欠片でもいい、君の気持ち知るまで
その場に腰を下ろすために繋いでいた手を離した。二人の手の間に冷たい風が割り込んで、体全体の温度が下がった気がする。互いに手袋していない為だろうか。先程までは直に感じていた体温が消えただけで、こんなにも心細く感じてしまう。
「綺麗だね」
鶴丸の気持ちを他所に、すぐ隣に座った光忠が月を見上げて笑う。左隣に座る鶴丸からは、彼の目がうっとりと細められるのが見えた。いつもの服でも内番衣装でもなく、眠るためだけに着ていた簡素な寝間着姿の光忠は、いつものかっちりとした雰囲気とは違って緩んだ空気を出している。
手を離しがたいと思っていたのは自分だけかと、吐き出したくなった溜め息を、未だ寂しいと訴えかけてくる両手に慰めるようかけてやる。それでなくても今日は少々冷える。彼を連れ出してしまったことを鶴丸は少しだけ後悔した。しかし、今日でなければ意味はない。
「どうだ、驚いたか!・・・・・・と、言いたいところなんだが、俺もさっき月を見上げて満月だと気づいたばかりなんでな。突発的に君を連れ出してしまったものだからなんの下準備もしていないんだ」
二人の下にある夜露を含んだ草が、布を侵食するように濡らしていく。せめて何か敷くものを用意してくるんだったと自分の失敗を小さく嘆いた。
「こんなに綺麗なものを見せてもらってるんだ、文句を言ったらバチが当たるよ」
日頃、見目や格好よさに拘る彼が、こんなこと何でもないと言った風に小さく首を降った。この満月の美しさの前では、些細なことなのだろう。
そうでなくとも、自分の拘りの為に人の好意を無下にする彼ではない。
「それにしても、本当に綺麗だ。こんな丘が敷地内にあったなんて」
光忠は月を見上げ続ける。まるで、その目が月に縫い止められたように視線を外さない。誘ったのは己であるが、魔法にかかったような光忠に鶴丸は心配になる。
「綺麗なのはわかるが、あんまり見続けていると月に攫われてしまうぞ?」
「攫うのは桜でしょう」
「月だって攫うんだ。月は綺麗なものが好きだからな」
今は本丸で眠っているだろう、美しい地上の月を思い浮かべる。鶴丸の尊敬する刀であり、光忠とも仲のいい刀である三日月宗近。三日月は美しいものが好きだ。そう考えれば三日月が光忠を気に入っているのは当然と言える。未だ『気に入っている』に留めているのは鶴丸が光忠を好いていると知っているからだろう。だから軽率に手を出したりはしない。三日月は鶴丸のことも気に入っているからだ。
しかし、これから先ずっと安心かと言われればそうでもない。今は茶飲み友達というほのぼのした関係であるようだが、三日月がいつ、光忠を好きになってもおかしくないと鶴丸は思っている。なにせ光忠はこんなにも魅力的なのだから。
「月より綺麗なものなんてそうそうなさそうだけど、月にも攫いたくなるものがあるのかな。月の回りには星も輝いてる。それでもまだ綺麗なものが欲しいの?」
「星は月が寂しくて流した涙なんだ。月は空にひとりぼっちだからな。自分が美しくても意味がない。だから、綺麗なものを攫って自分の側に置きたがる。月は綺麗なものを呼び寄せるために、あんなに美しいんだぜ」
すらすらと口から出任せが出てくる。光忠があまりにも月を見続けるから、目を離してほしい、ただその一心で。
「そうなんだ。月はいつも綺麗なものに囲まれて賑やかそうだと思っていたけど、違うのかな。でもまぁ、それなら月が綺麗な理由もわかる気がするよ。罠だとわかっていても近づかずにはいられない。それぐらい月は綺麗だもんね」
例えば、三日月とかもさ。光忠が一言呟いて、鶴丸の心臓は跳ねた。光忠の横顔を凝視する。自分の考えが読まれたのかと疑ったが、そうではないらしい。そういえば、彼の前の主は兜に三日月の前立をつけていたはずだ。光忠の目には今、その姿が見えているのかもしれない。安心したのも束の間、先ほどより一層魅入られたように月を見上げる横顔は鶴丸でも見たことがない。その恋をするような表情にたまらなくなる。
