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「今日は三条の飲み会に誘われてるんだ」 

 だから、また明日な。夕餉の後、片付け中の僕を訪ねわざわざ厨に顔を出した鶴さんはそう言った。

 僕と鶴さんが所謂恋仲となって一ケ月程。その間習慣になっていた夜の散歩が今日はない。お互いにあったことを話しながら庭を散歩する時間は僕にとって楽しみであり、次の日の活力になっていたからそれがないとなると残念だ。鶴さんには「うん、わかった。また明日ね」と笑顔で答えたけど。

 寝る前の予定がぽっかり空いた僕は、いつもより長めのお風呂で汗を流し、最近は訪れていなかった談話室こと大部屋に顔を出し久しぶりにカードゲームなんかに興じた。途中から物吉くんvsその他の構図になり、場は大いに白熱した。気づけば夜も大分深くなっていて、皆大慌てで解散したのだった。

 鶴さんとの散歩でもこんなに遅くなったことはない。僕は朝の厨当番になってることが多いので、気を遣った鶴さんがいつも早めに解散してくれるからだ。出陣や遠征とは違うし、僕も体力が有り余っているので少しの夜更かしくらい大丈夫なのだけど鶴さんの優しさは嬉しいので、我儘を言って散歩を長引かせることはしない。本当はもっと一緒に居たいんだけどね。

 そんなことを考えながら僕は自室で布団を敷き終える。明日の散歩の時に今日のカードゲームの話を鶴さんにしよう。結局物吉くんにはどのゲームでも誰も勝てなかったこと、意外に秋田くんがポーカーフェイスが上手でババ抜きに強いこと、明石くんは当番を賭けると信じられないくらい強くなること。もう長く一緒に暮らしている皆の新たな発見を早く鶴さんと共有したくてたまらない。

 話したいことが山ほどあって常より口数が多くなる散歩中の僕に、鶴さんはまた優しい顔で相槌を打ってくれるだろうか。いつもは明るくて雄弁な鶴さんだけど散歩中は物静かだ。悪い意味じゃなくて、すごく穏やかになるってこと。年相応の風格を出してる姿は格好良いし、鶴さんも僕とふたりだけの時間を心地よく感じてくれているみたいで嬉しい。

 闇の中でも白銀にきらめく鶴さんの微笑みを思い出したのと同時に、ふと、最近よく目にする鶴さんの姿が脳裏に浮かんだ。そう言えば最近の鶴さんは良く言葉に詰まっている気がする。日常でもそうだし、散歩の時でもそうだ。他の刀がいる時はやはりその雄弁さに淀みはないのだけれど、僕とふたりの時は言葉が途切れる姿をよく見せる。恋仲になってから日に日に多くなっているその現象が少し気にかかっていたのだ。

「・・・・・・聞いてもいいかな」

 

 本人も無自覚かもしれないけれど。自覚していたら鶴さんは隠しそうだ。いや、恋仲になったから敢えて隠してない可能性もある。どちらにせよ、さりげなく聞いてみようと思う。鶴さんが嫌な素振りを見せたら話を変えればいいのだし。

 とりあえず今日はもう寝よう。そう思って、布団の上に腰を下ろそうとした時。

 

「燭台切はいるか~??」

 

 自室の障子がスパンッと勢いよく開いた。何事かと驚いて見れば、そこには寝巻に赤ら顔の三日月さんの姿があった。いつも緩やかな瞳の中の三日月をとろりと見え隠れさせて、頭をゆらゆら揺らしている所を見るとかなり泥酔している様だ。というかそうでないと、三日月さんはこんな遅い時間にひとの部屋を不躾に訪れたりしない。

「やあ三日月さん、こんばんは」

「おお!燭台切!いたのか~!」

 

 三日月さんは僕を見かけるとぱああ!と笑顔を咲かせる。その笑顔の美しいこと、美しいこと。ちょっと困った状況だけどその美しさを見ると悪い気はしないのだから美人って得だなって思うよ。

 

「燭台切は毎日よく頑張っているなぁ~、不平不満も言わず感心だぁ」

「あははは、ありがとう。褒めにきてくれたのかい」

 

 何かと思えば三日月さんは部屋に入ることなく、僕を褒め始めてくれる。部屋に入って来たら、三条の部屋に帰ろうねと言って連れて帰ってあげようと思っていたのだけど、そうやって廊下から上半身だけひょっこり出されていると、遠慮しなくていいから部屋に入ってきて話しようよって言ってしまいたくなる。それが分かっていて三日月さんはやっているのだろうか。

 

「そうだ、労わりにきたぞ。ほーら燭台切、じじいからの褒美だ~」

「えっ」

 

 廊下から三日月さんがぽーいと何かを投げてきた。片手で軽々だったから軽い物かと思ったけど、宙に浮いたそれは想像の数十倍大きく、そして重そうなものだった。でも絶対落としてはいけない。反射で受けとめる格好をとる。

 

「うっ、わあ・・・っ!」

 頑張ったけど、中途半端な体勢だったから勢いと重さに負けてしまって投げられたものと一緒に後ろに転がる。布団を敷いていて良かった。

 

