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 かんかんと照りつける太陽も木々が生い茂る場所ではその恩恵を遮られてしまう。どこか鬱蒼と感じる裏山の中を歩く。光忠の気配、自分の加護を辿っていけば裏山の中の洞穴へとたどり着いた。他の子供の気配はしない。しかし確かにここに光忠はいる。
 子供が入らないようにロープが張ってある入り口に足を踏み入れる。小さな足跡があった。きっと光忠は何かに操られるだか、誘われるだかしてここにやってきたのだろう。
 光忠の足跡を辿る。鶴丸の足跡はつかない。だから足跡はずっと一つだけだ。
 そんな広いわけではないはずの洞穴を歩く。空間がねじ曲げられている気がした。けれど鶴丸は歩く。加護を授けている光忠の元へなら鶴丸は必ず辿り着けるから。
 しばらくすると開けた場所につく。やはり洞穴の大きさからは不可能な空間が広がっている。
 そこを見渡すよりも先に、地に伏している存在が目に入る。見間違えるわけがない、光忠だ。


「光坊!!」
 

 体を現世に存在させると同時に駆け寄って腕の中へ抱き上げる。
 

「光坊、光坊っ」
 

 名前を呼んで少し揺らせばうぅんと反応があり、ホッと安堵の溜め息を漏らす。ゆっくり開いた黒い目がぱち、ぱちと瞬きをして鶴丸をぼんやり捉えた。
 

「つる、さん?」
「そうだ、わかるか。君の鶴さんだぞ」
「つるさぁん~!!」

 

 光忠がぎゅうと鶴丸の首に抱きつく。体が震えていた。
 

「ぼくっ、ぼくの足へんになっちゃったの!あっちって思ってもべつなところに行くの!ここ入っちゃだめなのに、こわいおばけ出るのに、ぼくっ、」
「よしよし、大丈夫。君の足は変じゃない。そら、鶴さんが抱っこしてやる。君の足がわがまま言ったって俺がちゃんと連れ帰ってやるからな」

 

 光忠の両脇に手を差し入れて抱き上げた。いつものように左腕を小さな尻の椅子にする。光忠まだ泣きながら鶴丸に抱きついてきた。右手で頭を撫でて背中を叩き、もう安心だと温もりを与える。怯えて可哀想な光忠、ぎゅうと抱き締めた。
 二人の抱擁の近くで、何かがゆらりと動く。目で確認するよりも早く、後ろへと飛んだ。

 

「つるさん!?」
「しっかり捕まってろ光坊」

 

 ざっと着地をしながら言う。揺れる何かは姿を消している。左だけで光忠を抱え、右手に呼び出した刀を握る。どこだと目を走らせる、しかし現れない。
 

「出てこい、光坊をこんな所に連れ出して何をしようとした!」
 

 鶴丸の張った声が壁に反射して僅かに木霊する。
 光忠を連れ出すなど光忠の体が目当てに決まっている。食うのか乗っ取るのかはたまた繁殖の媒体にしようとしたのかまでは分からないが。ふてぇ野郎だと吐き捨てた。例えどれであっても許しがたい。
 すると影が動いたのを感じる。その方角へと視線を走らせ、右手の刀を構えた。

 

「俺の花嫁に手を出そうとはいい度胸だ」
 

 本人の自称な訳だが。その言葉を飲み込めば、鶴丸の呟きに光忠がぼくのこと!?と濡れた顔をあげた。目が輝いている。鶴丸の狙い通り元気が出てくれてよかった。フッと笑いながらも視線は影を捉えたまま。
 しかし地に写る影には、本体がない。確かに何か、そこにいるはずなのに。姿を消しているわけではなさそうだ。恐らく体がないのだろう。

 

「からだが、ない?」
 

 自分の一言に、電撃が鶴丸の体を走っていく。あやかしであれば形がある。摂理に逆らい浮かんだり姿を消したり出来る鶴丸だって依代があるため確かにこの世に存在している。しかし霊にはその全てがない。そう、体がないのは亡霊だ。存在していないそれが、でも確かにいるのは強い想いがあるから、執着があるから。その事実が鶴丸を打つ。
 

 まさか、まさか、本当に、来たのか。こんな突然に、なんの前触れもなく。
 

 言葉を失う鶴丸の目の前で影が、思いだけの体を作っていく。黒く、どこまでも広がる闇の深さで形取られていくそれは、靄のようだ。揺れる深淵。鶴丸よりも大きい。
 靄は靄。闇は闇。それだけ。そこに何かである証も誰かである証もない。
 鶴丸よりも大きな手、しなやかで逞しい体、靡く燕尾服、ミステリアスな眼帯、微笑むと甘く蕩ける金の瞳。そこには何一つない。けれど鶴丸にはわかる、その黒こそ鶴丸が何よりも、愛する黒だと。
 喉がひりつく、舌が縺れそうになりながらもそれでも溢れる名前を止められなかった。

