよ。お前自分の仕事こなしながら皆のサポートもしてるから人一倍疲れるだろう。今日早帰りデーだし、仕事終わったらゆっくり休むか、ちゃんとリフレッシュしろよ?」
「はい、そうします」

 

 そうだ。今日は長谷部と呑みに行くのだ。このよくわからない疲れだって、長谷部に聞いてもらえばいい。長谷部の歯に衣着せぬ言葉で切ってもらえばどんなことだって大したことないように思えるのだ。
 皆がそれぞれ自分の仕事に戻っていく中、よし、と口の中で掛け声を呟いて長船もまた、次の仕事へと取りかかった。

 

 


 人の声と言うものは、ひとつひとつはきちんと言葉になっていても、複数の声が束になればどうしてこうも、がやがや、というような音に聞こえるのだろう。大切な話をしていても、それこそ愛を囁く言葉だとしても、外から束ねて聞いてしまえばただの音でしかなくなる。
 そんな音を背中で受け止めながらアルコールが入っていない、ただの烏龍茶を傾ける。

 

「待たせたな」
 

 背中に新しい音があたる。しかし聞きなれた声から発せられる音は明確な言葉として長船の耳に届いた。
 声をした方を見れば、隣に腰かけようとしている長谷部の姿がある。

 

「全然待ってないよ。僕も今来たところ・・・・・ふふ、」
「なんだ、来た早々」
「いやぁ、デートのお決まりの台詞だなぁって思っただけ」
「独り身で恋人もいない俺たちには虚しいだけの話題だな」

 

 おしぼりで手を拭きながら、長谷部が、すいません生ひとつ。ジョッキ大で。と注文する。
 

「長谷部くん、おつまみは?何食べたい?」
「なんでもいい、任せる」
「うん、そう言うと思ってさっき注文しておいた」
「つくねも当然頼んだんだろ?」
「もちろん」

 

 気を遣わなくていい相手との会話は気持ちがいい。何も疲れることがない。
 どうでもいい雑談をポンポン進めていると長谷部の元へ生が届いた。長谷部がそれを手に持ったのを確認して、少し減った自分の烏龍茶を軽く掲げた。

 

「お仕事お疲れさま」
「ああ、お疲れ」

 

 そしてゴッゴッといつものようにすごい勢いで酒を呑み干す長谷部は、相変わらず気持ちのいい呑み方をする。ザルを通り越してワクなのだと言う彼はどんな度の強い酒も水の様に呑んでいくのだ。度の低い甘いカクテルでも酔ってしまう長船からしてみれば羨ましいような、そうでもないような。見ている分には今日も良い呑みっぷりだ、で済むのだが。
 もはや水分と言えば外側の露だけになったジョッキを眺めていれば先程注文しておいたつまみが運ばれてくる。

 

「あ。ありがとうございます。長谷部くん。きたきた、ほら、つくねも。いっぱい食べなよ」
「すいません、焼酎一杯。水割りロクヨンで」
「ちょっと、先にお酒でお腹膨らまそうとしないで。ちゃんと食べてよ」

 

 つくねを一本取り、押し付けるように渡せばわかった、わかったと長谷部が苦笑いして受け取る。
 

「しかし何度見てもミスマッチだな」
「何が?」
「お前みたいな見た目の男が、こんなごちゃごちゃした居酒屋で、茶色くてかてか光るつくねにかぶりついてる姿が。どう見てもホテル20階の夜景が綺麗に見えるバーが似合うような見た目だろ」
「そのバーがここより美味しいつくねを置いてるなら、そこの常連さんになってもいいよ」

 

 固めすぎていない肉の柔らかさに濃厚なタレがしっかりと染み込んだつくねを頬張りながら答える。
 自分では余りそう思わないのだが、おしゃれで高級そうなバーやレストランに行ってそう、むしろ生活圏だろうとはよく言われる。
 別にそういう場所が嫌いという訳でもないが、実際はこういう賑やかな場所の方が好きだ。
 恋人がいれば、彼女のために高級なレストランやバーに連れていってあげようとも思うだろうが、悲しいかな今は、というか大分長いことそんな相手はおらず。誰かのために行くという理由で行くことはない。
 酒に弱いからワインやカクテルを楽しむことも出来ないし、食べることは大好きだから出される料理に興味はあるものの、料理をするのも好きなので一人で行ってまで食べたいとも思わない。
 長谷部と二人、こうしてどうでもいい話をしてつくねを頬張っている方が、よほど楽しい。

