カレーは次の日にも残り、その次の日にも残ってしまった。仕方がないことだ。朝は光忠が準備する火の使わない朝食。昼は誰も食べない、となれば2回の夕食だけで大人四人分で作ったカレーを消費できるわけもない。結局火・水・木3日間の夕食カレー祭りを終え、光忠の5時起きも本日が最後となった。
「やっと違う夕飯が食える!光坊、今日何食べたい!?」
「さといもさんとそぼろがトロトロのやつー!いもがらさんサクサクでおいしいー!」
「オーケー、任せてくれ!」
鶴丸の言葉に光忠がにこにこーと笑い、卵がけご飯を頬張った。
「君が帰ってきたら一緒に買い物に行こう。またお菓子買うか」
「今日はぱぴこー!半分こ!」
「好きだなぁ、アイス」
買い物帰り、大きなマイバッグを二人で片方ずつ持って、アイスを半分こして帰る。その時間が光忠は大好きらしい。鶴丸も一層楽しそうな光忠が見られる幸せな時間だ。
その時間の夕陽より、大分黄色い太陽を白い飯の上で潰しながら、鶴丸もにこにこ笑ってしまう。鶴丸が卵を崩したのを見て、光忠が真剣な顔で手を伸ばしてきた。
「白だしー、ちょびっとおしょうゆー。はい、つるさん、かきまぜてくださーい」
「はい!わかりました、卵ご飯係さん!」
「少し、あじ見をしてください。どんなあんばいですか」
「とても美味しいです!卵ご飯係さん!」
「たまごごはん作りならまかせてください!」
どんと胸を叩く光忠は、そう言いつつも少し前までは卵をきれいに割れなかったのだ。じゃりと音のする卵ご飯を懐かしく思いながら、今はとても美味しい卵ご飯を頬張る。うん、うちの子は天才だ。
「ごちそうさまでした!」
光忠が先に食べ終わった。
「俺洗っとくからつけといてな」
「はーい!あ、つるさん、あらう時はおゆじゃなくて水でね!生ぐさくなっちゃうから」
誰かと似たようなことを言いながら真剣な顔。まるで間違えてしまえば村一つ壊滅してしまう、そんな神妙さ。ふふ、と笑ってしまうのは鶴丸でなくてもそうなるだろう。
「はい、決して間違えたりしません」
「よろしくどうぞ!!」
「よろしくどうぞ!」
光忠はくるりと背を向けて台所へ。
「はー、今日も光坊がかわいい」
思わず溜め息も出ると言うものだ。そのまま卵ご飯を食べていると、黒いランドセルを背負った光忠が現れた。つい先日まで黄色い一年帽子を被っていたのに、今は1年生の手を引いて通学路を歩くのだ。毎日繰り返していく日常でも、確実に未来へと流れている。
「つるさん!いってきます!しばらく一人だけどなかないでね?すぐ帰ってくるからね!」
「大丈夫だって、慌てて帰ってきて事故に遭われる方がよっぽど泣いちまう。ちゃんと先生の言うこと聞いて、みんなと一緒に帰っておいで」
事故、火事、諸々。光忠延いてはこの家に災難が降り注がないように加護を授けているが、躾の一環として交通ルールは守らせなければならない。
「わかったー!じゃあいってきまーす!!」
「おう、いってらっしゃい!」
光忠が去っていく。黒いランドセル、黒い制服。靴下と太ももから膝下にかけての生足は眩しく白いが、体の殆どが黒で塗られている。どんな色だって似合うが、光忠には黒が一番似合う。
そんなことを思い、光忠がいなくなった、ここに独り座っている。泣きはしない、待てばいいのだから。それがどれ程長くても。
「・・・・・・時間を遡ろうって考える輩はすごいな、俺には到底無理だ」
最上の未来の為に長い時を繰り返す。そこには明確な終わりもなく、繰り返していくことで、もはや何が最上の未来かもわからなくなる。もし、自分の望む未来が手に入ったって、いつかそれも失うことになるのだ。時は止まらず流れていくのだから、別れは必ずやってくる。そしてまた繰り返し。そんなの気が狂ってしまう。
「もう狂っているから繰り返すのか」