「あー!ここにいましたねみかづき!つるまるをひきずってもっていってはいけないといったでしょう」

「はっはっはっ!見つかってしまったか!はっはっはっ!!」

「もー!しかもここはつるまるのへやじゃなくてしょくだいきりのへやじゃないですか!まちがってますよ!」

「間違ってはないぞ~、この二振りは懇ろな仲だからなぁ。同衾の一回や二回など今更いまさら」

「い、いや、僕らまだそういうのは・・・・・・」

「とにかくかえりますよ!ごめんなさい、しょくだいきり。よっぱらいはちゃんとつれてかえりますからね」

 投げられたもの、つまり鶴さんと一緒に布団の上に転がっている状態の僕の言葉は届いたのかわからないまま、今剣くんの謝罪と共に障子が閉まる音がした。「どうしてみかづきはよっぱらうとこうどうてきになるんですか!もくもくとかじきとうしはじめるいしきりまると、しずかにしくしくとなきはじめるこぎつねまるやいわとおしをみならってください!」という今剣くんの声と三日月さんの楽しそうな笑い声が段々と遠くなっていった。

「どうしよう、この状況・・・・・・」

 

 どうやら意識のなさそうな鶴さんを抱き締めたまま天井を見上げる。気持ちよく眠っているだけならこのまま一緒に寝るのもいいけど、とりあえず声をかけてみようかな。怪我をしない様に抱きとめたつもりだけど、どこか打ってないか心配だし。

 

「鶴さん、つるさーん」

「ん・・・・・・、う、ん」

 僕の胸に顔を埋めている鶴さんの肩を揺すり声を掛ける。鶴さんの吐息が胸元にかかって少しくすぐったい。というかこの体勢、ちょっと、恥ずかしいな。

 

「・・・・・・。・・・・・・?みつ、ぼ?」

「あ、よかった起きた?ねえ鶴さん、どこか痛い所はないかい?吐き気もない?」

「みつぼ、う」

 もそもそと動いて、白銀の頭が上がる。瞳は意識が薄く、ぼーっとしているが僕を認識してはいるみたいだ。綺麗な顔にこうも間近で見つめられるとものすごく照れる。というかこの体勢、この距離に好きな相手がいるって嬉しさと緊張でどきどきしてしまう。

 

「そ、そうだお水。お水持ってこようか。ね。ちょっと待っててね、つるさ、」

「みつただ」

「え、な、なにどうしたんだい?」

 

 酔っている相手にあらぬことを考えそうになってしまう。そんな自分を誤魔化すために体を起こそうとした僕の肩を鶴さんは押さえる。愛称ではなくあまり呼ばれない名前に鼓動を打つ一瞬の隙、鶴さんは僕にのしかかる格好で体重を掛けてきた。両肘を布団に突いたまま中途半端な格好で僕は狼狽える。

 目を白黒させている僕の両頬に鶴さんは手を添える、そして少しずつ顔を近づけてきた。これは、もしや――。さっき浮かんだあらぬことがまた頭を過ぎりそうになった時、鶴さんは何故だか泣きそうな顔をした。

 

「え?つる、さん?」

「・・・・・・、か、」

「か?」

「かわいい・・・・・・っ!!」

「・・・・・・へ?わ、あ!」

 

 言われた単語に思考を止めているとがばりとそのまま勢いよく抱きつかれてしまった。僕は完全に仰向けの状態で布団の上に横たわる。首に鶴さんの両腕を絡めたまま。

 

「格好良い!確かにきみは格好良いさ!最高に格好良い!でも、でもな!可愛いんだよ!俺にとっては超絶!可愛いんだ光忠!」

「え、えーっと」

「頭から足のつま先まで、きみの形作るもの全て。言動、一挙一動全て可愛くて仕方ないんだ!」

 

 鶴さんは僕の肩口にぐりぐり頭を擦りつけながらどこか必死に主張し続ける、もう何度目か分からないけど、どうしようこの状況。

 

「つ、鶴さん鶴さん。ちょっと落ち着こ、」

「でもきみは格好良いが嬉しいよな。可愛いって言われても、嫌だろう?」

「え?う、ううん。別に嫌じゃな、」

「ごめんな、こんなに可愛いって思ってて。きみの望まない言葉ばかり隠し持ってて」

 

 鶴さんが肩口から顔を上げる。そして僕を見つめて頬をそっと撫でてきた。その顔の辛そうなこと。

 さっきから僕の言葉を遮ってばかり。行動も突飛ない。さっきの三日月さんの状態を鑑みると鶴さんもかなり酩酊状態だと考えられる。だから多分、今の言葉は全部鶴さんの本心だ。そして今から僕が何を言っても鶴さんの意識は変わらない。既にお酒でふやけた心にいくら本心を注いでも染み込んでいくことはない。伝えるなら素面の時じゃないと。

 

「図体でかいのに可愛らしい仕草ばかりするのが悪いんだ~!あざとい!可愛い!頭の双葉も可愛い!笑顔が幼くて可愛い!」

「うんうん」

「夜の帝王みたいな風貌で朝の光が似合う健康的な所が可愛い!畑仕事の時泥に汚れて帰ってくる一生懸命さが可愛い!可愛いの権化!」

「いっぱい褒めてくれてありがとう。でも声だけちょっと小さくしようねー」

 

