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 その日、何処にでもありそうな平凡な家で一人の赤子が生まれた。
 この家で迎えてあげたい。そう強く望んだ母親は助産師の資格を持っている義母に頼み自宅分娩を選んだのだ。
 痛みと苦しみを耐え、新しい命が生まれた時、家族は喜びと祝福を持ってその子を受け入れた。涙を流しながら母親がその子を腕に抱く。生まれたての赤子は目がほとんど開いていない。だからその場で気づいたのは偶然だ。

 

 この子、右目に色がない。
 

 ぽつりと呟いた。
 左目には黒い瞳が見えている。けれど右目の瞳の色は白。視力がある、ないの心配をする前に、何かがぽっかり欠けている、そんな印象を受ける。その何かはわからない、けれどきっと自分がちゃんと産んであげられなかったせいだと絶望に暮れる母親の横でその子の祖母になった義母が、なんだか不吉な目だねぇと悲しそうに顔を歪めた。

 

「不吉?吉兆の印だぜ、それは。縁起のいい鶴が降り立つ目印なんだからな」

 

 突如凛とした声が響く、男の声だ。悲しむ女二人が、この場で唯一男である父親を見るが、父親はぶんぶんと手と首を振る。確かに父親とは似ても似つかぬ声だった。
 ならば外からかと、縁側から見える庭の、その先にあるブロック塀を見つめる。声はしない。第一、声は、この部屋に降り注いだのだから、外からの声であるはずがない。
 三人は天井を見上げる、しかしそこには何もいない。そこで突然今までただ泣いていた赤子の声が大きくなった。

 

「おお、元気元気。こりゃあ大きな病気ひとつせず健康ですくすく育つぞ」
 

 天井から視線を下げると、子供の顔を覗いている何かがいた。人の形をしている、白い何か。その正体が何かと考えるより先に、母親は腕の中の子供を咄嗟に隠そうとし、祖母は母子を庇うように抱き締める。父親は、そんな家族を守る為に得体の知れない何かの前に出た。
 白く美しい何かは、赤子を見て崩していた相好を正し、それでも幾分か目元を和らげる。

 

「うん、環境もなかなかに良さそうだ。俺もやる気が出るってもんさ」
 

 そこに存在しているはずなのに自分達とは住んでいる次元が違うとその場にいる人間に思わせるそれは、その場に胡座を掻いた。
 

「俺は鶴丸という。お察しの通り人間じゃあない。今日からここの守り神さ。ははっ、俺みたいな奴がきて驚いたか?この家とその子に驚きと幸運をもたらそう」
 

 ぽかんと、固まる人間とその宣言に賛同するかのように、声を大きくする赤子。不可解な事を言い放った白い人外はよろしくな!と人好きのする笑顔をニカッと浮かべた。

 

 現在から8年前の出来事である。

 ちゅちゅんと鳴く雀の声を聞き始めてから数時間、とてとてと廊下を歩く音がした。素足のぺたぺたという音とは違う所から察するに彼はいつもの真っ白い靴下を履いているのだろう。
 着替えもばっちり終わっているようだ。今日も一人で準備が出来たことに心の中で拍手を送る。もちろん実際にはやらない。
 とてとて、子供特有の足音が部屋の前で止まった。彼が部屋に入ってくる前に掛け布団を頭から被る、ちょっとした演出というやつだ。
 とんとん。入り口がノックされる。いつも律儀だなぁ、と思う。きっと育て方がよかったのだろう、半分自画自賛だ。

 

「つーるーさーん。おはよー、朝だよーごはんのじゅんび出来たよー」
 

 可愛らしい声が入り口の隙間から、部屋に入り込む。その存在に神経を集中しているため、例え掛け布団という隔たりがあったって一言一句聞き漏らしたりはしない。
 けれど返事はしないのだ、まだ。

 

「つーるーさーん。もー、入っちゃうからね」
 

 そう言いながら子供が部屋に足を踏み入れる。布団の上に丸まっているだろう塊を見て、あーあ、またこんなねかたしてぇ、と母親によく似た口調で言った。
 それに、ぐずった風の声を作ってうぅーんと返す。

 

「つるさーん、朝、朝だよー。おきてー」
 

 今度はごろんと寝返りを打つ。
 

「もぅ、つるさん、ほんとしかたがないかみさまなんだからっ」
 

 焦れたような声がしたと思った途端体にどすんと重さがやってきた。重さ自体はそれ程でもないが衝撃で呻いてしまう。
 

「ぐぇ」
「つるさん!おきて!ごはんー!ぼく、じゅんびしたの!さめちゃうでしょー!おきてー!」

 

 制服が半ズボンな彼は、今日も白く眩しいだろう太ももと膝小僧で白い塊を挟み、体全体を使ってゆさゆさと揺らしてくる。
 

「みつぼ、みつぼー、やめてくれ、起きる、起きるから」
 

 揺さぶりと同じリズムで抗議すれば揺れがぴたりと止む。もぞもぞと頭を掛け布団から這い出した。目を薄く細めて自分に乗っかっている子供を見つめる。子供はひとつの目を伴ってこちらを覗き混んでいる。まだ小さい手のひらが伸ばされ、掛け布団のせいでボサボサになっている白い頭を撫で付けた。
 

「わ、かみの毛ぼっさぼさ。ねぼすけさんはかっこうわるいよ。まったく、つるさんはぼくがいなきゃダメなんだから」
 

 ふふんとどこか得意気な顔が可愛い。喉の奥で笑いを殺して、ふわぁと欠伸をしてみせた。
 

「はいはい、ありがとうな光坊」
 

 子供より大分リーチが長い腕で頭を撫で返す。わぁ!せっかくセットしたのに!と甲高い非難が浴びせられて、とうとう笑いを我慢出来ずに吹き出してしまった。

 

 鶴丸はこの家の守り神である。
 と言っても由緒代々この家を守ってきた訳ではない。まだ8年目、守り神界隈ではたぶんひよっこ、卵としても認められないだろう。というか守り神云々と言うのも自称だ。鶴丸はそれをどうこう思っていない。別に守り神界、期待の新人王を目指しているわけではないのだから。
 鶴丸が守っているのは正確にはこの家ではなく、目の前で食パンを頬張っている少年。8年前にこの家に生まれた光忠を鶴丸は守っている。
 8年前のあの日、一方的に守り神宣言をした鶴丸をあの場にいた三人は怯えるように、気味が悪いものを見るようにしていたが、人というものはなかなか侮れない。どんな状況でも順応していくのだ。相手がどんな得体のしれない人外でもいつの間にか受け入れてしまう。それが自分達に害を与えないどころか、幸運を授けてくれる存在だとわかれば尚更。
 元々のほほんとしている一家だ。光忠の父と母は今では鶴丸をもう一人の家族のように扱っている。そうでなければ、一人部屋を与えたり、商店街の福引券で2週間の海外旅行が当たったからといって、人外の鶴丸と愛息子を二人きりにはしないだろう。
 そもそもこれが初めてでもない。光忠が3歳の時の沖縄旅行、5歳の時の北海道旅行、その時も鶴丸と光忠は二人で過ごしたのだ。鶴丸が家の運気を良い流れにしていると言ってもよく旅行が当たる夫婦である。
 2週間、こんなに長く両親がいないのは初めてだが、電話先の光忠の祖母は「鶴さんがいるからあたしが行かなくても大丈夫でしょうよ。それより聞いとくれよ、鶴さん、うちの嫁がねぇ、」とまったく取り合わず、同居している長男嫁の愚痴を鶴丸に対して吐き出したのだった。
 鶴丸も一人で光忠の面倒が見られないわけではないので、その後はただ光忠の祖母の愚痴を聞いて、助言をし、何でもない話に花を咲かすといういつも通りの電話を終えた。彼女にとって鶴丸は次男宅の守り神ではなく、自分の話友達なのだ。しかもたぶん長男嫁より好感度は高い、と考えるのはたぶん当たっている。

