生臭い匂いが生ぬるい空気の中に漂っている。
これが嗅ぎ慣れた血の匂いであれば、この疲労感も高揚感へと変わっていただろう。
同じ生臭さでも、己が纏っているのは磯の生臭さだ。
夜闇の中、出来るだけ音を立てない様に歩く廊下。灯りがなくとも鶴丸が歩いた後に、水気のある足跡が出来ていないのは分かった。鶴丸が全身に海水を浴びたのはもう半日以上前のことだ。ずぶ濡れになっていた髪や衣装も既に乾ききっており、残った塩気だけがあらゆる柔らかさをからからと固めている。だから廊下にも足跡は残らない。例え夜目の利く者が鶴丸の行き先を探そうとしても暴かれる心配はない。まあ足跡なんて無くても行き先の目星はつけられていると思うが。
年始ぶりの連隊戦。鶴丸以外の二十三振りは汗と海水を落とすために風呂へと直行しているだろう。いくら夜中の帰還と行っても塩に塗れた身体で眠るのは難しい。生身の肉体は錆びることはないと分っていても、まだ海の塩気を畏怖する刀もいる。連隊戦から帰還した刀達はぞろぞろと列を作って大浴場へと向かうのが常だ。
鶴丸もいつもはそうしていた。けれど、今夜は身を清めるよりも先に見たい顔があったのだ。
眠っている刀達を起こさぬように、静寂を保ったまま歩を進める。暗闇の中でも迷いなく歩けるのは勝手知ったる本丸の中でも特に足を運ぶ道筋だからだ。似通った部屋が並ぶ中、間違うことなく目的地を見つけ静かにその部屋の障子戸を開けた。
部屋の中には灯りはない。空き部屋だからでも、部屋の主が不在だからでもない。ただ単に部屋の主が眠っているからだ。
静かな動作で足を踏み入れ、後ろ手で障子戸を閉める。部外者が部屋に侵入してきたと言うのに、部屋の主は布団から跳ね起きる気配を微塵も見せない。それは彼の士としての感覚が鈍っているわけではなく、彼にとって鶴丸が部外者ではないという証拠だ。
鶴丸の気配はもはや他者の気配ではなく、自分の領域にするりと入ってきても彼自身の気配と溶け合っているのだろう。だからこの部屋の主は未だ夢の中の住人である。とは言え、大きな物音を立てれば普通に目を覚ましてしまうだろうから、なるべく息を殺し、敷かれている布団へと近づいた。
何時もは右向きの体勢が多い彼だが今夜は仰向けに眠っている。眼帯を外した素顔を闇に慣れた目で眺めながら、布団の右側に腰を下ろした。こんなに至近距離に来ても燭台切は目を覚ます様子はない。よく眠っている様だ。
ただいま。声に出さず、唇だけで囁いた。
連隊戦が開始され、二週間以上が経っている。その間、昼戦要員として鶴丸は出ずっぱりだ。戦場に出られるのは嬉しいが、強さのみではなく水砲兵を多く装備出来るかどうかが選出の基準になっているので編成に組み込まれたことを手放しに喜んでいいのかは悩み所である。
それに、戦場と言っても血の臭いは殆どしない海辺。活躍するのは装備した水砲兵ばかりだ。鶴丸に宛がわれる筈の敵は、水流に押し出され海へと流れていってしまう。
鶴丸に与えられるのは磯の臭いに焦がす様な日の光。戦場の高揚感ばかり冷却され、疲労ばかりが溜まっていく。敵ももう少し出現するべき場所を考えてはくれないだろうか。それとも、海辺のバカンスとやらを楽しんでいる時間遡行軍の避暑地に奇襲を掛けているのはこちらの方なのか。末端の兵である鶴丸には分からないことだが。
指先で闇色に染まっている前髪を軽く払ってやりながらそんなことを考える。すぅすぅと寝息をたてて眠る姿に、自分自身の肩の力が抜けていくのが分かった。
戦場での不完全燃焼、磯の匂いと暑気での疲労。それよりも堪えていたのが、燭台切とまともに顔も合わせられなかったこと。
鶴丸の担当は昼戦のみだが、夜戦部隊が終わるまで出陣先で待たねばならない。夜中に帰還して、風呂に入り、夜食を食べて眠る。朝は食事と出陣準備をしてすぐに出陣。連戦隊部隊以外の刀とはすれ違いばかりだ。連隊戦には慣れたものとは言え、次第に士気も下がってしまうと言うもの。会いたい相手とも碌に会えないとなればそうなるのが普通だと思うのだが、単に鶴丸が未熟だからなのだろうか。
「ん・・・・・・」