 またも可愛い連発モードに変わった鶴さんの頭を撫でながら僕は天井を見つめる。鶴さんの言う内容に嬉しさや戸惑いを感じるより、どう言えば素面の鶴さんに僕が可愛いと言われても嫌じゃないことを伝えればいいか、頭を悩ませる。明日、鶴さんが今夜のことを覚えていてくれたらまだ少しは話が切り出しやすいんだけど、忘れてたらちょっと厄介だなぁ。

 鶴さんはこの内情を僕に隠したいと思っている筈だから、酩酊状態でそれを暴露した上にどんな状況か覚えていないとなればすごくショックを受けるだろうし。というか、もしかして最近鶴さんがよく言葉に詰まっていたのはこの『可愛い隠し』が原因だったのかな。なんとなくそんな気がする。だとすると鶴さんのこの思い込みは結構根深いんじゃないかな。

 「可愛いの概念そのもの!」とか「可愛いと書いて燭台切光忠と読む!」とか言い始めた鶴さんの頭や背中を撫でながら頭を悩ませていた僕はいつの間にか眠ってしまっていた。

「え、何、なんだこの状況・・・・・・」

「ん・・・・・・、うん、・・・・・・んーっ」

 好ましい音が耳に入ってきて、体が勝手に伸びをする。ゆっくりと開いていく視界に、朝かぁと思考が動き始めた。寝起きは良い方で思考が動くと同時に体も動く。いつもより体が重い気がするけど、気にせず上半身を起こした。

 

「うわっ」

「ん?あ、そうか。そうだった。鶴さんがいたんだね。おはよう、鶴さん」

「み、光坊・・・・・・」

 上半身を起こしたことで、上に乗っていた鶴さんがゴロゴロと僕の体から転がり落ちていく。布団から出てしまい、寝巻が着崩れた格好の鶴さんが呆然と僕を見ていた。ちょっとセクシーな格好だね。というかちょっと心なしか顔が青い。

 

「もしかして気持ちが悪い?吐き気がする?昨日かなり酔ってたもんね」

「俺・・・・・・、昨日ここに来たのか・・・・・・?」

「三日月さんに連れられてね」

 

 連れられてというか、引き摺られて投げ込まれたと言うべきかな。ツッコミが飛んで来ない所を見ると鶴さんは昨日の夜のことをまったく覚えてないらしい。悪い方の予想が当たってしまった。昨日の悩み再びだ。

 

「みみみ光坊!」

「なんだい?」

 

 思案する僕の両肩を、畳の上から飛んできた鶴さんがものすごい勢いで掴む。体調が悪いのか元気なのかよくわからない。力の加減が出来ない所を見るとやっぱり体調が悪いのかな?手も震えているし。

 

「大丈夫か、何もなかったか!?理性を失ったけだものに蹂躙されなかったか!?」

「けだもの?動物ってことかい?別に何もなかったけど」

「何もなかったのかよ!嘘だろ!?この状況で!?」

 安心したけど!という言葉と裏腹に鶴さんは酷く嘆いている。本人も記憶がすっぱり抜けていることをはっきり自覚したみたいだ。その事実だけでこれだけショックを受けているのだから、昨日の心情暴露を教えてしまえばショックのあまり寝込んでしまうかも。やっぱり直球で言うのはやめよう。どうすべきかちょっと考えないと。

 肩を落として何事かをひとりで呟いている鶴さんに手を伸ばす。寝巻であっても格好は整えるべきだし、いつまでもセクシーな格好でいられるのは僕にとっても目の毒だ。それにしても不能とか、酔ってたから逆にとか、さっきから何の事を言っているんだろう?

 

「鶴さん、ちょっとごめんね」

「え?あ、悪い。見苦しかったな」

 

 着崩れていた寝巻を整え始めると、我に返った様子で謝罪された。顔色も戻ってるから、吐き気とかはなさそうだ。

 

「ううん、見苦しいっていうより目の毒でね。ふふっ、鶴さんちょっとセクシーな格好だったから」

「ははっ、セクシーって。それを言うならきみの方がよっぽど・・・・・・」

 不自然に言葉が途切れる。鶴さんの動きも。視線も。何で急に。首を傾げ、動かない視線を追って僕は自分自身に視線を走らせる。肌蹴た肩口、がばがばに開いた胸元がじっくり確認するまでもなく目についた。昨夜鶴さんに何度も肩口をぐりぐり擦られ、寝ている間も鶴さんの頭が動くたびに胸元が開いてしまったらしい。これは恥ずかしい。ひとの着崩れを指摘する前にまず自分の格好を自覚すべきだった。

 

「・・・・・・ごめん。鶴さんの前にまず自分だったね」

「あ、い、いや。こっちも先に指摘しなくて悪かった。俺はてっきり昨夜、ほら、あれだと思ってたから……」

「えっ、誤解だよ。僕、そんなに寝相悪くないよ?」

 ささっと自分の寝巻を整えながら反論する。鶴さんのせいにする訳じゃないけど、いつもはこんなに寝崩れることはないんだ。寝返りくらいはうつけど、朝目覚めて布団から落ちていたことなんてない。鶴さんから寝相が悪いと思われるのも、毎朝この状態だと思われるのもちょっと嫌だ。

 

「俺が言いたいのは寝相じゃなくてな?」

「前に貞ちゃんや伽羅ちゃんと、皆でお泊り会した時も寝乱れてなかっただろう、僕。確かにあの時、布団が鶴さんの隣で緊張してあまり眠れなかったし、朝も一番早く起きて身だしなみ整えたから分りにくかったかもしれなかったけど。・・・・・・だって片想いしてる相手に恥ずかしい姿、見せたくないでしょう?」