 まぁ、そういった訳で、光忠の両親が帰ってくるまでの後一週間は鶴丸と光忠二人きりの生活が続く。だから鶴丸と光忠は今日も二人だけで朝食を取っている。テーブルには、光忠がトースターで焼いてくれた食パンと、小さいホットプレートで焼いたウインナーと目玉焼き。一人では絶対火を使ってはいけないという両親と鶴丸の言いつけを光忠はきちんと守っているのだ。
 食パンにジャムを塗りながら、その良い子である光忠を見つめる。数十分前に鶴丸がぐしゃぐしゃにしてしまった髪はすっかり整っていた。ちょっと前まで、「つるさん!かみの毛やって!」と頼んできていたのに、最近じゃ髪の毛どころか、着る服も自分で準備して、靴下もちゃんと履いて、なんと教科書の準備も一人で出来ているのだ。人の成長は早いなぁとしみじみ感じてしまう。
 だけど鶴丸にとって光忠はまだまだ子供だ。何せ生まれた時から見守っている。おしめを替えたのだって、父親は軽々と、母親とは良い勝負をするくらいの回数替えてやった。
 腹が減ったと泣けば、離乳食を作ってやったし、四つん這いの馬となり背中に乗せてあやしてもやった。
 ずっと見守ってきた、かわいいかわいい光忠。だからついつい甘やかしてしまう。
 両親が旅立った後、初めて迎えた朝。鶴丸は光忠をいつもの時間まで起こさず、寝かしてやった。朝食を作り、着替えの用意もし、ランドセルの中のチェックもした。すべて準備を整えてから光忠を起こした。
 しかし鶴丸の声でバッと起きた光忠は時計を見た途端泣き出したのだ。

 

「どうして時計止めちゃったの!ぼくがぜんぶじゅんびして、つるさんおこしたかったのに!」
 

 道理で目覚ましが朝の5時にセットされていたわけだとそこでようやく気づいたのは鶴丸の失態だった。ひどいよつるさん!と盛大に泣かれて大いに困ったあの朝を思い出すと、鼻から笑いを含んだ息が抜ける。
 鶴丸としてはかわいい光忠の希望を叶えない訳にはいかない。だから次の日からは、朝の準備の為にいつもの数時間早く起きる光忠と同じ時間に起きて、料理の間だけバレないようにこっそり見守り、その後は布団に戻って光忠が起こしに来るのを待つ、という流れになっている。
 わざわざ、ねぼすけを演じるのも意外に大変なのだ。だけど、ぼくがいないとだめなんだからと得意気に笑うのが見たくてつい甘やかしてしまう。自分でも甘やかしているなぁと思うのだが、叱る時はきちんと叱っているし、光忠本人は甘やかされている自覚がないので、まぁいいとしよう。
 ジャムを塗り終わった食パンをがぶりとかじる。サクとなる音と共にイチゴの甘さと焼けた食パンの香ばしさが口に広がる。

 

「うん、美味いぞ光坊。今日のトースター使いもばっちりだ」
「ほんと!」
「本当さ、目玉焼きもきれいに焼けてるなぁ。君は将来目玉焼き職人になれるかもしれんぞ?」
「えー、そんなおしごとあるのかなぁ」

 

 光忠がはぐ、と食パンを頬張った。柔らかな頬が咀嚼に合わせてモゴモゴと動くのがとても可愛らしい。リスの食事の風景のようでとても癒される。
 そのリスから飛び出したおしごとという言葉で思い出した。

 

「そういや光坊、宿題、ちゃんと書き直したか?」
「書きなおしたもん」
「今度はちゃんと書いたんだろうなぁ」

 

 言いながら苦笑いが漏れてしまう。向かいの光忠が牛乳をごくごくと飲んで、拗ねた目を寄越してきた。口に回りに白い髭が出来ている。腕を伸ばして指で拭ってやり、拭った滴をぺろりと舐めると乳臭い風味が鼻を抜けた。
 

「書いたもん!」
「じゃあ聞かせてもらおうか、書き直した君の将来の夢」

 

 ウインナーが刺さったフォークをぷらぷら摘まみながら問いかければもう頬には何も入っていないはずなのに先ほど以上にぷくぅと膨らんだ。
 

「ぼくのしょうらいのゆめは、大きくなることです!おわり!」
「おいおい、まさか、それを書いたって言わないだろうな?本当に?先生に怒られるぞ」
「だって本当のゆめじゃないもん!何で、つるさんのおよめさんになるって書いたらだめなの!?」
「まぁた、そんなことを言う・・・・・・」

 

 かわいいかわいい光忠。どれだけ目に入れても痛くない、甘やかしまくっている光忠。だけど、困ったことがある。
 この小学2年生男子である光忠は鶴丸が大好きだ。将来は鶴丸に嫁入りをすると本気で信じている。
 いつからこんなことを言っていただろう、最近のような気もするがよく覚えていない。光忠が鶴丸を好きなのは当然だ、そこは疑問ではない。何せこの光忠、初めてハイハイした時、両親と鶴丸が手を叩きながら子供の名前を呼ぶという、恒例の『誰の元に来るかレース』をした時、母親と迷った結果、畳をハイハイと力強く這って結局鶴丸の元へとやってきたのだ。迷われもしなかった父親は泣いていた。

 

「こんな小さいうちから男泣かせなのか、魔性だなぁ、君は」
 

 と抱き上げて頬をつつく鶴丸に、魔性の赤子はあぶぅ!と口から涎を垂らして喜び、鶴丸に将来をちょっぴり心配させたものだ。
 掴まり立ちが出来るようになった時は、鶴丸のよく着ている羽織の袂にぶら下がるようにして地面に足を着けていたし、歩けるようになった時は鶴丸の股の間をひたすらぐるぐる歩き、一人できゃっきゃっと笑っていた。
 しゃべれない頃から、それこそ生まれた時からの勢いで光忠は鶴丸が大好きだ。それはいい、鶴丸も光忠が大好きだ。
 しかし嫁となると話は違う。

 

「君は男の子だろう。いつもかっこよくなる!って言ってるじゃないか。それなのにお嫁さんになりたいってのはおかしいぞ?」
「かっこいいおよめさんになるんだよ!」
「あのなぁ、男はお嫁さんになれないの。なるのはお婿さん。君が、お嫁さんを、もらうんだよ」
「それはだいじょうぶ!お母さんとお父さんをぼくのおよめさんにしてあげるってやくそくしたから!お父さん、ないてよろこんでたよ!」
「すげー重婚。と言うかそれで良いのか、父よ」

