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3回目の夏

 


 季節と共に土地を巡る。今までと同じ様に。けれど今年は夏のことばかり考えていた。今度は光忠の味を忘れきれない舌は何を食べても味気ないとそっぽを向くし、天気予報を見る時は全国地区のものを見るようになってしまった。あの村に台風が上陸するとなれば、ぴっかり晴れた空の下に居たとしてもそわそわと身を揺らす。
 ああ、こうも夏が恋しい。そう、恋しいのだ。夏の太陽に身を焦がさなければ、この胸が焦がれてしまう、そう思う程。

 

「こいしい、」
「如何されました?」
「ご気分でも悪いのですか?」

 

 春になって訪れた新しい土地の、民宿のロビーでテーブルに突っ伏していれば、そう声をかけられる。顔が瓜二つの双子、この民宿の子達だ。国永が滞在している今回の民宿は大家族で経営している。メインで手伝いをしている兄弟だけでも長男含めて、13人だ。なんとまぁすごい。
 

「床を整えましょうか?」
「いや、平気だ。何でもない、すまんな」
「何かありましたら遠慮なくお申し付け下さいね」
「ああ、ありがとう」
「鶴丸さまー」

 

 双子の頭をそれぞれ撫でているとハスキーな可愛らしい声が聞こえた。見れば和服にフリフリのエプロンを身に付けた子が足早に近づいてくる。どう見ても女の子にしか見えないが、これで男だと言うのだから驚きだ。ここの兄弟は個性豊かで、国永はこの民宿が気に入っている。
 

「鶴丸さま、お電話です!」
「電話ぁ?俺に?」

 

 携帯も持っていない国永は、誰とも連絡をとっていない。そう、光忠とも。国永が何処にいるのなんて誰にもわからない筈だ。
 

――いや、一人だけ、いる。
 

「はい!お兄様だと名乗る方から」
 

 そう、兄であれば国永が何処にいても見つけてくれるだろう。

 

「もしもし?」
「おお、国永。久しぶりだな」
「兄さんも。というかさっすがだなぁ、よく俺の居る所がわかったもんだ」
「はっはっは!兄の力を甘く見てはならん」

 

 おっとりとした笑い声は幼少から変わらないものだ。元気そうな声に安心する。
 

「お前が熱中症で病院に運ばれた時以来だな」
「覚えてるなよ、そういうの。というかだな、兄さん。毎月振り込まれる金額が一桁多い気がするんだが?」
「なぁに、お前が戻って来たときの前払いだ。受け取れ」
「受け取れって。助かってるけど、さすがに多いぜ」

 

 和やかに会話をしていく。例え、何年離れていてもこうしてすぐいつも通りの会話が出来る。さすが兄弟だ。
 

「国永、父上が退かれるぞ」
 

 突如兄が本題に入った。優しい声色だ。それは国永に対してだからだろう。
 

「兄さんが退かせたんだろ?」
「そうとも言う。来年で10年目だからな、そろそろ頃合いだろう。だから国永や、お前さえよければ戻っておいで」

 

 機械を通して耳に届く言葉に、目を瞑った。あの日の出来事が甦る。

 


 国永は会社の社長である金持ちの父親と前妻を押し退けて社長婦人の座を勝ち取った母親の間に生まれた。兄である宗近とは母違いの兄弟である。
 ならば母は義理の息子である兄を遠ざけて実子である国永を可愛がったに違いない。ほとんどの人間がそう思うだろう。しかし、実際は逆だった。
 兄である宗近は、まるで月の化身であるかのように美しく、相手が誰であっても魅了する、そんな人間だった。父は前妻を愛してはいなかったようだが、兄のことは溺愛していて、母もそれに倣った。もっとも母自身も兄の魅力にとり憑かれていたのかもしれない。
 国永ももちろん兄の美しさに魅了された一人だった、ただそれ以上に父や母に見向きもされない国永に優しくしてくれる兄自身が大好きだった。
 同じ家に住んでいる筈の兄と国永は、父と母によって引き離されていたが、よく使用人の目を盗んでは兄に会いにいったものだ。
 兄が居たから国永は居場所がない家庭でも耐えられた。一人で食事をしていても、兄が同じ食事をとったのだと思えば一緒に食べている気分になれた。
 友人はいなかったが学生の本分は勉強だと、勉学にも一層励んだ、父や母に認められたかったからじゃない。いつか父の跡を継ぐ兄の手助けをしたかったから。
 しかしそれすらも許されなかった。

 

 国永が大学を卒業して、家族4人で食事を取る機会が一度だけあった。その時国永は言った。兄の手伝いがしたいと。父と母はその国永を鼻で笑った。そして国永は取引先の社長令嬢へ婿養子に出すことになっていると告げた。
 

「何故、そんな、俺の人生を勝手に決めるようなことを!」
「何をそんなに怒ることがある?いいじゃないか、相手の娘さんもなかなか美人だし、なぁ?」
「そうよねぇ、むしろ感謝して欲しいわ。貴方に相応しい居場所を与えてあげたのよ?」
「居場所なんて、自分で!」

 

 激昂する国永に対しても父も母もにやにやと笑うばかりだ。兄は静かに食事を進めていた。
 

「なら聞くけど、貴方の居場所が何処にあるっていうの?この屋敷の何処にも、貴方の居場所なんてなかったでしょう?いつも一人で寂しい食事をしてどんな気分だった?友人が一人もいない学校で、校内を歩く時は?惨めで、辛くて、消えてしまいたいって思ってたんでしょう?母さん、そんな貴方を見るのは辛いわ、っふふふ」
「こら、よさないか。ははは、事実を言うのは可哀想だろう。なぁ国永、そう怒るな。母さんの言う通りだぞ、この世界のどこにもお前の居場所はない。だから父さん達が居場所を与えてやるんだ」
「っ、何が、」

 

 突然ガチャンッ!!!と音が鳴った。見れば兄がゆらりと美しく立っていた。顔には微笑が浮かんでいる。
 

「兄さん?」
「宗近、どうした?」
「料理をこぼしてしまったのかしら?ちょっと、誰か」
「国永、この家を出ていけ」

 

 戸惑う三人を気にせず兄はおっとりと口にした。その場の空気が一瞬止まる。そして父と母が、嬉しそうに笑った。
 

「お、おおそうだ!宗近の言う通り!この家を出ていけ国永。どのみちこの家にお前の居場所はないんだしな!」
「さすが宗近さんは話のわかる人だわ。それに比べてこの子ときたら。まったく恥ずかしくなる。いえ、でもそうね、それももう関係なくなるはなし、」
「黙れ」

 