気が狂えば大切なものも分からなくなるだろうに。青江に対してそれらしいことを言って時の遡りを否定した鶴丸だが、鶴丸が時間遡行を選ばない一番の理由はそれが嫌だからなのかもしれないと思う。
大切なものも分からなくなり、繰り返すことが目的となれば、それは時間の監獄に囚われたのとなんら変わりはない。なんと哀れなことか。
「それなら、たった一度の終わりを最上にした方がいい」
終わりが来るから耐えられる。待てる、まだ待てる。気も狂わず、大切なものを大切としたままで。
「やっぱり執着ってのは害悪だな」
執着は断ち切らないといけない。繰り返してはいけない。
もはや母親に生んだことすら忘れられただろう、手離された卵の味に美味い、と一言呟いた。
家事が一通り終わり、暇潰しに青江の家を訪ねたが珍しく鍵が掛かっていて、不在のようだった。基本的に家にいる青江だが時々こういう時がある。今日はタイミングが悪かったかなと、作り置きしてあったずんだ餅を玄関先に置いて家へと帰った。
テレビをつけるが特に面白いものはやっていない。すぐにテレビを消して一人縁側へと向かう。
小さな縁側。光忠が生まれた和室の前にしかないそこへごろりと横になる。庭は広くなく、小さな花壇や光忠が生まれたときに父と鶴丸がそれぞれ植えた梅と桜の木があるくらい。その先にはブロック塀。
洗濯物を干す時、8年で成長したそれぞれの木を見て、娘じゃなかったのにねと笑っていた母に、光坊には桜が似合うんだと返してみたものの花はまだ咲く様子はない。梅は去年可愛らしい花をつけたと言うのに。
並ぶ木を見て、また時の流れを意識する。桜が似合う光忠を鶴丸が見られるだろうか。もし見られなくても構わない、梅だって光忠には似合う。光忠には何だって似合う。かわいいかわいい光忠。
ブロック塀の向こうから楽しそうな可愛らしい声が聞こえる。光忠の声ではない。光忠より小さい子供、恐らく女の子の声。そして母親の声だ。小学1年生であれば日によって4時間授業で終わり昼には帰ってくる。きっと彼女もそうなのだろう。光忠も去年はそうだった。
1年生の頃は通学だってそわそわと待ち、玄関先で右往左往したものだ。母に不審者と間違われるから止めて!と何度も言われた。父にはいいなー、お出迎え。俺も仕事休もうかなーと羨ましがられた。
黄色い帽子の、黄色いランドセルカバーの光忠が、近所の同級生と手をつないで帰ってきて、玄関先の鶴丸を見た途端、ぱぁと笑顔満開で、つるさんただいまぁー!と両手を広げて20メートル先からぽてぽて一生懸命走ってきたのが昨日のように思い出せる。その度に鶴丸も両手を広げて半泣き顔で迎えていたことも。
黒い制服から伸びる足が頼りなくて、入学式の日は本当に小学校に入れていいのか、なんだか不安になった。入学式で自分の名前を呼ばれた光忠が大きく「はい!」と返事をした時は不安の反動で父と二人大号泣で、母と入学式の為に来ていた祖母二人に苦笑い混じりに注意されてしまった。その日の夜、父とここで、既に花を閉じてしまった梅と咲かない桜を見ながら缶ビールを飲んでまた泣いた。
そんな思い出が、ここに横たわっているだけで溢れてくる。待つだけの日々なら空虚な筈なのにこの8年、どんな些細なことでも覚えている。一分一秒でも長い筈の時がこんなにも早い。全ては光忠がいるから。
かわいい光忠、鶴丸の愛し子。
「愛してる」
目を閉じて呟けば、ふわりと優しい気持ちになる。目印があの子だった幸福。あの子だったからこそ目印になった必然。どちらにも感謝しかない。
「いつか手離す愛を抱く親鳥、か」
先日青江が言った一言が甦る。
「そうさ、待っている。愛し子の手を離してこそ最上の眠りが俺に訪れるのだから」
鶴丸を眠らせてくれるのは愛ではない。それはやってくる、きっともうすぐ。
とんとん、とんとん。
