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 吐き出したい気持ちをまた、ごくりと飲み込んだ。もうなんだか自分の飲み込んだ気持ちだけで心がぱんぱんになっているが、そうする外ない。
 息苦しくて、はあぁ、と吐いた溜め息は自分以外の誰に聞かれることもなく消えた。だけどその溜め息を聞いて誰もよりも気が滅入るのも自分自身なのでそれはなんの慰めにもならなかった。
 皆の中の『いつでも爽やかお兄さん』というイメージを守れただけ、まだましなのかもしれないという程度。


「何が爽やかお兄さん、だ」
 

 自分自身の考えに突っ込んだ。
 

「爽やかなお兄さんはあんなことしない」
 

 ととと、と千切りキャベツの山を作っていく右手は淀みなく進む。考え事をする時、ちょっと悩んでる時、元気がない時、そんな時はいつだって野菜達と共にあった。無心になってこんな風に野菜と向き合えば、気持ちが落ち着いて、いつもいい案が浮かんだりしていたのだ。だけど、今は。
 

「はあぁ」
 

 無になるどころか、同じ考えがぐるぐると頭を回り、気持ちが落ち着くを通り越して地に墜ちる。地深くのマグマまで達していると言ってもいい。
 

「いっそ溶けてしまえばいいんだ、僕なんか」
 

 ここに他の誰かがいれば、今の発言に大層驚いただろう。いつも自信に溢れ、格好良く在りたいと向上心を忘れない燭台切が僕なんかと自分を卑下した上に、刀であることの誇りすら投げ出すようなことを言った、これは何事か!?と。
 昔馴染みの優しい龍が聞けば、きっと心配を通り越して怒りの咆哮すらあげるかもしれない。そんなこと許さない!あんた自身が望むとしても!なんて、あの優しい子なら言いそうなことだ。

 

「でもね、伽羅ちゃん。それ程のことをしてしまったんだよ」
 

 他の尊厳を踏みにじった者が誇りなど持てるはずがない。
 想像の倶利伽羅を、現実で説得しながらとん!と強めに包丁をまな板に叩きつけて手を止めた。
 頭が痛い。あの日から一週間、ほぼ眠れていない。寝ようとすると自分が犯した過ちが頭を飛び回ろうとする。それに懺悔をしていればいつの間にか朝になる。もう七回の夜をそう消費した。
 出陣遠征がないからいいものの、そうでなければ他の皆にも迷惑を掛ける。そう頭ではわかっているのに眠ることはできなかった。
 尊厳を踏みにじられた方がそれを覚えていなくても、罪悪感は忘れることを許さない

 

「・・・・・・そうだ、僕は許されない」

 

 一週間前の夜、燭台切は思いを寄せる相手、鶴丸と合意の上ではない行為に及んだ。わかりやすく言えば前後不覚状態の鶴丸に対して、鶴丸の了承も得ないまま性行為を仕掛けたのだ。

 

 燭台切は鶴丸のことが好きだった。いつから、というのは明確には覚えていない。本丸に顕現して初めて目があった瞬間のような気もするし、共に戦場を駆けたからからのような気もする。穏やかな日常を共に過ごしている時は既に好きで、もしかしたら自我を持つ前からずっと思いを寄せていた、とそんなことを考えることもあった。
 好きになったタイミングはともかくとして、燭台切は鶴丸が好きだった。だった、と言うのは語弊がある。酷いことをしてしまった今も好きだ。
 強くて美しく、おちゃめで優しい。儚さを醸し出す外見にニカッと明るい笑みを浮かべられるともうそれだけで、心がきゅんきゅんと鳴ってしまう。
 皆の前ではついついお兄さんぶって時々一人で気疲れしてしまう燭台切を、年上の余裕を持って労ってくれる数少ない人物の一人でもある。
 体も心も、本体も、その辿ってきた時間の流れすら、挙げれば切りがない鶴丸の魅力を燭台切はいつまでも挙げていたい。それほど鶴丸が好きだ。
 その好きは親愛だったのかもしれない。けれど自分の胸で輝きを持つ頃には、恋心として、いやそれだけの純粋な輝きではなかった。肉欲を伴う劣情、下心として燭台切の中に存在してしまった。
 鶴丸の肌に触れたい。鶴丸の手に触れられたい。唇を合わせて、そこに潜む生ぬるい熱を絡め合いたい。二人で溶け合いながら夜を越えたい、そう思うようになった。
 もちろん、この気持ちが鶴丸にとっては迷惑だということはわかっていた。鶴丸は刀であり、付喪神だ。人間に対して興味はあるが、他人行儀である。もはや人間に堕ちたと言ってもいい燭台切からの劣情を投げ掛けられたとしても、驚きこそすれ、歓迎はしないだろう。
 そうでなくても、自分より図体の大きい、同じ性を与えられた仲間から、そんな目で見られているとなれば、気味が悪くなるに決まっている。
 だから燭台切はなんとしても自分の気持ちを鶴丸に隠さなければならなかった。
 例え、細く繊細な指に少し触れられるだけでその箇所に熱が宿ろうが、物を咀嚼する口を凝視してしまおうが、そんな記憶を一日脳に溜め、記憶を頭の中の妄想に換えて自分の熱を治める虚しさを知ってしまおうが。他の誰にバレても嫌だが、特に鶴丸には、絶対にこの感情を知られることはできなかった。