 

「それにああいう所って肩凝りそうじゃない?ご飯食べにいって疲れるのはやだよね」
「毎朝コーヒー飲みながら紙媒体の新聞で格好良い自分を演出、って方がよっぽど肩凝りそうだけどな」
「それは全然疲れないんだけどねぇ。あ、そうだ、長谷部くん、疲れると言えばさ」

 

 食べ終えたつくねの串を串入れに入れて、鶏皮に手を伸ばした。店員から焼酎を受け取っている長谷部にも、一本差し出した。放っておけば酒ばかり胃に流し込むのはわかっている。
 親切心から差し出したそれを長谷部は食べかけのつくねを軽く振ることで拒否をしたが、結局焼酎を置き空いた手で鶏皮を受け取った。焼き鳥二刀流の姿で長船の新たな話題を待つ。

 

「長谷部くんはさ、話すだけで疲れる相手っている?あ、すみませーん!揚げ出し豆腐と冷やしトマト、後明太子ポテトと豚の角煮お願いします!」
「話すだけで疲れる相手?仕事する気ないやつと仕事の話をするとドッと疲れるな。むしろ殺意が沸く」
「長谷部くんはその人のこと嫌い?」
「嫌い・・・・・・というか、どうでもいいな。仕事さえきちんとしてくれれば。それ以外のことは特に期待もしていないし、興味もない。職場の人間だしな」
「そっか」
「話すだけで疲れるような相手がいるのか?お前に?」

 

 つくねを食べきりながら、目を丸くして長谷部が見つめてくる。そういえば長船が人事部所属になってから長谷部に他の社員の話をするのは初めてな気がする。
 人事部は機密事項を扱うことが多い。それは社外の者はもちろん、社内の者にも言えないことばかり。社員の評価、昇進、昇給、異動その他諸々。
 酒の席でポロッとこぼしてしまうには危険な情報が嫌でも脳に詰まっているのだ。
 そしてそんな人事部に対して他の部署の社員は酒の席に誘い辛いという印象を抱く。中には人事部と一緒に呑んで醜態を曝せばその情報が上に伝わり評価が下がる、なんてことを信じてる者もいる。
 そういう双方の考えがあるせいで人事部の人間が他の部署の人間と酒を呑む、なんて滅多にないことなのだ。だけど自分は長谷部と呑むのが好きなのでこうしてしょっちゅう呑みに来ている。
 その席で社員のことを話題に出してしまえば、タブーにタブーを重ねるような、大袈裟かもしれないが、そんな気持ちになってしまう。だから相手が長谷部であっても他の社員のことは評価云々関係なく話題に出したことはなかった。例えどんな小さな話題でも。
 長谷部が自分の言葉を待っている。朝の話題を話そうかと思った、が朝の話題の何を話すべきなのだろう。いざ話そうとしてみれば、大したことは何もなかったように思う。疲れたと感じたのも本当に肩凝りや目の疲れだったのかもしれない。

 

「うーん、そうなのかもって思ったけど、そうじゃないかもって今思ったから、いいや」
「なんだそれは」
「自分でも、わからないんだ。相手のこともよく知らないし」

 

 鶴丸について知っていることなど名前、住所と年齢と業務成績や評価など、データベース上のことくらいだ。それ以外は、ああ、声が意外に低くて柔らかいと言うことも知っているか。あの、やけに耳に残る声。
 

「知らない相手でも人には相性っていうのがあるからな。無意識下で何か感じとったのかもしれん」
「疲れる何かを?」
「お前はただでさえ、ええかっこしいだからな。他人に対して以上に自分に対して。そいつと話して自分の劣等感とかそういうものが刺激されでもしたんじゃないか」
「劣等感、ねぇ」