規則的なリズムが刻まれる。その振動は体の中へと染み込むようだ。とんとん、心地がいい。鶴丸へと与えられるこの深い慈しみは――。
ふわふわ漂う頭。それでも覚えのある感覚に心が揺さぶられる。夢うつつのままゆっくりと目を開けた。縁側の古びた木材が見える。
「みつ―、」
視線をあげた先に柱があった。1歳からの身長が刻まれているそれに、鶴丸は開いた口をそのまま閉ざした。そして左頬に押し付けられているすべすべの柔らかさに顔を埋めて首を降る。
「くすぐったいよぉ、つるさん」
「光坊~」
「わぁー!やだぁ、太ももによだれついちゃう~」
ぺしぺし頭を叩かれてそのままの姿勢で顔をあげる。光忠の腹が目に入った。制服のブレザーは脱いであるから白いシャツだ。
「おはよう、つるさん。ただいまぁ」
「おかえり光坊。俺、寝てたんだな・・・・・・今何時だ?」
「5時!」
「えらく寝てたなぁ」
別に寝る必要もないのだが、こうして時々居眠りをすることがある。思考も小休止するのだろう。
寝ている間にがっちり抱きついていた腕を光忠の体から解いた。鶴丸が居眠りをするといつも決まって光忠が共にいる。こんな風に膝、もとい太ももを枕として提供してくれることも珍しくはない。
「足痺れるからいいって言うのに。重いだろ」
「んーん、おもくないよ」
鶴丸が無意識とは言え幼子に抱きついてるバツの悪さから口を尖らせれば、光忠は静かに微笑んで首をふる。鶴丸が居眠りをした後光忠は少し大人びる。
「ふぁーあ!ちっとばっかし遅くなったが買い物いくかぁ。光坊、ありがとな、よく眠れた」
「・・・・・・うん」
起き上がって伸びをする鶴丸の裾を、光忠は暗い顔でくいっと引いた。
「光坊?」
らしくない表情にしゃがんで視線を合わせる。どうしたのだろう、腹の調子でも悪いのだろうか。
「つるさん、ぼく、」
「ああ」
「足しびれたぁ~」
「言わんこっちゃない!」
ぴえんと泣き言をいう幼子に笑ってしまって、それでも大人しく座って痺れが治るのを一緒に待った。昔、痺れた足をつっついた所から大喧嘩に発展した苦い苦い思い出がある。3日間、口を聞いてもらえず母にしくしくと涙ながらに助けを乞う、なんてことはもう二度としたくない。
足の痺れが取れて白シャツ半ズボンのままの光忠と買い物に出掛けた。約束通りのアイスも買い、いつもより濃いオレンジ色の中、二人でアイスを食べながら帰宅をした。
夕食は光忠のオーダー通りに。おいひいと、綺麗に持てる様になった箸で食事を進めていく姿は例え何百回、何千回見たって飽きない自信がある。食べる手段が素手でもスプーンでもフォークでも、同じことだ。
夕食を食べ終えて、共に風呂に入り100まで声をそろえて数え、ぽかぽかの体のまま、金曜日の本日、並んでテレビを見る。アニメ映画が映る画面を真剣に見る光忠を見るのがとても好きだ。もう何回も同じものを見ているのに表情がころころ変わる。かわいい。CMに入る度に、胸を抑えながら「どきどきするねー!ぼく、どうなるか知ってるのにどきどきするー!」と頬を興奮で赤く染める姿なんてかわいすぎて毎日そのDVDを流してやりたいくらいだ。
映画が終わる頃、光忠がうとうとと船を漕ぎ出す。それを応援しながら共に歯を磨き、おやすみなさいと手を振って廊下で別れた。鶴丸は一番奥の部屋。光忠は手前の部屋だ。
和室である自分の部屋。布団を敷いてそこに横たわる。今日も何事もなく一日が終わっていく。
かちりと電気を消した。暗い闇の中、静かな世界に横たわり、明日も鶴丸は目を覚ますのだろうと考える。明日もかわいい光忠に会える。わかっているのに。
ああ、眠りにつきたい、深く。もう目覚めないような。
けれどこのまま眠ったって、眠れない。闇を、黒を、この腕に抱かなければ。