 

 そんな苦しみを胸に秘め、それでも共にいられる日常の幸福を噛み締めて過ごしていたある日。そう一週間前のあの日。
 あの日燭台切は鶴丸に二人で酒を飲まないかと誘われたのだ。
 今まで宴会等で鶴丸と酒を飲み交わしたことはある。けれど何故二人で?と戸惑う燭台切に鶴丸は、ぜひと言った。いつも頑張っている燭台切を労りたい、そして話がしたい。必ず来てほしい。そう言われてしまえば、燭台切に断る理由などなかった。
 そして二人で酒を飲んだ。鶴丸は結構な早さで酒を進めていった。燭台切は酒に弱いのでちびちびと飲み進める。酔いはあったが、それでも意識ははっきりとしていた、気がする。
 いや、自分がそう思っていただけで本当は完全に酔っていたのかもしれない。そうでなければ、なかなかの勢いで酒を進めたせいか顔が真っ赤になり、まともにしゃべれないような鶴丸を襲ったりなど、そんなことしなかった。素面の自分であればしなかったと思いたい。
 どちらにせよあの時の自分は多少なりとも酔っていた。べろべろに酔って見える鶴丸は、次の日になれば酔っていた時のことなど全て忘れるだろう、そう馬鹿なことを思った。

 言葉を詰まらせ、顔の赤い鶴丸が自分に何か言ってるのを、上手く作れなかった笑顔でごまかして、とうとうその手を取った。
 そして、後は鶴丸の意識を混濁させたまま行為へと誘った。畳に横たわる何も言わない鶴丸に跨り、自ら腰を動かした。

 

「っ!!」
 

 だん!と包丁を左手ぎりぎりに叩いた。大声を上げて左手を手首から切ってしまいたかった。そんなことをすれば回りに迷惑を掛けるため出来ない。きん、と耳鳴りがする。衝動をまた大きな溜め息で逃がそうとした。
 あの夜を、鶴丸の上跨った後を思い出そうとすると、頭が痛くなる。思い出すことすら脳が拒否しているのだろう。
 ああ、この身を自分自身で引き裂きたくなる。刀で切る価値も、刀である価値もない。意識が混濁している酔った相手に手を出し、合意も得ないまま体を繋げた。他の尊厳を踏みにじった。畜生にも劣る、行為だ。なんという卑劣。
 何故自分はあんなことをしてしまったのだろう。思い出したくない記憶は、思い出せない。せめて形だけでも愛されたという事実が欲しかったのだろうか。

 

「なんて、愚かな」
 

 その願望の結末が今の苦しみだ。幸せな夜を夢見た結果、朝も昼も晩も罪悪に苛まれることになっている。
 ああ、くそっ。といつもであれば飲み込む言葉を吐いた。胸が痛い。ぐぅと唸り、包丁を置いて、シンクの端を両手でぎりぎりと掴んだ。
 ぐるぐると自分への罵倒と鶴丸への懺悔が頭を回る。上手く立っていられない。

 

「みーつただっ!」
「ひっ!?」

 

 突如背中にガバッと何かが被さる。俯き、下がっていた視線に、自分の両手を別の両手が挟んでいるのが見えた。見覚えのある手袋、すぐわかる。例え手袋がなくてもいつも見つめている、そしてあの夜燭台切に触れた手だ。他と間違える訳がない。
 

「つ、鶴さん・・・・・・」
「よぉ光忠!数時間振りだな!」

 

 元気かー?と燭台切の黒い背中に白い頭をぐりぐりすり付けているのだろう鶴丸は、燭台切を挟んでシンクに両手をついていた。燭台切を両手でシンクに閉じ込めているみたいだ。その密着具合にときめくよりも、一層脳みそが揺れる感覚を覚える。
 燭台切の予想通り鶴丸はあの夜を覚えていなかった。こうしていつも通りに、むしろ何か違和感を覚える程いつも以上に燭台切に構ってくれる。あの夜を覚えていればこんなに親しくしてくれるはずがない。
親しくしてくれるのは嬉しい、嬉しいはずだけどあの夜から鶴丸の顔をまともに見られない燭台切には苦しみしかない。
 ぐっと胃から何かがせり上がりかけた。

 

「ぅっ、」
 

 咄嗟にシンクから両手を外し、口許を押さえる。
 

「どうした光忠!あ、俺知ってるぜ、このシチュエーション!つわりだろ、悪阻ってやつだろう!?」
 

 より一層密着してくる鶴丸の楽しげな言葉に肩がびくりと揺れた。別に鶴丸の言葉が当たっていたからではない。燭台切は刀だ、子は成せない。そして肉体は男だ、あの夜何度鶴丸に種を注ぎ込まれていたとしても命を宿すことは出来ない。
 けれどあの行為は本来命を宿す尊い行為、愛を交わす幸福な時間である。そう、鶴丸に責められた気がした。鶴丸はあの夜を覚えていない。だから、そんな訳はないのに。

 

「う、っぇ」
「ちょ、光忠、本当にどうした」
「だい、じょ、ぶ。きもち、わるいっ、ぇ、だけ、」
「!!おい、薬研!!薬研いるか!」

 