 喜色ばむ二人に兄が静かに呟いた。その声色は冷たく、どこまでも冷たく。天上人である月の民が愚かな人間を見下している、そんな声。兄のそんな声を初めて聞いた。兄はいつも国永に優しかった。そうでなくても兄はいつも穏やかだ。こんな声を出す人間ではない。その証拠に父も母も一瞬で時を止めた。
 

「国永」
 

 固まる父と母を無視して兄が国永に近寄る。声は優しかった。
 

「確かにお前の居場所はここにはないのかもしれない。しかし、どこにも居場所のない人間など誰一人としておらんのだ」
「兄さん」
「この家を出ろ。お前の居場所を探せ。なぁに心配いらん!俺が助けてやる」
「でも、きっと俺には、」

 

 居場所を見つけることは出来ない。
 先程まで父と母が言っていたことは事実だった。国永には居場所がない。大好きな兄の傍もたぶん国永の本当の居場所ではないと心が言っている。 
 それならもう、この世界のどこにも国永の居場所はないのだ。兄が誰一人としていないという居場所のない人間、その例外ただ一人が国永なのだ。
 俯く国永の頭を兄は優しく撫でる。成人した時に、もう子供じゃないんだと恥ずかしくて拒否をした国永に、いつまで経ってもお前は俺の弟だと笑った兄はやはりこうして国永の頭を撫でてくる。

 

「そうだな、10年だ。10年探し続けて、居場所が見つかればそれでよし。だがもし、お前の居場所が見つからない時、その時は俺の元においで。俺を手伝ってくれないか」
「10、年」
「10年間、見聞を広げたお前が傍に居てくれるなら俺も心強い!それまでは、はっはっは!俺も一人で頑張ってみるか!なぁ、それでよいだろう?・・・・・・父上、義母上?」

 

 国永から視線を外し兄は笑った。それはそれは恐ろしいほど、美しい笑みで。それは了承の確認ではなく、天上人が一方的に突きつけた命令だ。ただの人間は頷く他ない。
 

 金に困らない国永の旅が始まったのはあの日からだ。来年で10年目。兄はそれに合わせるように父を退かせたのだろう。

 ほぼ10年前の記憶を兄の声で引き上げながら、もうそんなに経ったのか懐かしく思う。あの時、いや幼少期に夢見たような国永の居場所は結局今も見つかっていない。それが悲しいとも悔しいとも思わなかった。
 

「兄さん律儀だな、殆ど一緒に過ごしてない弟の為にさ」
「律儀、というか過保護、だろうな。友人にそう言われてしまった」
「おお、兄さんにもまともな感性を持った友人が出来たのかい」

 

 天上人の友人とはどんな人物だろうか。同じ月の民か、火星の民か、それとも太陽の民だろうか。
 太陽の、そう思っただけで、光忠の顔が浮かぶ。なんて単純な。

 

「国永?」
 

 急に黙ってしまった国永を心配するように、兄が名を呼んだ。
 

「ああ、何でもない。話はわかった。そうだな、夏が・・・・・・、夏が終わったらそっちに帰るさ。父さんと母さんの醜悪な面も10年ぶりとなれば物珍しい驚きをくれるかもしれないしな!」
「あれは醜悪を通り越して、いっそ一種のぱわぁすぽっとだぞ。この俺をここまでやる気にさせる相手もあの方々くらいだ」
「ははは!!確かにな!」

 

 久々の兄弟の会話は笑顔で締め括ることが出来た。10年、兄に甘え続けていたのだ。父や母になんと言われても、これからは兄の傍に立ち、兄を助けて行く、そう決めていた。
 30も過ぎれば居場所だなんだと感傷的なことはいってられない。自分にも居場所がほしいと泣いていた子供ではないのだ。
 ひとりぼっちで見る変わらない景色は嫌だとか、見たことない景色が見たいだとか、そんなことはもう言っていられない。

 

――ただ、今度の夏までは。
 

「約束してしまったからな」
 

 待っていると祈るように囁いた姿を思い出す。その表情を、その声を、手の温度を。
 

「会いに行くよ、君に、」
 

 みつただ、と初めて呼んだその名前は自分でも驚くほど甘かった。

 

 

 

 

 賑やかな民宿を名残惜しく離れながら国永は夏にむけてゆったりと進路を変えた。途中梅雨の時期に、片目が隠れたポニーテールの男とひんやりとした、夏にはまだ早い怪事件に巻き込まれながらも国永は3度目の村に無事辿り着くことが出来た。
 

 昨日まではどんよりしていたが今日は晴れている。きらきらと眩しい海を横目に、途中の自販機で買った冷たいスポーツ飲料を頬に当て、この村を訪れる日はいつも晴れているなと心の中で呟く。
 だから光忠がいつもいつもあんなに心配してくれるのだ。しかし今回はそうはさせない。その為のスポーツ飲料。梅干し地獄、無事回避。
 まずは畑が広がる山道とは違い、海道から入ると光忠の家からは離れている所に出た。道は覚えているので問題はない。

 

「変わらないなぁ、ここは」
 

 一人で見る変わらないものは嫌いだが、ここだけは懐かしさに目を細めてしまう。理由なんてわかっている。
 キョロキョロと回りを見回しながら歩く。山を見て、一昨年も去年もあの山を歩いて越えてきたのか、我ながらよくやるぜ、そう一人呟いた時、自分の腹から下半身にドン、という衝撃を受ける。慌てて地面を見れば、国永と同じような表情で尻餅をついている、薄い青緑色の髪をした少年がいた。初めて見る顔だった。

 

「誰だ、き」
「!!っきみ!つるさんだな!?」
「え、あ、はい」
「ちょ、ちょっと来てくれ!」
「へぇぁ?な、おい!」

 

 いきなり手を引かれ少年に引っ張られるようにして、足を動かす。質問する余裕もない。足の早い少年についていくのに必死で。
 歩くことは苦じゃないが走ることはそんなに得意ではない。もう31なのだ、勘弁してほしい。
 村の風景をじっくり見る間もなく辿りついた所はいつもの集会所だった。やっと国永の手を離してくれた少年が中に走り込んでいく。国永はぜーぜーと息を整えながら自分の両膝をつかんだ。
 間もなく声が聞こえた。少年と、もう一人。国永がこの一年間も何度も何度も反芻し、耳と、頭と胸に大事にしまっていたその声とまったく同じの。

 

「はやく!」
「どうしたんだい膝丸、何でそんな急に」
「きみのまちびとをつれてきたのだ!」
「え、待ち人って、」

 

 先程の国永と同じように少年に手を引かれて、姿を表す。その姿。国永が焦がれる相手。
 見つめる国永とそのひとつの目があった。

 

「光坊!」「鶴さん!」
 

 嬉しさで名前を呼んだ。
 少年が手を離し、自由になった光忠が駆け寄ってくる。その姿が白いトラックから満面の笑みで駆け寄るあの姿と重なる。デジャヴ?いや実際あったことだ。まさか今回は手に梅干しを持ってはいないだろうが、警戒してしまう。