 

 長谷部の言う通り、自分には格好つけな所があるとは思う。他人に対しては見苦しくない様、見た目を整えたり、所作を気を付けたりとその程度だが、対自分自身となるとそのハードルは途端に上がる。自分が認められない自分など、存在する価値はない、それぐらい思っている。
 けれど鶴丸とのあの短い会話が、自分の基盤を揺るがしたとは考えにくい。

 

「うーん、やっぱりよくわからないや」
 

 けれど同時に朝の疲れに関して、考えても無駄なことだとはよくわかった。ならば考えることをやめるに限る。時間は有限だ、答えの出ないものに迷う時間がもったいない。
 

「ごめん、変な話題振っちゃったね。さっ、食べよう長谷部くん。あ、このナムル、かな?これ、おいしいよ~」
「相変わらず切り替えが早いな」
「いつまでもうだうだ考えるのは性に合わないんだ。格好悪いしね」
「両頬を膨らませてニコニコしてるのは格好良いのか?」
「幸せそうだろ?」
「ふっ、確かに」

 

 長谷部が焼酎を煽ったことで、話に区切りがつき、そのまま話題は別なものへと移っていった。
 スポーツや、社会情勢等多岐に渡る会話の中に先程までの会話は埋もれていき、長船の頭からすっかり抜け落ちていく。それでいいのだ、所詮その程度の話題だったのだから。
 何かのきっかけで始まった大河ドラマの話題からお互いの好きな戦国武将の話に火がつき、ヒートアップしたそれが鎮火した頃、解散するのはちょうどいい時間になっていた。

 

「ああ、楽しかったし美味しかった」
「光忠、お前食べさせすぎだ、腹が苦しい」

 

 二人で話しながら会計へ。いつもきっちり割り勘というのがお決まりだ。金の清算でぐだぐだなるのも、奢る奢らないの応酬も鬱陶しい自分達は、二人で呑むときは割り勘にしようと最初に決めていた。但し、祝い事の場合はこの限りではない。
 そうだ、祝い事と言えば、

 

「長谷部くん、来週の金曜空いてる?」
「金曜は・・・・・・ダメだな、用事が入っている」
「再来週は僕もダメだから、じゃあ、その次の金曜は?」

 

 長谷部が、その次は・・・・・・と視線を宙に上げて僅かに思案する。
 

「空いているな」
「そのまま空けといてね。呑みに行こう」
「お前・・・・・・今来てるのにもう次の約束か。どれだけ俺が好きなんだ」
「あはは、長谷部くんだって僕のこと大好きでしょー、知ってるんだよ」

 

 そんな会話をしていると、聞いていたのだろう、会計に立っている居酒屋の女性定員がくすくすとおかしそうに笑っている。
 

「ほら、馬鹿なこと言ってるんじゃない」
「長谷部くんが先に言ったのにー」

 

 とは言っても確かに店員を持たせるのはよくない。それ以上は何も言わないで財布を取り出す長谷部の横に並んだ。会計レジが二人分の飲食代を打ち出す。それを二人して瞬時に÷2しつつ財布の中を探った。
 

「ねぇ、さっきの話。ちゃんと空けといてよ」
「わかってる・・・・・・悪い、光忠。小銭が足りない」
「オーケー、今度缶コーヒー奢ってねー」

 

 二人がそれぞれカルトンの上に金を出せば、店員が丁寧に受け取りレジへと打ち込んでいく。
 その数秒待っている間に「よろしければそちらの飴をどうぞ」とミニチュアバスケットに入っているキャンディー達を示した。

 

「ありがとう、遠慮せず頂きます。長谷部くーん、はい。薄荷味あったよ、よかったね」
「ああ、ありがとう」
「僕はレモン味を貰おうかな」

 

 爽やかな色合いをしている可愛らしいキャンディーをひとつ取り、胸ポケットへと入れる。その時、何もいれていない筈の胸からくしゃ、と小さな音がした。
 そこでハッと思い出す。そこに入っている紙の存在を。
 朝、鶴丸へ保険証の再発行手続きの書類の件で電話をした後、午後の社内便で早速鶴丸から書類が届いたのだった。それを受け取ると、書類と一緒にメモが付けてあった。

