はしゃぐ声が耳に煩い。
人が読書をしようと本を開いているのが目に入らないらしい男は、この部屋に入って来た時からずっと喋り通しだ。しかもその話題はずっと同じで、言ってしまえば数ヵ月前から同じ男の話を繰り返している。ほとんど聞き流しているとはいえ、さすがに腹も立つというものだろう。
こんなことになるとは微塵も思っていなかった、顕現当時の自分に言ってやりたい。「群れる気はない、俺に構うな」ともっと強く拒絶しろ!と。饒舌なこの男がそっか、と一言呟いたきりしょんぼりと黙り込んでも「まったく馴れ合わないわけじゃない」と焦って言う必要は一切ない。そんなこと言ってしまえば最後、数ヵ月後に嘆くのは己だ。
「それでね、鶴丸さんが、って倶利ちゃん人の話聞いてる?」
「聞いてない」
嘘だ。もはや死ぬほど聞いた。この数ヵ月の間、この男――光忠が繰り返す国永の話はすべて言える。しかし、それを言ってしまうのは非常に腹立たしい。強制的に覚えさせられている話を、素直に聞いていると思われるのは本意ではない。
「聞いてくれよ。こんな話できるの倶利ちゃんしかいないんだ」
「別に他の奴でもいいだろう」
「君が一番話しやすいんだよ。それに倶利ちゃんも鶴丸さん大好きだろ?共感してくれると思って」
この本丸に光忠と同じように国永を好きだと言う刀はないと思う。それは国永と長い付き合いのある自分も例外ではない。光忠の国永話に共感することは一生ありえないと何度も言っている。光忠は聞いてはくれないが。
「鶴丸さん、かっこいいよねぇ。この間さ、軽傷負って手入れ部屋に入ったときなんていったと思う?『着替えてくる。白い着物は汚れが目立つんでな』だってさ!痺れるよね!」
どこに痺れると言うんだ。国永を真似た光忠の低い声に痺れればいいのか。手元の本に視線を落とせば、目に飛び込む『恋は盲目』という格言。言葉の意味を目だけで読む。なるほど、この間言っていた主の言葉の意味が今わかった。
光忠は、本の頁をめくる自分の肩をばしばしと叩く。痛い、やめろ。と非難すれば気にする様子も見せず、片目をうっとりと閉じる。
「だってそれってさ、それだけの覚悟を持って戦場に立ってるってことだよね。白い衣服を彩るのは敵の返り血のみ。それなのに軽傷を負って汚してしまったことに苛立ちを感じて、ちょっと不機嫌そうに言ったんだと思うんだ」
少し妄想が過ぎる気がする。大体、先日ミートスパゲティとやらを食べ終えた時も国永は同じ台詞を言っていた。一期に「だから、食事の時は着替えるか前掛けをした方がよろしいと申し上げたでしょう」と注意されていたところを、光忠も一緒に見ていたはずだが。それも光忠には痺れる場面だったのだろうか。
最近の光忠は、国永が走っているだけでほう、とため息をつく。自分が側にいて周りの目が無い時は今のように自分の肩や背中を、敵に発揮すべき打撃力でばしばしと叩いてくるのだから手に負えない。人の器を得た今では、走るなんて珍しいことでもなんでもないというのに。長谷部の説教から全力で逃げているだけの姿はむしろ幻滅するのが普通ではないだろうか。「長谷部くんと同じ速さなんて、鶴丸さんすごいよ!さすが鶴丸さんだよね!」と言った時はさすがに光忠を二度見したものだ。
半分以上頭に入らない本の頁をめくっていけばある諺が目にとまる。『恋人の眼に西施あらわる』類義語、痘痕も靨。今の光忠の状態を表す文章に一人、納得するように頷く。
「光忠にとって鶴丸はアイドルなんですね」とは主の言葉だ。
光忠は国永の話を自分にしか話さないが、一度騒いでいるところを見られたらしい。光忠は知られていることを気づいていない。自分以外のものにはしゃいでいる姿を見られるのは光忠にとって不名誉なことらしいので、見なかったことにしてくれと主に頼んだのは自分だ。主にはしゃいでる姿を見られたとなれば、かなり落ち込むに決まっている。光忠は案外、手がかかる。
