もう一度子供の約束を
「あっついなー、もう放課後だってのに」
「暑いねー。嫌になるよ」
砂浜に沿って作られている堤防の上に転がって、片腕で顔を覆いながら呟けば、同じく寝っ転がっている光忠の声が上の方から返ってきた。
暑いのに熱い堤防の上でじりじり焼かれている状況は傍から見れば愚かだろう。だけど、暑い中、荷物を持って帰り道を歩いて来たのだ。気力も無くなって身を横たえたくなる気持ちは、近くの道路を走り去っていく、クーラーの効いた箱の中に座っている大人たちにはきっとわからない。
「もう一回コンビニ戻るか」
「冷たい物ばかりとると今度はお腹壊すよ」
西傾き始めている太陽は、二人の白い肌を焼き尽くそうとしている。嫌になる。
「じゃあ中から冷やすのがダメなら外からだ。光忠、海入ろうぜ、海!」
がばりと身を起こしながら提案をする。自分の肩越しに後ろを振り向けば、同じく身を起こし背中を向けながら顔だけ振り向いている光忠と目があった。
「そんな子供じゃないんだからさぁ」
そう言って、光忠が困った幼い子をなだめるような顔で笑う。最近鶴丸に対して見せる笑顔のほとんどを占めるこの笑顔が、鶴丸は余り好きじゃない。そしてその言葉も。
子供じゃないんだから。その言葉を胸の中で呟いた。
幼少期からの付き合いである二人が高校生になったのは去年の話だ。慣れない高校生活は瞬く間に過ぎていきあれよあれよと、気が付けばもう二年生になってしまった。進路希望調査だなんだと、今すぐ将来を決めなさいと親や教師が口うるさく言い始め、鶴丸は最近辟易している。高校の、今の時期とは青春ど真ん中なのだ、それなのに今から将来の話をしてどうするんだと不服に思う。
だけどこの幼馴染は違う。この幼馴染の幼少からの口癖は「はやくおおきくなりたいなぁ」だった。周りに将来を急かされているこの状況も、鶴丸よりはスムーズに、むしろ願ったり叶ったりだと受け入れているように見える。
幼少の、それこそ年小さんの頃は鶴丸よりも小さくて女の子みたいだった光忠は、高校生になって、急に身長が伸び始めた。中学の時は同じくらいだったのに、今では光忠の方が大分大きい。
だから、というのもあるだろう。この幼馴染、近頃ものすごくモテるのだ。靴箱にラブレターは当たり前。一週間に一度は校舎の裏に呼び出され、時々は他校の生徒に待ち伏せされている。メールでの告白ならもっと多いはずだ。
まあ、わかる。この顔立ちにこの高身長、成績もスポーツも抜群、人当たりもよく教師や同性にも人気がある。何より一番のモテる理由は、同年代の男子にはない『大人っぽさ』らしい。年上の男性に憧れる思春期の女子の人気を集めないはずがないのだ。例えその右目が眼帯で覆われていても、それはさして問題ではない。その眼帯が伊達だとしてもだ。
年小さんの頃、ちょっとした事故で右目に眼帯をつけた光忠。といっても一週間やそこらだったはずだ。今思えば怪我も瞼の上をちょっと切ってしまった程度だったと思う。だけど、小さい光忠は怪我が治っても頑なに眼帯を取りたがらなかった。親や先生が言っても。小さい子特有のこだわりかと、そのままにしていたら17歳になる夏を迎えてもやっぱり右目は白い眼帯で覆われている。ちなみに両目の視力は2.0。鶴丸よりいいくらいだ。
伊達な眼帯。お陰で彼の中学時代のあだ名は直球で「政宗」だったりする。光忠は嫌がるどころか「何それ!かっこいい!」と受け入れてしまい、歴史上の人物であるその人に憧れを抱いている。まだ幼い弟も巻きこんで。そういうところは子供らしい。そう考えれば彼の眼帯は子供の象徴であるようにも感じられた。
「鶴くん、僕らもう大人だよ」
子供と大人の間の光忠が、大人の顔をしてそう言った。何をそんなに急ぐことがあるのか。黙っていたって体は成長してしまう。大人になってしまう。ならば、今この時、子供の時を共に楽しく過ごしたいのに。光忠との考えの落差に寂しくなってしまう。思わず口を尖らせて抗議した。
