二週間前
その夜に彼が思っていたこと
長谷部くんと入れ違う形で、主の部屋から自分の部屋に戻る。長谷部くんと二人部屋であるそこには、本来であれば誰もいないはずだ。しかし、静かに足を踏み入れた部屋の、二式ある布団の片方に膨らみがあった。
長谷部くんが気を使ったのか、灯りは文机の上の小さな行灯しかついてない為、ほの暗い。蹴躓いて音を立ててしまわないように、足元に注意してゆっくりと歩く。いつもより少し時間をかけてたどり着いた自分の布団には、先客がいた。
すぅすぅと寝息を立てて眠っている、倶利伽羅だ。
布団の半分だけを占領して眠る倶利伽羅は、他人が近づいてきたというのに全く起きる気配がない。この調子だと長谷部くんにもこの可愛らしい寝顔を披露したんじゃないだろうか。
倶利ちゃんのこんな可愛い寝顔を見れるのは僕だけだと思っていたのに、ちょっと妬けちゃうと冗談を心の中で言ってから、違う。僕だけじゃなかったと気づく。
鶴丸さん。
声を口の中で殺して、唇だけが形を作った。空気を求めて、喘いでるようにぱくぱくと。実際息苦しかったから、鶴丸さんの名前を呼ぶ振りをして空気を求めていたのかもしれない。
あの人を思い出すだけで、こんなにも苦しい。美しい刀、美しい人。鶴丸さんを思う時はいつだって、胸が甘く痺れた。だけど、今は。
穏やかに眠る倶利伽羅の顔を見て、胃の辺りがぐっと重くなる。甘い痺れなんて何処にもない。苦くて冷たいものが蠢いているだけだ。
昼間の事を思い出す。数時間前のことなのに、もう何度も何度も思い出している。その場面だけをひたすらに。
鶴丸さんが倶利伽羅を組み敷いていた。そして、倶利伽羅は泣いていた。あの時はただ混乱していたけど、今ではあの状況がどういった意味なのかわかる。
眠る倶利伽羅を起こさないように、そっと目元に触れた。あの時、流れていた涙を辿るように。手袋越しでもそこが乾いていることがわかって、眠っているのだから当たり前のことなのにホッと息をついた。そして、頬に移動した指先を離さないまま、過去へと思考を飛ばす。
僕が伊達を出ていく時、最後に見た倶利伽羅。付喪神に流す涙はない。だけど、倶利伽羅は見えない涙を溢していた。辛そうで、苦しそうで、それでも真っ直ぐ僕を見つめながら、彼は泣いていた。とても情に厚い倶利伽羅。僕はそんな倶利伽羅がかわいくて、愛しくて仕方ない。だから彼が悲しむと言うのは耐えられなかった。それは、今も変わらない。
倶利伽羅を悲しませるものから、彼を守りたい。ずっとずっと、そう思っている。倶利伽羅を傷つけるものから、彼を守らなくては。例え相手が誰であろうとも。それが自分であっても、鶴丸さんであっても。
ギリッと歯を食い縛る。そうでもしなければ、指先に力が入ってしまうから。
鶴丸さん。
今度は唇すら動かせず、冷たいを通り越して凍りついた何かに満たされる心の中で名前を呼んだ。
倶利伽羅と同時期に顕現した鶴丸さん。僕が去った後の伊達でも長いこと一緒だったという。鶴丸さんは倶利伽羅を本当に大事にしていて、倶利伽羅もまた、鶴丸さんを大事にしていた。二人の絆に吸い寄せられた僕は、その起源を聞きたいと倶利伽羅にせがんだ。最初は、それだけだった。だけど、倶利伽羅の口から語られる鶴丸さんを知るたび、倶利伽羅の目から見た鶴丸さんを知るたび、僕は鶴丸さんを目で追うようになった。
倶利伽羅の言う通り、優しい鶴丸さん。倶利伽羅の見た通り、美しい鶴丸さん。強い所も、儚げな所も、仲間思いの所も、凛としている所も、おちゃめな所も、かっこいい所も、全部倶利伽羅の言った通りだった。初めて見る鶴丸さんの、どの魅力も僕は全部知っていて、それがなんだかとても嬉しかったのを覚えている。倶利伽羅に鶴丸さんの昔の話を聞くのと同じくらい、鶴丸さんの今を話すようになったのはいつからだっただろうか。