何も抱いていない腕で何かを抱き締めるようにしてみても、そこにはやはり何もなく、自身の体を強く掻き抱くだけだ。闇に包まれているこの時間、鶴丸の腕の中にだけ黒が存在しないことがこんなにも辛い。
時折、思い出したように訪れるこんな夜が嫌いだ。何があるわけでもなく、平和に終わった一日の最後にふともたらされる、この空虚、焦り。全てが憎い。
忙しい一日のはずなのに、こうした夜はとても長い。まるで光忠が生まれる前、目印さえ存在してない時の様。光忠と離れると、何もすることがないとすぐこれだ。ほとほと、溜め息が出る。
「大丈夫、あの子がいる」
まじないのように呟いた。あの子が生まれるまでの苦しいだけの夜ではない。今はあの子がいる。あの子がいれば鶴丸は最期の眠りにつける、それは救いだ。
そんなことを考えているとぺたぺた、と音が聞こえてきて目を開ける。ああ、そうかと一人囁いた。鶴丸が体を起こしたと同時に部屋の前で音が止まった。小さな気配がする。
その気配は動きを止めて、ひと呼吸後、鶴丸の部屋の入り口を開けた。
「・・・・・・つるさん」
覗かせた顔は暗くても間違いようのない、愛し子のもの。前髪で隠れている右目も、見えている黒い瞳の左目も、鶴丸をじぃっと見ている。
「おいで、光坊」
見えるかわからないがにこっと微笑んで手招きをすれば、光忠が枕を抱えたまま小さな体を部屋の中に滑り込ませた。
そのまま鶴丸の横へと潜り込む。
「どうせ俺の腕が枕になるんだから、枕いらないだろう」
「いいのっ」
「廊下歩いてくるのが怖かったんだな?怖いテレビのCM見ちゃったもんな」
「こわくないもん!こわいのはつるさんでしょ!ぼくこわくないもん!」
鶴丸も身を横たえ、ぷくと膨れる頬の下へ腕を敷く。片方の手で横向きになっている小さな体の脇腹に手を乗せれば、光忠が距離を詰めてきた。
「つるさん、今日お昼ねしてたから、夜ねむれないと思ったの。あたりでしょ」
「当たり。一人で退屈だなーって思ってた。光坊いなくて寂しいなぁって」
「まったく、つるさんはぼくがいないとダメないんだから」
これじゃあね、いつになったらおとまりに行けるかわかりませんよ。と光忠は大人の口調を真似て言った。
「だから君は、俺が昼寝した日にいつもこうやって忍び込んでくるのかい?」
「そうだよー。ぼく、もうお兄ちゃんだからほんとは一人でねられるんだから。つるさんのために来てるのっ。つるさんは一人じゃねられないんだから」
「くくっ、そうかい、ありがとなぁ」
鶴丸を叱るように言う光忠に、これじゃどっちが親鳥なんだか、とむず痒い気持ちになる。鶴丸が眠れない夜は、光忠が言ったように大抵昼に眠っている時で、そんな夜光忠は必ずこうして鶴丸の側にやってくる。それは赤子の時から変わらない。まぁあの時は光忠からやってくるのではなく、光忠が泣き叫び鶴丸を呼び出していたのだが。
普段夜泣きなんてほとんどしない光忠がひどく泣いたのは決まって鶴丸が眠れない夜。両親は鶴さんが夜泣きの相手をしてくれたから育児ノイローゼにもならなかったと感謝してくれたが、その鶴丸こそが光忠の夜泣きの原因なのだ、本当は。
歩けるようになってからは自らやってくるようになった。2歳前にやっと一人で歩けるようになった光忠が、両親の間から抜け出し、廊下で転んで、その泣き声で全員を起こしたこともある。4歳の時には眠れていた鶴丸の上に「つゆしゃ、おとーれー」とぼすんと尻もちをつくように座り、わざわざトイレから遠い鶴丸を起こしにきたこともあった。あの時は咄嗟に「鶴さんはおトイレじゃないぞ」としか返せなかった。
眠れない夜は、一部眠っていた夜も光忠はこうして鶴丸の側に来てくれる。どうして、とは思わない。子供の勘もあるのだろう。
記憶を巻き戻していた鶴丸の両頬を、まだぷにぷにしている小さな手が触れた。黒い目と白い目が、こちらを見ている。
「さみしんぼ」
「む、そんなことを言う子の口は塞いじゃうぜ」
