1回目の夏
「あちぃ・・・・・・」
保温に長けている水筒を揺らしたが氷の入っているカランとした音さえならない。1時間程前に口に含んだ最後の一粒はとっくに溶けて国永の唾液と共に食道を下っていった。その感覚が懐かしくてこくりと喉を鳴らしてみようとしたものの、乾いた咥内には音を鳴らすだけの水分は残っていなかった。
「しんっじられん。何だこの暑さは」
乾いた感覚と、肌を焼き尽くすような熱い刺激を逃すように無意味に口を動かす。
「トンネル出たら1時間で着くって言ったよな、あのじいさん。トンネルからもう2時間は経つんだが」
泊めさせてもらった家を8時に出て、今は12時。その家の主から受けた説明では10時頃には次の町に着くという話しだった。だから水筒にもらっていた水も、暑さが理由でもあったが、ペースを考えず早々に飲み終わってしまっていた。自動販売機も探してみたが山道の為見つからず。何とか残った氷で繋いでいたがそれも1時間前になくなってしまった。
夏真っ盛りの今の時期。ただでさえ暑いのに曲がりくねり、軽い傾斜がある道を歩いているのだ。水分が必要だと脳が警鐘を鳴らし始めるのも無理はない。
「あのじいさんがボケていたとは考えにくい。まさか道を間違ったか?」
とは言え道路整備もちゃんとしてある山道だ。普通に車道も敷かれていて何台か車も通った。大きな分かれ道もなかったので、道が間違っているとも思えない。
「途中でヒッチハイクに挑戦しとくべきだった、いやでも今日は歩きたい気分だったんだよなぁ」
スポーツ帽で頭への直射日光を避けてはいるものの、暑さは厳しい。こめかみから汗が流れるのを感じながらただ足を進める。別に自分の足だけで移動することにこだわりがあるわけではない。必要であればバスにも電車にも乗る。船の旅もなかなかに好きだ。だけど今日は歩くと何かいいことがありそうだと思った。そういう勘はよく当たる方なので、炎天下の中徒歩を決めた。距離、時間的にも無理ではないと思っていたから。
しかしそれは誤算だったようだ。
「俺の直感が外れるとは」
そう今さら嘆いてみても現状は変わらない。
影に入り騙し騙し歩いてはいたもののそれではいつまでたっても辿り着けず、結局燃え盛る太陽に身を晒しながら歩くことになっている。背負ったリュックもいつも以上に重く感じて。気分はピラミッドを作るために重い石を運んでいる奴隷の気分だ。
「お?」
何年かに一度は事故が起こりそうな急カーブの道を過ぎれば、目の前に開けた畑が広がっていた。遠目にだがぽつぽつと人がいるようにも見える。
助かったと大袈裟に息を吐いて足を早めた。傾斜を下ればすぐに畑だ。人に声をかけて水分を恵んでもらおう。畑仕事に来ていて水分を準備していないということはないだろう。そう信じたい。
そう思いながら傾斜を下りきると、山道から田舎の畑道路に完全に切り替わった。その中で目についた、畑仕事中の老女に声を掛けようと近づく。
「あのー、すみません」
頭にバンダナを巻き、首にタオルをかけ、薄い紫色の柄物農作業着を着た老女が、国永の声に顔を上げ、立ち上がった。畑の草抜きの最中だったのか、雑草を片手に国永を見る老女は立ち上がっても腰が曲がっていて、先ほどまで屈んでいた高さとそう変わりはないように見えた。
「突然声を掛けてしまってすみません。俺、」
「はら、こりゃえらい別嬪さんじゃが。あんたぁ、テレビの人かね?」
「は、いや、」
「知っちょっど、何とかん旅ち言うやつやろ?こげん田舎に来たち、なぁんもないが~。土地ばっかい広っせぇなんもならん!あっはっはっはっ!」
「ち、違います、テレビじゃないです」
「なんち?じゃねち?そうかい、あんたが別嬪過ぎてなぁ、勘違いしてしまったが!」
老女はまた楽しそうにあっはっはっと笑いながらタオルで首回りを拭う。とても気の良さそうな人ではあるが、言葉が方言混じりの上に速いので中々口を挟む隙がない。
「こげん暑か日でん、畑はあるし、動かんと年寄りはすぐ馬鹿になっで、体を使わんとね」
「あの、」
「寝たきりになれば、あん子にも迷惑かけることになっでなぁ」
初対面でいきなり声を掛けてきた怪しい男に対しても老女はにこにこと話をしてくれる。警戒しないでフレンドリーなのはとても嬉しいが、水分を欲しがっている体はそろそろ限界だと訴えてきている。
「すみません、俺、水を」
老女の言葉を掻い潜りやっとの思いで口にする。しかし老女の耳にはそれは届かなかった。同じタイミングで離れた所から老女を呼ぶ声があった。
「おばあちゃあーん!!!お昼持ってきたよー!休憩しようー!」
「そうねー!なら、そうしようかねー!」
若い男の声だった。けれど、その姿を確認しようとした瞬間視界がくらりと僅かに揺れた。国永は咄嗟にその場にしゃがみこむ。
「はら、別嬪さん。どうしたね?」
「ちょっと目眩が、」
「なんちね!」
頭上から老女が心配そうに声を掛けてくれる。こうして踞っていると先程感じた目眩が治まった気がする。眩しい日差しに目が眩んだだけかもしれない。熱中症にしては熱痙攣や熱疲労にみられる吐き気等もない。旅を続けている間で身に付いた知識のページを開きながら国永は冷静に考えていた。
「おばあちゃん、どうしたの?その人は?」
「目眩がしたち言うてるがよ」
「え!」
熱中症ではなくても、脱水症状には間違いない。顔をあげる気力すらないように感じる。
男の声と老女の声の応酬を聞き流していると、国永の肩に何かが触れる。たぶん青年の手だろう。
「大丈夫ですか!?」
爽やかな若い男の声が近くからした。大丈夫だと答えようとしたが喉がカラカラに乾いていた。だから思わず違う単語を口にしてしまう。
「み、水を、」
「え?」
「水をくれ」
「もしかして熱中症!?」
「はら、まこち!」
呟いた単語を間違いなく受け取ってくれた青年は、国永の様子を見て素早く診断を下した。隣にいるだろう老女が少しだけ驚いたような声を出す。
「いや、熱中症までは、」
「お、おばあちゃん、これお昼、ここ置いていくね。飲み物は水筒一本だけもらうけど」
「よかよ」
「向かいのおじいちゃん達ももうすぐ来ると思うから」
「ばあちゃんことは心配せんでよかから、そん別嬪さんをはよせんね」
「うん」
少し早口で話す青年の言葉と共にこぽこぽと瑞々しい音が耳に届く。乾いた砂漠では決して聞くことの出来ないその音は、間違いなく国永が一番聞きたかった音だ。
「顔上げてください、麦茶です」
再び近づいた気配が国永の背中に手を置いた。麦茶という単語が、国永に顔を上げさせるだけの気力を与えてくれた。言われた通りに顔をあげた途端口許に固い感触が当てられる。
ステンレス製水筒のコップの部分だ。それをゆったり傾けられた瞬間、冷たい液体が国永の口腔に流れた。その衝撃は、言葉に出来ない。かの有名な奇跡の人の師である女史ですら、水という単語を教えるのにはその体に水を直接浴びさせるしかなかったのだ。今まで水を言葉で表現しようと思い立つことすらなかった国永に、喉を潤されたその衝撃を表現するのは無理という話。せいぜい命の麦茶という表現が精一杯だろう。
そんなことを最初の一口までは考えていたが、2回目にごくりと喉を鳴らした時には国永の脳は無になっていた。ただ体が麦茶を欲している。
ごくごくとコップの中身を飲み干すと、すぐにコップが茶色い液体で満たされる。
「大丈夫、まだあるからね」
包容力に溢れる優しい声色だった。それを聞きながら国永は体が求めるままに液体をまた流し込む。犬猫が母親の乳を無心で飲んでいる様を何となく思い出した。実際の母親に優しくしてもらったことなどないが。
コップを自分で持てるようになった頃、再び声がかけられた。
「ちょっと、ごめんなさい」
「?」
コップを口に当てていた為、咄嗟に返事が出来なかった。口を話して尋ねる前に体がふわりと浮く。また目眩かと思ったものの、視線が高くなっていてそうではないと気づいた。
「う、わ」
「直射日光は良くないから」
本当は一番最初に影に入らないといけないんだけど、と申し訳なさそうな声が頭上から聞こえる。僅かに顔をあげて、男の顔を見ようとするが、国永の方からは長い前髪と何か目を覆うものがあって、その顔立ちを見ることは出来なかった。
「おばあちゃん、この人家で介抱するね」
「先生は呼ばんでよかね?」
「うん、この間応急処置とか教えてもらったんだ。この人は軽度みたいだし、大丈夫だよ」
「そうね。んなら大丈夫やね。こっちんことは気にせんでよかで、そん別嬪さんを頼んでね」
「うん!」
男に姫だっこされるという滅多にないシチュエーションも、脱水症状中であれば気恥ずかしさも特になく、この青年、背が高いんだなとどうでもいいことを考えてしまう。
人を腕に抱いているのにも関わらず、安定してすたすたと歩くのを他人事のように感じながら、コップに残っていた麦茶を飲みきった。数分、といっても3分も経たずして、青年は畑と畑の間の道に止めていた軽トラックに辿り着いた。
国永を抱いたまま器用に助手席のドアを開ける。
「シートベルト、締めますからね」
国永を助手席に座らせて、座席を少し倒す。背負っていたリュックも素早く取られ、足元へと置き、国永が言葉を返す前に素早くシートベルトを締めてくれた。水筒のコップを取るのも忘れない。
その時青年の顔が見えた。白い眼帯で右側の目元を覆っている。が、それ以上に整っている顔立ちが目を惹く。田舎にこんな美形がいるのも珍しい、と思った。田舎は美形を育まないという訳ではなく、大抵は自分の見た目に相応しい場所を、と都会に旅立つのではないかと考えたからだ。
田舎の畑で輝く宝石のような彼は運転席に座る。シートベルトを締める姿は、例えそれが軽トラだとしても、高級外車を乗りこなしているような、そんな錯覚を受ける。
「ごめんなさい、胸元を少しだけ」
青年はそう言って、助手席へと身を近づけ、第一ボタンだけを開けていた国永のポロシャツ全てのボタンを開けた。視線を逸らしていた為、手元がもたついている。別にうら若き女性でもないのだから、見られても構わないのだが。
胸元が開いたことにより、なんだか少し楽になった。ふぅと息を吐く。
それを確認してから青年は正面を向き、眼帯を外した。何故、と思ったがそうか、車はある一定の視力がなければ運転が出来ないのかと気づく。
――目が見えるのに何故眼帯?
