2回目の夏
光忠の味に慣れた舌は、新しい土地の何を食べても、どんな特産物を食べても唸ることはなかった。旅の楽しみは食でもあるというのに、と考えて、しかしそもそも国永は食に対してそんなに興味も持っていなかったことを思い出す。食欲の秋を、食欲が極端に減る秋に替えて、国永が冬と共に別の土地を訪れる頃国永の舌はすっかり光忠の味を忘れてしまった。それ処か、あの真夏の太陽のような笑顔さえ。季節は冬なのだ、肌を支配する冷たさがそうさせたのだろう。夏の暑さが恋しい。夏になれば冬の冷たさが恋しくなるとはわかっているが。
冬を殺した春がそ知らぬ顔で命を生き返らせる頃、国永はあの地よりも遠くにいた。地元の組織だか何だかの攻防に巻き込まれていたのだ。最終的に敵対していた5人と1人が和解することになったのだが、今回は結構危ない所だった。「よぉ、狙って、ばぁん!あっ、」と言う声と破裂音、そして何か、深く考えないでおきたい何かが国永の頬を掠めた時はさすがに、あ、俺死ぬなと思ったものだ。
そんなこんながあり、梅雨に入り国永の進路は変わった、一年前の台風のようにぐいんと進路を曲げてあの地を訪れる。
トンネルを通り、約2時間。2回目となればペースもわかるし水分配分もわかる。去年よりも元気に、国永は村の土地を踏んだ。
「やっぱしんどいなぁ、何で今年も歩いてきたんだろうな俺は」
二回目の景色となれば歩いていても退屈なばかり。しかし今回に限っては何となく懐かしさを感じたから不思議だ。
「お、あれ光坊のばあちゃんじゃないか?」
死亡事故発生!の看板が増えている急カーブを過ぎた所から畑を見つめる。大体の場所でしか覚えていないが、あの場所は光忠のばあちゃん、厳密には違うが国永はすっかりそう認識している、そのばあちゃんの畑だったはずだ。
心なしか歩調を早めて国永は傾斜を下った。
「おーい!ばあちゃーん!」
「んー?」
近くに行けばそこにいたのはやはり光忠のばあちゃんで、国永は片手を挙げながら呼ぶ。足早に駆け寄ればばあちゃんが顔を上げた。
「はらぁ、あんたぁ別嬪さんじゃな。テレビの人かね?」
「ばあちゃん、そのやり取り二回目だぜ。俺だよ、去年光坊のとこに世話になってた」
帽子を取りながら答える。名前は名乗らなかった。ばあちゃん達、光忠以外の村の人達は国永のことを『別嬪さん』と呼んでいて国永の名前を認識していなかったのだ。
「あいた!だいかと思えば別嬪さんやらよ!」
「ひっさしぶりだな、ばあちゃん!元気してたかい?」
「棺桶に両足突っ込んで、畑仕事してるが、あっはっはっ!!」
そう言って国永の背中をばしばし叩く。このフレンドリーさ懐かしい。
「そぉかい、また来たんか」
にこにことばあちゃんが笑う。その笑い方に今まで忘れていた光忠の笑顔を思い出しかけた、その時。
「おばあちゃあーん!」
国永の耳に若い男の声が聞こえた。振り返る。白いトラックの横で叫んでる、青年がいた。
片手を上げて近寄ろうとした、けれど何故か出来ない。一瞬、大きな雲が太陽を隠して影を作る。それと同じように国永の胸にも、影が出来た。
――光坊は俺を覚えているだろうか
そんな思いが。
風がさあと吹いている。雲は直ぐに去っていった。また暑い日差しに晒される。光忠は手に持っていたバスケットの中をがさごそと探りそして、こちらに向かって走り出した。突然のことに驚いてしまう。結局片手を上げただけで国永が近寄るよりも早く光忠が近寄ってきた。
「や、やぁ光坊、げん、」
「鶴さぁん!久しぶりっ!!!」
「っ!?、もがっ、ぐ、うぇっすっばぁ!?」
「大丈夫?ちゃんと水分と塩分取ってる!?」
「ばっ、光坊、きっみ、なぁ!」
「目眩しない?僕、運ぼうか?」」
「再会早々、いきなり口に梅干し突っ込む奴があるかぁ!!」