 

 光忠が鶴丸を大好きなせいで、父親は何度も涙を飲んできた。きっと光忠に母親と同列に扱われたことが嬉しかったのだろう。だからって、息子が人外の嫁になると言うのだ、いくら子供の発言と言っても止めてもらいたいものだ。そうしなかったから、宿題で将来の夢という作文を書くとなった時、『ぼくのしょうらいのゆめはつるさんのおよめさんになることです』から始まる超大作が出来上がってしまうことになった。
 

「ざーんねーんでーしたー。なんて言われても人間は神様のお嫁さんになれないんだなぁ、これが」
「なれるもん!ぼく知ってるんだから!男の子でもなれるんだって、青江お兄ちゃんも言ってくれたもん!」
「やっぱり青江かぁ」

 

 隣に住んでいる青年の名前が飛び出してきてがっくり項垂れる。ウインナーをがじりと強めに歯を立てた。
 光忠は、近所では有名な不思議お兄さん、鶴丸も似たような扱いをされているが、隣に住んでいる青江ととても仲がいい。鶴丸にとっても青江は友人と言って差し支えないが、光忠と青江の仲がいいのはちょっと心配している。別に青江自体が悪人というわけでもない。ただ物言いや、態度が少々問題あり、なのだ。

 

「ったく、あいつはぁ。余計なこと言いやがって。後で抗議しに行こう」
 

 朝食を綺麗に食べ終わった所で席を立つ。食器を持って台所へ向かう。シンクに皿をがちゃりと置いた。スポンジを手に取り、そのまま光忠に背を向けた状態で話しかける。
 

「光坊、作文、発表するんじゃないのか?そんな作文恥ずかしいぞー。クラスのマドンナに嫌われても、鶴さん、知らないからな」
 

 ガチャガチャと皿の音が響くだけで返事が返ってこない。
 

「なんかあるだろう。例えば、モデルになるとか、アイドルになるとか、俳優になるとか、その見目の素晴らしさから芸能界の伝説として名を馳せるとか。君は頭が良いからノーベル賞の受賞だって目指せるぞ。科学者格好良い~!白衣と眼鏡似合うだろうなぁ。というか、待てよ?頭が良くて格好良くて愛らしくて、やだ、うちの子、世界を掌握出来るんじゃないか?よし、光坊、君の将来の夢は地球の王だ、もはや夢じゃなくて現実だけどな!」
 

 光忠が何か魅力を感じる職業はないかと考えてみたが、結果として光忠が最高だと言うことを再確認しただけだった。ヒートアップする鶴丸の言葉にも、光忠の返事は帰ってこない。
 

「光坊ー!皿持ってこーい!学校遅れても知らないぞー!って、うわ、吃驚した」
 

 声を大きくしながら体を捻れば、すぐ横に綺麗に食べ終わった皿を持った光忠が立っていて思わずびくっとしてしまう。鶴丸が避けたスペースから、シンクに皿をかちゃりと置いた。
 そして、不服そうに眉を寄せて、不機嫌一歩手前の目で見上げてくる。

 

「ん!」
 

 鶴丸の服を引っ張って、背伸びをする。小さな足の靴下に寄る皺の深さで彼が精一杯の背伸びをしていることが窺い知れた。
 

「なんだ光坊」
「大人のちゅーして!!」
「ぶっ!!」

 

 思わず吹いてしまう。鶴丸の天使は朝から何てことを言うのだろう。
 

「しょうらいのゆめあれでいいもん!あれもまちがってない!ぼく、早く大きくなりたいの!ねぇ、大人のちゅーすれば大きくなれるんでしょ?だから、ちゅーして!」
 

 そこにはふざけている雰囲気等一切ない。真剣に鶴丸に訴えている。
 泡だらけの手を軽く洗い流し、近くにかかっているタオルで拭く。そして、光忠の両肩に手を置き、ちゅっと額に唇を落とした。

 

「ちがう、これじゃないの!」
「うーん。今の、そんなこと言う君に、これ以上のものを俺からあげることは出来ないなぁ」

 

 額を押さえて鶴丸を見上げる光忠は予想通り不服そうだ。
 鶴丸は光忠がかわいくて仕方ないので唇にキスを贈ったことは何度もある。親愛のキスだ。だけど大人のちゅーを強請る光忠に、今唇へのキスを贈ることは出来ない。親愛のキスを大人のちゅーだと認識されても困る。

 

「光坊、あのな、君が俺のせいで子供らしくいられないなら、俺はこの家を出ていくしかない。それでもいいならしてやるぜ?本当の大人のちゅーを、お別れのキスとしてな」
 

 本心だった。光忠は鶴丸にとってかわいい、子供だ。光忠がいくら望んだって嫁にすることはもちろん、大人のキスだって与えることはしない。光忠がどうしてもと言うのならしてもいいが、たぶんその日から鶴丸はこの家から姿を消すだろう。見守ることは止めないが、人間の、光忠の目に映らないように見守ることになる。
 

「それでもいいんだな?」
「・・・・・・やだ」
「じゃあ、この話はここで終わり。学校に行ってこい。時間があるなら教室で作文を書き直すことをおすすめする」

 

 額を押さえたまましょんぼり俯く頭をゆっくり撫でる。今度はセットが乱れないように。
 嫁になりたいという光忠には困ったものだと思う。けれど、悪い気はしない。光忠はたぶん嫁になる=ずっと一緒にいられるという考えなだけだ。そして男の自分が婿でなく嫁になるというのは、普通に婿になるより特別なことなのだと、ちょっと勘違いをしている。
 つまり光忠が嫁になりたいというのは、鶴丸の一番特別になってずっと一緒に居たいということなのだろう。性的な意味合いは一切なく。それを熱望されて悪い気がするわけがなかった。
 鶴丸は光忠が大好きだ、もちろん一緒に居たいと思っている。だから運気の流れを操るという慣れないことをしてまでこの家に居場所を作らせてもらったのだ。鶴丸は本来の断ち切る方が得意だ、だけど光忠の側にいるためなら最大限の努力は惜しまない。
 子育てだって、家事だって、ご近所付き合いだって、学校行事の参加だって、これらは楽しんでいるところもあるが、なんだってしよう。
 この子を側で見守り、この子を求めいつかやってくるモノを断つ。それをしなければならないから。
 それなのに、鶴丸のせいで光忠の成長が変に歪んでしまえば元も子もない。光忠にはすくすく、元気に子供らしく育ってもらいたいのだ。
 この子が大きくなる姿。それが鶴丸に見られるかどうかはわからない。この8年間は何事もなかった、人間の成長は早いから、光忠がすらりとした絶世の美青年になる頃、鶴丸はまだ隣にいるかもしれない。けれど光忠の死を鶴丸が見送ることだけは決してない。それだけは言える。
 光忠は目印。鶴丸が断たなければならない、それがやってくる目印なのだ。光忠の生が消える前にそれは必ずやってくる。そしてそれを断ち切った時が光忠と鶴丸の別れだ。
 その時をもう、気が遠くなる程待っているとは言え、光忠と別れないといけないのは辛い。きっと光忠は泣いてしまうだろう。子供でも、大人になっていても。鶴丸がいなくなっても平気なように、光忠には色んな縁を結んでもらわなければ。
 触り慣れた癖っ毛の黒髪を優しく撫でる。それだけで感情が胸に広がる。かわいい光忠。大事な大事な光忠。いつか別れ行く、鶴丸の大切な愛し子。
 ゆっくり撫でる手つきは、壊れやすいものを怖々と触れるようなものになってしまった。
 俯いていた光忠が顔をあげる。鶴丸の顔をじぃと見つめた。その瞳にもう拗ねている感情はなく、きらきらとそしてどこまでも澄んだ、黒色の左目が鶴丸を見る。額を抑えていた手を徐に下ろし両手を広げた。