 皆の食事の準備をする厨で吐くわけには行かない。言葉も苦しみも全て吐き出すわけにはいかないのだ。ずるずるとその場にへたりこみながら必死に吐き気を抑える。その姿に鶴丸がパッと密着を解き、大声で薬研の名前を呼びながら厨を飛び出していった。
 鶴丸の体温が離れたことで少しホッとする。気持ち悪さは変わらなかったがせりあがる吐き気を飲み込むことには成功した。水を飲んだ方がいいだろうか、片手だけシンクの端にすがり付き身をぐったりとしながらそんなことを考える。

 

「なんだなんだ、鶴丸さん急に」
「光坊が、具合が悪そうなんだっ」

 

 バタバタと廊下を走る音が聞こえ、伏せていた目を開けた。
 

「光坊っ、大丈夫か!」
 

 厨に駆け込み、心配な表情で鶴丸が近寄る。
 

「つるさ、」
「こりゃ確かに顔色が悪いな。燭台切、大丈夫か?」
「やげん、くん」

 

 燭台切の真ん前にしゃがむ鶴丸を、ちょいと悪いと断りながらやんわりと押し退ける薬研。燭台切の顔を見るなり眉をひそめ、鶴丸よりも大分幼い指先で燭台切の前髪をすい、とあげた。そしてそこに手のひらを当てる。
 

「熱、はないみたいだな。しかし、俺の気のせいか?いつも身だしなみに気を付けるあんたにしちゃ目の下に、似合わないもんつけているように見えるぞ」
 

 薬研の指が今度は左目の、恐らく隈が出来ている部分をなぞる。
 

「あんた、最近眠れてないんじゃないか?」
「そんなこと、」
「光坊、そうなのか?」

 

 難しい顔で燭台切を問い質す薬研に笑顔で返そうとしたところに、眉を寄せて鶴丸が顔を近づける。お陰で作ろうとしていた笑顔は中途半端になってしまった。
 否定しようとしていた言葉に詰まりさっと目線を薬研に逃がした。

 

「・・・・・・寝不足だな。他にもありそうだが、まぁ、寝不足ってことにしとこう」
「そう、ただの寝不足だ。ちょっとくらっと来ただけ。ごめんね、心配かけて、これくらい大丈夫だよ」
「俺っち寝不足だから大丈夫だ、なんて一言も言ってないぜ?寝不足をバカにしちゃいけねぇ。ってなわけで燭台切、あんた強制収容だ」

 

 隈から手を離し、親指を立てた薬研はそのまま後ろを指差す。
 

「そんな、平気だよ」
「これが他の奴ならあんたは俺っちの意見に賛成したはずだぜ?自分なら平気ってのは慢心じゃねぇのか?医者の言うことは絶対だ、誰であってもな。素直に従え」

 

 そういいながら、燭台切の背中と膝裏にその男になりきっていない手を滑らせる。
 

「ちょ、薬研くん!?」
「なんだ?」
「なんだじゃなくてっ、もしかして僕のこと運ぶつもりじゃ」
「薬研、いくらなんでも君が光坊を運ぶのは無理だろう。光坊の重さを舐めない方がいい」

 

 さりげなく失礼なことを言う真剣な声を咎めることもなく、燭台切は同意に頷いた。
 

「それが無理じゃねぇんだな。俺っち、宗三・・・・・・はまぁ軽いから別としても蜻蛉切や太郎も運んだこともあるんだ。燭台切なんてなんともないぞ。俺っちの腕、別嬪さんは落とさないように出来てるんでね」
「君のその口説きスキルなんなんだい」

 

 本人に自覚はないとは分かっているのだが、言われた言葉が気恥ずかしくて体調不良も忘れ思わず突っ込んでしまった。燭台切も周りから所構わず野菜や仲間を口説くなと謂われない注意を受けたことがあるが薬研の方がよっぽど危険だと思う。
 燭台切の突っ込みを気にも留めない薬研が腕にグッと力をいれる。どうやら本気で運ぶつもりだ。歩けると言っても恐らく無駄なような気がする、この男前の少年には。
 小さな体に抱き上げられる事実を受け入れかけたその時、鶴丸の手が薬研の腕に触れた。

 

「薬研、光坊は俺が運ぶ」
「えっ」
「鶴丸さん、あんたの方こそ燭台切を運ぶのは無理だ。足腰をやる、戦場に出られなくなるぞ」
「無理じゃない」

 

 薬研がやんわり拒否をしても、鶴丸は頑として首を縦に振らない。やはり二人の中で運ばないという選択肢はないらしい。
 薬研がんー、と少し考えて、ならお願いするかと答えるものだから燭台切は咄嗟に薬研の白衣を掴んだ。

 

「や、薬研くん!」
「光坊?」

 

 訝しがる鶴丸を見ないまま薬研に、どうせ運ばれるなら君がいいと恥を捨てて頼み込もうとしたその時、
 

「やっほー!みっちゃーん!早速だけどおつまみちょーだい!」
 

 厨の入り口に大きな影。今日も明るくて美しい次郎がそこに立っていた。
 

「えっへへー馬当番頑張ったから兄貴が昼からでも飲んで良いって言ってくれたんだー飲むぞー!って、あれ、薬研と鶴丸さんじゃないさ!三人で踞ってどうしちゃったんだい」
 

 厨に三人で小さく丸まっている姿に、大きな次郎が上半身を少し横に倒しながら聞く。
 

「燭台切の調子が悪くってな。部屋に運ぼうとしてたところさ」
「ありゃりゃ。そりゃ大変だ、つまみどころじゃないねぇ」

 