 

「ま、待て、近寄るな」
 

 一年前の記憶に汗を流しながら思わずそう言ってしまう。光忠がぴたりと足を止めた。
 すぐにリュックについている袋に入っていたそれを右手で持ち、印籠よろしく光忠に突き出す。この紋所が目に入らぬかと言わんばかりに。

 

「スポーツ飲料だ、リュックのポケットには塩飴も入ってる。水分補給も塩分補給もばっちりだぜ」
 

 ぽかんと光忠が幼い表情を見せた後頬を赤くして目を吊り上げた。
 

「~っ吃驚したじゃないか、鶴さんのバカ!!!!」
 

 何故か怒り始めた光忠が、国永の突き出している右手を、光忠自身の方へぐいと引っ張る。バランスを崩した国永は前面へと倒れ込む。当たるのは固い地面ではない、光忠の胸筋だった。
 

「は、はぁ!?っあ、っいっでででででで!!み、光坊、折れる、光坊本当に折れるバカー!いだだだだ!!」
「み、みつただ!つるさんしんでしまうぞ!みつただ、みつただぁー!!」

 

 鯖折り地獄。これは予想していなかった。全身が軋む。どうせなら国永にも両手を広げさせてほしい。それならいくらでも折ってくれても構わない。いややっぱり嫌だ。
 自分の体の中からぱきと言う音を聞いたような気がした。同時に国永は意識を失った。

 

 

 ぱちりと目を覚ます。そこは懐かしい天井があった。
 

「ここ、は」
 

 ふらふらと体を起こすと、何故か体のあちこちがぱきばきと音がする。
 

「あでで」
「鶴さん?」

 

 痛みより音にびっくりして、声をあげる。それに呼ばれたように、台所から光忠が姿を表した。
 びくりと肩が跳ねる。自分が倒れた理由を思い出した。なんて、なんて恐ろしい。

 

「目、覚めた?」
「どっちかって言うと生き返った?って表現するのが正しいんじゃないか?」
「ご、ごめん。まさか気絶するなんて。鶴さんなんか細くなってない?ちゃんとご飯食べてた?」

 

 ぎくりとしたが、それを悟られないようにそっぽを向いた。誰のせいだと思っているんだと言うのはさすがにお門違いだろう。
 

「そうやってすぐ誤魔化そうとするんだな」
「誤魔化そうとなんてしてないよ!!その分張り切って料理しようと思っただけ。ねぇ、ごめんってば、せっかく一年ぶりに会えたんだから怒らないでよ」

 

 光忠が畳に投げ出されている国永の手にそっと触れる。
 

「・・・・・・そうやってすぐ陥落させる。はあ、わーかった。もう怒ってない。挨拶もなしに喧嘩ってのはな。久しぶりだ光坊、会いたかったぜ」
「うん、久しぶり鶴さん、待ってたよ!」

 

 光忠が眩く笑う。そうだ、この笑顔に会いたかったのだ。この一年、その前の一年も、ずっと。ちりちりと焦がれる胸に思わず手を当てる。
 言いたいことや話したいことが沢山あった。しかしそれ以上に聞きたいことがある。

 

「なぁ光坊、聞いていいか」
「なぁに」

 

 両手を挙げて伸びをすると肩がぱきとなった。その音に気づかない光忠がいそいそと何かの準備をする。
 

「まず、あの少年、誰だ?」
「ああ、膝丸だよ。向かいのおじいちゃんの孫の。去年鶴さんと入れ替わるようにしてやってきたんだ。お兄ちゃんと一緒にね」
「孫がいたのか、あのじいちゃん」
「みたい、だね。僕も知らなかったけど。娘さんを見たのも初めてだった」
「娘さんも帰ってきてるのか」
「う、ん。・・・・・・ううん、娘さんは二人を置いて自分の住んでる所に戻ったみたいだよ。去年以降一度も見てないね」
「そうか・・・・・・」

 

 人にはそれぞれ事情というものがある。他人、それ以上に余所者である国永が口を挟むことではない。
 

「膝丸はまだ小学校入れてないからお兄ちゃんが隣町の学校行ってる間、僕と遊んでくれるんだよ。お兄ちゃんに似て聡明で優しい、いい子なんだ。今は夏休みだから二人で一緒に遊べて嬉しそう」
「弟分か。君と鶯さんみたいな関係だな」
「ふふ、そうだったらいいなぁ」

 

 光忠が擽ったそうに笑う。まさか自分に弟分が出来るとは思わなかったのだろう。嬉しくて、可愛くてたまらないと思っている気持ちが滲み出ている。その姿こそ可愛らしい。25の男に31の男が抱く感想ではない。だがもう開き直る。可愛いものは可愛い。
 同時にちょっぴり寂しかった。国永がいない間光忠は新しい弟分を得て毎日楽しく暮らしていたのだ。
 何も国永を思って毎日枕を濡らせと言うわけではない。光忠には笑顔が一番似合う。この村を去るのは国永の意思だし、光忠は何一つ悪くない。それでもそう思ってしまうのは、この感情の悪い所だ。

 

「もうひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「集会所で何してたんだ?」
「何って、準備だよ?祭りの」

 

 不思議なことを聞くねと顔に書いて光忠が首を傾げる。同じように国永も首を傾げた。首がぱきとなるのはさすがに鯖折りとは関係ない筈だ。
 

「俺が来る前から始めたのか?」
「二人が手伝いたいって言ってくれたから、ちょっと早めに始めただけだよ」
「・・・・・・」

 

 むむむと眉間に皺が寄る。なんだか仲間外れの気分だ。二人の子供はこの村の住人だからその二人が手伝うのは本来なら大歓迎。けれども、自分のテリトリーに他人が踏み込んできたそんな感覚になる。自分の方こそ余所者なのに厚かましい。
 

「だって、ちょっとでも早く準備終わったらさ」
 

 心の狭い自分に嫌気が来て、唸っていた所に光忠がぽそぽそと呟く。
 

「その分、鶴さんと出来るだろ?色々と、さ」
「い、色々とは」

 

 目を伏せて照れたような姿に、ごくりと唾を飲み込んだ。不埒な事が頭を過る。
 

「スイカ割り!花火!川釣り!虫取り!二人がバーベキューしたいって言うからB、B、Q!!」
「すまん光坊もう一回鯖折りしてもらっていいか?この汚れた魂を三途の川で綺麗に洗い流してきたい」
「やだよ。鶴さんが行くのは三途の川じゃなくて、僕と一緒に行く夏の満喫ツアーなんだから」

 