 

「つるさん、ぎゅぅ」
 

 そのまま光忠が言った。
 これは光忠の、抱っこしての合図だ。光忠は幼少期から鶴丸に抱っこされたがりで、自分の意思をしゃべれるようになってからしばらく「ぎぅ~」が口癖だったくらいだ。鶴丸に対してだけ。
 小学生になり、もう子供じゃない!とよく主張するようになった光忠だが、この抱っこ癖だけはなかなか治らない。
 本当はしない方がいいのだろうか、と悩んでいる。それとも自然に治るのを待った方がいいのだろうか。それはそれで寂しいのだが。
 どちらにせよ、大人のキスを拒否してしまった今、抱っこすら拒否してしまうのは可哀想に思える。それがわかっていて、今それを言い出したのなら光忠はかなり聡明だ。さすが光忠、鼻が高くなる。
 光忠に甘い鶴丸は結局、フッと笑ってその両手を広げている子の両脇に手を入れ抱き上げた。光忠が鶴丸の首に両腕を回す。左腕を小さな尻の椅子にして、甘えてくる背中を右手でぽんぽんと叩いてやる。

 

「ほーら、今日も頑張っておいで。晩御飯は何が食べたいんだ?一緒に作ろう」
「カレーがいいー」
「そうか、じゃあカレーにしよう。またにんじんさんを星型に切ってやるからな」
「うんっ」

 

 ぎゅぅっと光忠が腕に力を込めるものだからちょっとだけ苦しい。けれど増すのは愛しさで、鶴丸もぎゅうと抱き締め返す。かわいい光忠。今日もこの子に幸が降り注ぎますように。
 しばらく二人で抱き合って、光忠を床に下ろした。もう光忠はにこにこ笑顔を浮かべていて、朝の一幕なんてなかったみたいな顔をしている。

 

「じゃあ、そろそろ学校行くね!」
「ああ、気を付けてな」
「うん!つるさん、ぼくがいないくて、さみしいからってないちゃだめだよ?」
「ははっ、頑張るさ」

 

 お兄さんぶる小さい子がかわいくて心の底からの笑顔を浮かべると、制服姿の光忠は一層笑顔を輝かせ台所から小走りで立ち去っていった。しばらくするといってきまーす!と玄関から声が聞こえたので、いってらっしゃーい!と声を張る。ドアが閉まる音が聞こえた。
 

「・・・・・・さて、ここを片付けたら洗濯、掃除、やることは沢山あるからな」
 

 やることがなく、ただ待つだけというのは退屈だから、これぐらい忙しい方がいい。
 

「今はそんな泣いてる暇なんてないさ」
 

 毎日目まぐるしい勢いで成長していく雛鳥の食事の後を片付けながら鶴丸は微笑んだ。

 

 

 食事の後片付け、洗濯、部屋の掃除を終えた頃にはとっくに午後が回っていた。光忠や一緒に食事をとる人間がいないため、昼食は作らない。彼らに合わせているだけで、鶴丸は他の命から生を受け取らなくても存在できる。わざわざ一人の時に人間をする必要はないのだ。
 別に食事が嫌いなわけではないし、煩わしいわけでもない。むしろこの8年は久々の食事を楽しんでいる。昔、ずっとずっと昔、肉の器に降ろされていた頃に幸せな食卓を囲んでいた、その遠く滲む記憶もぼんやりとした味として一緒に咀嚼しながら。
 単に、楽しめない食事には時間をかける価値がないというだけ。そうするくらいならば別な事に時間を掛けるべきだ。
 例えば、隣の家のいたいけな美少年によろしくないことを吹き込む、いけない青年に抗議しに行く、とか。
 光忠は15時前には帰ってくる。おやつの準備をするにしても、今行けば間に合うだろう。相手が食事中でも構うものか。
 と、思いつつ、光忠に祖母から送られてきた、冷やしておいた葡萄を食後のデザートにとタッパー片手に、隣の家へと出掛けた。

 

「早急だねぇ。そんなに我慢できなかったのかい?いいよ、僕の中においで」
「何で家に上がっただけでいきなり卑猥な言葉のボールを投げつけられなけりゃならないんだ、俺は」

 

 勝手知ったる隣人の家。とはいえ、声はきちんと掛けた。鍵は開いているのに返事がなかったので、死んじゃいないだろうなと確かめに上がったのだ。
 すると上がった先で目の前の、ラーメンを啜っているポニーテールの、片目しか見えない青年から開口一番この台詞である。面食らう以上に却って冷静になる。そんな鶴丸ににっかり笑って見せるのはお隣に住んでいる青江という青年だ。

 

「卑猥?僕は卑猥なことなんて何一つとして言っていないけどね。・・・・・・ああ、太くて熱そうだね、こんなの、口に入りきるかな」
「麺を冷ませ、量が多いなら減らせ。髪を耳に掻き上げながら上目使いするな、腹立つ」
「イライラしてるねぇ。光忠くんに手を出せなくて欲求不満なのかい?」
「よーし、帰る。君とは金輪際話さない。光坊にもこの家に来させない。そしてこの葡萄は持って帰る」
「ああ!待って!冗談じゃないかー怒らないでくれよ鶴丸さん」

 

 くるりと青江に背を向けて踏み出す真似をすると、焦った風を装った苦笑いが飛んでくる。
 わかっている、今のは青江式の挨拶。光忠云々の所は聞き流せないが、鶴丸だって本当に怒っているわけではない。一種のコミュニケーションみたいなものだ。
 まったく、とわざとらしく大きなため息をついて、テーブルを挟んだ青江の反対側に腰を下ろす。

 

「君なぁ、光坊に余計なこと吹き込むのは止めてくれ」
「余計なこと?大人のちゅーのことかい?それとも人間の男の子も神様のお嫁さんになれるってことかな?」
「全部だ、全部!」

 

 テーブルをばんばん手のひらで叩く。その振動でラーメンの皿がカタカタ揺れている。
 

「余計なこと、かな。僕としては友人である鶴丸さんの為に・・・・・・あ、ごめんラーメン食べながらでいいかい、麺が伸びてしまう」
 

 そういってずずずと麺を啜る。好きにしろと遅れて返すしかない。
 

「だーかーらー俺は光坊をそういう目で見てないんだよ!あの子は俺の天使なの!大事に育ててるかわいいかわいい俺の雛鳥!」
「源氏物語って知ってるかい?」
「初恋をこじらせた男の話を俺に重ねないでくれ!」