 そう言って次郎は三人に近づき、そのまま燭台切をひょいと姫抱きで抱き上げた。戦場の機動からは考えられない余りの素早さに制止の声も遅れる。
 

「わ、次郎さん」
「こういう時こそ次郎さんにまっかせなさーい!っておんやぁ?みっちゃん、軽いねぇ、ちゃんと食べてんのかい?あっはっはっ!」

 

 どうやら次郎は薬研と鶴丸が燭台切を運ぼうとするが、運べなくて困っていると思ったらしい。頼もしい笑顔を浮かべウインクをくれる。
 

「やげーん、みっちゃんは自室に運べばいいのー?」
「ああ、後で睡眠薬持っていく。姐さん、布団まで頼めるか」
「りょうかーい」

 

 頭上で次郎の明るい声がする。突然抱き上げられて驚きはしたものの、鶴丸に運ばれずに済んで本当によかった。そんなことになればたぶん本当に吐いていた。鶴丸の腕の中で。
 ホッと息を吐つく。そして汗を掻いたはずの体から発せられる、いい香りを吸い込み、知らず入っていた肩の力が抜けた。頼もしい腕の中に大人しく身を委ねる。

 

「光坊」
 

 今まで黙っていた鶴丸が呼び掛けてくる。次郎の体はもう厨から出ていた。燭台切の場所からは鶴丸の姿は見えない。けれど体が僅かに強張った。次郎がおやぁ?という顔をするので慌てて口を開く。
 

「鶴さん、鶴さんにも心配かけちゃったね、ごめん」
「光坊、」
「僕のことは気にしなくていいから。お騒がせしたね」

 

 そして次郎の服をくいっと引っ張る。次郎は燭台切の意図を汲んで、はいはーいと足を動かしてくれた。廊下を歩き始める。
 鶴丸はそれ以上なにも言わず、追いかけてもこなかった。そのことに安心して今度こそふぅーと長い息を吐ききった。

 

「みっちゃん、ほんとにだいじょぶかい?」
 

 廊下を歩きながら次郎が心配げな声で問いかけてくる。
 

「大丈夫、ちょっと寝不足でくらっときちゃっただけだから。ごめんね、次郎さん。突然こんなことしてもらって」
「いいのいーの!」

 

 次郎はからからと笑った。次郎はいつだって明るくて優しい。一緒にいると自分の罪悪も忘れて、ホッとしてしまう。
 

「でも寝不足かぁ。アタシはなったことがないからわかんないんだけど、夜寝られてないってこと?みっちゃん、仕事してるの?はせべーみたいに?」
「仕事してる訳じゃないよ。ちゃんと布団に横たわってるんだけどね、・・・・・・眠れなくて」

 

 鶴丸に行ったことの懺悔で、とは相手が次郎であっても言えなかった。
 

「そっかぁ。人の器って繊細だもんね。体と頭と心があるんだもん、全部をうまく動かすのは難しいよ」
「そう、だね」

 

 そうだ。今は体と頭と心がある。刀の時はなかったものだ。刀である時はただそこに在りさえすればよかった。刀として存在していれば人間が勝手に決めてくれたのだ。
 その刀の価値も、意味も、善も悪も。所有者が全て決めてくれた。
 けれど今は違う。使命があり、所有者もいるが日々の行動の選択は全て自分で決める。そして、行動にはいつだって責任が伴うものだ。自分はあの夜に懺悔はしているが、それは責任を果たしていることになるのだろうか。

 

「アタシは酒が飲めるようになっただけでも人の器をもらえてよかったって思ってるけどね!」
 

 お酒おいしーもーん!皆で飲むのは楽しいーと次郎は幸せそうに笑う。燭台切も一週間前までは同じように笑えていただろうか。一週間前の夜もそうだがそれ以上前の自分があまりよく思い出せない。
 

「皆で飲むと言えばさぁ、みっちゃん、一週間前鶴丸さんと二人で飲んだんだよね?どうだった?」
「っ、な、」

 

 ただ片想いをしていただけの自分を思い出そうとしてボケッとしていたところに次郎が爆弾を落とす。思わず身を強張らせてしまった。
 何故次郎は急にそんなことを言い出すのだろう。燭台切はあの夜のことをもちろん誰にも言っていない。

 

「あの日の前にさあ、鶴丸さんに酒に弱い子でも美味しく飲めるお酒ないかって聞かれたからさ?誰と飲むのー?って聞いたらみっちゃんと飲むんだって」
 

 その時を思い出しているのか、いつも豪快に笑う次郎には珍しく、くすくすと何故か擽ったそうに笑っている。
 

「ぜひみっちゃんに、あの日の酒の感想を聞かなきゃなーって思ってたんだ。次郎さんのチョイスどうだった?楽しく飲めた?」
 

 そこにはなんの含みもなく笑う次郎の顔がある。だけどそれを直視できない原因があるは燭台切の方だ。
 気づかれないように奥歯を噛み締めた。言葉を吐き出してしまわないよう、苦しみも後悔も自分の中へ飲み下した。代わりに無難な言葉を唇に乗せる。