 今度は両手を広げて言えば、光忠に明確な拒否を受ける。せっかくのチャンスが、と残念になる。魂はやはり汚れきってるようだ。まぁ光忠の言葉を純粋に喜ぶピュアさもまだあるからセーフだろう、たぶん。
 

「はい、鶴さん。どうぞ」
「これは?」

 

 淡い琥珀色をした飲み物を差し出される。しゅわしゅわと泡が弾けているのがわかる。
 

「漬けてた梅シロップを炭酸水で割ったもの。これなら酸っぱくないでしょ?」
「うめ・・・・・・」
「脱水症状の予防にも梅干しの方がいいんだけど、それについては鶴さんもちゃんと意識してるみたいだし。何より去年トラウマになる勢いで梅干し嫌がってたからさ。今年は梅シロップにしてみました」

 

 受け取ったコップをまじまじと見つめる。これが、あの赤い地獄と同じものから生まれているというのか。
 

「あとね去年から梅酒も漬けてたんだ。僕、お酒飲めないから美味しいかわからないんだけど・・・・・・。鶴さん、鶴さんはお酒、好き?」
「~ッ好きだ!!!大好きだ!!!」
「そっかぁ、そんなに好きなんだ、よかった」

 

 不安そうな表情で何故か上目使いになるあざとい顔に半ば怒鳴るように宣言した。
 光忠は好きという言葉の指すものが梅酒なんだと一欠片も疑っていない。ふにゃと安心したように笑うからたまらなくなって、手にしていた梅ソーダを一気に煽った。そうでもしなければこっちが鯖折り、じゃないそのまま抱き締めてしまいそうだった。

 

――何故酒が飲めないのに、梅酒なんて準備するんだ!俺が来ないとは思わないのか!くっそ可愛い!好きだ!大好きだ!梅酒

も光忠も好きだ!!
 

「うまい」
 

 心の中でごろごろじたばたわーわーと叫ぶ。一方体は真顔で静かに呟いた。
 

「まだまだあるよ~あ、ねぇわんこ梅ソーダする?」
「しない!!」

 

 人の気持ちなんて知らないで光忠は子供みたいなことを言う。調子なんて一番最初に光忠と出会った時から狂いっぱなしだ。今さら嘆くことでもない。
 

 さて3度目の、最後の夏を始めよう。

 

 

 

 

「うわっちぃ」
 

 熱冷ましのシートを貼ったいつものスタイルで項垂れる。窓は全開なのにこんなにも暑い。こんな暑さに身を苛まれるのも今年の夏が最後になるだろう。秋からは夏であろうが冬であろうがいつでも快適な空調完備の所で過ごすことになる。
 

「大丈夫かい?えーと、えーと、ああ、白鳥さん」
「鶴な?白い鳥ってとこは惜しいけど」

 

 国永の前で白い肌の薄い金白色の髪を持つ子供が、子供らしくない美しい微笑みを浮かべている。その顔は汗ひとつ書いていない。膝丸の兄だ。
 

「あにじゃをしからないでやってくれ。あにじゃはなまえをおぼえるのがにがてなのだ。わざとではない」
「お前はいい子だねぇ、えーと、ひ、いや、ふ?ふじ、ふじま・・・・・・弟」
「ひざまるだ、あにじゃー!」    

 

 わざとじゃないと庇う弟の名前すら呼べず、結果として「弟」で片付ける、ある意味大物。膝丸がぴえんと泣いてしまうにも無理はない。国永も兄にそう言われればがっくりと肩を落とすだろう。
 

「ところでつるさん、みつただはまだなのか?」
 

 泣いていたかと思えばすぐ泣き止んだ膝丸が不思議そうに辺りを見回した。切り替えがすごく早いようだ。なんという強メンタル。
 

「そういやちっとばっかし遅いな」
 

 集会所の時計を見る。いつもならここで弁当を広げてる時間だ。
 

「というか君たち今日は早くないか?いつもは3時頃だろ?」
「お祖父様がどうせ泊まるなら早く行っても変わらないと言ってね、追い出されてしまったよ」
「じじさまはこーこーやきゅうがみたいのだ!われらがひるのばんぐみをみたがるからそのまえに、とな」
「くっそー!向かいのじいちゃんめ!せっかくの貴重な二人きりの時間をー!」

 

 ガンと金槌で釘を打つ。五寸釘と藁人形じゃない。装飾の修繕だ。
 本日この兄弟は光忠の家にお泊まりをすることになっている。今までも時々あったらしい。それはいいのだが、貴重な二人きりの時間が減らされるのは惜しかった。

 

「鷺さんは彼が本当に好きなんだねぇ」
「あにじゃ、あにじゃ!さぎさんじゃなくてつるさんだぞ!」
「ありゃ、そうだっけ」

 

 間違える兄に膝丸が右手を添えてこそと耳打ちをする、がばっちり聞こえている。その可愛らしい姿に免じて知らぬ振りをしてやった。
 

「えっと、白い人さんは、」
 

 膝丸の健気さ虚しく兄はもう名前を思い出そうとすること事態を諦めたらしい。潔すぎる。白い人って言うが言ってる本人も大概白い。
 

「彼がどういう形でここにいるようになったか知ってるかい?」
「光忠が?」
「彼は赤ん坊の頃ここに捨てられたそうだよ」
「・・・・・・そう、なのか」

 

 村の人皆が自分を育てたと最初に会った時光忠はそう言った。だから両親はいないことはわかっていた。だが、まさか赤子の時に捨てられた、とは。


「彼の眼帯の下には、痣があってね。生まれつきなのか、生まれた後についたのか、それはわからないけど。たぶんそれが原因で捨てられたんじゃないかって彼は言ってたよ」
「こんなのがある、あかちゃんかわいくないもんねとみつただはわらってた」
「君達、眼帯の下を見たのか」

 

 国永がまだ見ていないあの右目を。
 

「おれが、ないたから。ははさまがあにじゃをここにおしこんだのがくやしくて」
「ほら、僕こうだから。あの女の人は僕が目障りだったみたいだね。弟があの人を止めようとしたら弟までここに置き去りにしていったよ。すごいよねぇ」
「おれがずっとないていたらみつただが、ここがおれたちのいばしょだといってくれたのだ!」

 

 膝丸がその時嬉しかったことを一生懸命表すようにばたばたと手を動かして、どうにもうまくいかず、兄の背中にぎゅむりと抱きついた。
 

「この地に縁も所縁もない自分でさえここは受け入れてくれた。って自分の生い立ちを話してくれたんだよ。だからここも君達の居場所になるって。普段人には見せない眼帯の下を見せてくれながらさ」
「あの子らしいな」
「子供とはいえ、あって間もない人間に自分の嫌だって思ってる部分、見せるかな、普通。警戒心ないよねぇ。大丈夫かな」
「きっとあの子は、この村でどんなことが自分に起きてもすべて受け入れるつもりなんだ」