ちぅと小さな唇に、唇を落とした
「大人のちゅーだぁ!」
「ばかたれ。親鳥の餌やりだ。愛情口移し」
きゃっきゃっとはしゃぐ子を諌める。鶴丸としては光忠が口に入れてしまった薄荷キャンディーをそのまま自分の口に放り込むのとなんら変わらない。歯が生え始めた頃出した固形物を嫌がる光忠のため自分の口でものを柔らかくして食べさせたこともある。と言うか今までも何度かしていることだ、光忠だってそれを当たり前の親愛として受け取っていたのに、今は大人のちゅーだなんだと言う。やはり青江の罪は重い。
「じゃあおやすみのちゅーだぁ」
「それはあたり」
「ふふっ」
何が嬉しいのか光忠はくすくすと笑う。そしてねぇつるさんと柔らかな声を寄越す。
「ぼく、早く大きくなりたい。早くつるさんのおよめさんになるの」
細い腕を鶴丸の首に絡ませて言う。鶴丸の片腕でもすっぽり収まる体。小さな、黒。
「だからそれまでこうしてぎぅってして、いっしょにねようね」
つるさん、大すきと黒が囁いた。ああ、いけない。否定しなければ、お嫁さんになどなれないのだと、いつまでも一緒に眠れやしないのだと、ちゃんとわからせなければ。
そう思うのに、腕は小さい体を一層引き寄せる。
「・・・・・・そうだな。さ、もうおやすみ、光坊」
「うん。おやすみー、つるさん」
胸に抱いた小さな黒のお陰で鶴丸は、そのまま眠りの世界に落ちていった。
明くる土曜の朝。二人でいつもより遅起きをして二人で朝食の準備をする。両親が帰ってくるのは明日の夜だ。光忠と二人きりの二週間は本日が最終日となる。
「光坊、今日は何する?」
味噌汁を啜って聞けば、光忠がうんとね、とご飯茶碗を置いた。
「今日、ぼく、お友だちとあそぶやくそくしてるの」
「そっか」
「つるさんもいっしょに来る?」
「やめとく。こないだ本気で鬼ごっこして何人か泣かしたばっかりだから」
「つるさんはもうちょっとげんどってものを知るべきだと思うよ。あんなおめんで、手にスコップもっておいかけられたらだれだってないちゃうでしょ」
めっ!と改めて怒られてしまった。あの時、光忠の両親にも近所の大人にも怒られたが光忠に怒られたのが一番堪えた。自分としては楽しく盛り上げるための演出だったというのに。
気づけば殺人鬼が現れたのごとくの阿鼻叫喚。子供はこうすれば喜んでいたような気が何故かしたのだが、今時の子供たちって気弱なんだなと思った。
「つるさんはどうするの?」
「うーん、青江のとこでも行くかと思ったんだが帰ってきてる様子もないしなぁ」
「青江お兄ちゃんどこ行ってるんだろうね。なかよしの女の子も知らないって言ってた」
「仲良しの女の子ぉ?」
「時どき青江お兄ちゃんのお家にいる子だよ。1年生の子」
「げぇ、あいつほんとにペドフィリアじゃないだろうなぁ」
「ぺどふぃ、?よくわかんないけど、青江お兄ちゃん、あの子にすっごくやさしいよ!いつも元気かい、しあわせかい、こわいことはないかいって言ってる。あとごめんねって」
「ふぅん」
何だかんだと優しい青江である。幼子に謝るようなことをしそうな人間には見えないのだが、人にはやはりそれぞれあるのだろう。
「女の子は怒ってたのか?」
「ぜぇーんぜん!いっつもね、だいじょうぶって青江お兄ちゃんの頭なでてあげてるよ。お兄ちゃんいっつもいたそうなかおするんだもん、ぼくだってなでたくなっちゃう」
「撫でてあげればいい」
「だって、お兄ちゃんがなでてほしいのはぼくじゃないもん」
光忠がまっすぐと鶴丸を見つめた。キリッとしているのに、口元に醤油がついているのは愛嬌だ。
「お母さん言ってた、人ってやくわりをもって生まれてくるんだって、お母さんとお父さんはぼくをあいするために生まれてきたんだって」
鶴丸が手を伸ばすと、んと顎をあげた。わかっているのなら自分で拭えばいいのに、と思うのだが垣間見える甘えたな所がかわいくて口には出さず手で拭った。