 

「光忠!!!!!」
 

 鶴丸に抱かれている子供と、目の前の靄が鶴丸の叫ぶ名前にピクリと反応する。ああ、やはりそうだ。この靄は鶴丸のただ一人の光忠だ。
 

 待っていた、ずっと、この時を。
 

 鶴丸は震える胸を押さえたい衝動を我慢するため唇を噛み締めた。

 

 もうどれだけ昔のことになるだろう。鶴丸と光忠は、神の末席に座するものでありながら肉の器に降ろされていたことがある。長い時間ではなかった、流れゆく時の中ではほんの一部分でしかないだろう。しかしその中で、二人は共に気持ちを育て、愛を交わした。光忠と共に居られるこの時間を迎える為に自分はずっと存在してきたのだと、そう確信するような幸福な時を過ごした。
 幸せだった。共に存在していこうと誓った。ずっと一緒だと、離れないと何度も気持ちを確かめあった。けれど別れは、どんなものにも訪れる。
 光忠は鶴丸を残して、あっけなく終わりを迎えた。肉の器が壊れただけじゃなかった。魂が宿る依代が折れてしまった。
 鶴丸の目の前で消えていく光忠の体そして魂。あの時の痛みを忘れられるわけがない。光忠が鶴丸に残したものだ。愛し合った喜びや幸福より、もっともっと深く残していった傷。もうほとんど思い出せないあの頃の中で今もまだ鮮明に覚えている痛みだ。
 絶望、ただその言葉のみが相応しい鶴丸の心の中。呆然と光忠の魂が消えていくのを見るしかなかった。手を伸ばすことも、何も出来ず。出来たのは、一言呟く、それだけ。

 

「みつただ」
 

 その瞬間消えていく魂がぱきと音を鳴らした。そして小さな、ほんの小さな一欠片が魂からこぼれ落ちる。
 目を見開く鶴丸の前で魂のかたまりは消え、一欠片だけが浮かんでいた。

 

『離れない、絶対に』
 

 その欠片から、今目の前で失ったばかりの愛しい者の声がした。と同時に黒い闇が細い蔓のように欠片を覆っていく。光忠の魂の欠片が黒く染まっていった。鶴丸がようやく手を伸ばしてそれを掴もうとする。しかし黒い欠片はふっと何処かに消えてしまった。
 愛しい体も魂も消えていき、鶴丸だけがただそこに取り残された。

 

 鶴丸の目の前で起きたことを、鶴丸達を肉に降ろした人間は、執着が原因だろうと言った。
 人だろうが物質だろうが神様だろうが命は循環していくのだと、鶴丸が今さら何をと笑いたくなることをこんこんと言い聞かせた。光忠も命の循環に入り、光忠の魂もまた世界に循環していくのだろう、しかし、と顔を歪めた。
 しかし、光忠の魂は完全ではない。一欠片零れてしまった。そしてその一欠片は、黒いものが覆ってしまった。その黒いものこそが執着なのだと、人間は言った。
 光忠の、鶴丸への執着だと。
 光忠の魂は完全なものとしては生まれない。小さすぎる欠片は肉体を伴うことは出来ない。ならば黒く染まった欠片はきっと、不完全な魂をもつ体を奪いに来る、それが人間の結論だった。
 呆然とした。自分の愛が、愛するものを執着へと堕としてしまったことに。自分への執着が、愛するものの生まれ変わりを不幸にしてしまうだろうことに。
 その時鶴丸は決めたのだ。光忠の生まれ変わりを守ること、そしていつかその体を奪いに来る、愛する者の執着を必ずこの手で断つことを。

 だから鶴丸はここにいる。終わらせたい自分の魂を眠らせることもなく、幼子を腕に抱いて、愛する者とこうして対峙している。
 そうだ。ずっと待っていた、必ず来ると思ってた。生まれ変わりの体を乗っ取り来ると。魂のひと欠片が執着によって暴走した亡霊。

 鶴丸の愛しい亡霊。

「光忠、」
 

 優しく話しかける。
 

「君はもう、生まれ変わっている、執着は切り捨ててこの子の中で新たな縁を結べ」
 

 つるさん?と幼子が鼓膜を震わせた。鶴丸は右手の刀を消す。幼子を抱いていて広げられない左手の分も、目一杯右手を広げた。
 

「切り捨てた執着は俺が抱いてやる。俺は命の循環を望まない。俺が万が一にもその執着を手離さないように、君の執着を抱いたまま魂の消滅を願う。ずっと一緒さ。それなら君も満足だろう?」
 