 

 兄弟の話を聞いて確信した。光忠の警戒心の足りなさの理由を。
 鍵のかけない玄関、開ききった窓。誰が入ってきて、何をしても、それこそ光忠を殺そうとしても、きっと光忠はそれを受け入れる。捨てられた時点で本当は、自分は死んでいて、今ある命は村によって生かされている。そう思っているから。
 だから初対面の余所者であった国永を平気で家に残せるし、危険しかない台風が訪れる村を歩き回る。
 自殺願望があるわけじゃない、ただ本当に全てを受け入れるつもりなのだ。
 きっと光忠は、ばあちゃん達が皆死んでこの村に一人ぼっちになったとしても、この村に住み続けるに違いない。この村が好き。それは本心だろう。国永が想像していた以上にこの村を愛し、人を愛し、誰よりも感謝をしている。そういう子なのだ。

 

「眼帯を外さないのも皆が痛々しさに顔を歪めるからだろう。皆の笑顔を自分が掻き消すのを許せないんだろう」
「そうだろうねぇ、彼の性格を考えると」

 

 同意する、美しい顔にはぁと溜め息が漏れる。何という愚かさ、本人にそのつもりがなくてもこの村に捧げられた生け贄のようではないか。いや、自分の居場所の為にはそれくらいするのが普通なのだろうか、国永にはわからない。
 一つわかるのは、光忠のその愚かな部分がとても愛おしいと言うことだ。
 祈るように待っていると言った時、光忠は本当に祈っていたのかもしれない、国永が来年もここを訪れるように、と。彼が大好きな鶯さんのように彷徨い続ける会いたい人を探しに行くなんて、光忠には出来ないから。だからきっと国永がこの村を訪れるようにと祈ったのだ。
 光忠は、国永を好きでいてくれている。恋愛か親愛か、そこまではわからない。けれど確かに好いていてくれている。
 ただ、光忠は今年国永がこの村に来なくてもそれを受け入れただろう。誰も口にしない梅酒をこっそり処分して、二人の兄弟と共に祭りの準備を進めたはずだ。皆の笑顔の為に。
 はぁと溜め息。金槌をかんと打った。

 

「僕も連れていってとは、言ってくれないだろうな」
「人拐いはダメだよ?犯罪者になっちゃうからね」
「わかってる。あの子の意志を無視できるか」
「彼を絶対幸せにするというなら、僕としては何でもいいんだけどね」

 

 背中から腹側に回ってきた膝丸の頭を撫でながら兄が優しく笑う。意外な言葉にまじまじと見つめた。
 

「やけにあの子に優しいんだな」
「彼は弟の名前を呼んでくれるからね」

 

 兄がそう言えば膝丸がそうなのだぞと兄の両手で自分を閉じ込めながら目を輝かせた。
 

「みつただは、あにじゃがおれのなまえをおもいだすまで、あにじゃのかわりにおれのなをよんでくれるといってくれた!そんなこといったのはみつただがはじめてだ!」
 

 通りで、兄の方はお兄ちゃんと呼ぶのに弟は膝丸、と呼び捨てにしていたのか。光忠の性格なら膝丸ではなく、ひーくんもしくはひーちゃんと呼ぶだろう
 

「恩はちゃんと返さないとねぇ、鶴の恩返しみたいにさ」
「!!すごいぞあにじゃ!そうだ、かれはつるさんだ!なぁなぁあにじゃ、なら、おれは?おれのなまえは!?」
「えーと、ひ、ひざ、ひざファラオ?」
「くー!おしい!おしいぞあにじゃ!おれのなまえは、ひ、ざ、ま、る、だ!」
「ひがだるま?」
「君達すごく楽しそうだな」

 

 弟の名前でクイズが出来る兄弟などなかなかいない。というか兄は記憶力がないのではなく、ただ単に耳が遠いだけではないだろうか。
 かんかんと金槌を打って、傍に置いた。すべて綺麗に打ち付けられたか、飛び出しているところがないか目と指で確認をする。大丈夫だった。
 騒ぐ兄弟を放っておいて、国永は胡座に肘をつき、手で頬を押さえる。村を出ない光忠、兄の元に戻る国永。その未来がどうなるか明白だ。

 

「最初から言うつもりなんてないさ」
 

 好きだと言うのは自己満足。光忠が断れば自分は悲しいが、光忠がもし頷いてくれれば二人とも悲しくなる。この思いが悲しいものとなるのは御免だ。
 そうなるくらいなら、この夏の暑さを持つ気持ちを胸にしまって、毎年毎年夏が来る度一人で紐を解いて眺める、そんな宝物にしたほうがいい。
 今年が最後だ。だからこそ光忠には何も言わず去っていこう。光忠の中の思い出になれれば十分。

 

「よし、なら気合い入れるぞ!」
 

 国永が腕を捲るそんなジェスチャーをした時、
 

「ん待たせたねぇ!!光忠特製ミレリーゲ・アラ・パンナ・コン・イ・ブロッコリだ、よ・・・・・・」
 

 いつものバスケットを持った光忠が現れた。空いた手で顔の大部分を覆い、格好良く仁王立ちしている。よく通る声で呪文のような、恐らく料理名を唱えたのだろうが、兄弟の姿を確認した途端尻すぼみとなり最後の言葉は聞き取るのがやっとだった。
 ぽかんと兄弟が見つめている。見つめ返す光忠も目を見開いている。お互いこんな姿見せたことも見たこともなかったのかもしれない。ここで軽やかに手をあげて答えるのは国永だけだ。

 

「光坊~腹へった~」
「な、何で二人ともここにいるの」
「じじさまにおいだされた」
「高校野球見たいんだってさ」
「へ、へぇー・・・・・・今のなし!!!忘れて!!!」
「今のって、ミレリーゲ・アラ・パンナ・コン・イ・ブロッコリを格好良く叫んだこと?」
「何でそういうのは一発で覚えるかな!?お兄ちゃん!?」
「あにじゃ、あにじゃ!おれは?おれのなまえは?」
「なぁ~、俺腹へった~」

 

 

 


「光坊、まだ拗ねているのか?」
「拗ねてない」

 

 何時もより賑やかな夕飯をとった後、二人して縁側に座っている。兄弟は、眠っている。いくら夜は幾分か涼しいといっても夏だ。にも関わらず、兄弟はお互いを抱き締め合いながら眠っている。暑苦しそうだが、見ている分には微笑ましい。
 国永の手元にある梅酒の氷と頭上にある風鈴涼やかに鳴る。からん、ちりん。耳にとても心地よい。国永が来た日に光忠が取り付けたこの風鈴の音も、聞くのは今度が最後だ。そう思う自分に笑う。何でもかんでもこれが最後だと、えらく感傷的になっている。夏には似合わない。
 梅酒を傾けながら光忠に問えば光忠はぷいと視線を下げる。完全に拗ねていた。
 昼間の光忠の格好良い登場が、兄弟はとても気に入ったようでずっと真似をしていたのだ。特に膝丸などポーズまで完璧に再現していて、言い方もそっくりだった。
 思い出し笑いしてしまい梅酒がコップに逆流してしまった。キッと睨んでくるひとつ目から素早く視線を逸らす。