 

『長船くん
 お疲れさまです。お忙しい所お手数お掛けしますが、よろしくお願いします    鶴丸』

 

 何でもないただのメモ。気遣い出来る社員が手続きする社員に向けての、礼儀の現れ、ただそれだけ。普通なら文字を目で追った後、気遣いする人なんだろうと思いながら捨てるそれを、何故か自分は捨てることをせず、胸ポケットへとしまったのだ、数時間前に。
 

「どうした光忠」
「ううん、何でもない」

 

 咄嗟に胸ポケットからその紙を取り出して店員が渡してきた釣りと一緒に財布へと仕舞った。捨てようと思ったのだが、生憎ゴミ箱がなくて、胸ポケットに入れておけばまた忘れてそのままクリーニングに出してしまう恐れがあるから、それだけの理由だ。
 長谷部と並んで、笑顔の店員に笑顔を返しながら店を出る。そのまま長谷部と別れ、乗客が疎らな電車の中で一人。流れる黒い景色が鏡へと変えた窓を眺めながら、長船は何故か長谷部との会話を思い出していた。
 自分を疲れさせた鶴丸のことをよく知らないと言ったあの時の話題。そしてその時並べた、自分が鶴丸について知っていることに一つ、付け足した。
 鶴丸は字がとても綺麗だ、ということを。

 

 


 木金、そしては土日に休日出勤。
 労務を司る人事部にいながら、とは思うのだが、月曜に異動の内示が控えているのだから仕方がない。
 今回は大きな異動や昇進がある。その中には長谷部の名前もあった。彼はこの度、商品開発部の商品研究室、その室長へと昇進する。彼の若さからすれば大出世と言ってもいいだろう。長谷部の仕事ぶりが評価されたのだ。彼の努力を知っている同僚として、とても嬉しい。
 しかし人事部に所属する長船は今回の出世の理由がそれだけではないことを知っている。長谷部は仕事の量からしてどうしても残業が多い。もちろんそれに比例して残業代も他の社員より多くなってしまう。だから彼に役職をつけて、役職手当てをつける代わりに残業代を押さえようという魂胆なのだ。
 若くて優秀な人材を手放さず、しかし出来るだけ安く使いたいと言う上層部の判断。今回長谷部ほどの若さで、という者は他にいなかったが何らかの役職名を新たに与えられた社員は少なからずいる。いずれも優秀な社員だ、同時に時間外労働が多い社員でもある。
 本人達は頑張りが認められたと思うから一層仕事に励むだろうし、会社は残業代より安い役職手当てで抑えられるしで、正にwin-winだと言えばそうなのだろうが、双方の状況を知っている自分としてはまったく世知辛いと思わざるを得ない。
 しかし、誰が何を思おうが昇進は昇進。めでたいことにはかわらない。だから長船は水曜の夜に、一緒に呑んだ直後だったにも関わらず長谷部をまた誘ったのだ、今回の昇進を祝うために。
 6年間共に戦ってきた者が評価されたのだから祝わずにはいられないというもの、もちろん親友としても。

 休日出勤も無事終わり、月曜となった。各社員に内示が伝えられる。絶対長谷部は今回の昇進を受けるはず。向上心がある男だ、努力家で根性もそれに伴う自信もある。自分の年齢が若いから、とそんな理由で断りはしないだろう。
 案の定火曜の朝、いつも通り会社前で出会った長谷部は今回の昇進をその場で受けたと言った。
 

「だと思ったよ。おめでとう長谷部くん。いや、長谷部室長、かな?」
「就任はさ来週からだ、気が早い」
「さ来週なんてあっという間さ。むしろ急な異動で申し訳ないよ。引き継ぎとか色々あるだろう」
「別に辞めるわけじゃない、引き継ぎはなんとかなる。それにこんなに急なのもどうせ役員の都合だろう、お前達が気に病むことじゃない」

