top of page

 朝一番、顔を合わせた鶴さんはこう言った。

「光坊、何か手伝うことはないかい?」

 

 今となれば、おかしいと思う。今朝も朝の厨当番だった僕とは違って鶴さんは当番ではない。いつも親切で優しいけれど、朝一番から手伝いを買って出られることも今までなかった。突然のハプニングが起こって、僕がてんてこまいだったのならまだ分かるけど今朝の厨は滞りなく動いていた。いつもより順調に朝餉の準備が出来ていたくらいだ。毎回当番じゃない時も手伝いを申し出てくれる短刀くん達の中に鶴さんが混じっていたことに僕は疑問を覚えるべきだった。

 けれど僕は、鶴さんが実は僕に対して特別に優しいのだと知ってしまっているのでその申し出も僕に対する労わりだと受け取ってしまったのだ。これが伽羅ちゃんだったら一発で気づくんだろうな。そして鶴さんにこう言う筈だ。「おい、何を企んでいる」ってね。

 愚かにも恋刀の真意に気づけなかった僕は鶴さんの申し出を喜んで受け、膳にそれぞれの料理を配置してほしいと頼んだ。すると鶴さんは更に他にもないか、と聞いてくれたので、それならお皿洗いまで手伝ってくれると嬉しいなと答えた。鶴さんはりょーかい。と微笑んで早速配置する為のお箸やお皿の準備に取り掛かってくれた。

 僕はその姿を見て、ひとりで嬉しさに唇を緩ませた。鶴さんにとっては気まぐれか、小さな驚きを振り撒く為の行為だとしても自ら率先して手伝ってくれることが嬉しい。

 勿論鶴さんは常日頃から、さりげなく動いて僕の負担を減らしてくれてはいる。でも時にさりげなさ過ぎて、僕が鶴さんの優しさを見逃してしまう時があるのだ。後から気づいて謝ったり、お礼を言っても鶴さんは覚えがないな、みたいな顔をしてわざととぼける。でも気づけたことを鶴さんに伝えられるならまだ良い方で、きっと僕が気づけていないことだって沢山ある筈だ。だから、こうして鶴さんが手伝いを自ら申し込んでくれるのは非常にありがたい。ちゃんとお礼が言えるから。そして器用なひとがいつも隠している部分、手伝ってくれている姿を見られるのも新鮮で嬉しいよ。

 そんなことを考えている内に朝餉の準備は終わって、僕と鶴さんは離れた席で朝餉をとった。厨当番の時はあまりゆっくり食事がとれないからね。仲間の数が増えるにつれてどうしてもそうなってしまう。厨当番を増やすにしても厨の中で動ける数にも制限があるし。さすがに仲間の数が百を超えたら厨の拡張をお願いしてみようって思ってはいるんだけど。

 近い内にそうなるだろうと考えつつ朝餉を食べ終わる。同じ様に食事を終え、自分の膳を下げてくれる子達から洗うお皿を受け取る為に早速シンク前に立った。食器洗浄機は導入してもらってるから、手洗いするものは油汚れがひどいものや、洗浄機で洗えない種類のものだけ。それでも、一振り一枚ずつだとしても八十以上は洗わないといけないわけだからお皿洗いは結構時間がかかる。僕は嫌いではないけどね。考え事をしていればあっという間だ。考え事っていうのは主に皆に食べてもらった料理の事。

 例えば、今日のおみそ汁も卵焼きも良い出来だったから満足だ、とか。今日の卵焼きはネギ入りにしたけど、歌仙くんが作ってくれた紅ショウガ入りの卵焼きも美味しかった。散りばめられた紅がふんわり卵に包まれていて見た目も綺麗だったし。卵焼きは個性が出るから楽しみな一品でもある。具が入ってなくても甘かったり、しょっぱかったり、皆の好みが詰め込まれるから毎日卵焼きが出ても飽きないな。なんてそんなことを考えている。隣にお手伝いをしてくれる子がいればその子とおしゃべりをしながら洗ったりもするけどね。