 

「いや、美味かったぞ?光忠特製ミレリーゲ・アラ・パンナ・コン・イ・ブロッコリ」
「鶴さんまでちゃんと覚えちゃってるし・・・・・・」

 

 がくりと項垂れる。風呂上がりの、まだ水気を含んだ襟足が項へと流れる。危ない、思わず触れそうになってしまった。
 

「聞いたことも見たこともない料理だったけど美味かった」
「いいよ、そう機嫌取るように何度も言わなくても」
「機嫌取りじゃないさ。それぐらい美味かった。あの料理、俺の為だけに練習してくれたんだろ?」

 

 最初はサンドウィッチすら作ったことないと言っていた和食専門だった光忠が、今では聞いたことのない呪文のような料理を作っている。その理由が国永の為だと思うのは決して自惚れではない。
 

「ありがとう、美味かった」
 

 今度は光忠の顔を覗き込み、目を見て言った。光忠の視線がうろうろと彷徨い、観念したように、うん・・・・・・と呟いた。
 

「つ、鶴さんの靴またずいぶんぼろぼろになったね。去年はここまでじゃなかったのに」
「ん?ああ、そうだな」

 

 光忠が彷徨わせていた視線で国永の靴を見つける。玄関ではなく縁側からあがる癖がついてしまった。小さい靴が二足と大きい靴が二足ある。国永の靴は一番汚れていて、一番始めに光忠とあった時と同じくらいぼろぼろだ。
 

「さすがに見苦しいよな。格好悪い」
「僕はそう思わないけどね」
「お、おい光坊!」

 

 光忠がひょいと国永の靴を持ち上げる。汚い靴を戸惑いもなく触るから大きな声が出てしまった。うぅんと背後から兄弟の声がする。ぱっと片手で口を覆った。すぐに離し小声で光忠に話し掛ける。
 

「こら、汚いだろ、降ろしなさい」
「僕ね、このボロボロの靴、好きだよ。鶴さん自身の足で、行きたい場所に行って、見たい景色を見てきた証だもん」
「光坊、」
「僕、鶴さんが、――鶴さんのそういう強さが羨ましくて、好きだ」

 

 ボロボロの靴を撫でながら光忠が愛おしそうに囁く。囁いた筈なのに国永の耳には大きく響く。
 

「お、俺はただ、自分の居場所を」
「僕には無理だから」

 

 動揺して言わなくていいことを言いかける国永の言葉光忠が遮った。動きを止める国永に光忠は笑いかける。初めて見る、泣きそうな笑顔で。
 

「弱虫なんだ。この村以外きっと僕を受け入れてくれない。そう思ってしまう」
「みつぼう」
「この村でしか生きられない。鶴さんが話してくれる外の世界は大好きなのに、自分自身が出るとなると途端に、怖い。だから僕、」
「みつただ、」

 

 ハッと光忠が顔を上げる。国永はそのまま力強く抱き締めた。
 光忠も静かに抱き締め返してくれる。そっと、恐々と国永の背中に手を回す。縋りつけない手が指先だけに力を込めて、ただ触れた。

 

「鶴さん、鶴さんは僕の夏なんだキラキラしてて、眩しくて、楽しくて、明るい気持ちになれるそういう夏なんだ」
 

『僕、夏好きだなぁ。』一年前の光忠の言葉が蘇る。その思いに国永は益々力を込める。
 

「でも、もうそんな夏は来ないんだね」
「どうして、」
 

 わかるんだと言う前に光忠が耳元でくすりと笑った。
 

「分かるよ、だって鶴さん夏が始まったばかりなのに、ずーっと祭りが終わった時みたいな顔してるんだもん」
 

 感傷的になっているのがバレていた。笑顔で別れたかったのに。今さら悔やんでも遅い。
 

「光忠、すまない」
「何で謝るの」
「笑って別れたかった」
「ちゃんと笑ってるよ、今も。鶴さんが見えないだけ。こうしているから、見えないだけだよ」
「そうか、・・・・・・そうだな」

 

 最初の夜と同じように風鈴と扇風機の機械音と虫の鳴き声がする。ただあの夜と違い、今国永の指にはしっとりとした髪が絡み、梅酒の氷が物悲しげにからんと溶けている。

 

 

 

 

 その夜から二人はわざとらしいくらいはしゃいで過ごした。そうわざとだ。夏の思い出を楽しいものとする為に。
光忠がやると行った満喫ツアーは全て終えた。二人だけでしたものもあったがほとんどあの二人の兄弟を含めた四人で行った。
 兄弟といる時の光忠は一層楽しそうで、この二人がいれば光忠はきっと大丈夫、そう思った。

 

 去年と同じ天候に恵まれた祭りの日。四人で浴衣を着て広場に集まった。兄弟は初めての祭りだ。暗くて転ばないように手を繋いだ兄弟二人の空いた方の手を国永と光忠の手がそれぞれ繋いだ。
 四人並ぶ姿に、家族みたいだなと言いかけて止めた。この幻想的な空間で自分の叶いもしない願望を慰めることはしたくなかった。
 二人の兄弟と別れ、家路につく。
 出発は明日だ。祭りの片付けを手伝うと言った国永に光忠は首を振った。「寂しいのは一度で済ませたいから」と。
 だから今日が最後の、本当に最後の夜だ。光忠と国永が過ごすーー。

 去年から光忠の家に増えていた布団。国永が使わない時は兄弟が使っていたそれは、防虫剤の匂いもせず太陽の匂いがする。
 その匂いを全身で感じながら明かりの消えた部屋で暗い天井を見上げる。すぐ側に光忠の声、二式の布団はぴたりとくっついていた。

 

「鶯さん、冬には帰ってくるんだって。今年の梅雨頃電話があったんだ」
「そうか」 
「うん、最高の茶葉と最高の大包平を見つけたから持って帰るって言ってた」
「なら、祭りの準備ももう、大丈夫だな」
「・・・・・・そうだね」

 

 今まで楽しげに話していた光忠が静かに返して、沈黙が流れる。「うん、もう平気!大丈夫!」と答えてくれると思ったのに、いや、今のは余計な言葉だった。ああ、と溜め息を心で吐く。
 

「だいじょうぶ、だよね、僕」
「光忠」
「皆が笑ってくれればそれで幸せだもん、大丈夫、うん。平気平気」

 