 

 がうがうと噛みつくように抗議をしても目の前の男はふふふと意味深に笑うだけだ。反省の色も、鶴丸の言葉を信じている様子もない。鶴丸はため息混じりに言葉を重ねる。
 

「人間は、好きな奴の面影を他の誰かに重ねて愛せるかもしれないが、神ってのはそんなに器用じゃない。第一、神が自分の祭壇に捧げるために自分で羊を育てるか?家畜を育てて自分達で食べる人間とは根本的に違うんだよ」
「おや、光忠くんは家畜だと?」
「あんなかわいい家畜がいてたまるか。うちの光坊は、現存している全生物の頂点に立つ愛らしさを持っているんだぞ!」

 

 かわいい愛し子を家畜だと思っているなんてひどい誤解だ。声を大にして否定をする。
 

「つまり、俺はただ、あの子を純粋な愛情だけで育てようとしているってことだ。自分の血肉する為や、欲の対象としてではなく」
「確かに光忠くんは鶴丸さんの好みではなさそうだ。鶴丸さんの好みはもっとナイスバディの、成熟した人妻みたいな、」
「そうそう、もっとこう、バーン、ドーンと豊満な肉体の、って、だあらっしゃい!!!」

 

 誰が俺の好みの話をしとるか!と両手でテーブルを叩いてみても、青江はラーメン皿を両手で持ち上げごくごくと喉を鳴らしている、鶴丸のことなんて見てもいない。証拠にぷはぁとラーメン皿を置いたときは満腹になった満足さしか顔に残っていなかった。こんにゃろう、いっぺん叩いたろうかと近くにあったチラシを掴んだ所で青江がふと真剣な面持ちになった。
 

「けれど、嫁入りでもさせないと、別れが来てしまうよ。鶴丸さんは光忠くんと別れてもいいのかい」
 

 がらりと変わった雰囲気に、手元のチラシを握りしめるのを止めて、一枚だけ手にする。手持ち無沙汰になった手が、おもむろにそれを折り畳み始める。
 

「別れが来るのは当たり前のことだ」
「別れたくないとは思わないのかい。君は神様なんだろう、別れが永遠に来ないようにだって出来るはずさ」
「嫁入りにさせることがその方法だと?」
「それだけじゃないよ、例えば、時を遡ったり、とかさ」

 

 チラシを折っていた手が止まる。少し角がずれている、折り直そう。
 そう考えつつ視線を青江に向ければ青江は後ろ手で体を支えて座っていた。鶴丸より低い位置から見つめてくるものだから僅かに上目使いになっている。上がった口角と相俟ってやけに挑戦的な印象を受けた。

 

「神様なんだからきっと時の流れに逆らうことだって出来るんじゃないのかい。それが出来るなら別れが来ても、平気だよね。なんたってまた出会った時間点に戻ればいいんだから」
「・・・・・・何が言いたい。光坊と別れない為に、俺にその方法を選べって言いたいのか」
「選べ、というか、何故その方法を選ばないのかが疑問ってことだよ。出来るんだろう、神様?」

 

 開いた紙をまた畳む。今度は左にずれた。角と角が合わさらない。このチラシはちゃんと綺麗に切られているのだろうか。
 

「・・・・・・出来る、出来ないでいうなら答えは出来る、だ。だが俺はその道を選ばない」
「何故?」
「どうせ別れが来るからさ」

 

 青江が片眉を上げる。
 

「だから、別れが来たらもう一度やり直せばいいじゃないか。何度も、何度も。その中で後悔や障害があれば繰り返していく時間の中で修正していけばいい。自分が望む未来だけを選択していけば、」
「未来を選択していってどうする?最上の、自分が望む未来を永遠と繰り返すのか?別れを繰り返して?その度に傷ついて、泣き叫んで?そんなのただの拷問だぜ」

 

 チラシの折り目を爪でつけていく。ああ、そうだ、この時にずれてしまうのか。原因がようやくわかった。
 

「神様って、いや違うな、俺が、か。俺ってそんなに強くないんだ。自分の最上の未来の為に、大事なものを失う――、別れを何回も繰り返すなんて出来やしない。結局俺は最期の別れを選ぶ、だから別れは必ずくる」
 

 畳んだチラシをまた開く。
 

「ああ、うん、傷つくのも嫌だけどそれはまだ良い方なのかな。俺は繰り返して、――何度も何度も繰り返す別れに平気になってしまうことも怖いんだ。別れに飽いて、悲しみに飽いて、大切なやつがくれる痛みを何でもないように繰り返していく。それは、絶対に嫌だ」
 

 今度はもう片方の手で角と角をきちんと押さえ折り目をつけていった。綺麗に合わさっている。けれど、何度も爪で強く擦った折り目はボロボロで、これでは鶴丸が作りたかった形になっても、役割を果たさない。ぐしゃっと丸めて青江の後ろにあるゴミ箱を狙って投げた。がっ、と音がしてそのままチラシは鶴丸の目から消えた。
 もう一枚チラシを手にする。

 

「時間はな、未来に向かって流れる。それには意味があるんだぜ、人間。新しい命が生まれて古いものは消えていく、そうして世界は循環してくのさ。命の循環ってやつだ。その循環の一部分を愛しいって思うから、神様はおいそれと時を遡ったりしない。愛するってことと執着は違う。君が言ってるのはただの執着だ」
 

 第一、時を遡れば光忠に、あの愛し子に会えない。あの子は目印だが、ただの目印ではなく鶴丸の救いでもある。救いがあれば時を遡る必要などない。
 

「へぇ、鶴丸さんは光忠くんに執着してないって言うんだね」
「そうさ、俺はあの子を愛してるんだ。執着なんてしていない。だからあの子との別れをこんなにも待っている」

 

 そう、ずっと待っている。気が遠くなるほど。待っている、まだ待てる。光忠が生まれるのを待つ方がずっと長かった。今は光忠の成長を見守りながら待てる。なんて幸せなのだろう。
 角が多少ずれても構わずに折り畳んでいったチラシは、鶴丸の迷いない手付きで、箱の形になった。鶴丸は僅かに歪なそれを満足げに見つめて、テーブルの中央においた。そして持ってきたタッパーの蓋を開ける。

 

「じゃあ、光忠くんと別れるのは辛くないんだ。光忠くんが誰か知らない人を好きになって君の側からいなくなっても?」
「あの子が幸せなら万々歳さ。俺にも、何にも執着なんてしないほうがいい。――執着なんて」

 

 執着に取りつかれれば、命の循環にも支障が出る。あの子にはそんなことさせない、必ず、必ず鶴丸が正しく導く。無垢な、完全な魂として世界に循環させていくのだ。
 綺麗なこの宝石のような、丸い魂として。黒いものがまとわりつくなら、鶴丸がそれを剥がしてやる。
 紫のような、黒のような葡萄の皮が、鶴丸が作った箱の中に落ちていく。そしてきらきらと瑞々しい宝石が現れる。一粒分、二粒分、―一房分。

 