「あっはっはっは!一気に賑やかになったが!!」
2回目の夏。光忠は変わらず光忠だった。
「くあ~!!!やっぱり美味い!!」
歓喜の声を上げる。去年と同じように光忠の家に転がり込んだ国永は、光忠特製の夕飯を涙を流さんばかりに味わっていた。
「光坊、腕を上げたなぁ」
「一年間レシピ研究したからね。さ、こっちもどうぞ。サンマの蒲焼き~」
「あー!やばい俺マジ泣きそう、美味い!」
「ふふ、やっぱり鶴さんとご飯食べるとやる気が漲るよ」
ばくばくと箸を進める国永に光忠はいいねぇと目を細める。その表情を懐かしいと思うより国永は食卓に上がっている大量の赤が気になってしまう。
「光坊、その大量の梅干しは片付けてくれ」
「何で?ご飯と一緒に食べると美味しいよ?」
「あんだけ突っ込んできてまだ食べさせる気か、君は!?」
昼間、酸っぱいと体を震わせる国永に対して光忠は容赦無く梅干しを国永の口に突っ込んできた。何故か最終的に国永がごめんなさい、もう許してくださいと謝る羽目になったのだ。しばらく梅干しは見たくない。
「だって、またいつ鶴さんが脱水症状でこの村に現れても良いようにって、準備してたんだよ」
「、・・・・・・俺は幽霊か何かか。そして梅干しは塩代わりか?」
口ではそう言いながら心の中は何か詰まったような感覚を覚える。そんなに俺の事待ってたのかという言葉は、口に放り投げた肉団子と一緒に飲み込んだ。益々胸が詰まる。失敗した。
夕飯を綺麗さっぱり食べ終え、去年の習慣と同じく二人で皿を洗い、居間へと戻る。ちりんと音がした。風鈴の涼やかな音だ。今年は、夕飯前に光忠がつけていた。
その音をBGMにして少し離れた布団の中で旅の話を何個か話し、早々に切り上げた。夜更かしはしない、今日話きらなくてもこれから一ヶ月期間があるのだ、焦る必要などなかった。
翌日早速準備を始めることにした。まずは去年光忠が片付けてくれた装飾等を出さなければならない。昼飯を光忠の家で済まして二人で集会所を訪れた。
窓が空いていない集会所は熱気がこもっている。入っただけでも汗が吹き出しそうになる中、窓を開け放していく。もうほとんど集会なんてないらしく窓は固くなっていて開けにくい。備え付けの扇風機も去年から使われた様子もなく少し埃が積もっていた。壊れてないといいのだが。
「そういえば、例の人は帰ってきてないのか」
「例の人?」
固くなった窓の鍵と戦いながら口を開けば、その姿に気づいた光忠が国永の元に近寄る。悪戦苦闘の国永の後ろから手を伸ばし、国永越しに窓の鍵をがちゃんと開けた。姫抱っこ筋に関係ない筈の指の力もすごい。そういえば去年二人で指相撲をした時も全敗だったことを思い出す。
「ほら、今までずっと君と一緒に祭りの準備をしていたっていう。君の次に若い、」
「ああ、鶯さん」
「鶯さん?」
いきなり自分以外の鳥の名前が出てきた。鶴と鶯ではサイズも色も大分違うと思うのだが。
「待ってろ光坊、冷たい麦茶を飲ましてやるからな。頭がぼうっとするなら早く言わないか」
「別に鶴さんと言い間違った訳じゃないよ。鶴と鶯言い間違えるって逆にすごいでしょ。あのね、その例の人が鶯さんって言うの」
光忠が、国永のこめかみを伝う汗を手で拭いながら言う。そんなことしても無駄だ。汗は後から後から流れてくる。責任もって最後まで拭ってくれ、大きい手が国永の頬まで撫でて離れていくのをそんな理不尽な気持ちで見送る。
「鶯さんってね、本名じゃない、と思う。本名は何だろう、少なくとも僕は知らない。おじいちゃん達も先生、って呼んでるし」
「先生?」
「うん。お茶のね、先生してるんだって」
時々都会に行って大きな所で講習したり、偉い人にお茶振る舞ったりしてるんだってさ。と光忠が鶯さんとやらの情報を教えてくれる。その情報を聞くに鶯さんはお茶の道ではかなり名の知れた人なのではないかと思った。