「ぅぐっ」

 片恋時の見栄を自ら告白するのは恥ずかしいものだ。同意を求めておきながら鶴さんに呆れられてしまうのが怖くて窺うように視線を送ってしまう。すると鶴さんは自分の手のひらで口元を押さえて、顔を逸らせる。あ、今がそうだ。そう思った。

 こうして言葉を詰まらせたり、途切れさせる鶴さんをもう何度も目にしてる。そしてそれは『可愛い隠し』をしている時の鶴さんだと昨夜気付いたじゃないか。つまり鶴さんは僕に対する『可愛い』を我慢したんだ、今。何が鶴さんの琴線に触れたのかはよくわからないけど。

 

「わ、分かった。光坊は寝相は悪くない!ふたりでひとつの布団で寝ても大丈夫だな!はい、解決!」

 

 自分の不自然な仕草を誤魔化すために話を終わらせた。『可愛い隠し』に気付けば、その不自然さがとても分り易くなった。鶴さんは今、昨夜みたいに心の中で「可愛いの極み!」とか「超超超可愛い!」とか叫んでいるんだろうか。ぽろっと口に出してくれても良いんだけどな。

 

「光坊の寝相問題も解決もしたことだし、そろそろ自室に戻ることにするよ。着替えもしなくちゃいけないしな」

「うん・・・・・・」

 

 期待しても届かなかった様で、いそいそと立ち上がってしまう。確かにそろそろ朝餉の時間だろうし、それまでに身支度を整えないといけない。少しくらいなら構わないけどあまり遅くなってしまうと朝の厨当番に迷惑をかけてしまうから。

 

「じゃあ後でな。っと、そうだ」

 

 またすぐに会えるのに、自室の入り口まで見送る僕を、既に廊下に出た鶴さんが振り返る。何か忘れ物したのだろうか。昨日は身一つでこの部屋にやってきたと思うけど。一緒に部屋の中を振り返ろうとしたけど、その前に色白の手が伸びてきた。

 

「挨拶を返すのをすっかり忘れていた。おはよう、光坊。今日も格好良いぜ」

 

 右手は動物みたいな形を作っていて、口だか嘴だかの部分が僕の左頬を突いた。人目があった時の為に、代替えで頬に口づけてくれたのだろう。人目を気にしがちな僕の為に。鶴さんは大雑把に見えてとても細やかなひとだ。特に僕に関しては。こうやって自分の『可愛い』って素直な感情も心の中に隠し、僕が喜ぶと思って『格好良い』を毎回きちんと口に出してくれる。それくらい僕に気を配って、大切にしてくれる。

 僕も鶴さんに対してそうありたい。そうあるために、どうすればいいのだろう。

 

「・・・・・・ありがとう」

 いつもは嬉しい大好きなひとからの『格好良い』という言葉を素直に喜べないなんて、これは由々しき事態だ。

 朝餉を食べ終えても頭を悩ませている僕は、厨でシンクの掃除をしていた。厨は喧騒から離れている場所で、考え事をするには意外と向いている場所だ。歌仙くんや小豆くんがいれば気分転換に話をしたり、ちょっと相談することも出来る。今はふたりともいないみたいだけど。

 朝の厨当番が片付けた後はごみや洗い物ひとつない。かと言って何か作り始めてしまえば昼の当番に迷惑をかけてしまうので、大人しくシンクを磨くことにした。黙々と磨いていけばその分シンクは綺麗になっていく。悩みは解決の糸口さえ見つかっていないけど、ピカピカになっていくシンクを見ていると心まで晴れる様だ。

 鶴さんの『可愛い隠し』をなんとかしたい。あんなに泥酔してやっと吐露出来た心情だ。あれは聞かなかった振りをし続けていい問題じゃないんだ、きっと。

 それがどんな感情であれ、自分の強い想いを心の中に隠すのは辛い事。片恋をしていたからその辛さがよく分かる。想いは心内にしまうだけじゃだめなんだ。

 精神的に成熟している鶴さんであってもそれは同じ。だから鶴さんの感情もしっかり引き出してあげないといけない。マイナスな想いなら愚痴として聞いてあげたい、自慢話なら一緒に喜んであげたい。そして僕に対しての想いならば、僕が全て受け入れてあげたいと思う。

 昨夜のことを伏せたまま、どう鶴さんに話を切り出すべきだろうか。「今の時代、格好良いより可愛いを目指すべきだよね!」とか?嘘は言えないな。「鶴さんになら可愛いって言われるの、嬉しいよ」とか?鶴さんにならって限定する時点で『可愛い』と褒められるのに違和感があるって分ってしまうかな。

 本当に鶴さんに可愛いって言われたり思われたりするのは嬉しい。だけど、僕は小さくもないし、線が柔らかいわけでもないし。可愛いって小さくて愛らしいってことだから、短刀くん達とか伽羅ちゃんとかそういう子達に使われるのはすごくよく分かるんだけど。