 国永の沈黙にどう思ったのか、もしかしたら心を読まれたのかもしれない。さっき国永が期待した、平気と大丈夫を光忠が繰り返す。
 何て自分勝手なのだろう。今はその言葉を繰り返す光忠の声を聞きたくなかった。何が大丈夫なんだと国永の方が地団駄を踏みたくなる。

 

「なぁ、光忠」
 

 無理はするな、我慢をするななど、これから去っていく国永に言えるわけもない。だから代わりに名前を呼んだ。
 

「なぁに」
「眼帯の下を見せてくれないか」
「え」

 

 上半身を起こす国永に倣って光忠も体を起こす。一つしか見えない目が戸惑うように揺れてそっと伏せた。
 

「このままの僕で鶴さんの記憶に残りたいって言うのはダメかな」
「見たいんだ、頼む」
「・・・・・・わかった。でも明かりはつけないでね」

 

 顎を引いて頷けば、光忠が耳の後ろに手を回す。そして手の動きに合わせて首を動かしながら、ゆっくりと眼帯を外していく。ぱさり、と光忠の右目を覆っていた白が布団へと落ちる。
 長い前髪がかかる光忠の右目に、痣だろう今は黒い影があった。
 国永は腰を浮かせ光忠の前に座った。二人の膝が軽く当たるくらい近く。
 余り近くで見ないでほしい、光忠は囁いたが国永は気にせず手を伸ばし、光忠の影に触れた。そしてその形に沿うようになぞっていく。
 光忠がわずかに震えて、吐息を溢す。国永に見られていることに怯えているようにも見えるし、別の何かに震えているようにも見えた。

 

「光忠、」
「・・・・・・なに?」
「ありがとう、・・・・・・嬉しい」
「え、」

 

 驚いたように両目を見開く。二つそろった瞳が美しい。例え影を伴っていても、国永を見つめる瞳がただただ、愛おしい。
 

「嫌、じゃない?気持ち悪くない?痛々しいって、顔を歪めないの?どうして、そんな、」
「・・・・・・」
「そんな、幸せそうに笑ってくれるのっ」

 

 光忠の両目から涙が溢れだした。今まで太ももの上で固く握られていた手で国永の腕を掴む。すがり付く。
 

「いやだよ、困らせたくないんだ。行かないで、なんて言わせないで」
 

 首を振って自分の中にある言葉と思いを必死に振り払おうとしている。国永も光忠の手に、もう片方の手で触れた。
 

「嫌いだって、きもちわるいって言って!可哀想な子供を見るみたいに目を伏せてよ!」
 

 今度は国永が首を振る番だ。そんなこと出来るわけがない。国永は嬉しかった。大好きな人にこそ隠したがる自分の嫌いな所を、国永に見せてくれたことが。感謝こそすれそんな言葉を言えるわけがない。
 そして何より、光忠が好きなのだから。
 優しい所も、怖がりな所も。好青年な所も子供の所も。変な所、いつも一生懸命な所、明るい所、バカな所。
 人を気絶するまで抱き締めて、人の口に梅干し詰め込む非常識さ。次のたった一ヶ月の為にレシピ本を大量に買って一年間ずっと練習してる健気さ。
 そして、夏の太陽よりきらきら眩しい笑顔。その下に隠していた大きな影。全てが、全てが好きなのだから。
 好きを、黙ることは我慢できる。でも嫌いだと、光忠の何かを一つでも否定することは、光忠がいくら望んだって出来ない、絶対に。
 光忠の望む言葉、それは嫌いと言う言葉とその正反対の言葉、どちらも言えなくて。ごめんなと謝るしかなかった。そして国永の精一杯の思いを伝える。

 

「光忠、忘れないでほしい」
「っ、つるさ、」
「俺は、君が嫌いな君の一部分も、君を優しく育ててくれたんだと思ってる。優しい村と、人と、君の影が君を育ててくれたから俺と君は出会えたんだって。すごく、すごく大切な一部分なんだ」

 

 光忠に腕をつかまれたまま腰を浮かした。顎を少しあげて、涙に濡れているその顔に自分の顔を近づけて、右目の影に唇を落とした。愛情と感謝を込めて。どこか神聖な気持ちになる。
 

「だからあまり嫌ってやるな。そんなにもう、怖がるな。・・・・・・自信持て!君の笑顔は、真夏の太陽だ!!君の笑顔で何度も目眩を起こしかけた俺が言うんだぜ、間違いない!」
 

 神聖な気持ちは長く持たず、国永は何故か灼熱地にいるかのごとく暑く叫んだ。
 

「君の痣を見て顔を歪めるやつがいたら、幸せそうに笑ってやれ!そしたら、そいつらも釣られて笑うさ!なんたって、君は夏の太陽、」
「もう、いいよ、」

 

 益々暑くなる国永に光忠が震える声を出す。突如肩にガツンと衝撃が走った。
 

「いってぇっ」
 

 光忠の頭突きが右肩に決まった。
 

「何で鶴さんそんなにバカなの?真夏の太陽って何、自分の方が夏の癖に、バカでしょ、バカなんでしょ?」
 

 震える声が理不尽な罵声を浴びせる。あんまりだ。だけど、右の肩が濡れていく感覚に、異が唱えられない。
 

「バカみたい。湿っぽくなって、バカみたい。ひと夏過ぎるだけなのに、悩んで迷って、苦しんで、僕、バカみたい」
 

 そう言いながら、光忠が肩に押し付けていた顔をそのままぐりぐりと擦る。そしてバッと顔を上げた。両目でまっすぐ国永を見つめている。雫できらきらとしていたが、涙はもう流れてなかった。
 

「鶴さん、寝ようか」
「お、おお、切り替えすごいな」
「だって、おかしいでしょ、僕泣いてたら。夏がまだここにいるのに、夏の太陽が翳るのはさ」

 

 恥ずかしそうな呆れているような複雑な、でもなんとか笑ってくれた。国永も安堵から眉が下がる。
 

「鶴さん」
「ん?」

 

 布団にいそいそと帰るとすぐ側から声が掛けられる。光忠はもう横たわっていた。
 

「手を繋いで、寝ても・・・・・・いいかな」
「、ああ」

 

 上半身も倒し、横になった。布団と布団の境界線を越えている指を引っ張る。手のひらを隙間なく合わせ、指の股を擦り合わせながらゆっくりと指を絡めた。
 

「おやすみ、鶴さん」
「おやすみ、光忠」

 

 それ以降二人は一言も話さなかった。ただ、二人の手だけは何度も何度も指を絡ませ直した。まるで離れていく手を、必死に繋ぎ止めるように何度も、何度も。

 

 

 眠れない夜を越え、本物の夏の太陽が顔を出した。明るくなっていく空をこんなに憎んだことはない。光忠ではない夏の太陽を忌々しげに睨んだ。
 けれども太陽はそんな国永を気にも止めないで空高く昇っていく、いつまでもここにいるわけにはいかない。光忠と無言のまま準備を進めた。
 そして出発の時間。光忠と広場の前に立っている。光忠は今から片付けだ。二人は向き合う。

 

「あー、元気でな、光坊」
「うん、鶴さんも」

 

 光忠がにこにこと笑っている。
 

「大丈夫、か?」
 

――バカか、俺は!
 