ものもらいにでもなっているのだろうか。国永の方からは青年の右目を見ることは出来ない。
そんなことを考えてるうちに青年がエンジンをかける。ブルルルというエンジン音と共にトラックが動き出した振動が体へと伝わった。畑道をガタガタと進み、しばらくして舗装された道路に出たらしい、振動が弱くなる。
「すみません、ご迷惑を」
流れる町並み、というか村並を軽トラの中から見れるくらいになり、ようやく口を開いた。
「脱水症状起こしてた、みたいで」
「いいんですよ、困った時はお互い様です」
国永の言葉にも青年は優しく返す。
「今日はまた特別暑いですからね、無理もありません。とーー、着きました」
「え、もう?」
エンジンが切られ、車体が止まる。畑からは5分程の距離だった。車の窓から見える家は、平屋の日本家屋、縁側にざるが置いてあり、その上に何やら野菜が干しているのが見える。
まさに、田舎のばあちゃんちとタイトルをつけたい程、田舎の家だった。青年が先程おばあちゃんと呼んだ老女がこの家の主だろうか。彼女にこの優しい雰囲気の家は相応しく見えたが、見目麗しい青年が住んでいる家と考えれば違和感しかなかった。
「荷物抱えてもらっていいですか?」
「え?」
国永がポカンと家を見ていると、いつのまにか助手席のドアを開けた青年がシートベルトを外し、国永の手に足元のリュックを待たせた。右目には白い眼帯が戻っている。
「よいしょ、」
「まっ、大丈夫です、もう歩ける」
「無理しないで」
「いやでも、本当に」
「僕なら大丈夫です、あなた、羽根のように軽いから」
国永が両手を前に出して断ろうとしても、青年は気にせず国永の膝裏に手を差し入れた。
「おばあちゃん達のこともよくこうやって運んでるんです。慣れてますよ。落としたりしませんから」
その笑顔が、真夏の太陽のように輝いていて思わず言葉を飲み込んでしまった。
美形で、おまけで性格まで良さそうと来たものだ。自然は天然の美を育むのだなと青年の姿を眩しく見つめていると、青年は国永をひょいと持ち上げた。姫抱っこ再び。大人しく身を委ねることにする。
青年は国永を縁側に降ろし、靴を脱がす。決して安くない靴だ。しかし長旅で歩き潰している為ボロボロになっている。安い靴に買い換えて靴擦れが起きるのも嫌で新調を先伸ばしにしていたが、まさか他人に靴を脱がしてもらうことになるとは。土まみれで汚れている靴が恥ずかしかった。
けれど青年は、その靴を見て顔を歪めることも、汚いものを触るようにするでもなく、むしろシンデレラからガラスの靴を脱がす王子のように優しく靴を脱がしてくれた。
「あ、りがとう、ございます」
「うん?」
気恥ずかしくて礼を言えば、青年は何故礼を言われたかわからないとでも言うように首を傾げた。
――まさか天然か!ド天然でやってるのか!?
思わず絶句し、頭の中で叫んだ。自然の恐ろしさを再度確認する。
「ちょっと待ってて下さい」
青年は自らも靴を脱ぎ、縁側に上がった。部屋の中にあった扇風機をコードギリギリに伸ばし、縁側で横にさせられた国永へと風を送る。そして自分は部屋の奥、おそらく台所だろう場所へ消えていった。
「ふぅ、」
大分楽になったとは言え、脱水症状を起こしていた身だ。まだ体がだるい。青年に申し訳ないと思う気持ちが大きいが、助かったと言う思いも大きい。旅をしてる上で夏の脱水症状は大問題だ。2年前の夏で熱中症を起こして救急車で運ばれた苦い思い出が甦る。あの時家族に連絡を、と判断した病院は悪くないが、心底心配げな兄の声を聞きながら余計なことをしやがってと思わずにはいられなかった。今度はそういう事態にならずに済んだ。老女と青年のお陰である。
「お待たせ!」
「ふあ?っ、ぶっ!なんだ、すっぱぁ!?」
「そりゃ梅干しですから、すっぱいですよ」
「はあ!?」
思わず身を起こす。
いきなり口に突っ込まれたものを吐き出してしまった国永に青年はころころと笑いながら、縁側に転がった赤い粒を拾い上げた。
「麦茶はミネラル入ってますけど、塩分は入ってないから。脱水症状には塩分も大事なんですよ」
「・・・・・・だからって、普通いきなり口に突っ込んで来ないだろう、って、ひっ!?」
「タオル冷やしてきました。首元冷やした方がいいんですよね、氷挟んであるからひえひえですよ~!巻いておきますね」
「殺す気か!?」
「え?」
恩人だというのにも関わらず思わず突っ込んでしまった国永に青年はキョトンと瞬きを返す。と同時に手早く首にタオルを巻いた青年はもう一枚ひえひえになったタオルを国永の額に押し付けた。手際が良すぎる。
「だっておじいちゃん先生がこうしなさいって」
「強引すぎる!!もっと優しく!」
「あ、そっか。ごめんなさい、ここ若い女性がいないものだから、つい荒っぽくなってしまいました」
女性には優しく、ってお向かいのおじいちゃんも言ってたのに。と眉根を下げる姿から聞き捨てならない言葉を寄越される。
「俺は女じゃないぞ」
「え、嘘」
「嘘じゃない」
今まで被っていた帽子をとって顔を見せるがいまいちピンと来ない様子だった。
「声も低いだろ?」
「言われてみれば」
喉仏を見せれば、ようやく納得した。この青年本気で国永を女性だと思っていたらしい。成る程、やたらと姫抱っこで運ばれる理由がわかった。
「いや、なんと言うか、男ですまなかったな」
どうせ助けるのであれば女性が良かっただろうと皮肉ではなく心の底からそう思った。しかし青年は不思議そうに国永を見つめる。
「どうして?僕は良かったって思いましたよ。その様子からして、貴方一人旅してるんでしょう?」
「え?あ、ああ」
「女性の一人旅は危ないなぁって思ってたから、そうじゃないって分かって安心しました」
「・・・・・・」
にこっと笑う純粋な優しさに何も継げなくなってしまった。爽やかな好青年に見えて突拍子のない天然を見せつけるし、かと思えばやはり心優しい人間性を見せつける。国永も今まで色んな人間を見てきたが、青年のような人物は初めて見た。冷たさで跳ねた胸がまだ落ち着かず、ざわざわしている。はっきり言って調子が狂う。
「でも女性じゃなければ、梅干し口に突っ込んでも大丈夫ですよね」
「ぶぇっ!だから、ぐむ、いきなり突っ込んでくるなよぉうぇすっぱ、」
「ははは、すごい顔!こんなに美味しいのに!」
顔をしかめて思わず身震いする国永に青年は笑って、自分の口にも梅干しを放り込む。ぶるぶると猫が震えるように体を震わせて、はぁー、すっぱい!と笑った。
「君、変なやつだな」
口に入ってしまった梅干しを子リスよろしく頬に押しやったまま言った。ここまで優しくしてくれる恩人に言う言葉では決してなかったが、何故だろうこの青年にならば許されるような気がした。
「そうかな、余り言われたことはなかったけど」
青年は梅干しの種を取り出しながら案の定笑って答えた。
「あ、そういえば名前を聞いてなかったですね、自己紹介もしてない。僕の名前は、」
「おおーい!光坊ー!」
年をとってしゃがれた声が、誰かの名前を呼ぶ。それによって青年が自己紹介の為にと開いた口は、別の言葉を紡いだ。
「あ、しーくんのおじいちゃんだ。はーい!おじいちゃあーん!どうしたのー!?」
「みつぼう?」
「僕のこと、僕の名前光忠だから」
老人の口から出た聞きなれない単語を思わず呟けば、青年こと光坊が笑って自分を指差しながら立ち上がった。どうやら名前は光忠と言うらしい。
縁側の下にあった自分の靴を履き、光忠は老人へと近寄る。距離が近くなった二人は声を張ることがないため、会話の内容は聞こえない。光忠がさりげなく膝を折って、老人と会話しやすいように顔を近づけている姿をぼんやりと眺めた。大分気力が戻ってきている、突っ込みも出来たくらいだむしろいつも以上に元気かもしれない。
先程は心臓を突き刺したタオルの冷たさがとても気持ちいい。
突如「ええ!?ほんと!?」と声を張った光忠に老人がうんうんと頷き、光忠が肩を落とす。何かあったらしい。ちみちみとかじっていた梅干しが種だけになり、がりっと歯に当たった。
近くに置いてあったティッシュを手に取り種をくるんだ。さすがに恩人の庭先に口から種を吐き捨てることは気が引ける。種をくるんだティッシュをポケットに突っ込んだ。
光忠が持ってきてくれただろう、梅干しが入ってる小鉢と同じ盆に載っている麦茶が汗をかいていた。せっかくだから冷たいうちに頂いておこう。
今度は一気に煽ることもなくゆっくりと口をつける。それにしてもこの麦茶、国永好みの濃さだ。麦茶に好みも何もないだろうと今まで思っていたが、そうでもないらしい。