「いやぁ、悪いね鶴丸さん。全部剥いてもらって」
「ハッ!しまった、いつもの癖で!」

 

 青江のにっかり笑顔と共に寄越された言葉に、ベタベタした手の感覚が戻ってくる。
 葡萄、蜜柑、琵琶、栗、海老、蟹、枝豆、その他諸々。食べるのに一手間かかる食材をせっせと無意識に剥いてしまうのは、鶴丸が雛鳥を育てているからだ。幼い頃、紅葉の様な小さな手では剥けない物を鶴丸はひたすら剥いてやった。ぴぃぴぃと鳴く子の為に。
 鶴丸が手を汚して剥いてやるそれを口に放り込む度、両手でほっぺを押し上げて、んんぅ~!と幸福まで口に含んだように鳴く雛鳥がかわいくてかわいくて、鶴丸はせっせ、せっせと手を動かし続ける。それは沸き上がる父性、いやもはや母性といってもいい。その感情に浸れる鶴丸至福の時なのだ。
 最近は母親に、さすがに甘やかしすぎ!光忠が蜜柑も剥けない子になったらどうするの!と注意され始めているので、隠れてやっていた程。しかし、それを青江にやってしまうとは。

 

「ええぃ!何故俺が君のために剥いてやらにゃいかんのだ!」
「そうだねぇ、剥くのは僕の得意分野だよ?僕、口で剥くのが得意なんだ、ふふ、バナナのことだよ?」
「誤解を解くどころか直球でいかがわしくさせてどうする!」
「おや、鶴丸さん、興味があるのかい?そうだねぇ、今度光忠くんに伝授しといてあげるよ。僕、教えるのも上手いんだ」
「光坊がそんなことしているのを見かけた日には、ほんっとうに俺達は、二度と!この家にこないからな!」

 

 ぎゃーぎゃーと騒いで、騒ぎきった頃。がくりと脱力する。
 

「君と喋ると疲れる」
「でも鶴丸さんは僕のところに来るんだ。口では何だかんだ言ってても、体は素直だよねぇ」
「もーなんとでも言ってくれ」

 

 テーブルに突っ伏す。目を閉じると開け放たれた窓から風がそよそよと流れて、鶴丸の髪を撫でていく。穏やかな風、穏やかな時の流れ。この家は居心地がいい。何か懐かしい感じがする。
 

「鶴丸さん、光忠くん、帰ってくる時間じゃないかな」
「!今何時だ!?」
「今――、」
「青江お兄ちゃあーん!!こんにちわー!うちのつるさん来てませんかー!?」
「来てるよー!!上がっておいでー!ふふ、噂をすればなんとやら、だねぇ」

 

 青江がくすくす楽しそうに笑う。光忠のおじゃましまーす!という、明るい声が部屋に入り込んだ。
 

「こんにちわ、青江お兄ちゃん!」
「こんにちわ光忠くん、早かったね。学校終わったのかい?」
「うん!あ、青江お兄ちゃん。うちのつるさんが今日もおせわになりまして」
「いえいえ、そんな。たいしたお構いもできませんで」

 

 制服姿の光忠が青江の前に座り深々と頭を下げる。青江もそれに倣った。何故この二人はこんなに仲がいいのだろう、気が合うと言うか、遠い親戚か何かだろうか?さすがに光忠の血のルーツまでは把握してないので、疑問はずっと疑問のままだろう。
 

「光坊、お帰り」
「つるさん!ただいまぁー」

 

 いつまでも深々下げ続ける二人にちょっと笑ってしまいながら光忠に声をかける。鶴丸の声に反応して顔をあげた光忠が返事と共にほにゃりと笑った。うん、数時間ぶりでも変わらずかわいい。
 

「ねーねー、今日は二人で何してたのー?」
「んー?ふふ、実は鶴丸さんがね、汁でべとべとになった禁断の果実を僕に食べさせようと・・・・・・」
「光坊、お兄ちゃんの話より、ほら!葡萄あるぞー!口開けろー」
「酷いよ鶴丸さん。それ、僕に持ってきてくれたやつだろうに」

 

 やれやれと苦笑いする青江を無視して、葡萄をひとつまみ。光忠の口へ運んでやる。光忠が素直にあーんと口を開いた。ぽとりと緑の宝石が口に落ちる。光忠が頬を両手で挟み、んぅー!と歓喜の声をあげた。かわいい、さっきまでの疲れがぶっ飛んだ。癒される。
 

「何これかわいい」
「だろう!?」
「え、僕もやりたい、やっていい?」
「仕方ない、今回だけだぞ」

 

 青江が葡萄をつまんで光忠くんはい、あーんと持っていく。光忠はまた、ぱかりと口を開いた。そして先程の動作を繰り返す。ありえなくかわいい。
 

「どうしよう、僕母性に目覚めそうだよ」
「そう思ったときは既に目覚めてる時だぜ、青江」
「そうなんだね、僕は光忠くんによって新たな扉を開いてしまったのか。光忠くん、今日も太ももが眩しいね、お兄ちゃんに触らせてくれるかな」
「?いいよー」
「おい!そっちの扉を開くのは許可してないぞ!今すぐ閉じろ!!」

 

 光忠に対しては人畜無害な笑顔をして恐ろしいことを言う。片目の青年から、片目の少年を守るべく、小さい体を膝に乗せてぎゅっと抱き締めた。光忠はよくわかってない風に頭にハテナを浮かべている。そんな二人の姿に青江は笑顔を深めた。
 

「そうしていると本当に親鳥と雛みたいだ。いつか手離す愛を抱く親鳥か、泣かせるねぇ」
 

 泣かせるという言葉とは真逆にどこか詠うように言う。
 

「親鳥が卵や雛鳥を抱くくらいの無償の愛ってなかなかないよ。そういう君だから僕は、こうしてのほほんと猥談をしながらラーメンが食べられるのさ」
「猥談なんぞしとらんわ、俺を巻き込むな。と、いうかどういう意味だ」
「鶴丸さんを信頼してるってことだよ。貴方なら、大丈夫さ、きっと」

 

 言葉の雰囲気に一瞬違和感を覚える。光忠を抱き締めたまま胸に引っ掛かるものを探っていると、青江は光忠に向かって笑顔を投げ掛けていた。
 

「ねぇねぇ光忠くん、たまには僕の家に泊まりにおいでよ。そんな堅物なんて放っておいてさ。教えてあげるよ、色々とね?」
「んと、わいだん?するの?」
「ほら覚えた!!雛は何でもかんでもすぐ覚えるんだぞ青江ぇ!!!!!」
「え、えーっと、残念だけど猥談は出来ないかな。流石に本気で怒られそうだ。そうだねぇ、・・・・・・ああ、じゃあ神様のお嫁さんになった男の子の話はどうだろう。光忠くん神様のお嫁さんになる方法について聞きたいことがあるんだったよね。詳しく教えてあげるよ?」
「本当!?」

 

 光忠がきらきらと瞳を輝かせて前のめりに青江を見つめる。ただの人間である青江がそんな方法を知っているとは思えない。大方都市伝説などをそれっぽく吹き込むつもりなのだろう。また余計なことをされては堪らないと却下を言い渡そうとすれば、どうしたことかすぐ光忠が鶴丸の体にまた背中をぽすんとくっつけた。
 