 靄は動かない。そこに揺蕩っている。
 

「一緒に眠ろう光忠。俺がいるから、ずっと側にいるから」
 

 心の底から笑いながら、靄へと語りかけた。鶴丸の首に回っている幼子の腕にぎゅうと力が入る、苦しいが構いはしなかった。
 靄が動く。しかし鶴丸の胸の中ではなく、明らかに左腕の幼子の方へ。距離を取る為また後ろへと飛んだ。
 いくら光忠でもこの幼子をやるわけにはいかない。

 

「光忠、やめろ!体を手に入れてどうする!?また俺と共にいるとそう言いたいのか?」
 

 離れない、絶対に。そう言った声を思い出す。そう言ったのは欠片が割れた時だけじゃない。鶴丸の腕の中で繰り返した約束だ。光忠の執着はあの時から始まっていたのだろうか。
 

「しかし、体を手にいれてもまた別れが来るんだぞ!命の循環を待って、また俺が君を待って、巡り逢っても、別れが来る。結局は同じこと!!」
 

 幼子を庇うように左側を引く。やはり靄は幼子の方へと回り込もうとしている。
 

「執着を捨てろ!!光忠!」
 

 鶴丸の腕の中にその執着を捨ててくれれば全てが上手くいくと言うのに。何故分かってくれないのだと、甘さを捨てて悲痛に叫ぶ鶴丸へ、可愛らしい子供の声が掛けられた。
 

「つるさん、しゅうちゃくってなぁに?」
 

 いつの間にかもう怖くともなんともなさそうな子供が鶴丸の首から腕をほどき、鶴丸の肩へとその小さい両手を重ねていた。
 こんな時に質問かと思いながらも無下にすることは出来ない。甘やかしている自覚は十二分にある。

 

「相手に固執、離したくないって思ってしまうことだ」
「こしつ?」
「悪いことだ!」

 

 執着は魂の欠片を覆っている。今は幼子の魂であるその欠片ごと執着を切ることも出来ず、もはや追いかけっこのように光忠から逃げる。首を傾げている子供は自分が一番危ないと言うのに呑気なものだ。
 

「このお兄ちゃん、そんなわるいこと思ってるんじゃないよ。ただつるさんがしんぱいなだけだよ!ねぇ!」
 

 幼子が突然声を大きくした。口元近くにある鶴丸の耳へ叫ぶためじゃない、鶴丸が逃げているその靄へ。
 

「おい、光坊、何を」
「だってつるさんってさ、ほっとけない人でしょ?」

 

 幼子はそう言って両手の指を広げた。
 

「まずねー、一人ではおきられません。ぼくがおこしにいってもぐぅぐぅねてるでしょー」
 

 右手の親指をひとつ折り曲げた。
 

「子供あいてにげんどを知らないとこもだめ。こないだもおまわりさんよばれるすんぜんだったし。あと、お母さんのせんがんフォームとはみがきこをよくまちがえちゃうのもこまったところ」
 

 人差し指、中指が折られていく。
 

「1年生の時のうんどう会。ふうふににんさんきゃくで出るやつ、なぜかお父さんとつるさんでくんで来たの。おかげでつるさん、ぼくのお母さんだと思われてたんだよ。ちょっとやめてよねって思った。それとねぼくのはじめてのえんそくの時、つるさんついてきちゃったこともあるんだ、まったくはずかしいったら」
 

 右手の指が全部折られた。鶴丸は逃げていた足を止めた。視線の先の靄が、光忠が止まっている。
 

「いっしょにおふろ入るとぼくに100数えなさいっていう。つるさんもいっしょにかぞえるの。でもね、100おわったらつるさんぜんしんまっかっか!のぼせたら上がればいいのに、なんかまけたきがするからやだって言う。このあいだお母さんにおこられたことをぼくは知ってます」
 

 左手の親指が折られた所で気づく。靄が、少しずつ晴れてきていることに。
 

「あのねぇ、こないだみんなでピクニック行ったの、そしたら、ふふっ、つるさんね、ぼくよりはしゃいでたんだよ。こどもでしょ?ひろい原っぱはしりまわって、こっちだぞ光坊、おいで!ってぼくをたくさんたくさんよぶの」
「・・・・・・」

 

 靄に足が現れた。そして燕尾、大きな手を隠す手袋。
 

「白いふく好きなの。でもアイスこぼしたりしてる。とんとんしみぬきしてるせなか、あいしゅうただよってるってお父さんわらってたぼくもわらっちゃった。あとね―、」
 

 指が折られるその度に靄がなくなっていく。いつしか鶴丸の記憶と寸分違わぬ光忠が、そこに、いた。
 幼子は気にせず続けていく。その内容に今更気づいた。将来の夢という題名で書かれた作文の内容と同じだと。あの作文には鶴丸の困ったところや直して欲しいところがずらりと並べてあり、そして最後に『そんなつるさんも大すきだからぼくはつるさんのおよめさんになります』と締めくくられていた。その内容を子供は光忠に発表している。