その時主が言った言葉がそれだった。アイドルと聞きなれない言葉の意味を問うと「すっごい憧れてて、見てるだけで幸せになれる存在、かな。もうね、何をしてても好きだって感じちゃうんですよ。恋は人を盲目にすると言いますしね」とのことだった。光忠は片方しか目の役割を果たしていない。ただでさえ視界が狭いのだ。その上、その片目すら盲目になってしまったと、主は言った。人の体とはなんと不思議な仕掛けがあるものだろう、そう感心するよりも先に不安が胸を支配していく。
眼が見えないというのは刀剣男士として致命傷だろう。どんなに鋭い切れ味の刀でも敵に当たらなければ意味がない。主は光忠を刀解するつもりだろうか。いや、それは例え主でも許すわけにはいかない。当時、異国の劇作家が言った格言などしらない自分は、例え光忠が盲目になったとしても自分が光忠の眼になるから刀解だけはやめてくれと訴えた。
たぶん必死な顔をしていたのだろう。主は笑ってるんだか泣いてるんだかわからない顔で、ただの格言だからそんなことはしないと言った。その時の羞恥と言えば言葉にできない。無知な自分が一番悪いが、その後光忠に体当たりという八つ当たりを見舞ってやった。今思い出しても悶えそうになる、ここ最近で一番恥ずべき話だ。
手元の本には格言や諺、四文字熟語などが、あ行から五十音順に載っている。恥をかいたあの日から読み進めて、今日漸く「こ」の行に辿り着いたところだった。人の言葉は難しいが楽しくもある。恥をかかないためと読み始めたこの本が、今は楽しみのひとつだ。前は風景や動物ばかりが載っている本を見ていたが、こんな本も悪くはない。
「それでね、倶利ちゃん。鶴丸さんがさ」
人の楽しみを邪魔しているとは気づかない光忠はまだ国永の話を繰り返す。まったく、という言葉をため息とともに吐き出す。舌打ちしない自分を褒めてやりたいくらいだ。
「そんなに国永が好きなら、国永が部屋にいる時にくればいいだろう。俺に同じ話を繰り返すくらいなら国永と直接話せばいい」
国永と自分は同室だ。本丸規則で決められている二人組の相方にあたる。だから行動を共にすることが多い。自分が部屋にいる時は国永も共にいることがほとんどなのだが、たまに悪戯を仕掛けにいったり、説教に呼び出されたりして不在の時がある。光忠はわざわざそういう時を狙ってこの部屋を訪れる。
「い、いいよ!緊張して、上手く話せないし」
光忠が焦ったように手を振る。
社交的な光忠だが、国永を前にすると途端に借りてきた猫のように大人しくなる。今まで会話もあまりしたことがないらしい。それでどうして国永に憧れるようになったのか不思議で仕方ない。光忠と国永は違う部隊だし、本丸での国永は悪名高い悪戯爺だ。光忠はむしろ一期や長谷部と同じように注意係になるものだと思っていたが、どうなるかわからないものだ。
「それにね、倶利ちゃんと鶴丸さんの話するのが好きなんだよ。さっきも言った通り倶利ちゃんも鶴丸さん大好きだろ?倶利ちゃんが話す、鶴丸さんの話を聞いてればわかるよ」
そう言って光忠が笑った。『光彩脱目』『光彩陸離』手元の本が光忠の笑顔を称える。
そんな笑顔でそう言われてしまえば何も言えることはなかった。本当に光忠がそれでいいと言うなら自分は構わないし、自分と話したいから来ていると言われれば悪い気もしない。うっとおしいことこの上ないのも本音ではあるが。
「勝手にしろ」
これ以上は尚更まともに読めそうにないと本をパタンと閉じる。どうせ国永は一期と長谷部の説教地獄だ。後数時間は帰ってこれまい。その間、何度も聞いた光忠の話をただ聞き流すより、茶菓子でも食べながら嬉しそうに話す顔を見た方がましな気がする。伊達での国永の話もしてやろう。付き合いが長い分、まだ話してない出来事も多い。それを伝えれば、光忠は喜びを隠そうともしないで、お茶の準備をしてくると部屋を飛び出した。我ながら光忠には甘いとため息がでる。