「きっとねお兄ちゃんをなでてあげられるのはあの女の子だけ。あの女の子だけがそのやくわりをもってるんだ。ぼくじゃないの」
綺麗になった口であんぐと白飯を頬張った。その仕草に、大人びて見えた今の瞬間が嘘のように消えた。
「せっかく格好良かったのになぁ」
「ぼく!?ほんと?やったぁ!」
過去形なことは気にせず嬉しそうにはしゃぐ姿に笑って見せて、心の中で呟く。そう光忠の役割は青江の頭を撫でることじゃない。光忠の役割は、ただひとつの黒を呼ぶことだ。
朝御飯の片付けまでして光忠はいってきまーすと家を出ていった。昼御飯も友達の家で食べることになっているらしい。ということは鶴丸も昼抜きだ。光忠はそのことを知らない。知っていれば絶対家に帰ってくるはずだ。
「さて、何をするかな」
むむぅと唸る。たまには家の加護でも練り直すか、と人間に見えないように姿を消して家の屋根へと上がった。霊力を込めながらまじないを唱える。家の加護が補強された、と言っても壊れているところなんてなかったが、念には念を、というやつだ。
「すぐ終わっちまったな」
屋根の天辺に座る。広い家だが平屋のため空は遠い。見渡せる町にも限りがある。
8年前から変わらない町並み。けれど今日は何か違和感を感じた。
「なんだ、気が――何か違うものが」
急にざわっと肌が立つ。肌だけじゃない全身の毛が逆立つ感覚。
「きた、のか?それとも別の・・・・・・?」
鶴丸の待ち望んでいるもの以外が来ることも何度かあった。力のある鶴丸そのものではなく、鶴丸の匂いが染み付いている幼く、魂が完全ではない光忠が狙われたことも、多いわけではないが一度でもない。その度鶴丸の加護が光忠を守り、鶴丸自身がその悪しき者を切ってきた。けれど、こんな鶴丸の感覚を広げさせるようなことは一度もなかった。
だから戸惑う。よっぽどの者がこの地に降り立ったのか、それとも――。
どちらにせよ狙われるのは光忠に違いない。
「鶴丸さん!」
自身の中から刀を呼び出し、気を探る鶴丸に声がかけられる。隣の家の庭からだ。青江が人間には見えないはずの鶴丸を見据えて声を張る。
「鶴丸さん!光忠くんは裏山だ!」
「君、何故俺が、」
青江が引っ越してきて、初めて会った時、小さい光忠が「あのねぇ、ちゅるしゃん、かみしゃまなんだよぉ!」と鶴丸を青江に紹介をした。大体の大人は光忠の言葉を理解出来なかったし、出来たとしても子供の言葉だと本気にはしなかった。けれど青江は「へぇー、そうなんだ。よろしくね神様。名前はちゅるしゃんでいいのかい」と握手を求めてきた。変な人間と鶴丸はその時思ったのだ。光忠の言葉を受け止めた変わった奴と。
その変わった“人間”である青江は鶴丸を見ている。鶴丸の袂が流れる風で揺れないのも、いつもはない首の鎖飾りがあるのも当然のように見ている。いつものように片目ではなく、左右の色が違う瞳で――。
それでハッと思い出した。
「青江!!君、青江か!?」
「今はそんなのどうでもいいんだよ!早く光忠くんの所へ行くんだ!目的は光忠くんだよ!」
「なんだと!?」
数百年ぶりの懐かしい相手が顔を厳しいものにして叫ぶ。
「僕はこれに乗じる奴らがいないか確認しないといけないんだ、だから鶴丸さん早く!」
「っわかった!」
青江の言う、奴らについて思い出そうとするよりも早く、とっ、と屋根を蹴る。この地を訪れている存在がなんであれ光忠が危ないのであればその救助が最優先だ。重力に引かれることのない体は簡単に宙へと浮く。そのまま目の前に見える裏山へと向かった。
「信じてるさ、貴方たちを」
青江が呟いた。人間同士では聞こえなかっただろう。
しかし風はその中に身を委ねていない鶴丸の耳にも青江の呟きを運んだ。祈りと言うよりは確信に近いそれを。