突如光忠がふふ、と楽しげに漏らした。何だと首を傾げれば、あのね、とそのままの笑顔で話始める。
「鶯さん、面白い人なんだ。初めてあった時、僕子供でね。7歳、位だったかな。若い鶯さん、って言っても鶯さんも鶴さんみたいに見た目すっごく若いから今とそう変わらないんだけどさ、その若い鶯さんがここにね、やってきたんだよ」
「ほぉ」
7歳の光忠か。本当に光坊だった頃だろう。このでかい図体もまだ小さかったに違いない。もしかしたら、女の子のように華奢だった可能性もある。女の子のような黒髪の少年が黒いランドセルを背負っている姿を想像する。にっこり笑顔で国永に手をする姿は大変可愛らしい。例えその右目に痛々しい眼帯をしていても。未だ光忠の眼帯の下を見ていない国永に素顔を想像するのは難しい。ものもらいではなさそうだ、一年前のものが再発してなければ、の話だが。
頭の中の少年光忠を頭の中で撫でていると、現実の光忠が言葉を続けた。
「鶯さん、変わった髪の色しててね、緑色なんだ。それこそお茶みたいな。僕さ、同年代の子が周りにいなくて、今は閉校しちゃった学校も一人だけで、人間の友達がいなかったんだ。でも人間以外には結構友達いてね」
「人間以外?」
「そう、今はもう飼っている人いないけど当時飼われてた牛とか、豚とか。しーくんのお母さんとか、」
「すまん、話を遮るがずっと気になってた、そのしーくんとやらは誰なんだ。去年一回も会ってないぞ」
「ん?しーくんはしーくんのおじいちゃんちの犬だよ?野良犬だったしーくんのお母さんが残していったのがしーくん」
――犬基準で呼ばれてるんだな、あのじいちゃん
子供の感性ならばそうなっても仕方ない。きっと昔からずっとこの呼び方なんだろう。無理矢理納得して続きを促す。
「えっと、そうそう、後は山に入れば狸とか瓜坊とか、あと野鳥だね。当時、仲良しのメジロがいたんだよ。鶯さんが来たのがちょうど春でね、それで仲良しのメジロと同じ髪の色してたものだから、っはは、僕てっきりメジロ君が僕の為に人間の姿になって来てくれたんだと思って、」
何ともメルヘンな小学生だろう。今の都会の小学生では考えられない。いや、国永が違っただけで意外と皆そうなのかもしれない。
「僕ね、鶯さん見るなり『メジロ君!僕に会いに来てくれたの?どうやって人間になったの!?』って言っちゃったんだ。そしたら鶯さん、『期待を裏切って悪いが、俺はメジロじゃなくて鶯の方が好きなんだ。だから鶯君と呼んでくれ。君に会いに来たと言うのは、まぁ、子供は好きだからな、うん、別に否定しなくていいか。後俺がどうして人間になったのかは、俺が人間から生まれたからだろうな』って真顔で言うんだよ!変な人だよねぇ」
国永にとって変な奴代表格の光忠に言われるのだから相当変な人間に違いない。何かの道を極めた人間は常人では考えられないものだ。それにしても変な人だが。
「あの日からずっと、鶯さんには優しくしてもらってる。年は大分離れてるけど、お兄ちゃんみたいで、僕の大好きな、本当に大好きな人なんだぁ」
「・・・・・・ふぅん」
何故だろう。窓を開けても、風が通り始めても集会所の中はまだむしっとした熱が抜けていない。汗が首筋を流れるのに、部屋の温度が極端に下がったような気がした。
――なんだ大好きな人って。だから二人でする祭りの準備も苦じゃなかったって?俺だって、この暑い中誰の為に、
暑いのに冷めている、矛盾した心がぐつぐつとそんな思いを煮始めるものだから、は、と瞬きをした。
――違う、違う。俺が頑張っているのは美味い飯を食べる為であって、あれ、違うな、俺がここにいるのは祭りを、見たことのない景色を見る為じゃなかったろうか?