そんな、少し疲れる、しかし穏やかな日々を過ごしていた。相変わらず光忠は国永に憧れを募らせ、それを知らない国永は自由奔放に悪戯三昧だ。
自分はと言えば、今日は少し機嫌がいい。五虎退の虎とじゃれ倒すことができた。あまり夢中になりすぎて、白い半袖の衣服は虎の爪でボロボロに破れている。見るも無惨な姿だ。下履きの洋服も少し裂けている。夢中で遊んでくれるのは嬉しいが、これはあまりにも見目が悪い。念のためと、上着と腰布ははずしていたのがせめてもの救いか。
しかし、虎達を迎えにきた五虎退に、泣かれたのは困った。あの、涙というものは落ち着かない気持ちにさせる。止めなければと焦ってしまう。自分が好きでじゃれていた。虎達が悪いわけではないと伝えることで何とか泣き止んでくれたが、次に虎達とじゃれる時は気を付けようと決めた。
自室の襖を開ける。今は文机と箪笥、本棚と灯りのついていない行灯だけがあるはずの部屋に、真っ白な物が鎮座していた。思わず部屋に踏み入れた足を廊下に戻す。
「よっ、倶利坊。お帰り。」
真っ白いものがくるりと振り返る。ただの国永だ。だからこそ首を捻る。何故国永が今ここにいるんだ。
その疑問を口にする前に、国永が自分の姿を見てぎょっと目を開いた。そして、戦場以外ではあまりみせない、静かに殺気立っている時の顔をする。なんだと言うのだ。不思議に思いながら国永の前に立てば座れと、手を引かれる。
「大倶利伽羅、誰にやられた?」
「なんのことだ。」
「その姿だ。誰にやられた?」
静かに、しかし繰り返し犯人を問う。何をそんなに怒ることがあるんだ。虎にやられただけだと言うのに。
「虎とじゃれてただけだ。あんたが怒ることでもないだろう」
瞳孔が開きかけてる国永に答える。国永は静かに自分の目を見据えて、そして息をそっと吐いた。
「どうやら本当らしい」
「嘘をついてどうする」
「お前は優しいからなぁ、可能性はある」
まったく意味がわからない。勝手に怒って勝手に納得している国永はいつもに増しておかしい。そもそも、今ここにいることも。
「国永、何故ここにいる」
疑問に思っていたことをやっと口に出せば、国永はくるりと表情を変えた。先程まで誰かを斬り殺しに行きそうな雰囲気すら纏っていたというのに、今は眉根を下げて困ったような顔を作っている。まるで別人だ。
「ここは、俺の部屋でもあるんだぞ?」
「そうじゃない。あんた、長谷部に連行されたはずだ」
虎達とじゃれていた時、長谷部の「鶴丸国永ぁああ!!」という怒号が聞こえた。あれはかなり怒り心頭だったはずだ。今日の説教は長いぞ、と思ってからまだそんなに経ってない。
「ああ、説教されていたんだがな、主が助けてくれた。今日のは悪戯じゃなくて、心遣いのつもりだったからな」
「心遣い?」
主が介入してくるなど珍しい。基本的に刀剣同士の関わりには口も手も出さない主義だ。その主が助け船を出したとなれば長谷部も、説教を止めざるを得なかっただろう。
しかし心遣いであそこまで長谷部を怒鳴らせるなど、国永は悪戯爺というよりひとつの厄災なのではないのか。国永の存在事態が騒動を巻き起こす。
「あんた、何をしたんだ」
「長谷部がなぁ、最近特に忙しそうだったんだ。書類仕事であまり眠れてないらしい。眼が霞むと言って、目頭を揉んでいてな」
そういえばそうだった。最近は出陣を控えて部屋に込もっていることが多かった。長谷部の相方である光忠も補佐に回って動いていたはずだ。
「あんまり辛そうだったんでどうにかしてやりたいと思ったんだ。それを主に相談したら目薬をあげてはどうかという助言をもらった」
思い出しながら話す国永は、本当に長谷部を気にしていたらしい表情だ。話の流れ的にもおかしいところは何もない。ここからどうしてあの怒号に至るんだ。