今日、鶴丸さんは清光くんとマニキュアの塗り合いっこをしてたんだ、倶利伽羅の言う通り、赤がとても似合っていたよ。
今日の鶴丸さんは江雪くんの髪で遊んでいたんだけど、髪を絡ませてしまったみたいで、黄昏ていたよ。倶利伽羅から聞いた、あの事件のこと思い出して、笑いそうになっちゃった。
なんて、倶利伽羅に報告するようになった。倶利伽羅が怒らないのをいいことにずっと続けていたある日、倶利伽羅が一言僕に聞いた。
「光忠は、国永が好きなのか」
じっと見つめる瞳に、僕は、ああそうなんだろうなぁと気がついた。ほとんど話したこともない鶴丸さんを、僕は好きになっていた様だ。片想いも、片想い。自分をほとんど認識していない相手に、一方的に熱を上げるなんて、我ながら少し怖い奴だと思った。だけど倶利伽羅に嘘をつけない僕は、倶利伽羅の質問にそのままこくりと頷いた。
呆れるか、はたまた気味の悪い奴だと引かれるかと思ったけど、倶利伽羅はそうか、と返しただけだった。倶利伽羅は自分から見た鶴丸さんの話が、僕の恋のきっかけになったと気づいてなかったのかもしれない。そう思ったのだけどあえて話すことでもなかったので、僕は黙っていた。その恋の始まりが何であれ、僕が鶴丸さんを好きになったことに変わりはないし、倶利伽羅と鶴丸さんの話ができればそれで満足だったのだから。
好きなだけで、よかったのに。
蠢く冷たさを吐き出したくて、静かに息を逃がす。
思っているだけで幸せだったのに。
吐き出しても消えない冷たさが、重ねて思いを浮かばせた。
鶴丸さんが誰を選んでも、僕はきっと笑っていられた。倶利伽羅を悲しませたくなくて、笑って伊達を出て見せたあの時のように。思っているだけで幸せだからと笑えたはずだ。だけど、何故、よりによって倶利伽羅なんだ。
また、昼間の出来事が甦る。
言うことを聞け、と押さえつけている鶴丸さん。嫌だ、やめろと抗うボロボロの倶利伽羅。
ああ、と声が出そうになる。あれが、幸せそうに抱き合う二人であったなら、何れ程よかっただろう。それであれば、二人を祝福して、笑って、少しだけ泣いて、それでもまだ鶴丸さんを想っていられたのに。
どうして、選んだのが倶利伽羅なんだ。どうして、傷つけるのが鶴丸さんなんだ。
倶利伽羅を愛しく思う僕と、鶴丸さんを好きな僕が共に頭を抱えて踞る。延々と繰り返される問いに答えはでず、何も解決はしなかった。二つの思考が殴り合いを始めなかっただけましなんだろうか。
倶利伽羅を愛しく思う僕がまず主張をした。鶴丸さんから、倶利伽羅を守ろうと。二人部屋である二人を取り合えず引き離すべきだ、と。僕はその案を採用した。次に、鶴丸さんを好きな僕が主張をする。いっそ、倶利伽羅の代わりにしてもらえないだろうか、と。その案は、倶利伽羅を守るという点から見ても悪くない話だった。
鶴丸さんは、自分の為に他を傷つけたりは決してしない。だから昼間の出来事も、鶴丸さんの本意では絶対ないはずだ。鶴丸さんが倶利伽羅を本当に愛しているからこそ、今まで触れることを我慢していたのだろう。しかし、何かがきっかけで鶴丸さんの理性が切れてしまった、そういうことだったのだと思う。
僕を倶利伽羅の代わりに。倶利伽羅にしたいことを僕にしてくれれば、鶴丸さんも少し落ち着くのではないかと、僕の中の声が囁く。目を瞑ってくれればいい、声を上げるなと言われれば、唇を噛みきってでも耐えてみせる。倶利伽羅を愛していると自分を騙しながら、僕を愛してくれないだろうか。と、それはとても甘美な誘惑だ。僕が蝶であったなら、迷わずその甘そうな蜜に飛び付いただろう。