「ごめんなさい、話の途中に」
そんなことを考えながら麦茶を飲み進めていくと光忠が戻ってきた。縁側に上がりながら国永に謝罪する。
「気にするな光坊」
「え」
「光坊って呼ばれてるんだろ?」
「そうですけど、あれはおじいちゃん達特有の呼び方というか、貴方同年代でしょ?」
「君、いくつだ?」
「23です」
「やっぱり年下か。なら光坊で問題ないな。」
「・・・・・・貴方、いくつ何ですか?」
光忠がそこで訝しげな顔をする。国永に対してはずっと笑顔を見せていたので、こんな表情も出来るのかと思いながら国永は来年で30だと答えた。
「アラサー!?嘘!下手したら年下かと思ってた!」
「未だに10代と間違われるからな。まぁ、30にもなるってのにこうもフラフラしてるとは普通思うまい」
「えー、格好良いと思うけどなぁ」
肩を竦める国永に対して、旅は男のロマンだよ、と嬉しいことを言ってくれた。
ただ国永の旅に目的はない。強いて言えば旅すること事態が目的だ。旅の期限が来るまで。
「さて、そろそろ貴方の名前を教えてもらっても?」
光忠が、国永の手にしていた額当て用のタオルを受け取りながら言った。そういえば光忠の名前は知れたが、自分の名前は彼に教えていなかった。ポンポンと自然に会話が進むものだから名乗らなければならないという意識がなくなっていたようだ。
「ああ、そうか。年齢の前にまず名前だったな。俺の名前は、鶴丸国永だ」
「成る程、鶴丸さんかぁ。じゃあ、貴方は、うーん、そうだねぇ、・・・・・・鶴さんだ!」
国永が名乗れば光忠は笑ってそう言った。
「鶴さん?」
「そう、僕が光坊なら貴方は鶴さん。どうかな?」
どうかなと言うのはあだ名で呼ぶことの了承を求めているのだろうか。それならば別に問題はない。そもそも彼を光坊と馴れ馴れしく呼び始めたのは自分自身だ。
それともその「鶴さん」というあだ名自体についてだろうか。
そのまんまなネーミングセンスには驚きが足りないと思いつつも、下の名前ではなく名字を縮めた謙虚さと、敬称をつける常識さは評価出来る。
「いいんじゃないか?」
「よかった、じゃあ改めてよろしくお願いします、鶴さん」
「こちらこそよろしく、光坊。あ、年上だからって敬語は止めてくれ。気軽に接してくれる方が嬉しい」
「わかった、そうするね」
差し出された大きい右手に国永も右手を差し出した。ぎゅっと握ることで、彼の手は若い年齢の割りに所々皮膚が固くなっているのがわかった。農業で生計を立てているのかもしれない、光忠の手を離しながらそんなことを考える。
「なぁ、光坊」「鶴さんはさ」
手を離した瞬間同時に口を開いて顔を見合わせる。光忠がおかしそうに鶴さんからどうぞと言った。
「いや、ちゃんと顔を見てお礼を言ってなかったなと思って。こんな見ず知らずの奴に親切にしてくれて、ありがとう」
掻いていた胡座を正座に直し、その場でぺこりと頭を下げた。光忠は困ったように笑って両手を振る。
「そんな大袈裟だよ。困ってる時はお互い様、さっきも言っただろ?田舎ってね、お互いが支え合わないと生きていけないんだ。だから余り気にしないで」
「俺も今まで色んなところを訪れたが、田舎の人は優しい反面、余所者に対して排他的な部分もあってな。田舎は何処もそうだと思っていたがどうやら先入観だったようだ。最初にあった君のばあちゃんもすごくフレンドリーだったしな」
先ほど光忠を訪ねてきたしーくんのおじいちゃんとやらもこんな髪の色である見知らぬ顔をじろじろ見るわけでもなく去っていった。例え田舎でなくてもあの年代の人物なら国永の髪を見て顔をしかめるか、不躾な視線を寄越すものが殆どだというのに。
「おばあちゃんはすぐ隣に住んでるおばあちゃんだよ。ほら、そこの家。僕の実のおばあちゃんじゃないんだ」
「そうなのか」
「親代わりなのは間違いないけどね。というかこの村の人達皆がそうかな」
光忠は何でもないように言った。
「そうか、なら君をこんなに優しく育ててくれたばあちゃんと村の人達皆に感謝しなくちゃいけないな。後、村の人を優しく育んでくれたこの土地自体にも。お陰で俺は本当に助かった」
土地の気性はそこに住む人達に大きな影響を与える。
貧しい土地であれば、住人達の心の余裕がなくなりぎすぎすした村になるだろうし、身を寄せ合わさなければ越えられないほど寒い冬がくる所であれば自ずと隣人を大切にするだろう。
この村は都会程、文明の利器に溢れているわけではないが土地は豊かで生活も快適なようだ。
住人の心が豊かな場所は居心地が良い。今日辿り着いたのがこの村で良かった。
「そうなんだ!この村すごく良い所なんだよ!!」
国永の言葉に光忠がきらきらと目を輝かせる。
「緑は多くて、自然豊かだし、海もあるんだ!だから山の幸も海の幸も、沢山!食べ物がすごく美味しい!」
「お、おお」
「村の人も皆優しいしね、良い人ばかりなんだ。お祭りとかする時は皆集まるし、あ、祭りと言えばうちの祭りすごいんだよ!」
そこから光忠は瞳を煌めかせたまま次々と村の良い所をあげていった。古くから続いている祭りが幻想的で素敵だという話から続き、最終的に海方のおじいちゃんがバケツに魚を持ってきてくれるのが日々の楽しみだという話にまで落ち着いた。
最初はその熱い勢いに面食らった国永だったが、いつの間にか興味深く光忠の言葉を聞いていた。光忠が語る村の素敵な魅力に相槌を打って、言葉を促さずにはいられなかった。
どうやら光忠はかなり話術に長けているようだ。ここを訪れてわずか数時間しか経っていない国永ですら、この村は、この国でも5本の指に入る位幸せな村なのではないかと思い始めている程になっていた。
「君、本当にこの村が好きなんだな。確かにそんなに良い村であれば納得のいく話だが」
「でしょ!鶴さんにここの良さが少しでも伝わったならよかった」
コップに残っていた氷はすっかり溶けていた。日差しは強くなる一方で、外の気温は夏に相応しい熱まで高まっている。
生ぬるくなった麦茶で喉を潤しながら暑さの不快感を忘れていたことに気づく。なんだか得した気分だ。
一息ついた国永に、夏休みの小学生くらいにきらきらと輝いていた光忠がふと我に帰ったように表情をただの好青年へと戻した。
「ごめん、僕ばかり話しちゃったね。鶴さんは?」
「ん?」
「鶴さんはどうして旅をしてるの?」
自分で話を振っておきながら、あっ、ちょっと待ってとお盆を持って台所に消えた。そして程無くコップに四角い形を保っている氷と、透明な小皿に入っている氷砂糖の兄弟を新たに引き連れて国永の前へ戻ってくる。
「俺の旅の理由はなぁ」
氷砂糖を口に放り投げながら話題を引き継いだ。
「見たことのない景色が見たかったから、かな」
「何それ格好良い」
またも少年の瞳に戻りかけるひとつの眼差しに笑いが込み上げる。そんないいものではないのに。でもいいようなものの気がしてしまう。
「そういう理由で旅をしているからな、俺の信条は『同じ所を二度と訪れない』なんだ」
この旅が終わる日を待っている為の旅をしている自分ではあるが、そうして常に新しい土地だけを訪れることで、一歩ずつ前に進んでいる、そんな気がするのだ。何という矛盾。自分でも分かっているが一つの場所で同じ景色を見続けるのは嫌だった。
「鶴ってさ、越冬する時、毎年同じ所を訪れるんだって。でも、鶴さんは鶴なのに鶴じゃないんだね」
「はは、確かにそうだな!」
なかなか面白いことを言う。笑った拍子に奥歯で氷砂糖がカツ、と鳴った。
「新天地はいいぜー。常に新鮮な驚きがあって、退屈しないし。といっても今のところ国外に出たことはないが」
「へぇー、どんな所に行ったの?」
「最北端から最南端、島にも行ったし、有名な観光地を楽しんだりな」
そして今度は国永が語り出す番だった。
滝で修行している青い髪の坊主にそのまま引きずり込まれてしばらく修行に身を投じた時の話だとか、コンビニに強盗が入った時、隣にいた平凡そうなジャージ姿の学生が近くにあったモップを華麗に捌いて強盗をえいやとやっつけた時の話だとか。印象深いエピソードを面白おかしく語った。
国永の語る描写に対して光忠は、すごい!とかそうなんだ!と楽しそうに相槌を打つ。話上手の上に聞き上手でもあるようだ。光忠の表情が少年さを帯びていく程に、もっと面白い話はなかったかと頭の引き出しを開け放っていく。国永の言葉に染まるように光忠の表情が変わっていくのが、とても心地好かった。こんなことは初めてだ。話ながら心の奥で不思議に思う。