混乱していく頭の中はぐるぐると廻っている。絶対脱水症状だ、間違いない。脱水症状が癖になっているのだ、癖になるかどうか知らないが。
光忠にバレてまた梅干し地獄に晒されたら堪ったもんじゃない。今度は梅干しの風呂に突っ込まれたっておかしくはないのだ。窓の外を眺めて遠い目をしている光忠に気づかれないように、国永は水筒の麦茶を飲み始めた。
「今回鶯さんね、海外行ってるんだって。葉書来てたんだ、一言『最高の茶葉と最高の大包平を見つけてみせる』って書いてあったよ。大包平さんって鶯さんの友人でね、世界中で活躍してるカメラマンさんなんだけど、急に連絡が取れなくなって鶯さん、探しに行ったみたい。すごいよね」
麦茶を飲んでホッと息をつく。大分落ち着いた。
「会いたい人に、」
「ん?」
ぽそりと光忠が呟いた。開いた窓から、セミの鳴き声が大きく響き、光忠の言葉をタイミングよく掻き消してしまった。
「、何でもないよ。さ!鶴さん装飾出そうか!倉庫の中はもっと暑いけど頑張ろう!」
「ぐぇー。鶯さんとやら今すぐ帰ってきてくれ~」
「鶯さんが帰ってきたって鶴さんにも手伝ってもらうから無駄だよ!だって僕、鶴さんと一緒に準備したいんだもん!」
「、あー!もう仕方ないなぁ!やるぞ、光坊!!」
「オーケー!任せてくれ!」
夏の太陽に国永に心は一瞬で温度を上げられ、この部屋の暑さを思い出す。暑い。でも冬の寒さが恋しいとは思わなかった。夏は始まったばかりだ、しばらく冬なんてこなくていい。
「俺、夏あんまり好きじゃないんだけどな」
「僕、夏好きだなぁ。暑くて台風もくるし大変なことも多いけど、キラキラしてて、眩しくて、楽しくて、明るい気持ちになれるよ」
「確かに、眩しい、・・・・・・夏の太陽は俺も嫌いじゃない」
夏の太陽が何かを連想させるなんて、それこそが夏の太陽だなんて。これから暑い倉庫に入るのだ、今考えることでもないだろう。
*
夏の半月が過ぎた。
「なぁ、光坊」
「なぁに?」
海辺の堤防、簡易の椅子を並べて二人して座っている。垂らされた糸はここ一時間まったく揺れもしない。
祭りの準備も二回目となれば去年よりも順調に進む。去年台風で無くなって装飾があり、それを作るのには苦労したが、成し遂げられた。残りは別の装飾の修繕だけだ。時間に猶予が出来た二人はこうして海釣りへと来ている。
「あ、きたきた。ちょっと待ってて鶴さん、」
国永とは違い光忠はよく釣り上げる。場所は隣同士で餌も一緒なのに何が違うと言うのだろう。人徳の差だろうか、魚達も人を選んで釣られているに違いない。
「わぁい、おかず一品ゲットー!」
「わぁい!夕飯ー!」
光忠の言葉に魚に対する不満も飛んでいき、こいつはどんな夕飯になるのかな?とわくわくした気持ちで釣られた魚をクーラーボックスまで見送った。
「あ、ごめん話の腰折っちゃって。なんだったっけ?」
「ん?あ、そうだった、そうだった。なぁ光坊」
「なぁに鶴さん」
「君、彼女、とか、いるのか?」
きらきら輝く海面を見つめながら聞いた。
何でもない話題なのに何故こんなに言葉に詰まるのか。また脱水症状起こしてるんじゃないよなと、椅子の横に置いてあった水筒で麦茶を飲む。料理だけでなく、麦茶も国永好みの味なのは相変わらずだ。
「一ヶ月、今年はまだ半月だけど、一緒に暮らしたらわかるだろう。その質問は意地悪だ」
「遠距離恋愛かもしれん」
「この村にいて、一体どんな遠い土地のお嬢さんと知り合いになるって言うの」
僕がこの村を出るって言ってもせいぜい買い物や農協の本所にいく時くらいだよ。あと、大分前に車の免許を取りに行ったぐらい。そう言いながら光忠は新たに糸を垂らした。国永も魚が逃げることも構わず釣り竿を無意味に揺らした。どうせこっちには食いついて来ないのだ。構うものか。