「悪い、遅くなったな」

「鶴さん」

「どれ、俺も洗うとするか」

「ありがとう、助かるよ」

 

 僕がシンクに立ってからしばらくして鶴さんが食べ終えた膳を下げに来た。お皿の中はどれも綺麗に平らげられている。僕は鶴さんの苦手な食べ物を知らない。いつもこうして綺麗に食べ終わってくれるから。もしかしたら苦手な食べ物ないのかな、どんな美味しくないものでも「驚きだ!」とか言いながら食べそうだし。それとも、僕が料理に携わることが多いから、苦手な物が出ても全部食べてくれてるのかも。なんて、そう思ってしまうのは流石に自惚れが過ぎるかな。

 当番でもないのにこうして隣で鶴さんがお皿を洗い始めてくれるだけでも十分自惚れて良い気はするけど「僕って愛されてるよね」なんてわざわざ確認するのは、僕らしくない。というか普通に恥ずかしくて出来ない。

 結局僕は自惚れの確認をしないまま、鶴さんと共に皿洗いを終えた。そして午後の厨当番の子達のためにシンク周りを片付ける。僕がそうしている間の鶴さんは、お皿拭きを手伝ってくれていた子達とおしゃべりをしながら、食器の片づけや皆が食事を終えた後の食卓を拭いてくれたりした。どうやら、今日は色々手伝ってくれるみたいだ。それとも、僕に何か用があるのかな。だから僕の仕事が少しでも早く終わる様に手伝ってくれているのかもしれない。

「よし、終わり」

 

 シンク横の調理スペースの水気を最後に拭き取って呟く。ここまで綺麗にしておけば昼の厨当番の子達もすぐに調理に取り掛かれる筈だ。不特定多数が使用する場所だからこそ常に綺麗を保っておかないとね。

 

「光坊、終わったか?」

「うん、終わったよ」

「そうか、お疲れさん」

 

 吊戸棚にくっつけている布巾掛けのひとつに台拭きを掛けていると、鶴さんが僕の真横に立つ。気づけば他の子達がいなくなっているので、鶴さんは僕が終わるのを待っていてくれた様だ。やはり僕に何か用事があるのかな。

 

「鶴さんもお疲れさま。ありがとうね、当番でもないのにお手伝いしてくれて」

 

 珍しくお手伝いを申し出てくれたのだ、僕もすぐにお礼を伝えることが出来る。それが嬉しくて微笑みながらお礼を言った。予想では「どういたしまして」と同じような微笑みが返ってくると思ったのだけど、僕を見上げてくる鶴さんは僕がお礼を言うと直前まで浮かべていた笑みを消した。そして上目遣いで僕をじーっと見て来る。いきなり唇を突き出して。

 

「え、ど、どうかしたかい?」

「・・・・・・」

 急激な表情の変化に戸惑ってしまい、直球で訪ねてみたけれど返事は帰って来ない。言葉を紡ぐためには飛び出ている唇をひっこめないといけないと思うけど、そのつもりはないらしく、上目遣いのひょっとこ唇のままだ。というか、すごいね。そんな見事な『3』の形の唇見たことないよ。

 

「なーに、そんな顔しちゃって。アヒルさんみたいだよ。アヒル丸国永さんになったのかい?」

 

 ふくふくしているとは言い難い薄めの頬の右側をふに、と押してみても表情は何も変わらない。この対応は正解ではないみたいだ。鶴さんが自分からリアクションを取らないということは、僕自身に正解を見つけてほしいということ。短い付き合いではないから、そうだとは分かるんだけど肝心の正解が分からないな。

 

「アヒルさんじゃなくて雛鳥、のつもりなのかな?餌付け?何か食べたいってこと?」

 