国永の予想外の行動を見せていた光忠が、自分の理解できる反応を見せるから安心しているのだろうか。新鮮さや心踊る驚きを好んでいるが、意外と突拍子ないことに弱い自分を知っているので国永はそう結論付けた。
セミの合唱に割り込んでいた二人の声が落ち着いてきた頃、夏の太陽は西への帰り支度を始めていた。夕焼けとまではいかないが、時間的にはもう夕方だろう。それでも暑さはまだ空中を遊び回っている。これだから夏は時間が分かりにくい。国永がこの家に来てからいったいどれ位経ったのだろう。ずっとしゃべりっぱなしだったわりに時間はとても短く感じた。
「あ!」
「どうした光坊?」
突如声を上げた光忠は慌てたように縁側下の靴を履き始める。
「おばあちゃん達!僕、お昼持って行ったっきりだ、話に夢中で忘れてた!」
そして庭に停めていた軽トラに乗り込む。鍵は付けっぱなしだったからすぐにエンジンがかかった。
「鶴さん!すぐ戻ってくるからちょっと待ってて!!」
「お、おい、光坊!」
「すぐだから!」
軽トラの窓を開けて叫ぶ光忠は国永の静止も聞かずそのまま発進していった。あまりに素早く行くものだから眼帯をとる姿を見ることもできなかった。
光忠は5分かからない先程の畑に向かったのだろう。とは言え、出会って半日足らずの余所者を家に残して出掛けるなど信じられない。これで国永が金目の物を持って逃げたら光忠はどうするのだろう。
「不用心すぎる・・・・・・」
田舎の人間は皆こうなのだろうか、思わずやれやれと首を降る。
よくよく考えてみれば窓も開けっぱなしだったし、恐らく玄関にも鍵は掛かっていないだろう。
「あの子、独り暮らしなんだろ?大丈夫なのか」
しっかりして見える。少年のような表情を見せたり、予想外の行動を見せたりするが、本来はたぶん落ち着いている好青年だ。なのにこういう不用心さを見せられるとなんだか不安になる。他人のことなのに、いつか痛い目をみることになるんじゃないかとお節介なことを考えてしまうのだ。
「まったくもって柄じゃない」
二度と訪れない地のたった一人のことを気に留めるなど、珍しいことだと自分でも思う。やはり助けてもらった恩がそうさせているのかもしれない。
「鶴ってのは受けた恩は忘れないからなぁ」
こういう所は鶴なのだなと国永は自分を笑った。
待っていろと言われたがやることもなくて縁側から見える範囲で部屋の中を見渡す。なんてことない部屋だ。畳の部屋。食卓があって、箪笥があって、テレビがあって、野菜や料理に関する本が置いてある。生活感溢れるなんてない部屋。男の独り暮らしにしては片付けすぎている気もするが。
自分の部屋はどうだっただろうか、もうほとんど記憶が薄れている自分の部屋を思い浮かべながら、縁側に置いていた自分のリュックを引き寄せた。
中には空になった水筒やいくつかの着替え。最低限の薬や応急処置の道具、今の時期欠かせない虫除けスプレーに、そしてあまり使わない寝袋。
昨日は運良く老人の家に泊まらせてもらえたが今日はどうするかと頭を悩ませる。民宿でもあれば良いが、あるだろうか。冬と違って夏は暑ささえ我慢出来れば野宿出来ないこともないが、脱水しかけた今日はなるべく避けたかった。
最終手段はタクシーを呼んで泊まる施設が有る所まで移動すればいいかと結論付けた。財布にはまだ金も残っている、ATMで下す必要もまだない。
光忠が帰ってきたら泊まる施設はあるか確認をして無ければ電話を貸してもらおう。国永は携帯電話を持っていなかった。
荷物の整理をしながらこの後の行動を考えていると、白い軽トラックが今度はバックしながら庭へと入ってくる。エンジンが切られ、しばらくの間があり、光忠が運転席から車を降りた。
「ただいま鶴さん!お待たせ!」
「おー、おかえり光坊。早かったな」
自分が誰かを迎える返事をすることに不思議な気持ちになりながら手を挙げる。
「おばあちゃん達もう帰るところだった!」
「そりゃあ悪いことをしたなぁ」
光忠は若い上に力もありそうだ。一人いるだけで作業の効率も違うだろう。この暑い中、あの人の良い老女が作業していたかと思うと、光忠を独占していた申し訳なさが湧き上がる。
「別に鶴さんが悪いわけじゃないよ。話に夢中になってた僕のせい。それにおばあちゃん達も鶴さんのこと心配してたよ。むしろこなくていいから別嬪さんを介抱しなさいって」
軽トラに荷台から、数人分の昼食が入っていただろうバスケットと、バケツに入った野菜を一遍に抱えながら光忠が言う。
「ほら、とれたての野菜、美味しそうでしょ?これで精がつくもの作ってあげなさいって多目に貰っちゃった。今日の晩御飯は期待していいよ!」
「え。晩御飯?」
「ん?鶴さん、晩御飯抜く派?」
「いや食べる派、・・・・・・じゃなくて!ご馳走になっていいのか?」
縁側に荷物を置いて伸びをしている光忠に問えばにっこりスマイルが返された。
「もちろん!というか今日はうちに泊まってもらうつもりだったけど?ここね、泊まるとこないんだよ。数年前に閉まっちゃって」
「そうなのか」
やはり小さい村となるとわざわざ泊まりに来る者などいないのだろう。
「僕、同世代の人と話すの、初めてでさ」
靴を脱ぎ光忠が縁側に腰かけた。足は外に投げ出されている。国永の位置からは光忠の背中だけが見えた。同年代から同世代に幅広くなっていることには突っ込まず黙って続きを聞く。
「鶴さんと話すの楽しくて、ついはしゃいでこんな時間まで引き留めちゃった。だから、今日は泊まっていってよ、今からどこそこ行くの危ないしさ、ね?」
「引き留められたとは思っちゃいないさ、俺も楽しかったし。だけど助けてもらった上に泊まらせてもらうなんてさすがに申し訳ないというか、」
泊まる所がないのは想定済みだ。移動についてもタクシーでも呼ぶかと思っていたので、光忠が言う危険もそんなにないだろう。ここまでよくしてもらってその上泊めさせてもらうのは、あまりにも申し訳ない。それは本心だ。
だけど、嬉しい申し出なのも確かだった。
「・・・・・・本当にいいのか?」
申し訳ないと言いつつ厚意に甘えるような言葉を見せるとぱっと明るい表情で振り向いた。
「もちろん!」
泊まらせてもらうのはこっちなのに嬉しそうな顔をされるとどっちが世話になるのかわからない。
「じゃあお言葉に甘えて、厄介になります」
旅をしていれば色んな人間に出会う。中には光忠のように出会った早々親切にしてくれ、泊まっていけと言ってくれる人もいた。それは男女問わずだ。けれどそのほとんどが親切の裏に下心を持ったものばかりだった。それを事前に見抜いてすり抜けたこともあるしギリギリで切り抜けたこともある。
そういう経験があると、親切にしてくれる人間に対して警戒心を持つようになる。親切なフリしてこいつも何かしらの下心を持っているのではないかと。だけど光忠にはその警戒心が働かなかった。光忠の笑顔があまりにも毒気とかけ離れているからだろうか、それとも光忠自身の警戒心の足りなさを目の当たりにしているからだろうか。
何にせよ自分の直感を信頼している国永は無害だろう光忠からの申し出を喜んで受け入れることにした。
「ねぇ、宿代の代わりと言ってはなんだけど、面白い話があったらもっと聞かせて。ううん、面白くなくてもいい、鶴さんが見てきた見たことのない景色をもっと教えてよ」
その言葉に頷く。今晩の宿が決定した。
先に風呂へどうぞという光忠の気遣いに甘えて家主よりも先に風呂を借りた国永は、汗にまみれた体から生まれ変わることが出来た。旅をしていると風呂に入れることがどれだけ幸せかとしみじみと考えさせられる。と言っても野宿なんてほとんどしないのだが。
そんな命の洗濯を終えた国永を待っていたのは、命の糧である食事だった。とれたての野菜で作られたサラダやら、煮物やら刺身やら、普通の夕飯にしては多すぎる種類の料理が並んでいた。
夕飯は期待してていいという光忠の言葉通りの献立だ。国永が二人で食べきれるだろうかと心配になるくらいに。しかしそれは杞憂だった。二人でいただきますと手を合わせ、料理を一口運んだ瞬間に国永の中から驚くほどの食欲が沸き上がったからだ。
「っ、美味い!!」
「本当?」
「ああ!君料理上手いんだな!こりゃあ驚きだぜ!こんな美味い料理久々、いや初めてだ!」
「あはは、大袈裟だなぁ。でもそんなに美味しいって言ってもらえると作った甲斐があったよ。ささ、こっちの炭酸水と酢で煮込んだ鳥も食べて。自信作なんだ」