 

 長谷部の朝食が入ったビニール袋にいつもの使い捨てタッパーを突っ込みながら会話をしていく。いつもと同じような品に、ローストビーフも入れておいた。一足先にささやかなお祝いの意だ。
 

「こんなのはこれっきりにしてほしいんだけど、そうはならないんだろうなぁ。おっと、朝からテンション下げるのはよくないね。長谷部くん、今度のお祝い、何が食べたい?」
「お祝い?ああ、この間言ってたのはこれのことだったのか。なら、そうだな、あれが食べたい、水炊き」
「水炊きかぁ。わかったお店予約しとく」

 

 そんな話をしながら朝の短い時間を終えた。長谷部はしばらく忙しくなるだろう。朝の時間も会えないかもしれない。お祝いの予約が今週や来週の金曜日じゃなくて却ってよかった。

 


 さて、どの店を予約しようかと迷い、予約したのはその次の週の水曜日だった。何処が良いのか調べていたのと、人事部の自分も今回の異動に伴う処理で忙しく、こんなに時間がかかってしまった。
 休憩時間に予約の電話を終え、来週の金曜日、評判通り美味しいといいなぁと思いながら自分の席に着いた。午後の仕事を始めようとすると、隣の女子社員が長船さん、すみませんと声を掛けてきた。

 

「うん?どうしたんだい?」
「この郵便物、間違って総務部に行ってたみたいで・・・・・・」
「これ、・・・・・・保険証かな?」
「うちは人事部がしてるけど、殆どの会社は総務部が各種保険管理してますからね、たぶん振り分ける時に間違ったのかも。これ、長船さんでよかったん、ですよね?」

 

 本当はこういうの、私の担当なのに。いつもすみませんと申し訳なさそうな女性社員から、差し出されたままだったその封筒を受け取った。
 

「たいしたことじゃないよ。それに、電話を受けたのも僕だから、気にしないで」
 

 笑いかけながらペーパーナイフを手に取り封を切った。受け取り状等の書類の他に、新品の保険証が入っていた。名前が刻まれているそこには、鶴丸国永の文字。
 

「うん、よかった。最短で届いたね。ありがとう、連絡は僕からしておくよ」
「はい!こちらこそありがとうございます」

 

 女性社員が微笑んで仕事の体制になったのを見守ってから、自らの視線を保険証へと移す。何となく名前をなぞりそうになった指に、指の跡がついてしまうと我に返り、カードの端を親指と人差し指で挟んで持ち上げた。
 

「今、きっと、出てるよね」
 

 ぽそりと小さく呟いた。自分の声ながら、聞きなれないその声色は他人のもののように聞こえる。
 鶴丸は営業だ。一日のほとんどを外で過ごすことが多い。長船も営業の時、そうだった。外で立ち食い蕎麦を掻き込んだことも多々ある。鶴丸もそうだろう。営業のエースである彼は営業先を沢山抱えているに違いない。昼一番のこの時間に自分のデスクに座っていることは滅多にないにはずだ。
 そう思うのに、長船は何故か電話に手を伸ばした。指がぽちぽちと彼の内線番号を押していく。保険証を置いて左手が受話器を取って、耳へと誘う。コール音が聞こえる、1コール、2コール。

 

「はい、営業一課鶴丸です」
「え・・・・・・?」
「はい?」
「っあ、わ、お疲れさまです!人事部の長船ですっ」
「あっははは!君かぁ!誰かと思った!ははっ、お疲れさま、今日も元気だな」

 

 鶴丸の低くて柔らかな声が機械を通して耳元へ届いた。楽しげに笑う音に頬が熱くなっていく。
 今日こそは出ないと思っていたのに。何故この人は僕が掛ける時こうも席に着いているのだろう。営業部のエースなのに。と、自分から電話を掛けておいて何故か理不尽なことを思ってしまう。

 

「すみません、一応電話を掛けてはみましたが、きっと社外に出ているだろう思ってたもので」
「ああ、いつもなら出てるんだけどな。先方から時間を変更してほしいって連絡が来たもんだから。たまたまだ、たまたま」
「そ、そうですか」
「ふっ、驚かせてしまったかな?長船くん?」