夢の妨げにならない強さで右頬を指先で突いていると、寝息の中に一瞬鼻声が混じる。少し寄った眉間に慌てて指を離し息を潜める。すると眉間の皺は燭台切がアイロンを掛けたシャツの様に綺麗に伸ばされ、またすぅすぅと規則正しい寝息が立ち始めた。起こさなくて良かった。
生ぬるい夜だ、せっかく寝付いて気持ちよさそうに眠れているのに起こしたくはない。彼の中の灯の色を見られないのは残念ではあるし、突如の訪問に驚かせたい気持ちはあるが、やはり燭台切の快眠の方を優先させたい。
出していた指先を引っ込めて、寝姿を眺めるだけにした。良く考えればこうして寝顔をまじまじと眺める機会もあまりないのだし。
燭台切の寝顔は、表情がない分作り物めいた硬質さも感じさせる。その一方ですやすやと健やかに眠る様は精巧な美麗さを、どこかあどけなくも感じさせた。立派な丈夫でありながら稚い部分も見せる燭台切独特の性質、その矛盾した性質を寝顔でも表している。
ふっ、と愉快な吐息が漏れ自分の目が細まるのが分かった。久方ぶりに訪れた、嘘偽りない情動。安息と充足感。驚きも何もない、ただ寝顔を見ているだけなのに。いとも簡単に満たされていく自分に笑った唇が少し苦い物を含んでいく。
もう何百年も自分の中にはぽっかりとした穴が空いていた。心が死んでしまわぬようにあの手この手を尽くしても、必ず空っぽの部分が鶴丸にはあった。それが普通の事で、どこか欠落しているのが自分だ。そう、ずっとずっと満たされないことが当たり前だった。
けれど一度心が満たさる心地よさを知ってしまった。この燭台切によって。すると途端に渇きに弱くなってしまった。心が渇いていくことが恐ろしく、虚無を抱えている自分が酷く弱い存在のような気になっていく。渇き、欠落している自分こそが自分自身だというのに。
満たされる程、渇きに弱くなって。いつか満たしてくれる燭台切の想いさえ全部飲み干して、それでも恐ろしい、まだまだ足りないと彼自身を飲み込んでしまう日が来てしまうのではないか。少しだけそんなことを心配してしまう。可能性は零だとは言い切れない。自分の性質は把握しているつもりだ。
「そうなったら、逃がしてやらんとなぁ」
ぽつりとだが、思わず呟いてしまって慌てて口を噤む。燭台切の規則正しい寝息は変わらない。今の未練がましい強がりは聞かれなかった様だ。彼の夢を妨げなかったこと以上に安堵する。今の声は聴かれたら格好悪すぎる。自分の凶刃から逃がしてやらないとと言いながら、逃がしたくない気持ちが透けた声など。
足りない燭台切を充電しに来たつもりだったのに、段々と思考が暗い夜闇の色へと染まっていく。余り長居はすべきじゃなさそうだ。寝顔も見られたのだからそろそろ鶴丸も風呂へと向かうことにしよう。明日も出陣だし、あまり遅いと別室で既に就寝したと思われて夜食も下げられてしまう。
大きな音を立てない様に、畳に両手を突いて下ろしていた腰を上げる。畳に両手と膝を突いたまま立ち上がろうと迷い、そのままの格好で更に布団に近づいた。そして汚れた身体を布団に触れさせない様に注意しながら、すやすやと眠る燭台切に覆い被さる。
軽い口づけくらいならば眠りの妨げにならないだろう。そして、鶴丸と燭台切の関係ならば、許可を取らない口づけも許される筈だ。
畳に手を突いたまま肘を曲げ、身体を屈める。覆い被さった時から大して距離のなかった二つの唇の距離はあっけなくなくなり、夢の中にいる燭台切の唇を塞ぐことが出来た。
起こさない様に一瞬だけと思いつつ、久しぶりの感触に脆い制限は簡単に壊れてしまう。理性に働きかけ唇を離してみても、重力に引かれて燭台切の唇へとまた落ちていく。角度を変え、何度も塞ぎ直す。唇を重ねる度に、そろそろ起きてしまうと叱咤しているのに番いを見つけてしまった唇は中々離れようとしてくれない。
「んぅ、ぅ・・・・・・?うぅー・・・・・・」
続く夢の中の道で小石に躓いた様に、とうとう安らかな寝息が止まった。そして心地よい低音を喉の奥に引っかけてぼやけた意識のまま唸る。慌てて身を起こす。
「んー?・・・・・・つ、るさ・・・・・・?」
が、案の定間に合わず。ぼやぼやと開ききらない灯が月の光に炙られゆらゆらと鶴丸を捉えた。いつもは隠されている右のものと一緒に。