遠慮も何もあったものじゃない勢いで料理を胃袋に収めていく国永に光忠は嬉しそうに目を細める。国永としてはお世辞で言っているわけではない。本当に美味い。中々いい旅館に泊まることもあり、それなりに美味い料理も食べてきたが、今日この夕飯こそが今までで一番美味いと断言出来る。
そういえば料理の本がいくつかあったが、光忠は料理が趣味なのだろうか。つくづくツイていると、自分の旅の話をすることも忘れて国永は光忠の料理に舌鼓を打った。
「ご馳走さまでした!」
「お粗末様でした。全部食べてくれたんだ、ありがとう」
「礼を言うのはこっちの方だ。本当に美味かった!!」
両手を合わせたままぺこりと頭を下げる。光忠がふふふと笑い声を漏らした。そしてそのまま食器を片付け始める。
「あ、待ってくれ。片付けくらい俺がやる」
「お客さんにそんなことさせられないよ」
「それくらいさせてくれ。他人に台所を触られるのは嫌か?」
「それは別に構わないけど・・・・・・じゃあお言葉に甘えていい?」
「もちろん!」
きれいさっぱり料理がなくなった食器を重ねていき台所へと運んだ。持ちきれなかった分を光忠が運んでくれる。
「スポンジ、これか?」
「あ、これは消毒前だからこっち使ってほしいな。洗剤はこのボトルだよ」
「了解」
言われたスポンジを手に取り洗剤を落とす。馴染むように二、三度握ればすぐに泡が広がる。酢と何かで煮込んだと言った鳥が入っていた皿に滑らせれば白が茶を包み込み、色を吸い込んでいった。
粗方皿を泡まみれにした頃、台所から立ち去っていた光忠が国永の右側に立った。衣服は先程と変わっていない。
「なんだ。風呂にでも入ったのかと思った」
「準備だけしてきたところ」
皿を濯ぎながら言えば、掛かっていた布巾を手に取り光忠が答え、布巾を持っていない方の手が差し出される。どうやら拭いてくれるらしい。
「いいのに、手伝わなくても」
「ご飯の後にすぐお風呂入るのは体によくないからね、その間だけ」
そう言われてしまえば特に断ることはない。遠慮なくと、キュッキュッと音が鳴るようになった大皿を差し出された大きい手にのせた。
「皿洗いは結構好きなんだ。夏は特に」
「水が気持ちいいもんね」
台所には扇風機が一台だけ。居間もクーラーがついているわけではなかったが昼に比べて大分涼しくなっていた。周りにある木々と土達が熱を抑えているのかもしれない。同じ家にあるこの台所もそうなのだろうが、まだどことなく火を使った後の熱がこもっていた。食事を終えた今ですらこうなのだ。料理の最中はどれ程の暑さだっただろう。
自分以外の誰かの為に台所に立つ全国の料理人や母親はすごいなぁと思う。そして、国永の為に腕を振るってくれた光忠も。
にこにこと料理を差し出す表情に暑さへのうんざりさは見えなかった。というか国永と出会ってから光忠が笑顔でなかったことなど、一番最初と訝しげに年齢を聞いてきた時ぐらいしか、と考えていや待てよと思い付く。そういえばあのしーくんのおじいちゃんと話していた時、光忠はがっかりと、肩を落としていたではないか、少なくとも国永にはそう見えた。
今も隣でにこにこと皿を拭いている光忠を見つめる。この、警戒心が足らなそうな、且つマイペースで人の心のマイナス面を前世に忘れてきたのではないかと出会って10時間も経っていない国永に思わせるようなお人好しの好青年、少々言い過ぎのところもあるが、その光忠が何をがっかりしたのか気になった。
特段重要なことでもないだろう、だが一度気になるとダメなのだ。興味がないことはとことんないが一度好奇心が沸き上がれば、それを抑えるのは中々難しい。
じぃと見つめる視線に気づいた光忠がにこりと国永に笑いかける。
「何?どうかした?」
「いや・・・・・・」
聞いてもいいだろうか。何にがっかりしたのかなど、普通であれば人の不幸を突っついているようなものだ。ただ国永はその不幸が知りたいわけではなくて、人間観察的な視点から、国永の調子を狂わせるこの青年の心の動きに興味があるのだ。
と、そこまでつらつらと長たらしく考えて何を真剣に考えているのだと我に帰る。
どうせ明日には別れる人間。気になったことは聞いてみる、教えたくなさそうなら切り上げる、それでいいのだ。確かに自分は好奇心に弱いが同時に切り替えは早い方だと思っている。今までもそうしてきたのだから光忠に対してもそうすべきだ。
「なぁ、昼間にきたじいさん。あの人もここの村の人だろ?」
「うん。しーくんのおじいちゃん。村の北側に住んでるんだ」
「村に何か事件でも起こったか?」
「うん?ごめん、ちょっとよくわからない。詳しく聞かせて」
未だ見つめ続ける国永の視線を受けて光忠は困ったように笑う。その間にも二人の間では皿の引き渡しが行われている。
「あのじいさんが来て、君と話していた時君が驚いたような声をあげて、がっかりと肩を落としただろう。何か事件でも起こったのかと」
「よく見てるねぇ」
「俺は、三代目の探偵やら見た目が子供の探偵やら自称超美人マジシャンやらが巻き込まれるような、村の風習にまつわる事件に、一度でいいから出会ってみたいと常々思っていたんだ」
半分以上本音だ。
別に血生臭い事件を望んでる訳ではない。けれどもそういう事件に遭遇してみたいという気持ちはあった。
「そういう事件が起きて、しーくんのおじいちゃんが僕にそれを教えにきたんじゃないかって言いたいの?」
「ずばり!」
「ははは!ないよ、そんなの!」
「毎年祭りの日に行方不明者と死体が一人ずつ出たりは?池から二本の足が生えるような怪事件は?」
「ありません」
ぴしゃりと、だけども楽しげに断言されてしまった。当然だ。国永だってこの優しそうな村でそんな事件が起こるとは微塵も思っていない。そこで本題に入る。
「じゃあなんだって君はがっかりしたんだ?」
何でもないように聞いてみれば光忠は戸惑う様子も口を噤む様子もなく、うんとね、とあっさり答え始めた。
「さっき、祭りがあるって話、しただろう?」
「ああ、してたな」
「別におっきな祭りじゃないんだ。伝統はあるけどひっそりとした小規模の祭りなんだよ。だからね、準備するのも二人でやってたんだ」
「二人?」
「そう。僕と、あともう一人。この村、お年寄りばっかりなんだけど僕の次に若い人がいてね、50になる前って言ってたかな?毎年その人と二人で祭りの準備をしてたんだよ」
二人とはいくら何でも少なくないかと思っていたが、回りが老人ばかりなら仕方ないのだろうか。というか23の光忠の次に若いのが50手前とは、この村の未来は少々厳しそうだ。
「その人が、しばらく村を出なくちゃいけなくなったらしくて。というか今日急遽出てしまったらしくて、しーくんのおじいちゃんはそれを教えに来てくれたんだよ。事件と言えば事件だけど、鶴さんの望むような事件ではなかったね」
「成る程な。今年の祭りは中止になる。だからがっかりしたと」
「と、思ったんだけどね」
理由がわかって納得する国永に光忠は肯定をひっくり返す。
「おじいちゃん達、いつも祭り楽しみにしてるんだ。最初はみんな残念がるだろうなって思ったんだけど・・・・・・僕一人でも出来るんじゃないかなって思って」
「準備を?」
「そう、準備を」
「大変だろう」
「みんなが残念がるよりいいかなって。僕、皆の笑顔が好きなんだ」
最後の皿を手渡した国永に向かって光忠がにこーっと笑いかける。たぶんみんなも君の笑顔が好きなんだろう、そんなくさい台詞が思わず出てしまいそうになる笑顔だ。
「ふぅん」
もちろんそんなことは言わない。
「大変だとは思うが、君ならやり遂げそうだ。頑張ってくれ」
「うん!」
他人事のような、実際他人事ではあるが、無責任極まりない応援に対しても光忠は笑って答える。へこたれない子だ。感心する。
皿洗いと好奇心の追求を同時に終えた国永は光忠と共に台所を出た。光忠が風呂に入っている間は荷物の整理でもすることにしよう。地図を出してこれからのルートを考えるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら居間に戻った国永の耳に、ちりんと涼やかな音が届いた。
音に誘われるまま視線をたどれば縁側に続いている開けた窓に吊り下げられている風鈴を見つけた。
「風鈴?」
食事をしていた時まではなかったはずだ。
「さっき出したんだ。音で涼しいでしょ」
台所では水の音で気づかなかったらしい。なんでまた急に、そんな思いが顔に出ていたようで光忠が説明の為に口を開く。
「鶴さんが脱水症状起こして思い出したけど、もう夏なんだなぁって思って」
なんとも嫌な夏の思い出し方だ。