 つまり僕は『自分と結びついた可愛い』って言葉がいまいち受け入れ難いんだろうな。鶴さんに可愛いと言われて嬉しいのはそれが『鶴さんから僕に向けられた言葉や想い』だから嬉しいのであって、その言葉自体が嬉しいわけじゃない。ああ、鶴さんはこういう僕に気付いてるから『可愛い隠し』をしてるんだ。『可愛い』は僕が本当に望んでいる言葉じゃないと思ってるから。

 磨いた後のシンクよりきらりと思考が閃き至る。そうか『可愛い隠し』の原因は鶴さんにあるんじゃなくて、僕の方にあるんだ。

「おみず、よにんぶんくださいな」

 

 可愛らしい声に話しかけられてハッとする。気づけば手も止まっていた様だ。水分も研磨剤も抜けきったスポンジから手を離して、声の方を見ればそこには今剣くんが後ろ手を組んでちょこんと存在していた。

 

「あ、今剣くん」

「このこっぷつかってもいいですか?」

「どうぞ。水差しごと持って行ったら良いと思うよ。ちょっと重いけど零しにくいし、二日酔いのひとは沢山水分を取った方がいいからね」

 

 今剣くんは他の三条の四振りの為に水を取りに来たのだろう。鶴さんを僕の部屋に投げ込んだ後も飲み会は続いたのか、今剣くん以外の四振りは朝餉の場にも出て来ていなかった。重い二日酔いなら水は沢山飲むべきだ。

 冷蔵庫から水差しを取り出して机上のお盆に乗せる。今剣くんは二つずつ重なったコップを抱えて近づいて来た。

 

「きのうはごめいわくをおかけしましたね」

「迷惑じゃないさ。三日月さん、わざわざ僕を労わりに来てくれたみたいだから」

「よっぱらってるときにすることじゃないです」

「あはは、確かに。でも気持ちは嬉しかったよ」

「もー、たまにはおこってもいいんですよ?」

 

 コップが置かれる間に、戸棚前に膝をついて一番下の引き戸を開ける。両手を中にいれて重量ある壺を取り出した。これは日向くんが漬けてくれた梅干しだ。それを抱えて立ち上がる。二日酔いには梅干しが良いそうだから、水と一緒に持って行ってもらおうかな。

 

「梅干し、食べやすい様にキュウリに和えようか?」

「そのままくちにほおりこむからだいじょうぶですよ!」

「そうかい?」

 

 確かに酸っぱいけど日向くんの梅干しは美味しいから大丈夫かな?きゅっと酸っぱそうな顔をする四振りの顔が浮かんでちょっと笑ってしまった。

 

「でも、きのうみかづきがつるまるをつれていってくれてたすかったとこもあったんですよ。つるまる、ずっとみつただ、みつただっていってましたから」 

 

 菜箸と小皿を準備していると昨夜の話題の続き。驚いて振り返ってしまう。

 

「もしかして、鶴さん、飲みの席でもずっとあんな感じだったのかい?」

「かるくよってたときはそんなことなかったんですけどね。あなたのはなしもちょこちょこわだいにでるくらいで。でもでいすいしてからはずぅーっと、みつただかわいい!でもいえない!でもかわいい!をえんえんとくりかえしてました!ちょっとうっとうしかったです!」

「ごめんね・・・・・・」

「しょくだいきりがあやまることじゃないですよぅ!」

 

 楽しそうな笑顔に自然と頭が落ちる。僕のせいなんだ。僕が可愛いって言葉に抵抗があるから。そうじゃなかったら鶴さんだって酒の席で変な愚痴みたいなものを零すこともなく、飲み会でも皆楽しく呑むことが出来たはずなのに。

 梅干しが乗った小皿を、今剣くんが持っているお盆に乗せると「ありがとうございます!」と元気なお礼があった。自分が持っている問題に気を取られていた僕は一瞬の間を空けてから「どういたしまして」と返す。

 今剣くんはその間も気にならなかったみたいでお盆を持って厨から出て行く。かと思いきや、廊下に出る一歩手前で振り返った。

 

「しょくだいきりは、かわいいっていわれるのいやですか?」

 

 どうやら今剣くんは昨日の泥酔した鶴さんの言動や、今の「どういたしまして」が出るまでの一瞬の間で僕の内情に勘付いたらしい。どこまでかは分からないけど、この小さくて愛らしい短刀は長年培ってきた眼を持っている。隠しごとなんて通用しない鋭い眼を。

 

「嫌、というか違和感があるかな。その形容詞は僕に似合わない気がして」

「にあわないですか?」

「小さくもないし、硬質的だし、そこそこ年月も経っている。僕自身それらは良い特徴だと思っているけど、可愛いからは遠い特徴ばかりでもあるから」

 

 自分を卑下してるつもりはまったくない。ただ単純に僕とその単語は結び付かないんだ。

 ただそれだけなのに、今はどれかひとつでも『可愛い』が似合う特徴があれば良かったななんて思ってしまう。与えられた肉体や性質を、今までずっと誇ってきたのに。

 また、ままならない気持ちにぶち当たった気分だ。鶴さんを好きになってからずっと、こう。きっと鶴さんを好きで居る限りずっとままならない気持ちにぶち当たっていくんだろうな、何度も。

「しょくだいきり、ここにきてしゃがんでくださいな」

 それが分かっているのに鶴さんを嫌いになる選択肢なんてまったくない自分に呆れて自嘲を浮かべる僕を、小さな右手がちょいちょいと呼びよせる。左手だけで持っているお盆がぐらつくのが心配で僕は急いで今剣くんの前にしゃがんだ。すると、ぽふと頭のてっぺんに感触が。