 僕は厨内を見回す。どうしよう、パッと目についたのが乾燥わかめだった。これは餌付けでもあげたりしないよね。口に一杯頬張らせたら後で地獄を見る羽目になっちゃうし。鶴さん的には驚きの体験が出来るから嬉しいのかな。いやでも、驚きの為とはいえ身体に影響が出そうなことはさせたくないな。他に何かないかな。

 

「あっ、確か戸棚にキャンディーが」

「ふせいかーい」

「あれ、違った?」

 

 戸棚の中に皆が自由に食べて良いお菓子が入った透明な瓶がある。小豆くんがお菓子作りの最中につまみ食いに来る包丁くんの為に準備したのが最初だったけど今では皆のお菓子瓶になっていた。確かそこに一口サイズのチョコやキャンディーが入っていた筈だ。それに気が付いたので、戸棚の前に移動しようとした所で腕を掴まれてしまった。不正解だと評価されつつ。

 

「何が正解だったんだい?」

「こんな可憐な恋刀が唇を突き出して待つものと言ったらひとつだろう、きみ」

「うーん?」

「口づけに決まってるだろ。口吸い、きーす」

「口づけぇ?え、何で突然?」

 

 正解が何なのか知ることは出来たけど、その意味が分からず首を傾げる。鶴さんが厨でいきなりキスを求める理由が分からない。僕らは恋刀だから理由と言ったらその関係性だけで十分なんだろうけど、でもちょっと腑に落ちない。キスしたい衝動に襲われたなら鶴さんは不意打ちでしてくる筈だ。

 

「何でって、手伝いの褒美を求めちゃいけないのかい?」

「え・・・・・・、えぇーっ。お手伝いにご褒美がいるの?」

「何でもかんでも無償の善意で手伝うのはきみくらいなものさ。労働にはそれなりの対価をくれなきゃな」

「そう言われると、何も言い返せないんだけどさ。お手伝いしてもらって助かったのは事実だし」

 

 いつもはさりげなくお手伝いしてくれる鶴さん。今日は自分から申し出てくれたからその労力を見逃すことなくお礼を言えて嬉しかったんだけど、本人から褒美をくれって言われると何だかなあ。いやね、褒美って言うのが好きな料理を作って欲しいとか、内番を代わって欲しいとかなら全然構わないんだけど。キスって言うのは、ちょっとなあ。

 心の中でひとりごちて居ると、鶴さんは再び唇を見事な3の形に作った。目も閉じていない。いつもキスする時はそんな顔しないじゃないか。鶴さんなりに分り易くアピールしてるつもりなのかな。

 

「というか、ここで?」

 

 3の唇の上下が僕の疑問にむにむに動いて応える。ここでしろってことだ。こうなると鶴さんは頑固だからなあ。

 

「もう・・・・・・」

 こっちが唇を尖らせたい気分だよ。溜め息ひとつ吐いて、その細い両肩に自分の黒い両手を置いた。まだしないよ、だからそんなじーっと見ないでよ。

 厨の中、出入り口に視線を走らせる。耳も澄ませてみたけど、周辺では足音一つ聞こえない。誰の気配も感じない。ここで誰かひとりでも厨の周辺にいてくれたらそれを理由に出来たのにな。そうなったらまず鶴さんの方がこの構えを解きそうだけど。僕以上に変な所で隠したがり屋だから。僕の『自分だけに向ける対恋刀用の顔』を誰にも見せたくないんだってさ。まあそれは僕も一緒だけどね。

 今はふたりきりとは言え、ここは皆の食事を作る厨だ。誰にも見られる心配がなくても少しだけ躊躇してしまう。しかも朝っぱらから。両肩を持ったまま、動きを止める僕にまた唇がむにむに動いて僕を促す。分かったよ、さっさとすればいいんだろう。