「毎日同じように過ごしているとさ、日々変わっていくことには意外に気がつかないものなんだよね」
ちりんと控えめな涼を届ける風鈴を見つめながら光忠が静かに呟く。出会ってから今までの中で一番大人びて見えた。
「そういうものかもしれないな」
毎日同じような日常を過ごしていない国永に光忠の言葉は共感しずらい。しかし敢えて否定するものでもなかったので肩を竦めながらそう答えた。
暗い天井を見つめながら、頭の後ろで手を組んだ。少し離れた所に光忠が掛け布団を布団代わりに敷いて横になっている。普段客人が訪れないこの家には布団は一式しかなく、その布団は家主である光忠ではなく、国永に譲られた。そこでちょっとした攻防があったのだが、「お代は旅の話をしてくれたらいいから」と言われてしまえば断ることも出来なかった。甘えっぱなしの国永はまたもや砂糖漬けのような光忠の厚意に甘え、一晩だけ布団の主となった。
例え夏であっても田舎の夜更けは早く、二人は早々に床に入り、明かりを消した。扇風機の機械音、そして時々ちりんと鳴る風鈴と夏の夜の虫の鳴き声をBGMに国永はぽつりぽつりと旅の話を始めた。
相槌を打つ光忠の声は昼同様に楽しげだったが、抑えられている声色は掠れていて昼間の太陽のような光忠の印象とは違った風に感じられた。風呂上がりにも、そして今寝るときにも付けられている眼帯の、そのミステリアスさがよく似合う、そんな声色だった。
数年旅をしていると話題は尽きないものだったが、途切れない話題の中光忠がふわぁと欠伸をしたのを合図に自然と言葉は弱くなっていた。光忠はきっと明日も早い。国永もずっとは寝ていられない、体を十分に休ませる必要もある、ここら辺が終わりどころだろう。
暗い闇になれた目が天井を見つめる。明日は取り敢えず道路に沿って歩いてみるかと先ほど見た地図を頭に描きながら考える。明日はどこに行き着くだろう。また美味い飯にはありつけるだろうか。そう思考が変わっていく。
今日の料理は本当に美味かった。光忠がシェフだったら、専属として雇いたいくらいだ。そう、思った。だからだろうか、それともちりん、ちりんと鳴る風鈴の音が心地よく、半分夢心地だったからだろうか。何も考えないまま国永は天井に向けたまま口を開いた。
「なぁ光坊」
「ぅん・・・・・・うん?なぁに、鶴さん」
「それって俺にも出来るか?」
「ふぁあ、えっと、何がぁ?」
「祭りの準備」
「んー?」
「俺も祭りの準備手伝えるのか?」
「うんうん、できるよ。できるできる・・・・・・、えっ!?」
気まぐれ、本当にただの気まぐれだ。その気まぐれに光忠はがばりと勢い良く身を起こした。
「て、手伝ってくれるの?」
「いや、まぁ、俺に出来るなら、だが」
にじり寄る影に国永も思わず身を起こす。
「鶴さん!」
起こした途端、両肩をその大きな手で捕まれる。力が入っていて痛い、怖い。
「うん、あれだな、よく考えたら俺泊まるところもないし、うん」
「僕ん家泊まって!」
「やーでも、余所者の俺が伝統ある祭りに、参加するってのは」
「三食付ける!!」
「!!」
どんな恐怖を感じようともただその一言が、国永の胸を叩いた。怖気づいていた心がむくむくと立ち上がり始めた。
「ちなみに祭りの日にちは?」
「夏の終わる前。今からだとだいたい一ヶ月後」
「俺、たぶんかなり食うぞ?まぁ金は払うが」
「要らないよ。祭りの手伝い料が食事の代金ってことにしてくれると僕も助かる」
一ヶ月、元々目的のない旅だ。別に問題ではない。一ヶ月あの料理が食べられる。魅力的だ。代わり映えのない日々は退屈だが、一ヶ月くらいならば我慢出来ないこともないし、一ヶ月食べれば料理にも満足するだろう。やはり魅力的だ。
「素敵な祭りなんだ。鶴さんにも見てもらいたい。鶴さんの見たことのない景色を、きっと見せてあげるから」
光忠は真剣にそう言った。さすが話上手の聞き上手。国永が語ったことを交えていい説得をしてくる。そう言われてしまえば国永に断る理由などなくなってしまうではないか。
思わず口の端を上げながら答えた。
「よし、乗った」
「鶴さぁん!!」
「いだだだだ、光坊痛い、折れる、本当に折れる!いだだだ!」
満面の笑みで抱きついてくる光忠を受け止めるが余りの力強さに悲鳴を上げる。何というバカ力。老女達に鍛えられた姫抱っこ筋が発達しすぎている。恐ろしい。
その後一頻り人に鯖折りをかけた光忠はごめんごめんと布団に帰っていった。が、興奮して眠れないらしい、何度も寝返りを打っていた。そんな姿に苦笑いしながら国永は先に眠りの世界へと旅立つことにした。何にせよ、明日の朝飯が楽しみである。
*
「早まったな・・・・・・」
クーラーもついていない集会所で一人呟く。扇風機をガンガンかけ、熱冷ましのシートを額と首に貼っているが暑さは容赦なく国永を攻め立てる。
祭りの準備を手伝い始めて3日。早速後悔し始めていた。
国永の手元には、祭りに使う装飾がある。一年大事にしまっていたとはいえ痛んでいる箇所もあって、そこの修復をしなければならない。
「いかん、飽きてくる!」
元々手先は器用な方だと思う、黙々とする作業も実はそこまで嫌いじゃない。旅をしていればひたすら歩くだけというだけで一日を終えることもあるぐらいだ。
ただこうも暑い中、景色も変わらずただじっと自分の手元を眺めるというのは退屈だ。一回集中してしまえば何てことはないだろうになかなか軌道にのらない。ぐうと腹の虫が鳴った。
「これが一ヶ月、一ヶ月かぁ」
気まぐれを起こしたあの夜。あの時はたかだか一ヶ月と思ったがこうして見ると一ヶ月という期間は遥かに長いように感じてしまう。やはり早まったようだ。深夜のテンションで起こした気まぐれ程恐ろしいものはない、勉強になった。
「鶴さん!お待たせ!」
「光坊~」
「元気ないね。そうだよね、お昼食べないと元気も出ないよね!」
集会所の入り口に大きなバスケットを持って光忠が現れた。その姿が何と輝いて見えることか。特にそのバスケット。国永は腹が減っていた。
「先におばあちゃん達の所に持って行っててさ、お待たせしちゃってごめんね」
「腹へった~、暑い~、飽きた~」
「そんな気持ちも吹っ飛ばしてみせるよ!」
装飾を踏まないように気を付けながら国永の前にスペースを作り、自ら腰を下ろしながらバスケットを置く。
そしていそいそと取り出したのはラップがかけられている大皿。並んでいるのは色鮮やかな野菜達と香ばしそうなベーコンがパンによって挟まれている、サンドウィッチだ。他にはポテトサラダと光忠が水筒から注いでいるおそらくスープ類がある。
「マジか!」
「え、それどういう『マジか!』?」
「マぁ!ジつにおいしそうさっそくたべていいか?のマジか!」
「ああ、そういう意味。よかった。サンドウィッチ嫌いかと思ったよ」
「俺好き嫌いないんだ」
というより好きも嫌いもない。食に対してそんなに興味がないのだ、いつもは。
それはいいことだねと言いながら光忠は国永にスープを差し出す。口を付けるとひんやりとした少し粘度のある液体がこくりと喉を通っていった。軽いコクがあるが牛乳ではないようだ。豆乳を使っているのだろうか。
「美味い・・・・・・」
さっきまでの気分もすっ飛んで、口許を緩めながら呟く。嬉しそうな光忠が今度はサンドウィッチを差し出してきた。カラフルなクッキングシートらしきものに包まれているので、ウエットティッシュで拭いたがまだ汚れている国永の手でもすぐに食べれる。気が利くなぁと感心する。
そのままがぶりと一口。柔らかなパンに包まれたしゃきしゃきのレタス、ベーコンの香ばしさとトマトの酸味が国永の美味い!と言う感覚を刺激する。素材そのものの美味さを引き立たせるソースのような味付けも最高だ。ぴりと舌を刺激するこれもソースだろうか。
「マヨネーズとマスタード、自家製なんだけどどうかな?」
「天才!」
「あはは、ありがとう。鶴さん本当に美味しそうに食べてくれるから嬉しいなぁ。色んなもの作りたくなっちゃう」
そう言って光忠自身もサンドウィッチにかぶり付く。うん、美味しい。と納得したような表情を見せた。
「おじいちゃん達ってさ、あんまり洋食好きじゃないみたいで、いつも握り飯と漬け物、後卵焼きがあればいいって言うんだよね」
「そうなのか」
「だから和食で何処でも食べやすいものをお昼によく作るんだけど、おばあちゃん、鶴さんが最初に会ったあの人ね、あの人和食すっごく上手なんだ。だからよく、光坊の味付けはまだばあちゃんには敵わんなぁって言われちゃうんだよ。それでも残さず食べてくれるんだけどね」