「ここじゃ出会いもないし」
光忠が溜め息のような、苦笑いのような調子で呟いた。光忠の年頃では割りと切実な悩みだろう。
「わからないぜ?この村をひょっこり尋ねてきて君の目の前に現れるかもしれない、運命の人がさ」
「真夏に長い道歩いて来て、着いた途端脱水症状起こすような?」
「そうそう、・・・・・・っておい!その脱水症状ネタもういいだろう!?」
「あはははは!!あ、そういえばさ、不思議だったんだけど、鶴さん何で山道から来るの?」
光忠がくるりと話題を変えた。急な転換に戸惑ってしまう。
「山道?」
「そう、海道の方が早いし、坂ないし、自動販売機くらいあるよ?僕去年から不思議だったんだよね、鶴さん何で山道から来たんだろうってさ。山道って慣れてる人は獣道通ってくるから早いんだけど、整備されてる道路に沿うと遠くなるんだよ、二倍くらい時間違う」
「おい、マジか」
「その『マジか』はあれだね、『マぁなんて素敵なことを教えてくれたの、ジいさんになってもこのご恩は忘れませんからね』のマジかだね」
「長い上に違う」
「じゃあ何?」
「『マさか今頃言うのかよ、去年教えといてくれよ、ところでジャーマンポテトが今日の夕飯に出てこないかなー?』のマジか、だぜ」
「はは、お詫びと言っちゃなんだけど誠心誠意作らせてもらうとするよ」
魚とジャーマンポテトって合うかな?そう楽しげに笑う光忠に、君の腕なら大丈夫だろうと返しておいた。
結局国永はこの日ボウズだった。
*
去年と同じような穏やかな夏を過ごし、そして去年は訪れなかった祭りの日がやってきた。一ヶ月間はあっという間だ。どの季節よりも早く夏は過ぎ去ってしまう。
学生の頃、退屈な夏休みはあんなにも長かったと言うのに。
光忠が小規模だと言った祭りは、確かに慎ましいものだった。夕方から始まるそれは縁日があるわけでもない、花火が上げるわけでもない。静かに、田舎に広がる闇に優しく寄り添うような、それでいて幻想的な何かを思わせる、祭りだった。
海が見える村の広場に光忠と国永準備した装飾が飾られる。二人で手分けして作ったいくつもの小さな行灯が吊るされ、小さな暖かい光を作っていた。
夜の暗さが増えるにつれ、人の表情は近くにいなければ見えなくなっていった。小さな灯火から少し離れてしまえば輪郭を曖昧にした人の影を作る。それは恐ろしい影ではない。暖かな光で作られた暖かな影だ。
海の方に視線をやれば、月が浮かび、海に光の道を作っていた。暗い夜空には月の光に負けないだけの輝きを持った星達が瞬いている。いつもはじんわり優しく輝いて見える夜の宝石達はこの火の暖かさと比べると何処か他人行儀で遠く感じるから不思議だ。
強い火では、きっとこの夜空は見えなかった。そして月と星がなければこの暖かい火だけでは人々を歩ませるのに頼りなかったかも知れない。
国永は広場の中心より海に近い方に立ちながらそう思う。
夕方に光忠と国永に感謝の言葉と誉める言葉を沢山くれた村のじいちゃん達は景色を堪能して静かに帰っていった。何人かは村の集会所で飲み会するかもと光忠は言った。誘われたが断ったらしい、光忠にしては珍しい、筈だ。
小さな行灯に入っている小さな蝋燭がぽつぽつと消え始めた頃、そこに居るのは国永と光忠だけになっていた。今まで言葉もなく、光に包まれ、ただ海を見ていた。
「、」
何か言おうと口を開いて、言葉を探したが出てこない。なんとも言えない気分だった。美しかった、幻想的だった。確かに小規模であり、賑やかさとはかけ離れている、けれども、この祭りが今までの人生の中で一番好きだと断言出来る。