「俺はすぐ目薬を用意した。一番効くのを政府ネットで注文したんだ。すると届いたのが、小さな瓶でな。何個か注文していたから量は問題なかったが、あんなもの一滴二滴垂らしたところで効果がでるとは思えなかった。」
雲行きが怪しくなってきた。もうここからは嫌な予感しかしない。
「長谷部の眼に一気に沢山の目薬をいれるのはどうするべきか俺は考えた。そこで思い付いたのが、これだ」
国永が袂から何かを取り出して畳に置く。噴射缶だった。
「これの中に目薬を入れて、しゅっと長谷部の眼にかけたのさ。この目薬は一番すっとするらしくてな、きっとすぐよくなって仕事もはかどると思った」
光忠がにいれば、「鶴丸さんは、なんて優しいんだろう!」と感激するだろうが、今ここにそんな酔狂なやつはいない。
「しかし、長谷部は怒ってなぁ。しばらく蹲っていたと思えば、あの怒号だ。眼がギラギラしていたから効果はあったようだが、何故怒ったんだろうな?」
それは目薬の効果ではなく、怒りのせいでギラギラしていたんだろう。突然何かを眼に向けて噴射されれば、誰でも怒る。それが目薬であっても。一番すっとするものであれば相当眼に来ただろう。国永は本当に心配していたからこその行動だっととしても、さすがに長谷部に同情を禁じ得ない。
「なぁ、倶利坊。お前、眼が変わっただろう」
国永が少し心配そうな表情で自分を見る。そういう殊勝な態度は自分ではなく、長谷部にむければいいのに。そうすれば少しは説教の時間も減るに違いない。
国永の言葉に、下瞼を指でなぞる。人の器を得てから刀種が代わり、それに伴った体の変化のことを言っているのだろう。
国永が心配するようなことは何もない。むしろ戦いやすくなった気すらする。夜の世界でなど尚更そうだ。未だ夜戦に出たことはないが、この本丸で感じる夜ががらりと変わった。太陽ほどではないものの月の光は明るく眩しい。あんなに控えめだった星でさえ今の眼には一粒一粒が光輝く宝石のように見える。それを光忠に言ったら「倶利ちゃんはずいぶんとロマンチストだ」と笑われたがそう見えるようになったのだから仕方ない。ただ、国永にも笑われたら癪なので伝えるつもりはない。
「問題はない。十分見える」
「俺はお前さんの眼も心配でなぁ。今までとの見え方の差に、長谷部と同じ疲れ眼というものになってるんじゃないかと」
「何、」
「だが、これで大丈夫だ!」
そう、高らかに言い放ち、国永は畳に置いてある噴射缶を手に取った。心配そうだった顔は、自信に輝く顔へと変わっている。そこに悪気など一切感じない。まさかの行動に反応が遅れてしまって、国永のその表情の変化をただ眺めてしまった。
しゅーっと音と共に、衝撃を感じる。そう、衝撃だ。両目を刺されたような錯覚を受けて反射で閉じた瞼が開けられない。何故か耳まで痛みを感じる。頭では理解している。これはただの目薬で、噴射の勢いとすっとする効果のせいで刺激を感じているだけだと。しかし体はそうはいかない。急に与えられた刺激に、痛みを持って危険だと警鐘をならしているのだ。手で眼を覆うが和らがない。いつのまにか畳に転がっていたようで、頭を畳に押し付けているだけの役割に徹している。
しばらく、時間にすれば短い間だろう、そうしていると痛みがましになり、半分ほど瞼を開けることができた。全てを開けば、空気で目が染みてしまう。目尻からぼろりと雫がこぼれて耳に流れた。覆う手を外せば滲んだ視界に白い影が浮かぶ。
「どうだ、倶利坊。よくなっただろう?」
自信に溢れた声色にもはや声もでない。ただただほっといてほしい。でなければ、殴らせてほしい。
「どら、見せてみろ。ん?」
白い影の輪郭が少しはっきりしてきた。国永が右手に噴射缶を持って顔を覗いているようだ。もはや恐怖しかない。とっさに顔の前で手を交差させる。眼が痛いのもあるし、それ以上近づくなという意味も込めて。