大倶利伽羅がいなくても自分の相手をしてくれたり、夜に突然誘い出してもこうして着いてきてくれる。その場所が、本丸から少し離れた人気のない丘だとしても訝しんだりしなかったし、鶴丸が差し出した手を、ぎゅっと握り返してくれた。だから、嫌われているとは思っていない。たぶん、光忠も己を好いてくれている。そんな気がしている。
しかし、光忠は優しい。今日連れ出したのが鶴丸じゃなく、例えば大倶利伽羅であったとしても彼は大喜びで着いてきただろう。手を差し伸べたのが三日月であっても光忠は笑って、手を取ったに違いない。そう考えれば途端に、光忠も自分を好いているという自信は消え去ってしまう。月を見上げる光忠は、隣で鶴丸がやきもきしていることなんて気づかないだろう。
彼の気持ちが知りたい。鶴丸をどう思っているのか、本当の気持ちを。もう一度手を握ってみようかと考える。その手を掴んで指の間に己の指を絡め、恋慕っているのだと伝えてみようかと。しかし、手だけで鶴丸の気持ちを伝えることも、彼の感情を読み取るのも非常に困難なことに思えた。彼も己を好いているという、確証がほしい。誰にでも自分と同じように接しているのではと疑いようのない、確たる証拠が。ならば、それは直接聞くしかないだろう。
「君は俺のことをどう思っているんだ」
瞬間、光忠が瞬きをした。一つだけの流し目を寄越して、こちらを向く。その動作がやけにゆっくり感じた。月から視線を外させたことを喜ぶ暇なんてない。己の言葉が光忠に届いてしまったということだ。もう、取り消すことなどできない言葉が、自分の脳に帰ってきて何度も反響する。今更心臓がばくばくと音をたて始めた。
鶴丸の言葉が届いた光忠は、またもやゆるりとした動作で首をわずかに傾げた。そして、今まで胡座を掻いていた両足を立てて自分の両手で抱き締める。長い足を折り畳んで、膝に頬を寄せる姿はどこか色を感じる。光忠が浮かべる表情のせいだろうか。
光忠はいい加減心臓の音が煩わしくなった鶴丸を見て、口の端を上げた。微笑みを浮かべて鶴丸を見つめるその顔には、そんなこと言わせるの?と書いてあるようにも見えるし、知りたかったら言わせてごらんよと書いてあるようにも見える。どちらにしても、すぐに口を開きそうな感じではなく、このまま沈黙を貫き通してしまう可能性が高い。
輝く月が光忠を照らしているせいで、鶴丸を見る光忠の目はいつもの金色ではなく空に浮かんでいる月の金と同化しているように見える。それが視線を外してもなお、月が光忠を求めているようで癪に障る。その嫉妬が鶴丸の背中を押した。何が何でも、光忠の気持ちを聞いて見せると鶴丸は覚悟を決める。
「正直に言った方がいいぜ、光忠。もしも言わないつもりなら、」
「言わないつもりなら、どうするの?」
光忠の表情が興味深そうに、もしくは勝ち気に輝く。是が非でも聞きたくて脅し文句のような言葉が飛び出したが、鶴丸は光忠を傷つけるつもりは一切ない。かと言って、言ってくれなければ折れてやる!と言うのも冗談にしても言葉がすぎるし、光忠を追い詰めてしまうのも嫌だった。結局続く言葉は、無難な冗談めいたものになる。
「えっと、そうだな・・・・・・寝ない!君の気持ち知るまで俺は寝ないぞ!俺は結構な年寄りだからな、一晩眠らないだけで体はガタガタになる」
それが嫌なら言うべきだと怖くとも何ともない脅し文句を突きつける。光忠はその突きつけられた言葉を手で弄ぶように笑う。少々意地の悪い笑みだ。
「それは、困ってしまうなぁ。鶴丸さんにはいつまでも元気でいてもらいたいし。でも、まぁ、こんなに月が綺麗な夜だもの、眠らないのもいいんじゃないかな?僕も付き合うからさ」
そう、くすりと笑って光忠は膝に顔を埋めた。これ以上言うことはないと言う意思表示だろうか。優しい光忠にしては、あまりにも慈悲がない。眠らないくらいなんだと反応されるだろうと予想はしていたが、鶴丸は少しばかり困ってしまう。
「意地悪を言うのはやめてくれ。焦らしているのか?冗談めかして言ったのが気に入らないなら謝る。だから、はっきり言ってくれんか。君に触れる権利が俺にないのなら、すっぱり切り捨てほしいんだ。でないと俺は勘違いしてしまう」