 鶴さんは目を瞑ってくれないけど、僕も凝視したままキスするのは変な気がして鶴さんに顔を近づけながら目を瞑った。もう何度もしていることだから、今更距離感を見誤ったりしないよ。

 薄く、けれどそれなりに柔らかな感触が僕の唇の先に訪れる。更に全体を触れ合わせる為に押し付けるといつもの様に軽い弾力感が返ってくる。長くするつもりは最初からなかったので素早く唇を離した。二つの唇が離れる時にちゅ、と音が鳴ったのは鶴さんが唇を突き出していたせい。絶対わざと音立てただろう。

 

「はい、これでいいかい?」

 

 何度繰り返してることでも、未だにキス一つに鼓動が早くなってしまう僕は鶴さんの視線から僅かに目を逸らした。軽いキスでも残る感触が濃すぎるんだよ。嫌だな、僕、ずっと恋愛に不慣れな子供みたいだ。ふたりで出来ることはもう全部してると言っても過言じゃないのに。

 両肩を掴んでいた手を離そうとすると、白い手が素早く動いてそれを留めた。鶴さんはまだその場を動く気はないらしい。

 

「まだ皿洗いの分が残ってるぜ」

「別カウントなの!?」

「そうさ」

 

 悪びれもなくそう言う。別カウントなら別カウントだって最初に言って欲しかったんだけど。というかご褒美にキスを強請られるんだったらお手伝いお願いしなかったのに。

 今更嘆いても遅い。鶴さんはまた唇を数字の形に変えてしまったので、それを解くにはもう一度キスを落とすしかない。僕はさっきと同じ様にまた目を瞑り、鶴さんの望むご褒美を唇に落とした。もう、また唇を離す時にわざと音をさせた。そのちゅ、って音意外と耳に残るんだよ。夜ならまだしも今から一日が始まる朝にはやめてほしいよ。物事に身が入らなくなるじゃないか。

 僕の心の愚痴が聞こえない鶴さんは、じと目になった僕の片目を受け止めてもどこ吹く風。むしろ2回目のキスを終えるとにぱっ!と無邪気な笑みを浮かべた。

 

「ありがとな!光坊!」

 

 そして甘い雰囲気を醸し出すでもなく、赤くなっているだろう僕の頬を指摘するでもなく鼻歌を歌いながら厨を出て行ってしまった。僕を連れていくことなく。

 

「・・・・・・ただ、それだけ?」

 鶴さんはただキスをしてほしいが為にわざわざ朝餉の前に厨に顔を出して手伝いを申し出てきたのだろうか。僕と共によく分からない疑問が残されてしまった。キスしてほしいなら、手伝いなんて申し出なくてもしてあげるのに。鶴さんが望んでくれるならいつだって、とは言えないけど、時と場所に問題がなければすぐに応えるのに。

 

「まあ、あのひとも気まぐれだから」

 

 驚きには分り易く反応を見せるけど基本的につかめないひとだ。そこが魅力的でもあるし、鶴さんに選んでもらった時から振り回される覚悟は出来てる。あまりごちゃごちゃ考えるのはやめよう。数日後に当時の鶴さんの意図が分かるなんて頃もざらだし。鶴さんも満足そうにしてから、良いや。

 僕はそれ以上深く考えるのはやめて厨を出た。鶴さんの僕への用事があれだけならば、午前中はずっと時間が空いている。というか今日は朝の厨当番しか入ってないから夜までずっと自由時間だ。やりたいことは沢山ある。今日一日をどう過ごそうか。

 そう言えば謙信くんが字の練習を見て欲しいって言ってたな。いつも午前中頑張ってるから顔を出してみようかな。それから、そうだ、ハンカチにアイロンをかけなきゃ。昨日シャツにしかかけられなかったから。後は、そういえば書庫の本の一部の並びがバラバラになってたのがちょっと気になってたんだよね、整理しにいこう。農具倉庫の裏手の掃き掃除もしたいな、どうしても汚れやすいからね、あそこは。あー。布団のシーツも洗濯したかったんだった。でも昨日も雨だったし洗濯機は午後にならないと空かないかな。でも午後に洗うと乾かないかもしれないな。シーツは明日洗えばいいや。