 

「・・・・・・おいしかったよ、あの蜂蜜酒」
 

 蜂蜜酒の味はよく覚えている。
 薄暗い部屋、蜂蜜酒よりも濃い金を、グラス越しに見つめていた。その金がグラスの中に溶けている錯覚を受けながら口をつけた蜂蜜酒は、甘くて、実際の酒の味よりとても甘くて。
 少ししか飲んでいない燭台切でも夢心地になってしまうくらい美味しかった。幸せな夢を抱いてしまったくらいに。

 

「よかったー!甘めでなるべく飲みやすいのを選んだんだけど、アタシ基本的に日本酒しか飲まないからさぁ。みっちゃんの好みに合わなくて、せっかくの席を台無しにしたらどうしようって思ってたんだー」
「ごめんね、次郎さん」
「何で謝るのさ!別に対した苦労も気苦労もしてないよ!安心しただけー」

 

 またも楽しそうに笑ってくれる次郎に、心の中でごめんねともう一度謝罪する。次郎のお陰で楽しくなるはずだった席を、こうも思い出したくない日にしてしまった、その謝罪。次郎の優しい気遣いすら、自分の欲望でぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまったみたいだ。
 

「そういえば、後から主に聞いたんだけど、蜂蜜酒ってさぁ昔の外国、っと、着いたね」
 

 次郎が別の話題に移ろうとしたが、ちょうど燭台切の自室についたので酒の話題は終わった。
 

「ありがとう、次郎さん。ここまで来れば大丈夫」
「だーめ。薬研に布団までって言われてるの。ちゃんと着替えて布団に入るのを見届けなくちゃ」
「そんな、長谷部くんじゃないんだから」

 

 以前風邪を引いて寝込んだ長谷部が、布団を抜け出して仕事をしていたのは有名な話。その後しばらく、長谷部が寝付くまで誰かしら見張りがつくという事態になったのだ。燭台切自身もその見張りをしたことがあるので思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 

「いーいからー。はい、お邪魔しまーす」
 

 燭台切を抱いたままの次郎が器用に障子を開けて燭台切の部屋に足を踏み入れる。相変わらず綺麗な部屋だねぇと笑う。
 

「次郎さんの部屋は酒瓶ばかりだもんね。飲んだら片付けないとダメだよ?」
「はーい、ごめんなさーい。兄貴にも言われたんだよねー」

 

 そう言いながらそこでようやく燭台切を降ろした。
 

「はい、じゃあ着替えてー。その間に布団敷いとくからさ」
「そこまでしなくても、」
「次郎さんに剥かれたくなけりゃ、さっさと着替えた方がいいよー。あ、着替え見られるの困る?大丈夫!布団敷いてる間、そっち見ないようにするからー!」

 

 そう言いつつ押し入れを開けて床の準備に取りかかってしまった。このままぼーっとしていれば後で確実に次郎に着替えさせられることになるだろう。ありがとう、と一言伝えて、自身の着替えに取りかかった。
 箪笥の中から濃すぎない黒の着流しを取り出す。もう処分してしまったあの夜に来ていた物と似た色だ。黒を好む傾向があるからどうしてもそうなってしまう。かと言って黒とは正反対の白を買おうとしたって、鶴丸のことを思い出してしまうのだから、結局同じことだ。燭台切の頭が鶴丸で埋まっていることに変わりない。
 黒のジャージを脱いでいく。汗は掻いていなかったが風呂には入りたかった。明日の朝一で風呂に入ることにしよう。着流しを身に付けて帯を回す。

 

「みっちゃーん終わったー?」
「終わったよ。って次郎さん本当に後ろ向いてたのかい?律儀だなぁ」

 

 苦笑いする燭台切に、だって、ねぇ?と次郎は肩を竦める。その意味はよくわからないが、いつまでも次郎を拘束しているのも悪い。早速、布団の中に入る。上半身だけ起こし次郎を見上げれば、次郎が膝をついて、燭台切に近づいた。
 

「薬研がすぐ来るからね。薬飲んで、ぐっすりおやすみ」
「うん・・・・・・」
「人間の器は大変だよね。少し気に病むことがあれば眠れなくなるし、寝ないと体がダメになる。不便なことも多い。こうやってただ触れても、自分の心の内は伝えられないんだから」

 

 次郎が大きな手で燭台切の頭を撫でる。その目には優しさが溢れていた。
 

「みっちゃんの気持ちはみっちゃんにしかわからないんだよ。他の人の心をみっちゃんが読めないのと一緒。辛いことがあったらちゃんと口に出さないとダメだからね?口に出さなければ、わからないんだから」
「次郎さん・・・・・・」
「素面で言えないなら酒の力を借りるってのもありさ!そんな時はいつでも次郎さんのとこにおいで!」

 

 みっちゃんが正体なくすくらいのおいしーお酒準備して待ってるよ!と、燭台切の背中をばん、と叩く。咳き込みながらも思わず笑ってしまった。
 

「ありがとう、次郎さん。お礼と言っちゃなんだけど、冷蔵庫のざる豆腐持っていっていいよ。ポン酢か茶塩、お好みでどうぞ」
「わーい!」
「あと、冷蔵庫の下の段。奥の方に未開封のカラスミがあるからそれも、特別にね」