「君はなんだってそう大人大人って。そんなに早く大人になりたいのか」
足を、堤防の外へ投げ出した。目の前に広がる海の匂いを風が運んでくる。光忠も自分に倣って同じ格好で腰かける。風に、半袖が揺れる。白い肌のより一層白い腕の部分がちらりと見えた。白く見えても日に晒されている部分は確かに焼けているようだ。毎日見ていると意外と気が付かない。
「鶴くんはなりたくないの?」
「君ほどには」
「・・・・・・大きくなったらなりたいものとか、ないの」
「大きくなったらぁ?」
光忠は不思議な言い回しをした。そういうのを聞くときは「将来の夢とかないの」と聞きそうなものだ。将来という言葉で耳にタコが出来ている鶴丸への配慮だろうか。
「小さい頃なりたかったものでもいいよ」
小さい時大人になったら、と夢見たものならある。でも鶴丸は、それが叶わないことをもう知っている。
「・・・・・・ないな」
少し迷って、結局そう返事した。
鶴丸の返事に光忠が、一呼吸置いてそう、と呟いた。暑い中に耳に残るひんやりとした声だった。
ざざんと潮の音を風が運ぶ。第一ボタンを開けた白シャツの中に風が侵入してきて汗ばんだ肌を冷まそうとしてくれた。太陽の光の前では僅かな効果だが、少しでも、その恩恵をあずかりたくて開襟に指をかけてパタパタと仰いだ。
そうしていると光忠が再度口を開く。
「・・・・・・僕は、お嫁さんになると思ってたよ」
「は?」
「覚えてない?」
そう言って光忠は自分の右目の上、白い眼帯をトントンと指で叩いた。
「『おれがせきにんとってやる』」
「お?」
「『おおきくなったらおよめさんにしてやるよ!』
「おああああ・・・・・・あったなぁ、そんなこと」
声変わりを三年前に済ませた光忠が若干高めに声を出して、その頃の鶴丸の声を再現する。一緒に木登りした時、一人だけ落ちて瞼を切ってしまった幼い光忠を慰めた、同じく幼い鶴丸の声を。
「だって君、全然泣き止まなかったんだぞ」
「子供がさぁ、木から落ちて瞼から血を流したらギャン泣きもするよ。大人の人もいなかったしさ。というか普通、あんな慰め方するかな」
苦笑いと呆れと苦い記憶を同時に差し出されて、居心地の悪さからムッとなる。
「“あんな”慰め方と言うが、それでピタッと泣き止んだのお前だからな?」
思わず、昔の呼びかけをしてしまった。小さいころの光忠は本当に女の子のようで、鶴丸がリードしてやらねばと自分を大きくみせるために、光忠のことをお前と呼びかけていたのだ。
「単純ですみませんね」
光忠が低く唸った。お前呼びが不快だったのだろうか。
「何。不機嫌なのか」
「別に」
びっくりして横顔を見つめるが、伊達眼帯が表情を読み取ることを阻んだ。それでも構わず見つめ続けていると光忠が鶴丸とは反対側にあったカバンを掴み立ち上がった。見上げるだけで首が疲れるところに顔が移動する。
「帰る」
「怒ったのか」
「違うよ。もう帰らなきゃいけない時間なんだ。夏は明るいからわかりにくいけど」
いつもは一緒に帰るのに、光忠がそんなことを言う。やっぱり怒ってるじゃないかと呟いたが無視をされた。
そのまま、道路が通っている側へ、堤防から飛び降りた。自分達の腰よりちょっと上くらいにある高さの堤防だから出来ることだ。
堤防近くの木陰に光忠が辿り着く。近くにベンチもある。そこで話せばいいのに鶴丸と光忠はいつも堤防に座ってしまう。二人で海を見るのが好きなのだ。肌寒い秋の海も、人を拒絶している冬の海も、温かさが帰ってきた春の海も、きらきらと輝く夏の海も、二人でいつも見ていた。
だけど今は、光忠は木陰に入って、陽の届かない所に行ってしまった。自分と同じ制服の光忠の白いシャツが、陰で青になったのを鶴丸は面白くない気持ちで見ている。こちらに背を向けたままの光忠が、ふいに右手を耳へと上げた。そして人差し指を鉤の形にして、耳にかかっている白い紐を外していく。
「!」