 一日の予定を立てながら謙信くんを訪ねると予想通り彼は一生懸命字を書く練習をしていて、午前中いっぱい謙信くんの練習に付き合うことになった。そのままの流れで一緒に昼餉を食べて、午後からは謙信くんも他の子と遊ぶ約束をしていたらしく解散をした。僕も立てた予定に沿って午後の活動を始めることにした。

 したのは良いのだが、僕が予定に沿っていく先々に何故か鶴さんがいた。今朝別れてそのままだった鶴さんが。

 最初は僕の部屋だ。そこに行くと鶴さんが居た。僕らは同室なので、鶴さんがいた事自体は驚かなかったのだけど、僕が驚いてしまったのは鶴さんが丁度アイロン台を箪笥と壁の間に収納している姿を見たからだ。

 この部屋のアイロン担当は僕の方。顕現当初に道具の使い方は一通りレクチャーを受けることになっていて、アイロンもその対象に入っている。鶴さんもアイロンが使えない訳じゃない。けれど鶴さんは純白の衣装を好んで着るから、僕のスーツと一緒に政府運営のクリーニングに出すことが多い。そうでない時もアイロンをかけるのは専ら僕の役目だ。押し付けられた訳じゃない。好きなひとにはいつも気持ちよく、格好良く服を着て欲しいから、自分から申し出たんだ。恋仲となって僕らが同室になった当初からずっとそうだから、僕はこの部屋で鶴さんがアイロンを使っている姿を見たことがない。だから驚いたんだ。

 僕が部屋に帰ってきたことに気付いた鶴さんはまず「お帰り、光坊」と声を掛けてきて、それからちょいちょいと指先の折り曲げで僕を呼んだ。驚きつつ呼ばれるままに隣へ行くと鶴さんは箪笥の一番上の段の、左側。つまり僕のものが入っている引き出しを開けた。そこにはぴしっとした折り目が気持ちいい、皺ひとつないハンカチがずらりと並んでいた。僕は部屋に入って二度目の驚き。

 これ、鶴さんがしてくれたのかいと聞こうとして鶴さんの顔を見た。そこで固まってしまったのはすぐにやって来た三度目の驚きのせいだ。鶴さんがまた上目遣いで唇と尖らせてたせい。もはやそれがなんの表情かなんて聞かなくても分かる。というか聞いても無駄だ。正解を知っている僕が何を聞いたって鶴さんは唇をむにむにと動かすだけに決まってるんだから。

 僕は余計な抵抗をせずに待っている唇にご褒美を届けた。三度目だから、と言うよりいつもキスを交わしてる自室でだから今朝よりは大分落ち着いて口付けることが出来た。すると鶴さんはまた「ありがとな!」という感謝と共ににぱっ!と笑って部屋を出ていってしまった。もう、悪い予感しかしない。いや、悪くはないんだけど。僕も好きなひと、鶴さんとのキス自体は大好きなわけだし。

 予感を引きずったまま書庫に足を運ぶ。そこにはやはり鶴さんがいた。僕が整理したいと思っていた、本の並びが一部バラバラになっていた本棚の前に。両手を腰に当て胸を張るそのひとの前にある本棚は先日僕が見た時と違って、全ての本の並びが綺麗に作者順、または本の種類順になっていた。得意げな出で立ちの鶴さんはドヤ顔ならぬドヤひょっとこ口になっている。信じられなかった。その顔が、ではなくて、書庫には他にも二、三振りの刀がいた。皆それぞれ本の背表紙や、開いた本に視線を集中させていたけど、一本隣の本棚列や、書庫の中を移動しているのだ。それなのにここで鶴さんはご褒美を求めている。