 

 お詫びの分もプラスして、とは口に出さなかった。
 

「やったぁー!!ありがとう、みっちゃん!!」
 

 左頬にぶちゅうとした感覚。押し付ける強さによろめいて、布団に右手をついて体を支える。
 

「よーし飲むぞー!飲んで飲んで飲まれて飲んで、飲んで飲み潰れて眠るまでのむぞー!!じゃあ大分早いけどおやすみ、みっちゃん」
 

 かっらすみ~と、どしんどしんスキップをしながら部屋を出ていく。障子が閉まり、その振動が遠ざかっていった。
 

「・・・・・・」
 

 布団についた右手の指をそのままギリギリと立てる。布団の皺が苦しげに寄った。
 口に出さなければ分からない。次郎の言葉を頭で反芻する。
 刀に宿るだけだった付喪神の時と違って、肉の器は魂を閉じ込め、気持ちを隠す壁となる。人の気持ちが、体の中にあるのは、きっと出してはいけない気持ちを隠すためなのだ。だけどそれでは、人は人の中で生きていけない。だからこの体には口があるのだろう。自分の気持ちの破片を切り取って、相手に伝える術として。
 その術があるにもかかわらず燭台切は鶴丸に対してずっと自分の気持ちを隠していた。
 鶴丸に嫌われるのが怖くてずっと自分の気持ちを肉の中に隠したまま。気持ちも言葉もずっと飲み込んで。
 その結果、膨れ上がった心があんな風に弾けてしまった。少しでも気持ちを鶴丸に吐き出していればこんなことにはならなかったのかもしれない。今更すぎる後悔をする。
 そう、後悔しているだけだ。すべて心の中で懺悔しているだけ。
 鶴丸に悪い、尊厳を踏みにじったと己を責めながら、実際は鶴丸が覚えてないのをいいことにあの夜の事を隠しきろうとしている。自分の行いをなかったことにしようとしている。鶴丸に嫌われたくないから、ただそれだけの理由で。
 自分の行いを棚に上げて、鶴丸に嫌われたくないと思っている自分、そして、だから黙っている自分。そして何より、鶴丸が自発的に思い出して、燭台切の気持ちを受け入れてくれるのではないかとまだどこかで期待している自分に燭台切は気づいている。だから、こうも吐き気がするほど気持ちが悪い。
 罪悪感、自己嫌悪。結局、自分の中でのことでしかない。燭台切が鶴丸に対して行ったことはあの夜以降、何もないのだ。謝罪どころか自らの接触を避けている。それなのに苦しい辛いと嘆き続けているのは、

 

「酔ってる、だけだな」
 

 悲劇の自分に。
 本当に悲劇なのは鶴丸の方だ。可愛がっている弟分を労ろうと酒の席を設けてくれた。燭台切を信用して深く酔っていた所に、手を出されたのだ。
 これを悲劇と言わずなんとする。
 いくら燭台切が鶴丸を中に受け入れたとは言え、心が伴わないまま体を繋げたのだ。強姦となんらかわりない。

 

「自分のしたことをなかったことに、しちゃいけない」
 

 立てていた指をぎゅっとシーツごと握りしめた。
 心の中で懺悔しながらもなかったことにしようとしている。だけど、それは駄目だ。
 自分が選びとった行動の責任を取らなくてはいけない。自分の口で鶴丸にきちんとあの夜のことを話した、その上で。
 口に出さなければわからない。それを悪魔の囁きにしたくない。せめて、善の自分の叱咤だと受け止めよう。
 そうでなければ、もう戦えない。起こってしまった事実や後悔をなかったことにしたいと思ったまま、それを是としている遡行軍とは。
 嫌なことを忘れたいと願っても、なかったことにしてはいけないのだ。

 

「でも、これも自分に酔ってるだけなのかも」
 

 そんな事実聞きたくなかったと顔を歪める鶴丸を想像して、震える。心が折れそうだ。
 支えていた右腕を曲げて、うつ伏せに布団へ横たわる。好いている相手に嫌われるのはとても怖い、体が傷つくよりも、何よりも。いっそこのまま折れたい。そんな卑怯なことを思う。けれど、覚悟を決めた。やはり鶴丸に全て話し、謝罪をして、その上で制裁を受けよう、そう決めた。
 しばらくして、薬研が薬を持ってきてくれた。薬の効果でうとうとと眠りの海へ落ちていく。久しぶりに見た夢の中で、鶴丸が、君は最低だなと嫌悪と侮蔑を込めて吐き捨てる姿を見た。きっと正夢になるだろう。

 

 

 

 ゆったり目を開けた。
 ぱちり、ぱちりと何度か瞬きをすればぼやけた膜に包まれていた世界が明瞭になっていく。視界は薄暗く、月の光ではない淡い光が天井を認識させてくれた。

 

「・・・・・・よる、か」
 

 小さく呟いた。
 ずいぶん眠っていたらしい。眠り始めた昼から、静かな夜に変わっていた。夜更かししている者以外は皆眠っているだろう。

 

「はぁ・・・・・・」
「起きたか?」
「!?」

 