俯いていた顔を手の動きに沿って動かす。左の耳からも紐を外し切って光忠は首をふるふると動かした。なんとなく水に濡れた犬を連想させる。驚いて凝視してしまう中、光忠が振り返り視線を上げる。右側だけ長い前髪が遮っていたが、それでも金色の両目が鶴丸の両目を捉えた。
「責任のね、」
「え?」
「責任の所在を解り易くしていたつもりだよ、僕は。だけど、結局大きくなってもその時はこなかった」
光忠は一度視線を下げ、片手で右目を隠す。陰の中は涼しくて快適そうなのに、光忠は暑いと唸った時と同じ辛そうな顔をしている。
「ずっと、早く大きくなりたかった。だって大きくなったら、君のお嫁さんになれるって思ってたからね。だけど君は何も言ってこない。じゃあ、君よりも大きくなったら。次はそう思った。だけどやっぱり君は何も言ってこなかった。次の大きくなったら、は、ないよ」
右目を覆っていた手を離す。そして視線を上げた。光忠は笑った。
「いいんだ。いつの間にか、大きくなったら、じゃなくて、早く大きくなること自体が僕の目的になっていたみたいだ。僕がこうも早く大人になれたのは君のお陰さ。責任は十分とってもらったよ、ありがとう」
床に散らばる大事なものを、部屋が汚れるからと無理矢理全部ゴミ袋に押し込み、ほら何もなくなった、綺麗になったでしょうと笑って見せる。そんな笑顔で。
光忠が背を向けた。二人の間には距離がある。遠近法のせいか、鶴丸の内面のせいか、その背中はとても大人の大きさには見えなかった。
「じゃあ鶴くん、また明日」
いつまでもそこでだらけてないで、君も早く帰るんだよ。と大人の振りして光忠は去っていった。
鶴丸は結局一言も言えないままその背中を見送っていた。
「・・・・・・長年の伊達眼帯の謎が解けてしまった」
間を空けて、やっと呟けた一言がそれだった。だけど心の中では違うことを叫んでいた。
まさか、覚えていたとは!!!!
思わず堤防の上で蹲る。顔が赤くなるのがわかる。太陽のせいではない。
光忠が言った言葉を、言った本人である鶴丸ももちろん覚えていた。鶴丸にとって恥ずかしい記憶の中で一番古い物だ。
恥ずかしながら、本当に恥ずかしい話だが、鶴丸は小さい頃光忠の事を女の子だと思っていた。いつも鶴丸のスモッグの裾を握って、「つゆちゃん、つゆちゃん」と鶴丸の後をついて来る小さな光忠を、鶴丸と同じ青いスモッグを来ている光忠を鶴丸は「みっちゃん」という女の子だと思っていたのだ。
光忠が怪我したあの日、木に登った鶴丸に付いて行こうとした光忠が木から落ちた時。誰よりも動転していたのは鶴丸だ。大事な、大切な女の子を自分の軽はずみな行動で怪我させてしまったのだから。自分もつられて泣きそうになりながら、必死に慰めようとした時に出た言葉が「おれがせきにんとってやる!おおきくなったらおよめさんにしてやるよ!」だったのだ。
今となっては慰めじゃなくて自分の願望を偉そうに言ってるだけだったと思う。だけど本当に本気だったのだ、あの時は。そしてその言葉を聞いてピタッと泣き止んだ光忠が「ほんとぉ?」と嬉しそうに笑ってくれたのだから、幼い鶴丸はその言葉を己の信念にした。
小学生に上がり光忠が男だと、いや、男同士では結婚できないと知るまでは。
その時の絶望を誰がわかってくれると言うだろう。それをきゃらきゃらと笑いながら、あんた光忠くんと結婚するつもりだったの~?馬鹿ねぇ!と教えてくれた母は自分の息子をどれだけ傷つけたかなんて知らない。
本当にショックだった。だって己の信念だったのだ。こいつは俺が守ると、守れる男になるんだとずっとずっと思っていたのだから。
そして成長するにつれ、そのショックは恥ずかしさへと変わっていった。光忠を好きだったことがじゃない。光忠が男とわかっても、結婚できないとわかっても光忠の事が好きなままだったが、幼い頃の自分の無知さが転がりたくなるほど恥ずかしかったのだ。
だから、忘れていたフリをしたのに!