 僕が首を左右に振る。鶴さんはむにむに唇を動かす。だろうね、それを認めてくれるなら最初からここでご褒美を求めたりしないだろう。

 

「音は立てないでよ」

 

 どうかそれだけは聞き入れて欲しくて鶴さんの耳元に囁く。鶴さんはこくりと頷いてくれた。若干の安堵を感じつつ、本日四度目となる口づけの為に顔を近づける。前の三度と同じだと完全に油断していたのが悪かった。唇をくっつけた途端、後頭部を掴まれ固定されてしまったのだ。それ以上の事、舌を入れてきたり、なんてことはしなかったけど強制的に長めのキスにされてしまった。周りに誰かがいる状況だったせいで、たったそれだけのことでも僕は肩が跳ねる位に驚いてしまう。静かな書庫で唇を合わせたまま、その間に誰かの本を捲る音がするとその度心臓が破れそうなほどだった。約束通り音は立てないでいてくれたけど、こんな驚きを頂戴とも言ってないよ僕は。ばか。

 唇を離した後、鶴さんは自分自身の唇をぺろっと舐める。美味かった、みたいな顔やめてくれないかな。僕の唇は緊張のあまり痺れた感覚になってるよ。流石に少しは怒っても良いと思ったから、細い右肩を拳で上からどん、と叩いたけど目の前の驚きおじいちゃんは反省の色を見せることはない。またにぱっ!と笑って僕を置いたまま書庫を出ていってしまった。僕なんか安堵の息を吐くのも憚られてるって言うのに。変なのは僕の方なのかな。恋仲って公共の場でもキスなんて平気で出来るものなのかい?良くないと思うよ、僕は。

 次に農具倉庫の裏に行く。もう分かってたけどね。やっぱり鶴さんがいた。そして僕が掃除する予定の所が綺麗になっていた。はい、知ってました。そこでも誰が通るか分からないのにキスを強請られたのでちゃんと応えると鶴さんはまた先に去っていった。

 その後僕が思い立ってある場所に行くと必ず鶴さんがそこで待っていて、僕がやろうとしていたことを終わらせていた。大きなことからこまごましたことまで。

 このひと僕の思考を読み過ぎだろう。確かに、寝る前に次の日のお互いの予定を離し合ったり、気になってる事を聞いてもらっていたりしたけど、普通全部覚えているものなの?というか、これ、僕が午前中に謙信くんの練習に付き合ってる時に全部終わらせたのかい?すごいよ。僕よりもすごいよ。何でやれば出来るのに、いつもはやらないの、とは言わない。何で今日に限ってこんなことするの?とは言いたい。

 ここまでくると鶴さんが僕の先回りしてるんじゃなくて、僕がキスしてほしくて鶴さんを追っかけてるみたいになってくるじゃないか。酷い誤解だよ。

 結局、今日は一日中そんな感じだった。夕餉の時は流石に何もなかったけどね。後、浴場にいる時。浴場にいる時にされてたら本気で怒ってたかもしれないから、鶴さんはやっぱり僕の思考を非常に良く理解している。恋刀としては嬉しい事この上ないけど、こういった時はかなり厄介だ。常識外れのひとを好きになるものではないと思うよ。僕以外のひとは、ね。

 

「わあ、すごい。シーツまで洗ってくれたのかい」

 浴場から帰ってくると鶴さんは僕が動く前にさっさと布団を敷いてしまった。それどころか洗濯物の中から洗い立ての布団のシーツを取り出しそれの装着まで。手際よく進められる工程を見ながら僕が言えたのはそれだけだ。

 綺麗に並べられた布団の片方に俯せに倒れ込んでシーツに顔を埋める。良い香りだ。洗剤とお日様の香り。心が安らぐ。どうやら枕カバーまで洗ってくれていたみたいで、抱きよせた枕も同じように良い香りがした。鶴さんってほんと僕に対しては細やかだよね。