 

「きもだめしね、したの。つるさんおおはりきり。きんじょの子どもをおどろきのうずに!っていきまいてた。だけどね、きもだめしの時、かくれてるつるさんにね、ぼく、わっ!!てした。白いぬのかぶって。そしたらつるさん、わー!!!ってびっくりしてとび上がってじぶんが作ったこんにゃくが顔について、また一人でわー!!!って。あの時一番おどろいてたのつるさんだったんだから」
「・・・・・・自分の罠に、自分で嵌まる人なんだよ、この人は」
「!み、みつた、」
「ね!どじっこさんだよねぇ!」

 

 知らない男が急に現れ話しかけてきたと言うのに子供は瞳を輝かせる。やっと賛同してくれる人物が現れたことの方がよっぽど嬉しいらしい。動揺している鶴丸にも気づく様子はない。こそっと鶴丸に聞こえないようにか、声を落とす。この距離で聞こえないも何もあったものじゃないのに。
 

「あとさ、お昼ねするとね、つるさん、いつもみつただって言って、ないてるの。ぽろぽろって。だからねぼく、ぎゅぅってして、ぽんぽんってしてあげる。そしたらすぅってねむるの。赤ちゃんみたい!」
「甘えん坊なんだよ」
「大人なのにねぇ!」

 

 それだけは作文に書いていなかった。幼子の言葉に、だから目覚める時いつも叩かれていたのかと驚く暇もない。今や完全に姿を現している光忠が、金色の目を、両手の指全て折りきった子供に向けている。どこか固い声、でも穏やかな懐かしい声を伴って。
 

「そう、この人ほっとけない人なんだ。困った人。甘えん坊で、人一倍さみしがりや。僕がいなくなったら笑えない、きっと泣いちゃう」
「光忠・・・・・・」

 

 光忠がぐっと拳を握るのがわかる。触れたい、抱き締めたい。しかし近寄れない。幼子をまだ狙っているのかもしれない。第一、鶴丸が触れようとしたって、光忠には体がないのだ。
 

「離れたら、眠れないって言っていた。冷たい土に一人で眠るのが怖いって言っていた。だから約束したんだ、離れない、絶対って。いつか最期の時も貴方を抱き締めて眠ってあげるって約束、したのに」
 

 透明な体が耐えるように自分の体を抱いた。けれど自分の手さえ自身の体をすり抜けていく。
 幼子はそれを見てぴんと気づく。

 

「お兄ちゃん、つるさん大すきなんだ!ぼくもねぇ、つるさん大すきなんだよ!だからわかる。お兄ちゃん、つるさんのことだきしめたいんだ!」
「!」「!」

 

 ハッと光忠が顔をあげた。鶴丸が光忠を見つめたように。視線がようやく合った。くしゃりと歪められた顔は、執着に黒く覆われていない。愛しさと涙が溢れそうな顔。ああ、鶴丸を写す金色の瞳が、懐かしくて愛しくて、泣き出したくなる。
 

「お兄ちゃん体がないんだ、だからこまってるんでしょ?ぼくの体、かしてあげる!つるさんのことだきしめてあげて!」
「光坊っ」

 

 子供が鶴丸の体を剥がし、腕からぴょんと飛び降りた。鶴丸が捕まえようとした手もすり抜けて光忠の前へ両手を広げて立つ。一歩もない距離。鶴丸が入るより、光忠が子供に触れる方が早い。
 

「光忠!」
 

 光忠は体を欲している。鶴丸に執着しているから。子供の体を乗っ取り、鶴丸と同じ時を過ごそうとするはずだ。幼子の欠けた無垢な魂が黒い執着に包まれる想像をして、腹の中がひやりとした。
 しかしやめてくれ!と叫ぶ、その前に。光忠がふ、と微笑んで首を静かに振った。幼子が膝の上で起きた鶴丸に向けた微笑みによく似ている。

 

「ううん、いいんだよ。僕、とっくにこの人のこと抱き締めていたみたいだ」
 

 その言葉に全ての思いを乗せるように、光忠は幼子に一つだけの金を優しく細める。
 

「あんな声で僕の名前を呼ぶんだもの。放っておけるわけないじゃないか。おちおち眠ってなんかいられないよ。だから後一度だけでもいいから、ぎゅうと抱きしめてね、眠らせてあげようと思ったんだ、この人を。でもその必要はなかった。だって君が、この人を何度も抱き締めてくれてたんだから」
 