光忠はすっかり忘れているのだと思っていた。
光忠は鶴丸を置いて大人になっていった。鶴丸より早く声変わりを終え、精通を終え、鶴丸の身長を超え、大人になっていく。どうせ大人になっても結婚など出来ない、なら、子供のまま光忠の傍に居たいと駄々を捏ねる鶴丸を置いて。一人だけ、さっさと。
だけど、まさかその理由が、あの伊達眼帯の理由が。
「言ってくれよ光忠あああああ」
蹲ったままの姿勢で吐き出せば、熱いコンクリートの堤防が熱気を返事として返してくれた。まったく嬉しくない。
「僕たちもう大人だよ、か」
そのままの姿勢で顔だけをあげた。光忠の背中はまだ近くにあった。
鶴丸のお嫁さんになる。それが叶わないことくらい、光忠だって気づいていたはずだ。彼が失望したのはお嫁さんになれないからじゃない。光忠を大人へと急かした約束を、鶴丸が覚えていないということに光忠は失望したのだ。実際は覚えていたのだが、そんなこと光忠にはわからない。
大人になりたがった、もう大人だと言った光忠がずっと持っていた子供の約束。子供の光忠を早く大人にしてしまった約束。矛盾するそれを光忠は大事に持っていてくれていた。そのことが、鶴丸は嬉しい。恥ずかしいがとても嬉しかった。やっぱり両想いだったとか、そういうこと以上に。
だけど、それが今捨てられてしまった。それを捨てたことで完全に大人になれたと、光忠は思っているだろう。きっと自分を慰めているだろう。
光忠は勘違いしている。鶴丸は約束を忘れたりしていない。そして何より、いくら大人ぶったって鶴丸たちはまだ子供なのだ。
第二次成長期を迎えて、子供を作れる体になったとしても。もう一、二年すれば社会に出る年になるとしても。子供の頃の約束や夢をいくら捨てたってまだ、大人じゃない。
だからあんな諦めたような言葉、言わないでほしい。
「俺達、まだ子供なんだぜ。光忠」
まだあの頃に思った「大きくなったら」には辿りついていないのだ。だから、今から夢を語ってもいいじゃないか。大きくなったらと新しく約束を作ってもいいじゃないか。
青春真っ盛り、まだ子供でいられる今だからこそ。
「叶わないとわかってる夢だって、バカみたいに叫んでやろうじゃないか」
呟いて、堤防の上に置いてあるカバンの中を漁った。いつも教室の引き出しに置きっぱなしのはずの日本史の資料が入っている。カラーで写真がたくさん載っている、教科書よりも大きいそれをメガホンのように丸めながら、鶴丸は立ち上がった。
堤防に仁王立ち。口にメガホンをあてる。光忠の背中は先ほどよりも小さくなっていたが、きっと声は届く距離だ。車の往来、特にトラックよ。今は通らないでくれ。
「みつただあー!!!」
いつもの鶴丸の声よりこもった声が即席メガホンから、夏の明るい夕日に照らされた光忠の背中にぶつかった。光忠は首だけ振り向こうとして、結局体ごと向けた。
堤防に立ってメガホンを構えてる鶴丸を見つけると、カバンを持っていない方の手を拡声器にすべく口元に添えて、よんだあー!?と叫び返す。トラックが通り伸ばした音はかき消されてしまったが。
「みつただあー!!おれなあー!!」
車の往来が多くなってきた気がして尚更声を張り上げた。光忠が、なにー!?と聞き返す。片手だけの拡声器はやけに性能が良い。それとも鶴丸の耳が光忠の声を拾うのに特化しているのか。