 

「しょくだいきりはかわいいですね」

 

 そのまま右手は往復して僕の頭を撫でた。

 

「い、今剣くん・・・・・・」

「ほんまるのおにいさんやくでも、おなじとうはのこうしんにちちやそふのようにしたわれていても、つよくて、おおきくて、そこそことしをとっていて、どれだけかっこうよくても、しょくだいきりはかわいいですよ」

「ごめん、気を遣わせてしまったね・・・・・・」

「なにいってるんですか。ぼくはしょくだいきりよりおにいさんなんですよ!こうしんはみんなかわいいです!いっしょうけんめいがんばるこはもっとかわいい。でもそれだってりゆうのひとつにすぎませんよ」

 

 にこにこ顔のまま今剣くんはその手を止めることはない。

 

「こうやってまいにちあたまをなでて、かわいいとしょくだいきりをむすびつけてあげましょうか。あなたをかわいいとおもっているかたなはおおいですからみんなかわりばんこでしてあげますよ?」

「そ、それはちょっと遠慮しておこうかな」

「そうですね、じぶんからかわいいをうけいれるどりょくをしなければしょくだいきりはずっとかわいいをうけいれられないでしょう。こころのなかできょひされながらかわいいっていうのはちょっとさみしいです」

 

 老成な赤眼は口にした寂しさとは真逆の、全てを包み込む心深い慈しみを宿していた。付喪神である僕でも、神様みたいだと思わずにはいられない。その一瞬の慈しみの赤を愛嬌良くにっこりと細め、今剣くんは顔を近づけてくる。

 

「だから、しょくだいきりがかわいいをうけいれやすくなるひんとをちょびっとあげましょう」

「ひんと?」

「かわいいはあいすべしとかくんですって」

「あいすべし・・・・・・」

『愛す可し』可愛らしい口調が示した言葉を頭の中で変換をする。

 

「そのままのあなたをいとおしいとおもうきもちをうけいれてくださいね。そのほうがぼくたちもかわいがりがいがあります!」

 

 見た目や特徴に対してではなく、そのものを愛おしいと想うこと。その想いを今剣くんは僕に対して持っているのだと教えてくれた。小さく愛らしい今剣くんから、愛おしいと言われるのは親愛の情をこれ程になく感じてただただ嬉しい。僕には似合わない、なんて違和感はまったくない。

 たったひとつのヒントをもらっただけだけど、それはまさしく答えであって、まるで目の前が開けたように感じる。

 

「でもつるまるのきもちをだいべんしたつもりではないので、つるまるのきもちはつるまるにきいてください。あ!つるまるよりさきにあなたにかわいいっていったこと、ないしょにしておいてくださいね。さすがにつるまるがすねてしまいますから」

「ふふ、うん。内緒にしておくよ」

「それでは!うめぼしまで、ありがとうございました!」

 

 ばびゅーん!と口にしながら今剣くんはあっと言う間に姿を消した。子供みたいな仕草が多いけど、よくよくひとのことを見ている。どこまでも懐が大きくて、情に厚い。他の三条の四振りが何だかんだと今剣くんに頭が上がらない理由がとても良くわかる。可愛いと、愛おしいと思う気持ちも。

 

「・・・・・・よし。ちょっと努力してみよう」

 

 惜しみなく親愛の情を示してもらって、包み込む様に背中も押してもらった。一歩踏み出すには十分すぎる力で。

 ほとんど終わりかけていたシンクの掃除を片付けまできっちりし終えて、誰もしない厨を後にする。そして、何振りかの仲間の顔を思い浮かべ廊下を歩く。思い浮かべた仲間の内のひとりの部屋の前に立つと障子は開いていて、その子がいた。

「ごめん、今いいかな。ちょっと相談があって」

 夕餉の後、お風呂を終えていつもの待ち合わせ場所に行く。

 庭の大きな池の前に鶴さんの背中があった。今僕が、身に纏っているものと色違いの羽織の背中。今日も僕の方が遅かったみたいだ。

「鶴さん」

「おう」

「ごめん、今日も僕の方が遅かったね」

「きみに一回でも多く名前を呼ばれたくて、全速力で走ってくるんだ。きみが遅いわけじゃないぜ」

 

 呼び掛けに振り返った鶴さんはそう言って笑った。池に映った満月がすぐ後ろにあって、綺麗な微笑みと月光の眩しさに目が勝手に細まる。美しい風景の中に鶴さんがいるのを見るとこれ以上ない贅沢を味わってる気持ちになる。その微笑みを独占してる時点で間違いなく贅沢には違いないんだけど。

 

「行くか」

「うん」

 

 どちらともなく手を握り、歩き出す。ふたりとも夜目がきかないからいつも本丸の明かりが届く範囲まで。でも今日は満月だからいつもより少し離れた距離まで行くことが出来る。

 二日ぶりの散歩だ。昨日話すつもりだったことから、昨夜の談話室でのカードゲーム大会のこと。途切れることのない話題に、鶴さんはやっぱり穏やかに相槌を打って話を聞いてくれた。

 