自分が直接関わった祭りだ、達成感もある。それがこんな素晴らしい祭りであればこの充足感も納得だ。そして、この景色を共に見れたのが、
「鶴さん」
ハッと我に帰る。幻想的な気分から覚めたようだった。
声の主を見れば隣に立っている光忠だった。金色の瞳が国永を見つめている。月の光の下で暖かく燃える行灯の灯火と同じ色だ。
「どうだった?」
「ん?」
光忠が囁くので同じように返した。
「僕、鶴さんが見たことのない景色、見せてあげられたかな?」
「ああ、こんな景色はじめてだ。準備を手伝ってよかった」
「本当?」
「本当さ、ありがとう光坊」
「・・・・・・良かったぁ」
ホッと光忠が安心したように笑う。どうやら去年国永に祭りを見せられなかったことがとても気がかりだったようだ。胸を撫で下ろす姿に申し訳ない気持ちになる。別に台風は光忠のせいではなかった。それに、もし台風が来ていなければ国永は今年、ここに来られていないかもしれないのだ。
そう思えばあの日台風が来てよかったとすら思う。国永が共にいれた日に台風が来てくれたお陰で光忠を止めることが出来た、とも。
「今年は台風こなくてよかったよー。まぁその変わり今から来るんだろうけどね」
「・・・・・・絶対、外に出るなよ?」
「で、出ないってばぁ。怖い声出さないで」
無意識に凄んでしまったらしい。怖がらせてしまった。2年目の夏も光忠は笑いっぱなしで、それ以外の表情はやはり珍しかったが、こういう顔が見たい訳ではない。素直に、悪いと謝った。
「明後日出発する」
「明日、じゃないの?」
「祭りは後片付けまでが祭り、ってな。去年は後片付けのことを考えてなかった。だから今年は明後日出発だ」
「そっかぁ」
ほにゃりと光忠が笑う。今頃気づいたが行灯はほとんど消えていた。光忠の表情を照らすのは月の光だ。そしてその表情がはっきりとわかるくらい二人は近くにいた。
「祭りの後とか、綺麗に片付いた所に一人で居るのは寂しくなるんだ。賑やかな祭りじゃなくても。だから、鶴さんが一緒にいてくれるの嬉しいな」
「光坊」
「来年は、来年の祭りの後はきっと今までで一番寂しくなるかも、って今から来年の話しするなんてどれだけ気が早いのって話しだよね!!変なの、僕」
「いや、」
光忠が俯いて、足元を見る。口許には微笑みが浮かんでいた。静かな微笑みは夏の太陽ではなく今浮かんでいる月の遠さだ。
「俺も、変だ」
「え?」
「俺ももう来年のこと考えてる。きらきら光る海を眺めながら歩く道は綺麗かなとか、自動販売機にはどんな飲み物が売ってるかなとか、」
国永を見つめる光忠がぱちぱちと瞬きをする。ああ、良かった遠くない。近くにいる。
「後は、そうだな、来年は二人共浴衣姿でここに立つのはどうだろうかとか、さ。じいちゃん達の手前浮いてしまうかな」
「だって、」
「あーあ!去年、海道のこと知ってたらなぁ!今年で最後に出来たのに!そこに見たことない景色があるってんなら来るしかないもんなぁ!まったく、この俺の信条を2回も破らせるとは、この村の守り神め、俺で遊んでやがる!」
「つ、鶴さぁん」
鯖折りが怖くてサッと身構える。意味もなくファイティングポーズだ。けれども国永の予想していた衝撃はこなくて、変わりに握った拳を、大きな手に包まれる。ぎゅうとした力を感じる。
光忠の顔へ視線を上げればやはり一つしか見えない目を細めて、光忠が国永を見つめていた。
「待ってる。来年も、僕持ってるから」
「っ、」
「嬉しい」
国永の手を包んだまま、光忠が両手を合わせる。二人して祈るような姿になった。光忠が手に額を近づけた、国永もそれに倣う。二人の額がコツンと優しく当たった。
「また、夏に会おうね」
「ああ、また夏に」
こうして2度目の夏を別れた。