 言ってからしまったと思った。何故こうもいつも余計なことを言ってしまうのか。光忠がここで大丈夫じゃない、行かないでと泣き出したらどうするのだ。
 

――どうするの、だろう。
 

 光忠はにこにこ笑顔からにやっと違う笑みに変えた。
 

「大丈夫どころか、鶴さんがこないって思うと安心するよ」
「・・・・・・強がり?」
「違う。もう、鶴さんが来る度、既婚者になってないか、左手の薬指に指輪がないか心配しなくて済むからさ」
「・・・・・・それを言うなら俺だって、君の村に行き倒れだか漂流者だかが現れませんようにって毎日毎日祈らなくていいんだ、嬉しいぜ?」

 

 にやにや笑顔の本気だか冗談だかわからない言葉に面食らって、国永の密かな日課を暴露してしまった。今度は光忠がぽかんと面食らう。また余計なこと言った。
 

「・・・・・・」
「え、えーっと、」

 

 居たたまれない沈黙。
 

「取り敢えず、鯖折りしてあげよっか?」
「いらん!!!」

 

 全力で断った。だが、ちょっと考え直す。間を開けて、ん、と両手を広げる。
 

「やっぱりしてくれ、全力のやつ」
「ば、バカじゃないの!冗談に決まってるだろ!」

 

 また気絶したらどうするの?もう介抱しないからね!!と顔を赤くして怒られてしまった。ちぇと手を下ろす。
 二人の間に湿っぽさはなかった。きっと今が最高の別れのタイミング。

 

「んじゃあ行くか。光坊!世話になった!達者で暮らせよ!」
「鶴さんこそ!水分補給、塩分補給!」
「わかってる!2年前のネタだぞ、それ!」
「ご飯もちゃんと食べること!」

 

 それには答えられない。応えられない、から手をひらっと返事の代わりにした。
 

「じゃあな!」
 

 見ているひとつの目といつも通りの場所に落ち着いている眼帯に背を向けて、歩き出す。そういえば2年前の別れの日は手を振りあった。お互いの姿が見えなくなるまで。そのことが、遠い昔のようで、昨日のことのようだ。
 2年後の国永は振り向かない。きっと光忠も手を振ってはいないだろう。

 

「さよなら!」
 

 光忠の別れの言葉が聞こえる。それでも振り向かない。足はただ前に進む。
 風が吹いた。国永の背中を押してくれる。と、同時に風によって運ばれた雲が太陽を隠す。今まで鳴いていた蝉の声が、一瞬だけ止まった。

 

「すきだよ」
 

 そう、聞こえた。
 

――ああ、わかってたさ。
 

「俺も、君がすきだよ」
 

 足を止めずに国永は、小さく小さく呟いた。蝉の声は既に響いている。光忠には聞こえなかっただろう。それで、いい。

 

 

 結局一度も振り返らず海道に出る村の出口に着いた。二人の人物がいる、あの兄弟だ。
 

「驚いた、見送りにきてくれたのか?」
「弟が君に言いたいことがあるって言うからさ。さすがに彼と一緒に見送ることは出来ないから、ここで待っていたんだよ」
「気を使わせたな」
「大したことじゃないよ。さ、弟、白い鳥さんに言いたいことがあるんじゃないのかい?」

 

 白い人から鳥に降格されていた。兄が上半身を捻ると兄の腰にしがみついて涙目でこちらを見ている両目があった。屈んで目線を合わせる。
 

「つ、つるさん、つるさんはもうここにこないのか?らいねんも?そのつぎも?」
「ああ、今日が最後だ」
「たのむつるさん!らいねん、きてくれ、おねがいだ!」
「膝丸――、」

 

 兄の腰を離れ、小さい腕が国永の首に回る。兄がその頭を優しく撫でた。
 

「こら、困らせたらいけないよ」
 

 今まで、それこそ赤子の時ですら我が儘など一度も言ったことのないかのように少年は弟を諭す。
 

「だって、あにじゃ!らいねんには、らいねんなら!!」
「その人がどこに行くかなんて、どこにいるかなんてね、他の誰も決められないんだ。僕についてくると自分で決めたお前なら、わかるね?」
「あにじゃぁ、」

 

 膝丸は泣きながら兄を仰ぎ見て、腕を解いた。そしてまた兄の腰に張り付いた。
 

「みつただが、さみしがる」
「君達がいてくれるから大丈夫だ。もう時期あの子の兄貴分も帰ってくるしな」

 

 去年や一昨年とは違う。
 

「面白いことをいうねぇ。誰かの代わりが他の誰かに出来るわけないのに」
 

 腰を屈めたまま膝丸の柔らかな頭を撫でていると頭上から声がかかる。え、と顔を上げると美しい顔が微笑を浮かべて見ていた。
 

「誰も、誰かの代わりなんて出来るわけがないんだよ。この子以外、誰も僕の弟になれないみたいにね」
「君・・・・・・」

 

 およそ小学生の言葉とは思えないほどの重みがあった。その言葉の意味を考えるより呆然と微笑みを見つめてしまう。
 

「僕達これから祭りの後片付けなんだ、行こうか弟。彼が待ってるよ、一人でね」
「でも、でも」
「じゃあ、達者で暮らすんだよ渡り鳥さん。自分の帰る場所、忘れないといいね」

 

 そう笑ったまま颯爽と歩き出す。今までここにあった不思議な雰囲気まで一緒に持っていってしまった。さよならの言葉を返すことなく見送ってしまう。
 膝丸は兄の後ろをとことことついていき、しばらくして止まった。くるりと振り返る。シャツの裾を両手でぎゅっと握り国永に向かって叫んだ。

 

「おれは、おれはまってるからなつるさん!ぜったいにきてくれ、ぜったいだぞ!!!」
「あ、おい」

 

 思わず手を伸ばす。膝丸は返事も聞かず走っていってしまった。相変わらず足の早い。足のコンパスに差があるのにも関わらずすぐに兄に追い付いて腰にタックルをかます。泣いているように見えた。兄は少しよろけたが、弟の頭をひと撫でして、また歩き出した。
 

 消えて行く二人の背を眺めて、空を仰ぐ。
 

 国永の夏は終わった。

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