 ありがとう。と子供に視線を合わせる様にしゃがみこむ。頭を撫でようとして、何かに気付いたように手を引いた。子供は何故礼を言われているのか分からないように首を傾げる。光忠はそれも好ましいように肩を揺らした。
 

「この人は、もう大丈夫。ね。僕もやっと眠れる。君の中で」
「ぼく?」
「そうさ」

 

 光忠の言葉に嫌な予感がした。鶴丸にとっては幼子の体を奪われるのと、同じくらい最悪な。
 

「光忠、待て!」
「国永さん、」

 

 駆け寄ろうと叫べば、光忠が鶴丸を見つめる。どうして、そんな全てが、心残りも何一つないような顔をするのだろう。何一つ、変わっていない、終わっていない。
 

「ごめんね、約束を破ってしまって、長い間独りにしてしまって。こんな未来まで貴方を縛り付けてしまった。でも、それも終わり」
「何が、」
「まったく、何年経っても貴方って困った人なんだね。ダメだよ、僕がいないからってだらけたり、格好悪くなったら。彼が両手の指使っても貴方の困った所をあげきらないなんてよっぽどだ。そういう所、ちゃんと直してね」
「なぜ、何故そんなことを言う。俺はこれから眠るんだ、君の執着と、何故これからのことなんて」

 

 駆け寄りたい、のに。駆け寄ってしまえば鶴丸の最悪な予想が起こってしまいそうで怖い。一歩、二歩、幼子がはじめて一人歩きした時と同じような早さでしか進めない。
 

「分ってる癖にわからない振りしないの。困った人。そういう、所だよ。そういう所、をね、」
 

 苦笑いのままやれやれと首を振って、呆れた振りをしてみせて。けれど、ゆらゆらと近寄る鶴丸を見た。鶴丸の腕の中で穏やかな顔立ちで眠ったはずのその顔を、溢れる愛しさの涙に歪ませる。存在しないのに確かにある思いで両手を広げながら。
 

「そういう所も全部、ひとつ残らず、」
「光忠、待ってくれ」

 

  今さら遅いのに、地を蹴った。愛しい黒をこの胸に抱こうと鶴丸も腕を広げる。鶴丸はあの体を知っている、腕を回したときにわかる厚み、抱き締めた温度、早まる鼓動、もうほとんど忘れていても、知っている。だから、二人が重なる瞬間その感覚が訪れる奇跡を願いながら、光忠へと駆けよった。

「光忠!!」
「愛してる」

 

 重なった瞬間鶴丸に訪れたのは奇跡の感覚ではなく、柔らかい暖かい囁き。それだけ。
 鶴丸の腕にはなにも抱かれていない。何にもぶつからず勢いがついたままの体を踵で踏ん張らせ、その勢いで振り返った。
 そこには黒い一つ目で鶴丸を見つめている幼子が一人、いるだけだ。それ以外の影も、思いの形も、今囁かれた愛さえ何も残されていなかった。
 必死に伸ばした手に触れたはずの涙は透明で、一粒分の染みすら鶴丸には残されていない。
 何も、ない。

 

「お兄ちゃん、きえちゃった」
 

 幼子が不思議そうに光忠がいた空間を見上げた。
 

「なぜ、だ」
 

 全身の力が抜ける。立っていることも辛くて、重力に従って両膝をついた。
 

「つるさんっ」
 

 てててと、子供が駆け寄る。膝をついた鶴丸を、両手を地に突きそうになる上半身を支えた。鶴丸はその小さな体にすがり付く形になる。実際すがり付いた、鶴丸の救いになるはずだったその子供に。
 

「嫌だ、違う、待ってくれ」
 

 頭に触れようとする幼い手を振り払うようにぶんぶんとかぶりを振る。
 

「違うんだ、光忠。なぁ、違うんだよ、執着していたのは俺の方なんだ。君の言う通り俺は怖い。独りで終わるのが、眠りにつくのが怖い。君のいない世界で、眠るなんて、君が側にいない所でなんて眠れないんだ。君の決して離れない、俺への執着を胸に抱かなければ俺は、」
 

 痛い、痛い。胸が痛い。
 光忠に残された傷がまた痛んで、頭では拒否している事実を鶴丸へと知らしめる。

 

「ずっとずっと、君の執着と一緒に眠るのを、ただそれだけを俺は救いとしていた。だから長い時を、独りの夜も耐えられた。なのに、なのにまた消えるのか!!君はまた俺を置いていく!!!」
 

 今度は執着すら置いていってくれなかった。たった一言だけ、囁いて。離さないと最後まで言って欲しかったのに、愛してるだなんて何故そんな言葉を残していくのか。あんな優しい響き、すぐに忘れてしまう。光忠と過ごした優しい日々をもうほとんど思い出せないように。それでは眠れないのだ、寂しくて、怖くて。
 