例え切り捨てられても諦める、と言うわけではない。その権利がないのならいつか獲得すればいいだけの話だ。だけど答えを聞かなければ、鶴丸は勘違いをしたまま光忠に触れてしまって彼を傷つけてしまうかもしれない。それは、鶴丸にとって光忠に好かれていないということよりも恐れることだった。
光忠はうーん、やっぱり遠回しすぎたよね、ともごもご膝にしゃべりかけて、顔をあげた。そして、膝を抱えていた左手で髪を整える。その仕草のせいで表情が見えない。
「眠らない夜を一緒に過ごしませんか、ってね、そういう意味で言ったんだよ。おしゃべりしてもいいし、・・・・・・それ以外のことをしてもい、」
「それ以外の方で頼む」
例えば、そうだな。この少し冷えた体を暖められる、熱を生むものがいい。思わず被せぎみに発言した鶴丸に髪を整えていた手が止まった。そして、露骨だなぁと笑い声がする。
「この雰囲気でそんなこと言っちゃうの?儚げで幻想的な見た目に反して鶴丸さんってさっぱりしてるよね。それとも、こんなことどうでもないってことかな」
「さっぱり?ねっとりの間違いじゃないか?俺はかなりの粘着質だぜ。後な、好機は絶対に逃さない。あの時ああしていれば、こうだったら~とか。自分が迷ったために後悔、なんてしたくないんでな。歴史修正主義者に対して講演会でも開いてやりたいと、常々思ってるくらいだ。もしその機会があったら、今夜の俺のこの素早い行動を武勇伝として語ってやるね」
そういって、髪を押さえる光忠の左手を掴む。光忠の肩が少しだけ跳ねた。
光忠に好きとはっきり言われたわけではない。しかし、今の発言はそれと同義だろう。少なくとも夜を共に過ごすことを許された。手だけでは読み取れない彼の感情も、体の熱なら上手に教えてくれそうだ。それに、鶴丸も光忠が好きだと言葉にしたわけではない。ならば、それも鶴丸の熱と共に伝えてみよう。きっと嫌というほど伝わるだろう。鶴丸を『さっぱり』と評した光忠の意識を変えさせることもできる良い機会だ。
「初めてが外というのもな。来たばかりで悪いが、帰ろう」
「僕は、貴方とならどこでもいいけど?」
鶴丸を見つめる光忠は、先ほどまでのどの表情にも当てはまらない。強気な発言をする唇は、しっとりと艶を含んでいて、だけど少し震えている。こんな所で見栄を張ってどうすると笑いそうになる。もしかしたら本音の可能性もあるが。
輝く月が光忠を照らしている。しかしどんなに月が光を放っても、光忠が見上げているのは、光忠の左手を離さないまま立ち上がっている鶴丸ただ一人。そう、月がいくら求めても、光忠は今鶴丸だけを見つめている。それでも、月が煩わしく感じるのに変わりはなかった。たった今、光忠を求めていいのは鶴丸だけになったのだから。美しい光忠の肢体を月に見せるなどもってのほかだ。
「その台詞、覚えておこう。今夜が満月じゃなかったらなぁ、それもよかったが。今日は駄目だ。月が見ているからな。このままだと君が月に攫われてしまう」
そう言って光忠の左手を引っ張り、立ち上がらせる。それを確認してから歩き出したが、光忠が動かなかったため鶴丸はそれ以上歩けない。二人の間にはお互いの片手の長さを足した距離が開いている。
「光忠?」
振り返り光忠を見ていれば、彼はまたもや月を見上げている。ッチと舌打ちが出そうになるのを何とか留めて、もう一度優しく光忠と名前を呼ぶ。
「月に攫われる、ね」
「そうだぞー。光忠だって攫われたくないだろ?早くおいで」
「たぶん、もう手遅れだと思うなぁ。それに、攫われる方もずっとその時を待ってたりしてね?」
聞き捨てならない台詞を吐いた光忠に目を丸くすれば、ようやく光忠は月を背にして歩き出した。立ち止まっている鶴丸との距離を詰め、顔を間近で覗きこむ。二人の間に月の光は射していない。鶴丸より背の高い光忠が月の光を背中で受け止めているからだ。だというのに、鶴丸の目を覗きこむ、光忠の片目は、またもや月の金に同化している。これはどうしたことだろう。
「貴方が求めた綺麗なものに、僕を選んでくれるなんて嬉しいよ。お月さま」
そう囁いた唇を、鶴丸は自身の唇で受け止めながら、今更思い出す。
彼が前に言った「倶利ちゃんの目は宝石の金色、鶴丸さんの目は月の金色」と言う言葉を。
確かにもう手遅れらしい。月は彼を攫ってしまった。