だけど僕は刀だから、そんなことはできなかった。僕が抱いた空想は倶利伽羅を守る為でも、好きという気持ちを大切にする為でも何でもない。ただ欲望を満たすための、愚劣な選択肢だ。そんなものの為に、自分の体を使ってくれと懇願することなど出来なかった。僕の矜持が、許してはくれなかった。
僕の矜持は僕だけのものではない。今の主のものでもあるし、歴代の主のものでもあるし、名をくださったただ一人の方のものでもあるし、僕を打ってくれた人のものでもある。僕が、無様をさらしたりすれば、その人たちの名に傷をつけるということだ。そんなことになるくらいならいっそ、刀解された方がいい。そういった考えが僕の根深いところにあって、それを揺るがすのはなかなかに難しい。
結局、雁字搦めだな。自嘲的な笑みが浮かぶ。
倶利伽羅を守りたいのも、鶴丸さんが好きなのも、矜持を守りたいのも全部僕の我が儘だ。あまりに身勝手な自分に、頭を壁に打ち付けてしまいたくなる。
「ん・・・・・・」
倶利伽羅が小さく声を漏らした。起こしてしまったかと、はっとしたがそうではないようだ。
無垢な寝顔に愛しい気持ちが込みあがる。
好きだよ、倶利伽羅が。今もまだ、鶴丸さんが。
我が儘な自分の本心だ。どちらも好きで仕方がない。いっそ二人が結ばれてくれればと、何度目かわからない考えが頭を埋める。結ばれた二人の傍に居続けることが出来れば、僕は少しだけ幸せになれるだろう。しかし、それを願うのは傷ついている倶利伽羅に申し訳がない。彼は、鶴丸さんに恋愛感情は抱いていないのだから。そして、僕は何処かでそれを喜んでいる。倶利伽羅が離れていかないから?鶴丸さんが誰かを愛する姿を見なくていいから?どちらにしてもやっぱり最低だ。
ごめんね。君を傷つけたひどい人を好きでいて。素敵な人に愛された君を羨ましいと思ってしまって。
そんな懺悔を心の中でいくらしたって誰にも届かない。許されないとわかっているから許しを乞うのが恐ろしい、だからって心の中で謝るなんてあまりにも卑怯じゃないか。
安心したように眠る倶利伽羅の顔を見るのがなんだか苦しくなって、目線を逸らす。すると、枕元に置いてある本が目に入った。最近の倶利伽羅のお気に入りだ。格言や諺などが載っているらしいその本を手にとって、なんとはなしに表紙を開く。薄暗い部屋にいて目も慣れたのか、文字を追うのに苦労はしなかった。
最初の頁から順に捲っていくと「あ」から始まる諺と四字熟語が解説と共に並んでいた。倶利伽羅は気になる言葉に印をつけている様だ。勉強熱心さんだなと苦しさが薄くなって、微笑ましい気持ちになる。『開いた口へ牡丹餅』の牡丹の横に『ずんだ』と書かれていて笑いそうになってしまった。確かにそれは幸運だね。
続けて頁を開いていくと、線で意図的に消されている言葉があった。完全には消えてなくて、その元の言葉が読めてしまう。
『愛別離苦』『逢うは別れの始め』
その言葉から溢れる記憶や苦しみを消し去るように、線は文字を断ち切っている。
ぐっと目が熱くなった。別れのあの日がまた甦る。
泣いている倶利伽羅が僕を見ている。実際の記憶とは違うとわかっていても、僕が思い出す倶利伽羅はいつも泣いているのだ。僕はそれが耐えられない。倶利伽羅の涙を止めなければ。その考えだけで頭が埋まる。どれだけ悩んで苦しんだって、結局僕はこの子を選ぶ。そうしなければいけないんだ。僕が思い出す倶利伽羅が泣きやんでくれるまで。
心を決めてくれた本を元の場所に置いて、倶利伽羅が空けてくれていた布団の半分に体を横たえる。強く抱きしめたくなる衝動を抑えて、手だけをそっと髪に触れさせた。
「大丈夫だよ、倶利伽羅。僕が傍にいるから。もう、誰にも君を傷つけさせないよ」
倶利伽羅の傍にいる僕はそう微笑んで眠りについた。
胸の中で鶴丸さんを好きな僕が泣きながら眠りについたけど、それにが気づかない振りをして。