「君が繰り返すなら、俺も、もう一度、」
 

 胸の中の穴から浮かんだ言葉をそのまま呟く。
 光忠が消えた時、時を遡ろうなんて考えなかった。別れを繰り返していつか光忠に飽きて、狂って、大切なものを大切だと分からなくなるなんて嫌だったから。そうしなくても、光忠の執着が残っていた。光忠の執着と鶴丸の執着が絡めば例え独りで眠っても寂しくないと考えたのだ。自分が狂わず、寂しさも埋められる唯一の救いだと、そう考えていた。
 けれどもう何もない。救いがない。鶴丸は何を抱いて眠ればいい?眠るために今度は何を待てばいい?もう、何もないのだ。
 ならば、寂しい、怖い。その感情に塗りつぶされたまま眠りにつけばいいのか。それが耐えられるなら光忠が消えたあの日に、とっくにそうしている。
 救いであった眠りが潰えた。この先救いがあるわけでもない。今日この日まで耐えていたことも全て苦しみとしてしか残らないのだ。ならこれから先だってきっと苦しみしかないだろう。
 もう、いいのだ。もう眠ろうなんて考えなければいい。寂しいや怖いということすら、何もわからなくなれれば今度こそ鶴丸は救われる。愛しい響きを忘れて、この血を吐きそうな痛みに飽いて、光忠がくれる全てを自分の足で踏みにじるようになれれば、もうこんなに苦しまなくてすむのだ。

 

「何度も、繰り返せば、」
 

 狂ってしまえと、その為に時を遡るのだと、自分の中から声が聞こえた気がした。
 

「つるさん。ぼくをおよめさんにして」
 

 ぶつぶつと呟き始める自分の声の中。凛とした、鈴のような可愛らしい声が鶴丸を呼んで、何かを言った。
 

「ぼくをおよめさんにして」
 

 もう一度繰り返す。声は真剣だ。笑いも媚びもなく、ただ強い意志を示した。鶴丸は、自分より高い位置にある黒い目を視線だけで見上げた。いつものように優しくなんて見られない。恐らく、幼子は一度も見たことのない鶴丸の視線に晒されているだろう。それでも、一切怯む様子を見せなかった。むしろ鶴丸が見つめたことによってふわりと表情を変えた。
 

「ぼくのことね、食べていいんだよ」
 

 優しく頭に触れてきた。突然の言葉に頭が追いつかない。食べてとはどういう意味だ。
 

「神さまのおよめさんになるのってどうすればいいんだろうってぼく、うーんってなやんでたの。いっぱいかんがえてもわからなくて、いろんな人にきいたの。神さまのおよめさんになるってどうすればいいんですか!って」
「・・・・・・」
「そしたらおよめさんになるって、神さまに食べられるってことなんだってさ。いけにえ、とも言うんだって。ぼくね、これだー!!って思ったの」

 

 いけにえ、と勝手に繰り返す口に、にっこり笑う。
 

「つるさんがぼくを食べてくれたら、ぼく、つるさんとずっといっしょ。そしたらつるさん、さびしくならない?わらってねむれる?」
 

 凝視した。慈愛しかないその表情を。なんてことを言っているかなんて、わかっているのだろうか。
 

「ぼくまだ小さいから、あまりつるさんになれないかもしれない。でもつるさんは今、さびしいんだよね。それがねなくなるなら、さびしくなくなるなら、ぼくのこと食べていいんだよ、つるさん」
 

 神に育てられた羊が自ら祭壇に横たわる。血と肉を神に捧げるその使命を胸に秘めながら。
 将来の夢、と堂々書いていた輝かしいはずの未来も差し出して。全ては鶴丸の為に。

 

「ね、つるさん」
 

 独りでは眠れない。光忠とその執着がない今、鶴丸はもうずっと独りだ。だから、この幼子は独りの鶴丸になるという。抱かなくても確かに鶴丸の中にある存在になって、鶴丸の寂しさを埋めようとしてくれている。鶴丸を、穏やかに眠らせようとしてくれる。それは、もしかしたら鶴丸に残された、本当に最後の救いかもしれない。この子は救いだ。救いには手を伸ばさなければ。
 けれど、

 

「出来るわけ、ない」
 

 この子は、確かに鶴丸の目印で、救いではあったが、もうとっくに、初めて出会ったその日から救いだけではなくなったのだ。

 