 

 名前の部分だけ囁く様に聞こえて、背中がぞわっとした。なんなんだ、一体。
 

「あ、の、お電話したのは保険証のことで・・・・・・今、こちらに届きましたから、社内便で送らせて頂きますね」
「おっ、来たかい?いやぁ、迷惑かけたな!ありがとう、助かった」
「いえ・・・・・・」

 

 思わずホッと息をついた。これで再発行の手続きは完了だ。鶴丸に電話を掛ける必要もない。その思いがひとつの息に出てしまった。
 その音を聞いた鶴丸が電話を通して言葉を伝えてくる。

 

「・・・・・・なぁ、長船くん、今回異動があっただろう。それと同時に一部の社員に報奨金が出たことも、君なら当然知ってるな?」
「は、え、まぁ、はい」
「俺にも出たんだ」
「知ってます」

 

 報奨金は目標を達成した営業の社員に出るものだ。鶴丸のあの業績なら当然だろうと思った。もちろん鶴丸だけではないが、鶴丸に出た金額は一番多かったはずだ。
 

「君のお陰だ。ほら、君のアドバイスの」
「え?いや、それは違いますよ。あの電話より前の業績の時点で報奨金が出ることは既に決まっていましたから・・・・・・」
「だが、部長にものすごーく誉められたんだぜ?今回の保険証の件もある。それで、なんだが。今回出たこの金一封で、君にお礼がしたいんだ。来週の土曜、一緒に飯でもいかないか。俺が奢るから」
「・・・・・・はい?」

 

 一瞬言われた言葉の意味がわからなかった。
 来週の土曜、食事に誘われた、と言うことに気づいた時には頭は混乱の渦を巻いていた。
 お礼、何故。自分は鶴丸のもしもの質問に答えただけ、実際店を選び、営業をかけ、商品を置いてもらえるようになったのは全て鶴丸の実力。
 保険証に至ってはそれが業務だから、の一言で終わる話だ。別に鶴丸の為にボランティアでしたわけではない。そんなことでいちいちお礼をされていたのでは却って困ってしまう。プライベートで食事に誘われるほど大層な――、そもそも、これはプライベートな食事なのだろうか。仕事の事でお礼がしたいと言うならそれは、仕事の食事の誘いであって、プライベートの誘いというのは自意識過剰なのでは?・・・・・・ダメだ、よくわからなくなってきた。
 混乱中の頭でもひとつはっきりしてるのは、早くこの電話を切りたい、と言うことだ。周りの人間、ここの人事部、相手側の営業、全ての人間がこの電話に聞き耳を立てている、そんな錯覚を覚えて、一秒でも早く切りたくて仕方がない。恐らく営業は近くに鶴丸以外誰もいないのだろう、そうわかってはいても。

 

「わかりました、行きます」
 

 早く切りたくて、何も考えず、早口で何かを口走った。
 

「おっ、そうこなくっちゃな」
 

 じゃあ、時間は何時、場所は何処と鶴丸がすらすらと答えていく。それをいつもの業務の電話と同じようにメモを取った。
 

「はい、はい、・・・・・・わかりました」
「なら、そういうことで!楽しみにしてる」
「お疲れさまです」
「ああ、お疲れさま」

 

 静かに受話器を置く。
 と、同時にうわあああ!と叫びながら机に突っ伏したい衝動を全力で押し止めることになった。
 何故、何故僕は、あそこで断るのではなく了承してしまったのだと、頭の中でもんどりを打つ。端から見れば表情は変わってなくても、だ。

 

「おーい、長船さーん」
「長船さん、大丈夫ですか?」
「え?」

 

 名前を呼ばれて、顔をあげた。向こう側から鯰尾が、隣の席から女性社員がこちらを見ている。
 

「なんか、揉めてました?」
「い、いや、そういう訳じゃないんだよ・・・・・・」

 