「鶴さんは?昨日の飲み会楽しかったかい」

「まあまあ楽しかったぜ?あいつら三条だけの飲み会だと箍外れるからな。俺も引き摺られちまって途中からまったく記憶がない」

「鶴さん、セーブ上手だからいつもはそこまで酔わないものね」

 

 だから今まで『可愛い隠し』に気づかなかった。良かった、昨日三条の皆が鶴さんを誘ってくれて。

 

「昨夜は本当に悪かったな、夜更けに突撃しちまって。多分、酔った勢いで三日月と一緒に行ってしまったんだと思う」

「あ、違うよ。あれは鶴さんが悪いわけじゃないから気にしないで」

 

 あれは三日月さんが意識のない鶴さんを引き摺って連れてきただけだ。そうか、鶴さんそのこと知らないんだっけ。言った方がいいかな。でも言ったら鶴さん、三日月さんに文句言いに行きそうだな。

「あのね、鶴さんが来てくれて嬉しかったよ。だから本当に昨夜のことは気にしないで。・・・・・・鶴さんはいつでも僕の部屋に来ていいんだよ。というか来てくれたら嬉しいな。だって鶴さんと僕は恋仲なんだから、ね?」

「うっ」

 本音で昨夜の訪問経緯を上書きすると繋いでいない手で鶴さんは左胸を押さえる。発作みたいな仕草に驚いてしまったけど、すぐに『可愛い隠し』だと気づく。

 

「鶴さん?どうしたんだい」

「い、いや!何でもないんだ!気にしないでくれ」

 

 わざと追及するも、白い手がさっと問いを振り払った。ここで言うとは思わなかったけど、やっぱり隠されてしまった。

 

「あ、そうそう!話が変わるけど、今日、加州くんと買い物に行ってきたんだ」

「へぇ!ふたりだけでか?珍しいな」

「うん、ちょっと加州くんに付き合って欲しくて僕から誘ったんだ、でね、こういうものを買ってみたんだけど」

 

 懐を探り小さな紙袋を取り出した。

 『可愛い』なんてただの言葉だ。本当はそこまで深く考えることじゃないのかもしれない。けれど僕は、好きな人からの素直な感情や感想を、たかが単語ひとつだとなあなあに受け取ったり、そのまま相手の胸の内に積もらせて圧迫させたりはしたくなかった。鶴さんが僕にくれるものなら、どんなものでも僕は受け入れて大切にしたいよ。言葉ひとつでも宝物にしたい。強い想いなら、ずっと心の中で輝かせたい。

 だからそのために受け入れ難いことも、受け入れられるように努力したいんだ。好きなひとの為に努力して自分を変えていけるならそれはとっても素敵なこと。この紙袋には努力のきっかけになる物が入ってる。

 

「鶴さん、ちょっと後ろ向いててね」

 

 繋いでいた手を離して鶴さんの肩を持って誘導し、後ろを向いた鶴さんに僕も背を向ける。そして紙袋を傾けて左手の上に中身を取り出した。僕の手には小さいそれを、加州くんに習った通りに開いてそして身に付けていく。右に、次は左に。何とか落とすことなく付けることができた。付けたはいいけどはっきり見えるかな。至近距離だから大丈夫だよね。月が明るいとはいえ色ばかりはどうしようもないかもしれないけど。

 ふう、と息を吐いて軽く吸った。慣れないことはちょっと緊張する。

 

「じゃーん」

 

 明るめに効果音を乗せながら、振り向いた。僕の声を聞いた鶴さんも振り向く。何かしらの変化を探そうとしてる視線がさっと走り、僕の耳にゆらゆら揺れるそれをすぐに見つける。僅かに目を見開くのが分かった。僕の左右の耳にはゆらゆら、ゆらゆらと。小さな鶴一羽ずつが飛んでいる。紅白の折り鶴モチーフのイヤリング。

 自分が身につける為に可愛い物なんて選んだことがない。でも可愛らしい物を僕が身につけるとして、どういった物なら大丈夫なのか知る必要があった。可愛らしすぎれば、僕は怯んでしまう。けれど可愛さがなければ、僕はきっかけに出来ない。鶴さんにも意図が伝わらない。僕より可愛いに詳しい第三者に見極めて貰う必要があった。

 だから僕は加州くんに悩みの始終を打ち明けて、買い物に付き合ってもらうことにした。そこで見つけた紅白折り鶴のイヤリング。和風でシンプルな装飾品。小さく、ゆらゆらと揺れる二羽は可愛らく見えた。確認を取る僕に加州くんは「いーんじゃない。似合ってると思うよ、可愛い」と太鼓判をくれた。

 

「どうかな?」

「あ、ああ!すごく、かわ、・・・・・・んんっ。いや、うん、すごく、よく似合ってる!」

 ひとつ率直な感想を咳ばらいで飛ばして鶴さんは褒めてくれた。その褒め言葉にも、笑う顔にも嘘はない。正直、それだけで十分嬉しい。でも、それだけじゃなくて最初の、鶴さんの率直な感想を自分から求めてみたいんだ。だから僕は鶴さんの褒め言葉に「ありがとう」と答えるのではなく、別の言葉を問う為に口を開く。

 

「か、可愛い?」

「へ?」

 

 言った瞬間羞恥が体の下から頭の天辺まで沸き上がる。鶴さんがぽかんと口を開けて呆けるので、ますます恥ずかしい。自分から『可愛い』って言葉を求めるってこんなに恥ずかしいことなんだ。想像以上だ。