 光坊と名前を呼んで、握り返された指の小ささと柔らかさを覚えている。初めて「ちゅんゆ」と不思議な響きで名前を呼ばれた日の晴れた空も。
 喧嘩をして「みっくんおうちでてく!」と言った子に「光坊が出るなら俺が出てく!!」と飛び出して、ブロック塀の向こうからわんわん泣く声に混じって何度も呼ばれた自分の名前。
 補助輪つけたまま漕いだ自転車と河川敷き、走り去る部活動中の学生の掛け声。
 同じ色の合羽を着て、手を繋いだ。歌を歌いながら水たまりを渡り歩いて。
 初めての運動会で膝を擦りむけてビリになったかけっこは、それでも泣かずに走りきった子がどれほど誇らしかったか。
 同い年の咲かない桜の木での花見。
 縁側でスイカの種を飛ばした距離に引かれた二つの線。
 流れる金色稲穂の海で、はしゃいでおいかけっこ。
 鼻を真っ赤にした子供と4つの雪だるまを作って、一番かっこいいのをつるさんにしてあげるとこっそり耳打ちをしてもらった。

 初めてこの腕で。目印であり救いである赤子を抱いた時、その感じた命に。鶴丸は気づいた。この子は光忠の生まれ変わりというだけではなく、鶴丸の救いであるだけではなく、鶴丸が愛したいと思う、大事な大事な、鶴丸の愛し子なのだと。
 そしてこの8年間、大事に見守ってきた。初めてあった時よりもずっとずっと愛しくなった子。そんな愛し子を鶴丸の為に食べるなんて、出来るわけがない。鶴丸はこの子をただ、純粋な愛だけで思っている。自分の血肉にするために育てたことなど、一度もないのだから。

 

「そんなこと出来ない、光坊」
「だって、つるさんさびしいんだ」
「君を食べるくらいなら寂しいままでいい」

 

 それくらいならもう、寂しいまま眠りについた方がいい。寂しくて、怖いけど、この子を食べて満たされることになんの意味もない。
 

「さびしいままになんてぜったいさせないもんっ!!」
 

 鶴丸の頭をぎゅっと抱き抱えた。
 

「つるさんのさびしんぼ。こまったさん」
 

 あまえんぼ、赤ちゃん、なき虫!幼い声が鶴丸を様々な呼称で呼ぶ。言う度ぎゅぅと腕に力がこもっていった。
 

「つるさん、ぼくがいないとダメなのに、いじっぱり」
 

 もう隙間がないほど密着していて、鶴丸の頭は子供の胸にしっかり抱き抱えられていた。
 

「わがままつるさん。ぼくを食べないっていうなら、ならね、こうして、ぎゅぅってしてあげる」
 

 胸に抱いたそれに少しでも近づこうと、黒い柔らかな髪をふわと流しながら俯く。ぷにぷにの頬が頭へと擦り付けられる感触がした。
 

「ずっとね、ぎゅぅってしてあげるよ。つるさんがもういい!ってこうさんするくらい。もうねかしてくれ!ってわらっちゃうくらい」
「・・・・・・どうして光坊」

 

 この子はどうしてここまで言ってくれるのだろう。
 鶴丸にとってこの子は特別だ。光忠の魂を宿した子供。そしてそれだけではない愛しい子供。今の鶴丸に残っている愛そのものと言ってもいい。
 確かに光忠はこの子だ。しかしこの子は光忠ではない。流れていく時の中で光忠の魂を宿した別人。鶴丸にとって因果があっても、本当はこの子にとって鶴丸はなんの因果もない相手。生まれた時から家に居座っているせいで家族だと刷り込まれた異物だ。そんな人外の為にこの子が心を傾け続ける必要などない。
 抱き締められている腕の中で出来る限り首を振った。

 

「そこまでしなくていい。君が俺にそこまでする必要などない・・・・・・どうしてそこまで言ってくれるんだ」
 

 執着しているから?違う。幼子から与えられる言葉の中に執着は見えない。
 す、と息を吸った音が聞こえる。鶴丸に伝える為というより、自分の確信を言葉へと変える為に。そして初めて出会った日の

産声と同じような大きい声で言った。

 

「だってぼく、そのために生まれてきたんだもん!」
「!!」

 

 誇らしげに胸を張る。鶴丸の頭がさらに密着をした。息苦しくて、胸が詰まってきて、首を横に向けた。右耳に子供の少し早い鼓動。左耳からは得意気な、優しい天使の声。
 

「お母さんが、つるさんはこの目をめじるしに来たんだって言ってた。だからこの目をもってるぼくは、つるさんに会うために生まれてきたって思うんだ。さびしんぼのつるさんのために、つるさんとはちがう神さまが「だれかつるさんとなかよくしてくれる人ー」って皆に聞いたんだよ。ぼく、それにはーい!っておへんじしたんだ、たぶんお母さんのおなかの中で」
 

 つるさん、しんじてくれるかなぁ。楽しそうに、ふふっと笑った。
 

「だからぼく、生まれたときからつるさんがだいすき!でね、つるさんがずっとずっとやさしくしてくれたからもっとだいすきになった!だけどね、だからね、つるさんがずっとずっとさみしいんだって知ってたよ。ぼくね、それをすこしでもなくしてあげたかったの!」
 