この腕でも敵わない和食とはどれ程のものなのだろう。光忠の料理の虜になっている身としては想像がつかなかった。話を聞きながらポテトサラダを口に運ぶ。やはり美味い。
「だからこういうのあんまり作らなくて、ちょっとドキドキしてたけど美味しいって言ってもらえてよかった」
「俺はたぶん、君の作る料理は何でも美味いと思う」
あんぐ、とかぶりついてそう言えば光忠が手を伸ばしてくる。
「はは、すっごい、口説き文句だ」
長い指が国永の頬に触れ、すぐ離れていく。どうやらマヨネーズがついていたようだ。まったくいい年をして恥ずかしい。いつもはこんなにガツガツして食べない、というかそんなにもを食べないし、あまり腹も空かないはずなのだが、光忠の料理恐るべし。
「嬉しいことを言ってくれるから、僕もお昼からは張り切って準備を進めていこうかな」
「お?畑の方はもういいのか?」
「うん、おじいちゃん達に鶴さんが準備手伝ってくれてるって話したら、そっちをしなさいって言ってもらえてね。朝は無理だ
けど、お昼からなら毎日来れそうだよ」
それは朗報だ。やはり一人での作業は退屈だし、何か聞きたいことがあった時光忠が傍にいてくれればとても助かる。作業効率も捗るだろう。
「ってわけだからお昼ご飯食べたら頑張ろうね、鶴さん!」
早朝から畑で体を動かし、国永やばあちゃん達の為に料理を作り、これから細かい作業をしなければならないというのに元気なことだ。これが若さか。いや、国永が光忠と同じ年の頃はもっと疲れきっていたような気がする。となると光忠自身の性質だ。
だからと言ってそれを理由に自分が頑張らなくていいわけではない。美味い飯を食べたからには相応の働きをしなければ。
「よーし、頑張るか!」
「うん!」
美味い飯は活力になる。だからだろう、光忠と共に過ごした午後の作業は午前中とは比べられないほど捗った。
*
それからほぼ一ヶ月、国永は祭りの準備に明け暮れた。と、言うほどではなかった。確かにほとんどが祭りの準備に当てていたが、光忠がそればっかりじゃもったいないし、申し訳ないと国永を村のあちこちに連れ回すことも多かったからだ。
野菜の収穫時には、畑に駆り出され恐々とした手つきで収穫を手伝わされた。じいちゃん達から、別嬪さんはへっぴり腰だとずいぶん笑われた。当然だ、旅をしていて虫や自然に慣れているとはいえ、野菜の収穫などしたことがない。無知な状態で最初から格好良く出来るならそいつはよっぽど農業の才能があるのだ。一人で農業物語を始めればいい。そもそも何故、トマトや茄子といった収穫しやすいものではなく、大根の収穫をさせるのだろう。というか大根を夏にも収穫出来るとは知らなかった。
隣でどっせいと格好良く大根を収穫している光忠がへっぴり腰の国永を見かねて水分補給係に任命してくれたお陰で、大根の収穫はそれ以降しなくて済んだ。ただこの水分補給係も国永は余りしたくなかった。何故なら、じいちゃん達に水を渡す度「あんたこそちゃんととらんといけんが、また倒れっでね」と心配されるからだ。国永が脱水症状起こして光忠に姫抱っこされたことはこの村の誰もが知っていた。揶揄っているわけでなく純粋に心配されるのが却って居たたまれない。それを聞くと光忠が
「大丈夫、そうなったら僕がまたちゃんと介抱するから」と頼もしそうに言うから尚更。
畑以外には海にも行った、山にも行ったし川にも行った。村を知り尽くしている光忠の案内は村の魅力を120%引き出していて、なんてことない筈の村が、やはりこの国で、いや世界でも5本の指に入るくらい幸せな村であるように感じた。
古くて小さい駄菓子屋に置かれている、ぎいぎいと音を立てるベンチに座って、甘味料の味しかしないような駄菓子を食べている時でさえとてもかけがえのない時間のような、そんな錯覚すら。
「鶴さん?どうしたの」
「ん、あー、いや、君の作る菓子の方が美味いなと」
「それ、喜んでいいのか微妙だなぁ。でも、こういうのたまに食べたくならない?」
「俺、こうやって誰かと駄菓子食べるの初めてだからなぁ、」
国永が子供の頃に駄菓子屋なんて近くになかった。大好きな兄とは引き離されて国永は一人寂しく幼少期を過ごしたから駄菓子屋があってもきっと入らなかっただろう。
片手には「祭りの準備を頑張っとる坊と別嬪さんにおまけ」と駄菓子屋のばあちゃんがくれた瓶ラムネ。この村を訪れなければこの着色料で色付けされた小さな餅の味も、ビー玉のせいで中々上手くいかないラムネの飲みにくさも、一生知らないままだったに違いない。
光忠はしみじみ呟く国永から視線を高い高い青空へと移す。入道雲が綿飴みたいだと二人ではしゃいだのは昨日のことだ。
「・・・・・・もうすぐお祭りだね」
「そうだな」
「もう、夏が、終わるね」
「そうだなぁ」
瓶ラムネを空に翳すとラムネとビー玉が青空に染まっていく。これを飲み干せば夏が終わる、なんとなくそう、思った。翳した瓶をそのまま煽る。ビー玉が邪魔をして上手く飲めない。結局ラムネは残ってしまった。
*
国永と光忠はラストスパートと祭りの準備を進めていった。この滞在の最終目的である祭りの為に。ほとんど準備は出来ていた。飾りつけと簡単な設置をして後は祭りの日を待つだけとなった。残り少ない日々で光忠の料理を惜しみながら食べ、楽しみと達成感と他の何かを感じながら祭りを待つ、そんな時に。明日が祭りという時に、それを断念しなくてはいけなくなった。台風が訪れたのだ。
ガタガタと雨戸が揺れる音がする。雨の音もすごいがそれ以上に風の音がすごい。まるでこの家の周りを大人数で一斉に叩いているようだ。
「まっさか直撃するとはなぁ」
テレビで台風が発生したとなった時、進路予想ではこちらに来る筈ではなかったのだ。だというのに何がどうしてあそこでぐいんと曲がったのだろう、この台風は。まっすぐには生きたくない、そういう台風生を目指しているのだろうか。なるほどそれならば納得もしよう、そういう奴だからこそ、こうも破天荒に人の土地で大暴れしているのだから。油断をついて大暴れ、というやつだ。
「何も祭りの前日じゃなくてもいいのに、この反抗期め」
未だ家を揺らし続けている台風に恨めしげに呟く。
「こりゃあ当然明日の祭りは中止だな、なぁ光坊?」
停電している上に雨戸を打ち付けている為、部屋の中は暗い。昨日この家だけではなく村のほとんどの雨戸打ちに奔走したのだ。明日はきっと逆のことをしなければならない。明後日に村を出る予定だったから明日潰れるのはまぁいいが、疲れること間違いなしだ。心の中で辟易しながらも、光忠が渡してくれた懐中電灯で自分の顔の下から光を当てつつ光忠を振り返った。
「みつぼう?」
やめてよ!と怖がるかはたまた何時ものように楽しそうに笑われるか、そんな反応を期待したのだが振り返ったそこに光忠の姿はなかった。
「みつぼー?どこ行ったー?」
懐中電灯で部屋を照らす。どうやらここには居ないようだ。台所の方へ行っただろうかと立ち上がる。
「鶴さーん」
国永を呼ぶ声が聞こえた。台所の方ではなかった。声に誘われるままに移動する。たどり着いたのは玄関だ。玄関は磨りガラスの引き戸だ、居間と違って薄暗い光が差し込んでいる。だから懐中電灯を切っても光忠の姿がよく見えた。光忠は自分の背丈にあっていないレインコートを身に付けて、長い膝下には足りなさすぎる長靴を履いていた。
「どうしたんだ、光坊、その格好」
「うん、ちょっとね。村の様子を見てくるよ」
「はあ!?」
よしと、工具が入っているウエストポーチをレインコートの下の細い腰につけ、傍らの懐中電灯を手にした。
「ま、待て待て!村を見てくるって正気か!?この雨風だぞ!?」
「大丈夫」
強い力で肩を掴んでしまった国永にも光忠はにこりと微笑みを返す。
「畑の様子と皆の家の様子をちょっと見回ってくるだけだから。あ、ついでに祭りの装飾も外して来ようかな。昨日はバタバタしてて外しきれてない所あったもんね」
「やめとけって、危ないから」
「平気だよ。僕、台風が来る度いつも見回ってるんだ。おばあちゃん達には内緒だけど」
「なっ、」
しーっと人差し指を唇に寄せて光忠は楽しげに声量を下げる。いつもの微笑みの筈なのに国永は心の中がひんやりとした。
「雨戸が壊れてたらおばあちゃん達怖いだろうし、畑のビニール外れてたら野菜が壊滅しちゃって皆すごく困るもんね。祭りの装飾が無くなったら来年の皆の笑顔が見れなくなっちゃう」
にこにこと光忠は笑い続ける。