 努力するって決めたのに、今すぐ今の言葉を撤回したい気分。付け加えてしまいたいよ「僕のことじゃなくてこのイヤリングのことだよ」「小さい鶴が二羽飛んでいるみたいで可愛いよね」って。僕のことじゃない、僕にその言葉がほしいわけじゃない、そう言ってしまいたい。

 でも買い物に付き合ってくれた加州くんは僕に「自信満々に聞いてやれ」って言ってくれた。「愛されてる自身があるなら『僕可愛い?』って自信満々に聞いてやりなよ。それって『僕の事好き?』ってのと同義だよ。鶴丸がなんて答えるかなんて、燭台切にはお見通しでしょ」って。知ってるよ、鶴さんがなんて答えてくれるか。どれだけ鶴さんがこのままの僕を愛おしいと思ってくれているか。

 だから僕は、撤回しない。必要ない言葉も付け加えない。ただ、もう一度さっきの言葉を繰り返すんだ。

 

「かわいい?」

 

 僅かに傾けた首に合わせて二羽の鶴が揺れる。でも、そこばかり見ないで。僕の顔を見て言って欲しい。

 

「かっ・・・・・・」

 鶴さんがぐっと両手を握ったのが分かった。

「可愛い!!!!」

 大きな声が夜空に響き渡る。今日は満月のお陰でいつも以上に庭の奥の方に来ている。だからちょっと大きな声を出しても他の子達に聞かれることは多分ない。鶴さんがその状況を考慮して叫んだのかは分からないけど。

 

「可愛い、可愛いぞ光坊!!」

 

 僕の顔を見て大きな声を出しながら鶴さんはずいっと一歩踏み出してきた。すごい気迫だけど、驚くことも怯むこともない。望んでいる言葉を与えてもらってるのだから。

 一歩近づいたことでその美しい顔がもっと良く見えた。月明りだけでは全ての色が見えるわけではないけれど、高揚しているのが分かる。大きくいっぱいに開いた瞳はきらきらと夜空の光を集め、僕に向かって輝きを放っている。

 そんなに、そんなに嬉しいのかい?心の中で問いかけてすぐに自分で、嬉しいよね、分かるよ。と答えた。ずっと秘めていた想いを言葉としてあなたに伝えられた時、僕も泣きたくなるほど嬉しかった。その想いをあなたも心から望んでくれていたと知った時も、同じくらい。だから、鶴さんも今きっと、嬉しいんだよね。

 瞳の輝きにつられて、僕も気分が高揚してくる。気持ちが大きくなって、少しだけ欲が出てきてしまったみたいだ。昨日までなら絶対に言わなかった言葉を付け加える。

 

「どれくらい?」

 

 子供染みた質問だって笑っていいよ。でも鶴さんは、僕の予想通り笑い出したりしなかった。一瞬さっと周囲に目を走らせる、庭にあるものだけじゃなく、空に浮かんでいる光達にも。でも見合うものがないと思った鶴さんは、その拳ごと両腕を勢いよく広げた。自分が広げられる限界目一杯に。

 

「これくらい!!!!」

 

 胸まで反らして腕を震えさせながら。僕が自分で聞いた癖にふはっ、と笑ってしまうのは仕方ない。だって可愛すぎるじゃないか、このひとったら。

 そう、鶴さんは可愛い。年上でも、すごく格好良くても、怖いくらい美しくても、血が似合う獰猛さを持っていても、強くて時に冷徹でも。見た目も中身も僕よりよっぽど可愛いひとだ。でも、そんな人から与えられる『可愛い』にもう違和感はないよ、嬉しいばかりで。

 広げられた腕の中には目には見えない沢山の『可愛い』が詰まっているのが分かる。昨夜、お互いが眠るまで繰り返されたいくつもの『可愛い』よりももっともっと沢山。ひとつずつ聞いていたら何年もかかりそうなくらい。だけど、今欲張りになっている僕は笑いながら自分の両腕を広げる。そうすると鶴さんが目一杯広げた腕よりもあっさりと広い空間が出来上がる。

 

「あれ、鶴さんの可愛いが沢山詰まってるのよりもっと大きいのが出来上がっちゃった」

 

 どうしようか、なんて困り果てた口調の癖に態度は悪びれず。もうちょっと、あとちょっとだけちょうだい。あなたからの『可愛い』って言葉。

 僕の言葉を受けて今度は周囲に視線を走らせることなく、迷いもなく。鶴さんは腕を広げたまま僕に更に近づいた。そしてがばりと両腕の中に閉じ込められた。

 

「俺にとって世界中の誰よりも何よりも、きみが一等可愛い」

 

 目一杯広げられていた空間から一変、腕の中の空間は人ひとり分だけ。そこへ世界で一番の可愛いが注がれた。その腕の中にただひとりいる僕の中へと。

 

「かわいい」 

 

 四つの響きは信じられないくらいの幸福感で僕の中を満たしていく。僕は甘える様に鶴さんの肩口に頬を擦りつけた。

 その幸福感と四つの響きを甘受しながら、僕はまた新たな問題が顔を出してきたのがわかった。『可愛い』から与えられるこの多大なる感覚を知ってしまったから。

 これ、癖になったらどうしよう。

 

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