 何も言わない鶴丸にも構わず、光忠は言葉を続けていく。強い意志を示す。
 

「ぼくねぇ、あきらめないんだ。つるさんをさみしいままになんてさせないの」
 

 ぎゅむぎゅむと子供だと侮れないくらい強い力で抱きしめ続ける、鶴丸の寂しさを押しつぶそうとしているのだろうか。
 そう、鶴丸は寂しいのだ。光忠でも埋めきれなかった寂しさ。そして光忠を狂おしいほど愛していたからこそ、ここまで広がってしまった心の穴。それをいくら愛し子とはいえこの子一人で埋められるとは思えない。
 思えない、のに。

 

「・・・っ、・・・」
 

 どうして、涙が溢れてくるのだろう。
 

「あのね、つるさん。いつもやさしくしてくれてありがとう。毎日いっぱい、いっぱいのあいじょうをありがとう。ぼくのハートはつるさんのハートでいっぱい!こんどはぼくのハートでつるさんをいっぱいにしてあげる」
「ぅ、・・・ぐぅっ・・・」

 

 喰い縛る歯から唸るような涙声が盛れる。気づかないはずもないのに子供は明るい声を絶やさない。
 

「またカレーつくろうねぇ。ぼくすぐにじょうたつするよ!らいねんは3年生、もっとお兄ちゃんになるんだもんっ。じてんしゃもね、ほじょりんなしでこげるようになるよ。つるさん、また見ててくれる?べんきょうだってちゃあんとする。いつかぼくがつるさんにご本よんであげる。あ、ブランコのくつとばし、ぼくつぎまけないからねー?」
 

 あれもこれもと。どれも普通のことをあげていく。二人にとって当たり前にある日常で、きっと当たり前にくる日常の話。未来へ流れる時間、循環のほんの一部。だけどこんなにも愛しく思う。愛し子と過ごす時間は、どんな些細なことも特別で、ああ、そうだ。流れる時の中では一瞬にも満たない毎日が。その全てが特別で、愛おしいから、鶴丸は時を遡りたくない。遡りたくないのだ。
 遡った時間、繰り返した先で光忠の執着を抱いて眠れるとしても。

 

「毎日こんなとくべつなことしたら、つるさんのハートすぐにいっぱいだ!しあわせな思い出でいっぱい、なら!つるさんわらってねむれるね」
 

 手で顔を覆う。けれど涙は次から溢れてきて、手の隙間から手首へと雫が伝う。
 愛し愛されてもなお寂しい、怖いと、怯える鶴丸に大丈夫だよと言ってくれた人がいた。離れない、絶対。と抱きしめて、貴方を独りにしないと唇を寄せてくれたただ一人がいた。けれど、鶴丸を置き去り、その存在は消えてしまった。執着という救いを残して。
 全てを持って愛していた。今も狂おしいほど愛している。狂ってしまいたいほど。共に眠れない寂しさ、悲しみ。絶望。幸福よりも深く刻まれてしまったものは苦しみばかり。
 砂漠で見上げる救いの星はあまりにも遠く。長い間荒み続けた心は、愛するものとの幸せな日々の記憶を干からびさせて、ただ心の渇きを広げただけだった。
 だけど、会えた。この子に。鶴丸の愛しい子。鶴丸の為に生まれてきたのだと鶴丸を無償の愛で包んでくれる子供。
 つるさんといつも側で何度も何度も呼んでくれる愛しいこの子供。

 

「みつ、ただっ・・・・・・!」
「わ、つるさん、はじめてぼくの名まえ、ちゃんと呼んでくれた」

 

 かの愛する人ではなく、心の何処かで避けていた鶴丸を抱き締めている子供の名前を声に出して呼べば、子供は心底喜びながらも、うれしい、うれしいなぁと少しだけ堪えるように言葉をつまらせる。それはこの子が泣くのを耐えながらしゃべる時にみせるものだ。
 名前を呼んだだけで幸せそうに涙を噛み締める。たったそれだけで、報われたとでもいうように。

 

「つるさん、さいごにわらっておやすみって言ってね。いつもみたいに。ぼくもわらっておやすみっていうの。そしたらねむるつるさんにおやすみのちゅーしてあげる」
 

 ぽとり。微かな感触が鶴丸の髪へと落ちる。
 

「それがね、ぼくの、ぼくだけのやくわりなの」
 

 だいすき、つるさん。だいすきだよ。
 

 とうとう涙声で繰り返し。でも腕を離すことはなかった。
 両腕で鶴丸の頭を抱き締める姿は卵を暖める親鳥の様。
 ただただ両手いっぱいの無償の愛を抱いている。

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