 寝る直前に手袋を外した右手で目元を隠し、溜め息をついた途端、自分のものではない声が耳に届いた。その声にまさかと思いながら、すごい勢いで身を起こす。声を辿った先には、柔らかい行灯の光を背負って、ぼぅと浮かび上がる鶴丸がいた。
 燭台切が横たわる布団にぴたりと近づき、胡座を掻いてそこに存在している。

 

「な、なん、な、なんで鶴さん、ここに」
「薬研は寝てるだけだと言っていたが、どうにも心配でな。もう気持ち悪くないかい、光忠。少し魘されていたがちゃんと眠れたか?」

 

 そう言って、鶴丸がすい、と右手上げて、手の甲から指先を燭台切の頬へ滑らせた。優しい感触なのに身が竦む。
 

「・・・・・・水を飲むか?寝てたといっても喉は乾くだろう」
 

 燭台切の反応に、触れていた鶴丸が気づかないはずもないのに、何も言わず手を離した。そして近くにあった水差しから、水を移したコップを寄越してくる。
 それを黙って受け取った。手が震える。着流しを着た鶴丸がそこにいる、薄暗い部屋に二人。あの夜と一緒だ。手に持っているのは酒ではないのに、自分の鼓動がどくどくとすごい早さで脈打っているのがわかる。

 

「っ、」
 

 一気に水を流し込む。こぼれた滴が口元から顎を伝い、喉まで濡らしたが気にしていられなかった。
 

「おいおい、ゆっくり飲め。引っ掛けるぞ。そんなに喉が乾いていたのか?」 
「・・・・・・鶴さん、話がある」

 

 コップを受け取りながら苦笑いする鶴丸に告げた。手と同様声も震えていた。ああ、言葉を飲み込みたい。だけど、ここで口を閉じることは許されない。
 

「謝りたいことがあるんだ、謝って許されることじゃないけど」
 

 自分の両手を組んで力を込める。肌に爪が食い込むが、その痛みで自分を叱咤しなければ臆してしまう。
 ことり、と盆にコップが置かれた音がした。

 

「・・・・・・なんだ、俺に謝りたいことって」
 

 空になったコップを見つめたまま静かに鶴丸が促す。その目はコップと同じどこかく空虚に感じられた、感情が見えない。
 

「一週間前の夜のことなんだ」
 

 そう、切り出した。鶴丸がゆっくりと、燭台切に視線を寄越す。今度は既に怒気のような、それでいて不安を抱いているような色が見える。きっと燭台切がそう思い込んでいるからだろう。
 

「あの夜、二人で酒を飲んだよね。いつもはあんまり酔わない鶴さんが珍しく顔を真っ赤にして、すごく酔っぱらってたあの夜」
「光忠、俺は、」
「鶴さんが酔って正体なくしてるのを良いことに、僕ね、鶴さんのこと襲ったんだ。無理矢理、体を繋げた」
「・・・・・・は?」

 

 何かを言いかける鶴丸を無視して早口で言いきった。言われた事実をすぐ受け入れられない鶴丸が呆然と燭台切を見つめる。
 燭台切は掛け布団を剥いで、鶴丸と同じ畳の上へ移動する。正座をして鶴丸へと頭を下げた。

 

「お、おいっ」
「ごめんなさい。貴方が忘れていたのをこれ幸いと、この一週間ずっと黙っていました。なかったことにしようとしました。本当は次の日にでもこうして謝罪をしなければならなかったのに逃げ出しました」

 

 鶴丸の戸惑った声がかけられるが顔をあげることはできない。額を畳に擦り付けて懺悔を口にする。
 

「貴方は僕に親愛を降り注いでくれていたのに僕はずっと、貴方に下心を持って接していました。頭の中で、何度も貴方に抱かれ、そうして現実の自分を慰めてきました。ずっと、ずっと」
 

 嫌われたくなかった。醜い人の欲に堕ちたものだと蔑まされ、気味が悪いと罵倒されたくなかった。だから好きだと言えずにいた。けれど今となれば好きだと言っておけばよかったと思う。例え嫌われるとしても、その時点では頭の中で汚すだけで済んだ。実際に手を出すよりずっとずっと良い。今さら何を思ってももう遅いが。
 燭台切の言葉にびしっと、鶴丸が固まる雰囲気を感じた。やはり言いたくなかった。一瞬唇を噛み締めたが、謝罪を終えるまで黙れない。

 

「だから酒で貴方の意識が混濁してるのを良いことに僕は貴方に手を出したんだ。自分の欲望を現実の貴方で慰めてしまった。ごめんなさい。許されることじゃない、本当にごめんなさい」
 

 言いながら罪悪感は膨れる。そして悲しい気持ちも。
 あの夜の次の朝。すやすやと清らかに眠る鶴丸の衣服を整えている時の空虚感。鶴丸が体の中に残した跡を処理していた時の惨めさ。
 いいことなんてひとつもなかった。心の伴わない行為なんて。
 そんなものの為にこんな結果になってしまった。

 

「貴方は覚えていないから、こんなことを言われても戸惑うと思う。気持ち悪いだろうって思う。だけど、このまま自分の都合のいいように、なかったことには出来なかったんだ。こんなこと聞きたくなかったよね、ごめんなさい」
 