 

「光坊、光坊」

 

 柔らかな香りにすっかりそのままの格好でリラックス状態に入ってしまっていた僕の肩を、ちょんちょんと細い指が突っつく。まあね、今日一日徹底的にご褒美を求めてきた褒められたがり屋さんが最後の最後でご褒美を逃したりするわけないって分かってたよ。

 まだ何処か温かさが残っている白いシーツに手を突いてむくりと身体を起こす。そしてシーツと同じ色したそのひとを見た。ねえ、またその顔するの。今日一日ずっとその顔見てたから夢に出てきそうだよ。夢の中でもご褒美にキスを強請るつもりなのかい。 

 言いたい事は色々あったけど、この状態の鶴さんに何を言っても無駄なので黙って顔を近づける。もう他にご褒美を強請れることはないだろうし、これが最後のご褒美だ。そう考えたらこちら側から少しくらい仕掛けても良いんじゃないかな。意趣返しの意味もある。それに加えて今日一日中触れるだけのキスを繰り返させられたのだ。僕にだって好きな人が欲しい気持ちも我慢の限界もあるよ。今は時と場所も問題ないんだし。

 そんな気持ちで顔を僅かに傾ける。深いものが欲しいから、より触れ合わせられる様に。お互いの唇の先がちょん、とくっつく。僕の唇が望んでいたキスをようやく交わせると思った瞬間、唇の先が急に涼しくなった。理解するより前にぱちりと閉じていた片目を開けると、目の前にいたはずの鶴さんの顔、3の形をした唇もいなくなっていた。

 

「えっ、」

「ありがとなみつぼー。そいじゃあおやすみー」

 

 驚いていると左下から声。見れば、鶴さんがもそもそと自分の布団にもぐり、掛け布団を自分の肩まで引き上げていた。す、素早い。

 

「も、もう寝るの?」

「おー。今日滅茶苦茶働いたからなぁ。疲れたみたいだ」

「そ、そう」

 

 ふわあとあくびされながら言われると、そんな・・・・・・。とも言えない。実際今日の鶴さんはいつも以上に動きっぱなしだった。ご褒美の為に通常の三倍は働いてたかもしれない。それだけご褒美が欲しかったのだろうか。それにしては最後のご褒美の受け取り方は随分とおざなりだったけど。

 というか鶴さんは本当にご褒美の為に一日中働いていたのかな。そこが腑に落ちない。普通に望んでくれれば与えられるものを、ご褒美として強請られるなんて。もしかして僕の愛情を測っていた?どこまでならご褒美に応えるかを?だとしたら非常に心外だ。

 それ以上に心外なのは、この状態で僕を放置することだよ。あれだけ触れるだけのキスを繰り返させておきながら自分だけ満足して、僕の事は考えないのかな?僕が回数を重ねる毎に、こう、もやもやというか、悶々というか、そういう感じになってきてたのをこのひとが気づいてないって?それこそ、僕の愛情を測れてないんじゃないの?僕だって好きなひとと唇を合わせてるのに何も感じないほど枯れてないよ。そんなの鶴さんが一番良く知ってる筈なのに。

 

「・・・・・・」

 のそりと身体を動かした。布団のこんもりとしている部分を踏まない様に、鶴さんのお腹辺りの横に両膝を突く。そして上半身をかがめたまま、両手をそれぞれ鶴さんの左右の耳あたりの横に突き、自分の身体を使って上から簡易的に鶴さん閉じ込める檻を作った。

「鶴さん」

「うーん・・・・・・」

 目をしぱしぱさせる寝ぼけ眼なそのひとに了承も取らずに唇と近づける。良いよね、これくらいは。ちゃんと理由があるんだし。

 今は殆ど目を開いていない鶴さんの唇に、今日何度目になるか分からないキスを落とした。少し、長めに。深いのはしないよ、ちょっと腹が立っても疲れたひとの眠りを妨げたい訳じゃないんだ。我慢できないくらい眠いのならこれで終わらせるから。