「ありがとう、青江お兄ちゃん。でも、ぼく、とまれないや」
「うん?どうしてだい?」
「ぼくとはなれてねたら、つるさん、ないちゃうから。だから、ごめんね」

 

 とても神妙に言うものだから、なんと言っていいか言葉に詰まる。青江も大笑いするかと思いきや、
 

「なら、仕方ないね」
 

 と、あっさり頷いた。
 

「君たちの中の俺って・・・・・・」
 

 どうなっているんだと聞こうとして止めた。自分の予想よりひどい印象だったら気分が下がってしまう。と言うか、青江は絶対からかってくる。なら口を噤んだ方が絶対ましだ。
 それについては言及せず、自分の膝の上で座っている光忠の両手を取り、万歳と上へと持ち上げた。立ち上がってお暇しよう、の合図である。

 

「さてと光坊、そろそろ帰るぞ。一緒に夕飯の買い物だ。今日はおやつ食べてないからなんか買って一緒に食おうぜ」
「ぼく、アイス食べたい!ソーダアイス、つるさんと半分こ!」
「じゃあ僕はプリンを買ってもらおうかな」
「なんで君も来る!君は来るな!」

 

 結局どれだけ拒否をしても青江は着いてきて三人で買い物をする羽目になった。さすがに夕飯は別々だったが、何故かプリン

は奢らされて青江はご満悦で隣の家に帰った。
 

 

「あいつ、なんなんだろうな」
 

 台所で光忠と二人。カレーの準備をしながら話しかける。
 

「隣に来てからだいたい3年くらい経つが、働いてるそぶりもない、口を開けば卑猥なことしか言わない」
「だれのこと?」
「青江さ」

 

 ひわいってなあにー?と伸びやかに聞いてくる声を流しつつ包丁で材料を切っていく。母親がいる時、鶴丸は頻繁に台所に立つわけではない。かといって機会が全くないわけでもない、むしろ多い方だろう、過去の経験によって鶴丸の手は迷いなく動いていく。
 光忠が、小さな台に乗って鶴丸の手元をふぉーと覗き込む。そしてこてんと首を傾げて鶴丸の顔を見た。

 

「青江お兄ちゃん、おしごとでここに来てるって言ってたよ」
「仕事ぉ?」

 

 官能小説家やいかがわしい雑誌のライター等が頭に浮かぶ。もちろん教育に悪いので口には出さない。何にでも興味を持つお年頃が隣にいる。
 

「うん、なんかね、ごしゅじんさま?に、ごめーれーされて、ここにいるんだって」
「な、何の仕事をしとるんだ本当に」
「わかんない。けど、その時が来るまでここにいるって言ってたよ。会いたい子もいたからいいやって言ってた」

 

 鶴丸が切った食材をまな板から別の皿にせっせと移しながら光忠は嬉しそうに笑う。
 

「ぼく、青江お兄ちゃん大すきだから、おとなりにいてくれるのうれしいな。つるさんのおあいてもしてくれるし」
「光坊、逆だ。俺が青江の相手をしてやってるんだぜ~」

 

 光忠が皿に移しきったのを見て、次の野菜をまな板に乗せる。
 

「ほら、光坊。玉ねぎさん切るから、目、閉じてな。痛いぞ」
「うん」

 

 光忠は制服の上にエプロンをつけている。いつも制服と共に眼帯を外すため、白い右目は眼帯に覆われている。にも関わらず、両手で目を隠す。隠すのは左だけで十分なのに。かわいい。思わずじーんと感動しながら見てしまった。
 しかし何時までも待たせるわけにはいかない。ストトトと玉ねぎを切っていく。

 

「ほい、終わり」
「つるさん、おめめ、だいじょうぶ?いたくない?ないてない?」
「ぜーんぜん。はい、次はにんじんさん切るからお野菜移し係さん、玉ねぎさんを連れていってくださーい」
「はい!」

 

 重大任務を任されている光忠は、緊張した顔立ちで玉ねぎを運んだ。小さな手が何度も往復する、がんばれーと声をかけた。ふぅ、と光忠が任務を完璧に完了したところでじゃじゃーんとオレンジ色の野菜を掲げて見せる。
 

「よーし、お待ちかねにんじんさんタイムだぜ!」
「星がた!かっこいい!」
「ふっふっふ~、光坊、今日はそれだけじゃないんだぜー。今日は俺と光坊だけだからな、特別にハート型にも切ってやろう。俺の愛を食べるがいい」

 

 人参の皮をするする剥きながら言えば光忠が顔を輝かせた。
 

「ぼくも切る!ぼくも!つるさんにぼくのハートあげるの!」
「ん?んー、今日はちと無理だな。型抜きがない。光坊は包丁の練習始めたばかりだから、もう少し上達したらな」
「えー」

 

 光忠は不服そうに、頬を膨らます。その柔らか真ん丸ほっぺを突っつきたくて仕方がなかったが、包丁と人参を逢引きさせているのでそれは叶わず。ふふっと笑うことで衝動を我慢する。
 

「その代わり、鶴さんの愛情を全部君にあげるからそれで許してくれ」
 

 この通り!と人参でハートの山を作って行けばようやく光忠はわかったー!と上げた右手と共に返事をしてくれた。
 ちょろい、かわいい。

 二人で作り上げていくカレーは順調に出来上がっていき、炊飯器がご飯の炊き上がりを知らせるとほぼ同時に、ルーも完成した。光忠が盛り付けしたサラダと冷たい水がセッティングされたテーブルに二人分のカレーを乗せて、いただきます!と声を合わせた。
 

「おいひぃ!」
「そりゃあよかった」
「ねーねー!つるさん、見て見て!つるさんのハートがね、いっこでしょ、にこでしょ、さんこでしょ、」
「おお、いっぱい入ってるなぁ」
「ね!これ、ぜんぶ食べたら、ぼくのハート、つるさんのハートでいっぱいだ!」
「おっと、そりゃあ大変だ。じゃあ何個か引き取らないとな」

 

 スプーンをこちら側から伸ばす真似をすると、光忠がやだ!とカレーに覆い被さる。
 

「これ、ぼくのだもん!!あげない!とっちゃやだ!つるさんのばか!」
「ハートあげた本人にひどい言い種・・・・・、ああ、おい、嘘だって、取らないからそんな急いで食べるな」

 

 鶴丸からカレーを隠すように庇い、鶴丸の愛をばくばくと焦るように食べていく。行儀云々と言う前になんだか申し訳なってしまう。
 ハートを食べ終えた所で光忠はほっとしたように姿勢を戻す。口にルーがついている。手を伸ばしてそれを取ることも、取られることもすっかり当たり前なことだ。

 

「ごめんごめん。焦らせた」
「つるさんにはこんど、ぼくのハートあげるから今日はがまんして。たくさん、たくさん、あげるから」
「はは、楽しみにしてる」

 

 それはいつの日になるかなという笑いも含めた。今の光忠の包丁捌きではもう少し時間がかかりそうだ。まだ練習しはじめたばかり、当然のこと。しかし光忠は料理のセンスがきっとある。すぐに上手くなるだろう。将来的には料理人も目指せるかもしれない。
 そこで、朝のひと悶着を思い出した。結局作文はどうなったのだろう。