 叫びだしそうになるのを押さえながら謝罪を繰り返す。自分の辛さを飲み込む。辛いのは燭台切ではない、鶴丸なのだ。だから燭台切が口に乗せられるのは謝罪の言葉だけだ。心は痛い、だけど頭はちゃんと理解して、体は従ってくれている。ごめんなさいとまた告げた。
 鶴丸はしばらく黙っていたが、もう、いいと低く呟いた。顔を上げないまま口を閉じる。

 

「・・・・・・君は、君はこの一週間そうやって、そんなことを思って過ごしていたのか」
 

 頭を縦に動かした。小さな動きでも、鶴丸には伝わった。
 

「最近の寝不足も、俺に対する罪悪感からか。俺が触れる度に身を強張らせていたのも、そうなのか」
「っ、・・・・・・はい」

 

 気づかれていた。鶴丸はいつも以上に燭台切に構っていたから気づいてないものだと思っていたがそうではなかったようだ。
 

「君のことだ、さぞかし自分を責めたことだろう。罪悪感と自己嫌悪から折れてしまいたい、なんて普段の君からは考えられないことも考えてそうだな、ははっ」
「・・・・・・」
「やっぱり、そうなのか、」

 

 否定すべきだろうか。けれどそれは嘘になってしまう。迷った一瞬の沈黙が肯定をしてしまった。だからといってそれで鶴丸が許してくれると甘い考えは起こらなかった。いくら燭台切が自分の身を引き裂いたいと願う程の後悔をしていたって、鶴丸は自分の身に起きた事実に、きっと身の毛をよだたせているはずだ。
 

「俺が襲われた?あの夜を忘れている?どこから?冗談きついぜ・・・・・・はあ、嘘だろ」
 

 鶴丸が溜め息をついた。そして黙り込む。燭台切は伏したまま。長い沈黙が訪れた。
 

「・・・・・・もういい。顔をあげろ、光坊」
 

 先に沈黙を破った鶴丸の手が燭台切の肩に触れた。
 

「でも、」
「いいから、あげなさい」
「・・・・・・はい」

 

 強めの声で促され渋々上半身を起こした。それでも鶴丸を見ることは出来なくて視線は畳に結びつけられている。そんな燭台切に鶴丸は固い声をかける。
 

「君は、折れたいと思う程あの夜を後悔しているんだよな?悪いことをしたと、自分を責めている。なら、俺が今、許すと言えば、君はもう自分を責めないか?もし、ここで、俺が・・・・・・君を好きだと、言えば。君はそれで、あの夜を幸福なものにしてくれるか?」
 

 その言葉に視線をあげた。薄暗い部屋の中でもわかる金の、真剣な目。燭台切の言葉を待っている。
 ここで燭台切が許して欲しいと言えば、鶴丸は笑って許すと言ってくれるだろう、それを知っている。もし燭台切が、好きだと言ってくれと言えば、鶴丸はきっと好きだと言ってくれる。今日だけでも、燭台切のこの辛い一週間を、少しでも和らげてくれるために。鶴丸の事が好きだから、鶴丸がそういう男だと知っている。
 燭台切はそれを望むか。そう、望んでいる。嘘でもいい、好きだと言って欲しい。でもそうだと言えるわけない。全部鶴丸の優しさに甘えて、自分の都合のいいようになんて出来るわけがない。
 だから全ての言葉を飲み込んで首を振った。そしてふ、と笑ってしまう。

 

「どこまで優しい人なの、貴方は。貴方は被害者なんだよ。貴方が無理に心を砕く必要なんてない」
「・・・・・・」
「さ、鶴さん。僕に制裁を。貴方の望むままに」
「ふぅん。・・・・・・俺の望むように、ねぇ?」

 

 鶴丸はにこりともしなかった、それどころか機嫌を損ねたようにも見える。けれどそれに臆したりはしない。
 見つめる瞳には怒りに似たものが宿っている。それはそうだ。先ほどの燭台切を労わるような発言の方が余程おかしいのだから。燭台切は今から浴びせられるだろう鶴丸の罵声を待った。しかし、鶴丸は怒りのようなそれを静かな金へとそっと溶かし、感情の薄い視線を寄越す。静かに口を開いた。

 

「俺はな、光坊。行為そのものに対して特に思うことはない。別に誰に何をされようが心が伴ってなけりゃ生理現象を処理するのと同じさ」
 

 唇を歪ませて鶴丸が云う。
 

「意味のないものに興味はない。だけど、人の体で初めてする行為だ、俺にとって未知な世界だったはずだろ。それを俺が忘れているって君が言うなら、俺はとっても損をした気分だ。だから君には、責任を取ってもらいたいと思う」
 

 左肩にその手が乗せられる。少し強い力だ。
 自分のしたことに責任をとる、当たり前だ。突然の発言だとしても拒否など出来ない。ごく、と唾を飲み込む。どんな責任を取らされるのだろうという不安と、自分の想像とは違う鶴丸の態度への安堵を隠して、聞いた。

 

「何を、すればいいの」
 

 一瞬熱が甦った気がしたが、気のせいだったらしい。燭台切が瞬きをすれば今までと同じ色の目がじぃと燭台切を見つめていた。そして、感情が載らないままの瞳でにっこりと微笑まれた。
 

「君にはあの夜の再現をしてもらおう」
 

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