瞼を手のひらで閉じてやったら夢へと戻してやれるだろうか、今なら。そう思うのだが、咄嗟に眠りへと誘うことが出来なかった。しくじった失敗を嘆く心より、見つめられた喜びの方が一瞬勝ってしまったせいだ。
「ごめんな、光坊。起こすつもりはなかったんだ」
「どうか、したの・・・・・・?」
「いいや、きみの寝顔を見に来ただけさ。もう満足したし風呂にも入らず来たもんだから、そろそろ出ていこうと思ってたところだ」
寝ぼけ眼はゆらゆら瞳のまま鶴丸を見ている。そこに心配の色が浮かぶ前にこの部屋を出なくては。
「だからもう一度おやすみ。もう朝まできみの眠りを妨げるものは現れないから」
今度こそ立ち上がる為に畳に手を突き、腰を上げる。
「つるさん・・・・・・、あのね・・・・・・」
すると瞳をうつらうつら瞬きさせる燭台切が何事かを鶴丸に伝えようとする。けれどまだ夢を引きづっていそうな声は、語尾の言葉をもにゃもにゃとぼかしていってしまう。眠いだろうにこの状況で何を鶴丸に伝えようと言うのだろうか、それとも寝ぼけているのだろうか。そう思いつつも、燭台切の言葉を聞くために距離を取っていた身体をまた近づけさせる。小さな言葉も聞き逃さない位に。
「なんだ?光坊、何か俺に・・・・・・うわっ!?」
耳を燭台切の口元に近づける為に更に身体を屈めた所で、背中から何かに押さえつけられる。それは二本の長い腕で、あっと言う間に鶴丸の身体へと巻きついた。鶴丸は腕の力に逆らえず、横たわっている燭台切の体へと被さった状態で密着することになる。
いきなりの事に目を白黒させていると、何時もよりのんびりした笑い声がくすくすと聞こえた。
「み、光坊・・・・・・」
「んー・・・・・・?」
「お、俺昼間に海水浴びたまま風呂入ってないんだが・・・・・・、衣装も着替えてないし」
本格的に目が覚めているのかを聞く前に、自分が汚れている申し訳なさがあり申告する。腕に触れている服も、今燭台切の頬を掠めている髪も固く、抱き心地も悪い。燭台切の行動の意図は読めないがそこは、正直に言っておかないと。
汚れている身体で抱きしめ返すことも出来ず手の行き場を彷徨わせながら言うと、燭台切は再度「んー?」とのんびり返す。
「ふとんも、服もあした洗えばそれでいいよ。でもさぁ、ここにいるつるさんを抱きしめられるのは今だけだから・・・・・・」
ふわふわとした口調に似合わない強さで腕は鶴丸を抱きしめている。けれどすぐにふわぁと、何とも心地よさそうなあくびが鶴丸の耳元で鳴った。覚醒してるんだか、寝ぼけているんだかいまいちわからない。わからないが、燭台切がそう言ってくれるなら、汚れている鶴丸でも構わず抱きしめてくれるなら鶴丸にこの腕を拒む理由はひとつもない。
ふわふわのあくびを耳に直接吹き込まれたのもあって、鶴丸の肩の力が抜けていく。頼もしい身体に身体を委ねる様に被さったまま、鶴丸も燭台切を抱きしめ返した。
すると、ふふっ、と嬉しそうな笑い声。直ぐに鶴丸の首筋に鼻先を埋め、すんすんと鼻を鳴らす。
「つるさん、海の香りがするね」
そう笑って、生ぬるい夜闇に似合わない夏の嘆美を汗臭い首筋に押し付けた。かと思いきや、またすぐさますぅすぅと規則正しい寝息が鶴丸の固くなった髪を揺らし始める。やはり、寝ぼけていたのだろうか。判断はつかない。けれど、今の行動が寝ぼけからだとしても鶴丸は燭台切の腕から抜け出そうとは思えない。今のことを忘れてしまった燭台切に、明日の朝汚れた体のまま抱きついたことを怒られたとしても甘んじて受けよう。
我ながら現金なものであんなに不快だった磯臭さも、心地よい潮の香に思えて来た。心地良い入眠への好機を逃そうとは思わない。風呂には明日の朝に入ればいいだろう。
何より、この部屋を訪れる前までは渇きに渇いていたこの心が、穏やかな海が広がっていく様に満たされていくのが楽し過ぎてここから動きたくない。
鶴丸にどんな巨大な虚無があればこの男の全てを飲み込めるだろうか。いつか鶴丸の渇きが燭台切の想いを飲み干す日来るとしても、それはこの星から海がなくなるくらい長い長い時間の先になるだろうなと、あくびをひとつしながら考えていた。