 

「光坊、結局作文どうなったんだ?書き直したのか」
「ううん」
「あのまま読んだのか!?」
「ううん」

 

 光忠はぷるぷると首を横に振る。
 

「わすれましたって言ったよ。先生にごめんなさいってしたの」
「なんで。書き直しが間に合わなかったのか?」
「ううーん。だって、つるさんのおよめさんいがい思いつかないんだもん。うそはいけないし。だからちゃんと、ごめんなさいってしたんだよ」
「・・・・・・先生、驚いたろ。君は忘れ物なんてしたことないから」
「うん、ビックリしてた」

 

 あ、星がたにんじんさーん!かっこいい!とにこにこする顔を、若干甘めのカレーを頬張りながら眺める。これは結構由々しき事態ではないだろうか。宿題を忘れたことがじゃない、将来の夢が鶴丸のお嫁さんになること以外浮かばないところが。
 子供の頃の夢は変わりゆくものだからどんなことでも、それこそ、アニメのキャラクターになるだとか、世界中の人間と仲良くなって争いのない世界にするだとか、土台無理な夢でも否定せず肯定してやることが大事だと、育児の本か何かで見たことがある。最初から無理だ!と頭ごなしに言われると何にも挑戦しない子供になるのだとか。
 だから光忠の両親も光忠が鶴丸のお嫁さんになると言っても笑って、父は笑ってなかったが、それでも聞いてやっているのだろう。
 鶴丸だって光忠の夢を壊したいわけでも否定したいわけでもない。だけどその夢が、問題なわけだ。
 口の中でジャガイモがほくっと崩れていくのを感じながら頭を捻る。どうすれば良いのだろう。何か光忠が興味を持つものはないだろうか。
 光忠があの超大作『ぼくのしょうらいのゆめはつるさんのおよめさんになることです』作文を持ってきた時、鶴丸は色んな職業を光忠に教えた。あんな仕事、こんな仕事、例を挙げて光忠に勧めた。しかし芸能人もブリーダーも農家も営業マンも小説家もその他全て、光忠は首を横に振って、否定を表現したのだった。
 もともと一途な気質を持っている。光忠は優しい子で、自分より他を優先させる子だ。始めての公園デビューで自分のスコップを、自分より小さい子に取られてもにこにこしていたし、縁日につれていけば、迷子の子供に自分が買ってもらった菓子を与えて慰める。そういう子。だけど、一途で、少々頑固なところがあるから、こうと決めたら絶対に折れないのだ。
 一途、そう、一途。執着と紙一重のそれで光忠は鶴丸を思っている。それを執着にさせるのは鶴丸が避けたいことだ。

 

「光坊、なんかしたいことないか、行きたい所でもいい」
「行きたいとこ?」
「ああ、だってお父さんやお母さんだけ海外旅行ってずっるくないか?俺達二人だけでお留守番だぞ」
「ぼく、つるさんとおるすばんうれしいよー。つるさんのおせわしてあげられるし。あとねぇ、学校でお友だちにも会えるから海外よりここがいい!」
「なんって、いい子なんだ、マジで天使かよ」

 

 いい子の模範解答を素で言う光忠にカレーが塩辛くなるぜ、と涙を拭う真似をする。
 

「じゃあさ、やりたいことは?教えてくれたら俺も手伝うぞ」
「つるさんといっしょにしたいこと!?ある!たくさんあるー!!えっとね、えっとね、あのねー、まずねおにわのかだんのおせわでしょー、虫とりー、かけっこ、オセロー、糸電話でもしもしも楽しかったしー、ひみつきち作ってお母さんにおこられたの、ちょっとおもしろかった。お父さんはまたなかま外れ!ってないててかわいそうだったけど、あれまた作りたい!あとねー」
「それ今まで全部やったことあるだろ。もっとこう、特別なやつだよ、空を飛びたい!とか、映画作りたい!とか、」

 

 光忠が新しく何かに興味を持たないかと指折り数えて普段出来ないようなことをあげていくが光忠はにこにこ顔のまま。未知の何か惹かれた様子ではない。
 

「それも楽しそうだけど、ぼくはさっき言ったやつの方がいい」
「あれは、いつでも出来るだろう。特別なことじゃないんだ」
「とくべつだよぉ!だってつるさんといっしょなんだよ!つるさんはぼくのとくべつなんだから、つるさんと出来ることはぜーんぶとくべつ!」
「!」
「このカレーもとくべつなカレー!また二人で作ろうね!こんどはぼくのハートいっぱいいっぱいいれるの!」

 

 鶴丸の愛情しか入っていないカレーの、最後の一言を小さな口で、大きくぱくりと頬張り口を動かす。ごくんと飲み込んで、両手でごちそうさまでした!と自分が食べたものに対しての感謝を表した。
 

「うーんでも、どうしよう。先生がしょうらいのゆめ書けたら先生によませてって言ってた。ねー、つるさんやっぱりさいしょのやつもっていっちゃダメ?」
「・・・・・・だめ」
「けちんぼつるさんー」

 

 食べおわったらいっしょにおさらあらおうねーと台所に行く小さな背中を見てから、スプーンを持ったままの手で器用に目元を覆った。はぁーと深いため息をつく。
 この家が対面キッチンでなくてよかった。広いが古いこの家のリフォーム資金をまだまだ貯めきれていない父のお陰だ。母がパート増やそうかな、つるさんも居てくれるしと言っていたのはつい先日。いくら運気がよくてもそんなすいすい出世出来る程日本の社会は甘くないらしい。

 

「んなこたぁ、いいんだよ。やばい、やばいぞ・・・・・・」
 

 光忠の笑顔を思い出す――必要はない、なんせ常に隣にあるものだ、もはや眼球に焼き付いている。その輝かしい、かわいらしい、愛しい笑顔。
 

「あれは、執着の手前なのか。わからん。・・・・・・だめだ。執着なんて、持つもんじゃない」
 

 いっそこのまま、カレーの皿だけ残して姿を消してみようか。両親がいない今、それは無理なこと。なら、両親が帰ってきた後に、と考えるが、光忠のいう特別が執着であった場合厄介なことになりそうだ。ないとは思うが同じ轍は踏みたくない。第一、それで鶴丸の目的が潰えてしまうのが何より恐ろしい。
 

「大丈夫。俺が何も返さなければ、純粋な愛情だけなら、大丈夫なはずだ」
 

 鶴丸が光忠に執着を見せれば、執着同士が絡み合って、取り返しがつかなくなる。けれど鶴丸が光忠に向けるのはただの愛情だ。光忠の鶴丸に対する気持ちが、もし執着だとしても、まだ小さな執着など断ち切れる。
 朝は姿を消して見守るという選択肢もあったが、先ほどの光忠の言葉と表情を見てそれを消した。あれは、親鳥にみせる雛のそれではない気がする。恋慕とは言わないがなにか別の。

 

「早く、来てくれ」
 

 ポツリとこぼした言葉はカレーの中、欠けたハート型のにんじんへと落ちた。

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