 僕のものではない右手が掛け布団の中から伸びてくる。それは拒絶の為に僕の胸を押し返すのではなく、頭の方にに伸びてきて優しく髪を梳き始めてくれた。その手は唇を僅かに離し、塞がれていた言葉を紡げるようになっても止まらなかった。

 

「どうした、光坊」

 

 僕の唇に吐息を当てながら鶴さんが優しく問いかける。聞かれると思っていたから僕は用意していた理由を伝えることにする。

 

「今日、朝の厨当番、頑張ったんだ」

「ご褒美が欲しかったのかい?」

「・・・・・・うん」

 頷いて見せたものの、内心のたうち回るほど恥ずかしい。ご褒美って!当番なんだから頑張るのは当たり前なんだよ。そもそも頑張るっていうのは誰かに褒めて欲しいから頑張るんじゃなくて、自分自身や皆の為に力を発揮するから自ずと頑張った事になるわけで!当番じゃないのにお手伝いをしてくれた鶴さんがご褒美を求めるのはまだ分かるけど、僕が朝の厨当番で頑張ったことのご褒美を求めるのは違うんじゃないかな!?しかも鶴さんに!

 心の中の僕が声高にそう主張するのだけど、仕方がないじゃないか。咄嗟の理由がこれしか思いつかなかった。それに優しく細められている鶴さんの金色を見ていると理由なんて何でも良いような気がしてくる。

 

「昨日もね、玄関の掃き掃除と靴箱の整理したんだよ。畑当番の手伝いもして、その後も残って草取りしてたんだ。後、書類仕事の手伝いと、溜まってた落とし物の持ち主探しと、」

「そうか、いっぱい頑張ったんだなぁ」

 

 僕の後頭部を撫でていた手が、重力の方向へ軽く引かれてそれによってわずかしか開いてなかった唇同士の隙間がなくなる。このまま深くしてほしいのに、鶴さんのもう一つの手が僕の頬に触れ、唇を離させた。

 

「そら、きみの欲しがってたご褒美だぜ。これでいいかい?」

「・・・・・・もっと」

「もっとって?何回だ?」

「僕が頑張った分だけ」

「そりゃあ、一回や二回じゃ足りないな」

 

 その一言と同時に、くるりと世界が反転した。後頭部に在った男のひとの手が抜かれて後頭部にふかふかとした感触が当たる。そしてさっきまで僕がいた位置には見下ろしている鶴さんの姿があった。随分と機嫌よく目を弧の形にしている。その弧の奥には蜜漬けみたいにひたひたに濡れた甘さと、それを狙う獣の狡猾さの混じりあいが見え隠れしていた。

 

「今夜は褒美の雨を降らせてやるしかなさそうだなぁ、鶴さんの唇が腫れちまうかもしれん」

 

 数分前にあくびをしていた口は、もう眠気なんて微塵もなさそうにそう言った。

 鶴さんはもしかしてこの展開を狙っていたのかな。それとも別にあった思惑を僕がこんな形にしてしまったのか。今となってはどちらでも良いか。今日という日をこうしてふたりで閉じることが出来るなら。

 僕は唇に降ってくるご褒美を今度こそ深い物にするべくその首に両腕を絡ませた。

「一回や二回じゃ足りないな」の言葉通り鶴さんは何度も僕にキスを降らせてくれた。それこそ身体中に。愛されていることを身を持って知れるのは、いつだって何度だって嬉しい。嬉しいけれど。

 そのせいで焦らしに焦らされたこと、半泣きでお願いしても結局僕が泣くまで本当に唇でしか触れてくれなかったこと。僕はしばらく根に持ちます。ご褒美が欲しいと言ったのは確かに僕だけど、何事にも限度があるんだからね!

bottom of page