「こら、何で隠すんだ。心配してるんだぜ。足りないならもっとかけてやるから」
「必要、ない!」
「またお前は遠慮して!」
遠慮じゃない、本気で嫌がっているんだ。それが伝わらない国永は噴射缶を置いたのか両手で、自分の防御を剥がそうとする。その力は本気だ。本気で心配してるということなのだろうが、この噴射目薬の威力も含めて国永のこういう加減のわからない所は、本当に嫌だ。
「大倶利伽羅!おとなしくいうことを聞け!」
おまけに時々短気になる。
「いや、だ!やめろ、国永!」
この体制では国永が有利だ。その上こちらは手負いで、国永は本気の力で来ているのだから勝負は見えている。只でさえ、手合わせでも何でも国永には一度も勝てたことはない。
国永によって剥がされた両手の防御がそのまま畳へと縫い付けられる。このままでは、また目薬を吹き付けられてしまう。
「何、してるの」
低い声が耳に届いた。静かな音なのに部屋全体を揺らし、一瞬時を止めるような声だった。
「みつただ・・・?」
未だに眼が染みるので大きく開けることは出来ないが、声のした方へと顔を向ける。横を向いたことによって、眼からまた雫が流れた。
滲んだ視界の中、部屋の入り口に立つ光忠は黒い。表情はよく見えないが、声の雰囲気と相俟って、威圧感を感じる。その黒い光忠は威圧感そのままに部屋に足を踏み入れ、畳の上に重なりあうように転がっている自分達のそばに立った。
国永は光忠を見上げ固まっているようだ。光忠は、いつも柔らかい雰囲気を出すよう努めている、国永の前では特に。だから、こんな光忠を国永は見たことがないはずだ。
「鶴丸さん、出ていってくれるかな」
「み、光忠」
「すぐに、出ていって」
低い声がまたも静かに響く。
ここは国永の部屋でもある。部屋の主でも何でもない光忠が出ていけというのはおかしな話だ。しかし、国永は光忠を刺激しない方がいいと理解したようだ。ひとつ頷いて、すぐに立ち上がり黙って部屋を出ていく。光忠はそれを振り返ることもしなかった。
国永という重しがなくなったので上半身を起こす。それまで威圧感に満ちている長身でその場に立っていただけの光忠はゆっくりと膝をつき、いきなり強い力で抱き締めてきた。
「ぐっ!?」
「怖かったね、倶利伽羅。もう、大丈夫だよ」
先程の静かな低い声とは違う、震える声で光忠は呟く。
怖かったか、と聞かれれば確かに恐怖を感じた。あの噴射缶片手に自分を見下ろす国永はある意味恐ろしかった。しかし、光忠が動揺する程のことではないだろう。別に虐げられていたわけではない。部屋に入って来た時から光忠はずっと混乱していた、その理由は何故だ。そして、もう大丈夫とは国永がこれ以上自分にあの目薬を噴射しないということか。光忠は長谷部から事の顛末を聞いていたのだろうか。
光忠はまだ抱き締める腕を弛めない。力が強すぎて苦しいが、体温がじんわりと伝わってくる。これが光忠の体温か。こんなに密着するのははじめてかもしれない。思わずなすがままだった自分の腕を光忠の背中にまわす。光忠の匂いだ。気持ちが落ち着く。
何だか先程まで考えていたことが急にどうでもよくなってきた。国永については、後で注意してやる必要があるが。国永自身は厚意でしていることなので、短刀勢にあの目薬噴射をする可能性がある。あの衝撃を短刀勢には味あわせたくない。何よりそんなことをしてしまえば、国永は保護者勢に折られてしまう。それは避けたい。注意をして、あとは一発くらい殴ってもいいだろうか。長谷部と自分の二振り分で一発ならば安いものだと思う。
しばらくそうして抱き合っていた。落ち着いた光忠はいつもの笑みを取り戻し、今日は僕達の部屋においでと手を差し出した。一緒に眠ろうと言われれば多少疑問があっても手を取るに決まっている。
国永には後で会える。後で会えなくても明日は会えるだろう。