 女性社員の言葉にどもってしまった。別に揉めていたわけではない。予想外の言葉を言われはしたが。
 

「電話の相手、営業の鶴丸さんですよね?今の時間会社にいるなんて珍しいですねー」
「っ、そうだね」

 

 隣の女子社員ならまだしも、何故鯰尾が電話の相手が鶴丸だと知っているのだろう。先ほど電話を掛け始める前に鯰尾はいなかったし、電話口で鶴丸の名前を呼んだ覚えもない。
 電話の相手が鶴丸だと知られている、それだけのことなのにどうしてこんなにも後ろめたい気持ちになる。言い訳がうまく出てこなかった。そもそも何に対しての言い訳なのか、よくわからない。
 しかし社会人として鍛え上げられた表情筋はいつもと変わらぬ笑顔を咄嗟に作り上げ、二人に見せた。

 

「何でもないよ、ちょっと色々聞かれただけさ。有給管理についてとか、ね」
「なぁんだ、良かったー」

 

 女子社員は安心したようだった。一方目の前の鯰尾は何かを言いたげにこっちを見ているように見えた。嫌悪感や心配そうな顔ではない、どちらかと言えば長船を窺うな表情で。
 

「?どうしたの鯰尾君」
「いえー、何でもないです!」

 

 その反応が疑問で、問いかければ、にぱっと笑顔を見せて両手の平を見せてきた。
 

「何かあったら言ってくださいね!俺、いつでも長船さんの味方ですから」
「はは、ありがとう。頼もしい後輩を持てて心強いよ」

 

 鯰尾も長船と鶴丸が揉めていたように見えていたのかもしれない。後輩からの励ましに心が軽くなる。それ以上に仕事の電話だったのだと二人が信じて疑っていない様子が長船を心底安心させた。
 とは言っても、問題はまだ残っている。来週の土曜、鶴丸と食事をすることになってしまった。

 

「う・・・・・・」
「やっぱり、何かありました?」

 

 うわあああの、うと言う音が口から出てしまい、女性社員が気遣わしげに見てくる。何と言う失態。人生で、笑顔で誤魔化す回数の制限が決まっているならもうとっくに制限を迎えているに違いない自分は、その制限を破ってまた笑顔を浮かべた。
 そして今度こそ何でもないように仕事に戻る。
 頭の中はまだぐちゃぐちゃしている。保険証の名前が、とても恨めしい。そうだ、取り合えず保険証を社内便で鶴丸に送らなければ。とはた、と気づいた。
 保険証を封筒に入れて社内便を送る準備をする。必要なものだけいれるのはと、いつもの様にメモを取り出した。お気に入りのボールペンで、文字を書こうとして止まる。鶴丸の、綺麗な字で書かれたメモを思い出したのだ。
 いつもならすらすらと紙の上を滑っていくボールペンは、道がない人生など歩けないとでも言いたげに所在なさげに突っ立っている。
 何なんだよ、一体。そう言いたくなって誰にもわからないように奥歯を噛んだ。さっきからわからないことだらけ。文字すら書けなくなったかと、自分を殴りたくなった。
 ええい、と心で弾みをつけてペンを滑らせた。弾みをつけたわりに歩みはゆっくり丁寧だ。『鶴丸さんへ』と現れた文字は、気のせいかもしれないが、いつもより綺麗に見える。続けて『ご連絡した保険証です、ご確認ください』と書いた。名前と、連絡事項。メモに二行。紙の上の方だけにぽつんと固まっている言葉たちはやけにバランスが悪いように見えた。
 だからまたペンを走らせた。深い意味はない。バランス悪いのが気になっただけだ。

 

『お仕事、頑張ってください 長船』
 

 付け足された三行目によってメモの秩序はめでたく完成された。それを、保険証の封筒につけて社内便受けに入れた。
 一仕事終えた気持ちで席に戻ってきて、気づく。実は何も解決してない、そんな当たり前なことに。
 ああ、家に帰りたい。家に帰ってベッドに顔を埋めてなんだか叫びたい気分だ。今までの人生で初めての感覚を覚えながら長船は取り合えず目の前の仕事に向き合うことにした。

 

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