「僕、皆の笑顔が好きだから、その為ならこれくらい平気平気!あ、鶴さんはここにいてね、鶴さん出たら風で飛ばされ、」
「っこんの、バカ!!!」
肩を掴んだまま叫んだ。光忠が大きな雨粒に顔面打たれたように目を瞑り、ぱちりぱちりと瞬きをした。珍しく笑顔以外の表情だ。だけどそのことに対して今は何も思わなかった。
胸がびりびりと痺れる。外で雷が鳴っているわけではない、それでも国永の心の中は雷雲が立ち込めているかのように騒いでいた。
「ご、ごめん。そうだよね、鶴さん足腰しっかりしてるからこれくらいの風なら踏ん張れるよね。飛ばされそうなんて失礼なこと、」
「そうじゃない!!」
見当違いな謝罪をしてくる光忠にまた大声を浴びせる。光忠がまたびくと目を瞑った。
「どうしてそんなこと言うんだ、光坊!何でそう、自分を犠牲にするようなことをする!」
「お、大袈裟だなぁ。犠牲とかじゃなくって、本当に大丈夫なんだって。鶴さん、あんまり台風に遭遇したことないのかな?意外とね、なんともないんだ。何回もしてきたことだよ、心配ない」
「だからって今回も大丈夫とは限らんだろう!?」
言い訳を繰り返す光忠に苛立ちを感じる。肩を掴んだ手に知らず力が入った。
「平気だと君は言うが、もし、万が一、君に何か起こってみろ!そっちの方が余程、」
「つ、鶴さん」
「余程、皆を悲しませることになるとは思わないのか!!」
「!」
痛みで顔を歪める光忠に構わず言葉を続けた。頭は何も考えていない。びりびりとした胸が吐き出す言葉だけを光忠に浴びせている。光忠の身を心配している、恩人だから当然だ。だけど、それ以上に、何故か怒りのような感情が渦巻いていると何処かで感じた。
「俺は、少なくとも俺は、そうだ。君が危ないことに身を投じれば心配するし悲しくもなる。笑顔なんて浮かべていられるものか。もし、俺の知らない所で君が危ない目にあって、俺が気づいた時にはいつも通りの君でいるとしても、俺は危なかった時の君のことを考えて悲しくなる」
「・・・・・・」
「皆の笑顔が好きだと言うなら外に出るな。君がいなくなること以上の悲しみがこの村にあるか、バカ」
淡々と言うことに努めても苛立ちは消えきらず最後に一言付け加えてしまった。
まったくもって苛々する。こんな状態の外に出て平気な訳がない。今までが平気だからって今回もそうなるとは限らない。浅はか、これが若さか。いや、そういえば光忠は警戒心が足りない人間だったのだ。平和な村で数日過ごしただけの国永ですら最近忘れかけていたものだ、ずっとここにいる光忠ならそれもしょうがないのだろうか。
「取り敢えずレインコート脱ぎなさい、工具も下ろせ、ほら」
「・・・・・・い、」
「あ?」
「ごめん、なさい」
「え」
小さな呟きに自分より高い所にある顔を覗き込む。今まで見たことないほどしょぼくれた顔がそこにはあった。100億円を何処かに失くしてしまった人間よりきっとしょぼくれている。その顔を見た途端、胸のびりびりが消えていき、代わりによくわからない焦りが訪れる。
「お、おい光坊」
「鶴さんを怒らせたかったわけじゃないんだ、ただ僕本当に村の皆の為に自分が出来ることをしたかっただけで」
「わ、わかってる、君が興味本位で出ようとしてるわけじゃないことくらい」
「祭り、」
「ん?」
「祭りも見せてあげられなかった。見たことない景色見せてあげるって、大口叩いたのに」
ごめんなさい、とまたしょんぼり口にした。子供のようだ。いつもは好青年なのに。調子が狂う。
「君のせいじゃない。だからそんなしょんぼりするな」
だからこうも宥めるような、猫を撫でるような声が出てしまうのだ。反省する子供を怒れる程、国永は子供でもないし、大人でもない。
「怒って悪かった。部屋に戻ろう。な?」
「・・・・・・うん」
元気がない光忠の背に手を添えて二人で居間へと帰った。暗い部屋の中、背中合わせに座る。台風が通りすぎるまで、二人の間に会話はなかった。
結局一日で台風は通り過ぎていった。からりとした天候と、少々荒れてしまった村を残して。それでも怪我人は一人も出なかったのだから、まぁ破天荒ながらも良識のある台風だったのかもしれない。
当然のごとく祭りは中止で、国永と光忠は国永の予想通り、村の雨戸外しやらなんやらで村を走り回った。祭りの装飾も一部失くなっていて、探したけれど見つからず仕舞い。だけどそれを聞いた村のじいちゃん達は「どうにかなるが!」と光忠の好きな笑顔を浮かべて笑ったのだった。
台風が去った頃にはすっかり元通りだった光忠もそれを見て安心したように笑っていた。
――ほれ見ろ、君が危険を冒してまですることじゃなかったんだ
そう、口から出そうになったが、またしょんぼりされたんじゃたまらない。結局黙っておいた。
動き回った体を横たえ泥のように眠り、国永が目覚めたのは昼前だった。朝食兼昼食を噛み締める間もなくバタバタと準備をして、結局太陽が一番輝いている時間に出発することになってしまった。
「本当はもっと早く出るつもりだったのに・・・・・・」
「ごめん、起こせばよかったね」
「あ、違う違う。君を責めているわけじゃないんだ」
最後の料理をゆっくり味わえなかったことを悔やんでいると困ったように笑う光忠が謝罪を寄越してきた。慌てて手を振る。
「鶴さん、これ」
振った手に何かが押し付けられる。小さな包みだった。
「夜ご飯にでも、食べてね。容器は使い捨てだから、食べ終わったらゴミ箱に入れて。風呂敷は、まぁ何かに使ってよ。迷わない為の目印とかにさ」
「光坊・・・・・・」
両手で包みを受け取った。
「鶴さんと過ごした一ヶ月、すごく、すごく楽しかった。・・・・・・祭りは、見せてあげられなかったけど、僕、この夏のこと絶対忘れないと思う」
ありがとう、鶴さん!と光忠は笑った。真上で輝いている火の玉ではなく、目の前の笑顔こそが太陽だと言われれば思わず頷いてしまうくらいの眩さで。
くらくらと国永の頭が揺れた。一ヶ月前の脱水症状を思い出す。水分は十分にとってるのに。
だからだろうか、はたまた、またもやの気まぐれだろうか。もし気まぐれだとしてもそれは国永のではなくて、祭りを見れず
に拗ねているこの村の守り神、果たしてそんなものがいるのかわからないが、そういったものが起こした気まぐれなのだろう。眩い太陽に目を焼かれぬよう必死に目を細めながら国永は口を開いた。
「俺の信条はな、光坊、『同じ所を二度と訪れない』なんだぜ」
「うん・・・・・・、知ってるよ」
「でもな、光坊。俺の旅の目的は見たことのない景色を見る為なんだ。俺はこの村でまだその景色を見ていない」
「え?・・・・・・そ、それって」
「なぁ光坊。来年、また準備を手伝わせてくれって言ったら、迷惑か?」
もう眩しくはないはずなのに光忠の顔から視線を外してそう問いかけた。何故自分はこんなことを言っているのだろう、こんなこと、何処の土地の守り神が呪いをかけたとしても言ったこと、なかったのに。見送る兄にすらただ手を振っただけ。
「鶴さぁん!!!」
「いだだだ!!光坊、弁当がつぶれる!いだだだ!」
光忠が感嘆の叫びをあげて国永を抱き締める。姫抱っこ筋が唸りをあげている。国永の手の中でぐしゃりと音がなった。最悪だ。
「鶴さん、僕待ってる。来年を楽しみに待ってるよ!」
潰れた弁当に涙目で出発する国永を、光忠は大きく手を振ってそう笑った。やはり子供のようだ。けれど調子が狂うとは思わず、むしろ国永も同じように大きく手を振り返した。お互いが小さくなって、見えなくなるまで。まったく笑ってしまう。初めての遠足にはしゃぐ子供と見送る母親の図だ。
楽しい気持ちのまま国永は次の土地にたどり着く。金はあったから宿に泊まったが、夕食は断った。温かい食事より、潰れた弁当が食べたかったのだ。
風呂敷を解くと、透明のパックがあり中の料理が見えた。どこでも食べられる握り飯と漬け物と、卵焼き、そして、
「っ、あっはははは!!!心配症過ぎだろ、あの子!!!」
大量の梅干しだった。
「はー、おかしい、変な奴だよなぁ。いや、優しい子なんだが」
一人で楽しくなって、目元を拭った。一緒にいないのに国永を爆笑させるとは、なかなかやる。
笑いながら梅干しをつかんだ口に入れた。ぶるると身体中の毛穴が開いたように震えた。
「うぇ、すっぱ、・・・・・・ははっ」
一粒300メートル。そんな言葉が思い浮かぶ、明日からも元気に旅が続けられそうだ。
「また、来年。な、」
光坊。そう呟いて目を閉じる。にこにこ笑顔の好青年が瞼に浮かんだ。そしてふと思う。そういえば、
「結局俺の前で一度も眼帯外した顔見せなかったな」