「おれなあー!!!!!大きくなったら、お前の旦那さんになるからー!!!!!」
またトラックが通った。光忠が片手をだらんと下す。もしかして聞こえなかっただろうか。
「大きくなったらー!!!!!!俺と結婚してくれー!!!!!!!!!」
メガホンを両手で持ち、堤防から身を乗り出すように叫んだ。
「ってうわわわ!!っとと、あっぶね!」
お陰で落ちそうになってメガホンをもったまま両手をぐるぐるとまわしバランスを取る。踵が踏ん張りきってくれたお陰で落ちずには済んだ。
ふぅと一息ついて、視線をあげる。向こう側で光忠は立っていた。両手を下ろし、カバンも落とし。それだけだ。
「あれ?聞こえなかったのか?それとも、聞こえたけど反応なし?」
そう首を傾げた途端、光忠が向こう側から走り出した。あまりの勢いに自分で蹴躓きそうになりながら。そして何やら叫んでいる。トラックが3台続けて通ったせいで言葉が一つも拾えない。手に持っていた即席メガホンを補聴器のごとく耳に当て他の音が止むのを待った。
縺れ足で走る光忠は何時もの倍以上に足が遅い。ようやく、今更!だとか、忘れん坊!だとか、バカ!だとか色々な一人叫びが聞こえる様になってもまだ距離があった。だけどもう、鶴丸に自分の声が確実に届くと気づき、鶴丸を見据えながら声のボリュームを上げた。
「鶴くん!!!!」
「何だー!」
「一発殴らせて!!」
「え!!なんで!?」
「人の心を弄んだ罰だからー!!!!大人になるための痛みだからー!!!」
「弄んでないし、俺まだ青春真っ盛りの子供だから必要ないです!!!!」
迫ってくる光忠の反対方向、海の方へと降り立った。浜辺の砂が靴の中に大量に入る。足手まといをその場で脱ぎ捨てた。
「鶴くん!!!」
光忠が堤防に上半身乗り上げる。砂浜に降りた裸足の鶴丸を赤い顔で恨めし気に睨んでいた。矛盾した感情を顔に乗せられるとは器用なものだ。
「逃げるなよ!」
「悔しかったらここまでこいよ!」
「だから、僕そろそろ帰んないといけないんだって!」
殴ると意気込んできたくせにそこで我に返るとは。生真面目すぎる。
「みつただ、」
「・・・・・・何」
優しく名前を呼べば、堤防の向こう、大人側にいる光忠が視線をぷいっと外して答える。
「そっち側は、いつか、嫌でもいかなきゃいけない。だから今は、無理してそこにいる必要ないだろ」
「どの口が言うんだよ・・・・・・」
「悪かったって」
口では謝るけれど鶴丸はここから動くつもりはない。光忠がここに来るのを待っている。
「なあ、俺ともう一度、子供の約束をしてくれないか。大きくなったらって、夢を見せてくれないか」
しばらく沈黙が続いた。足が熱い。陽に照らされ続けた砂浜は、地面から鶴丸の足の裏を焼いていく。それでも鶴丸は動かなかった。
「はあ」
光忠が溜め息をつく。そして堤防に両手をつき、よいしょと体を持ち上げた。堤防の上に立つ。その場で靴を脱ぎ、制服である黒いズボンの裾を捲って、砂浜へと降り立った。そして高温の砂に、熱っと声を漏らす。
熱がった顔のまま、視線を上げて鶴丸をキッと睨む。ああ、怒ってる。たぶんさっきの宣言通り殴られるだろう。そう思うと同時に光忠が砂浜を蹴った。案の定こちらに向かって走り出したのだ。
怒るのも当たり前か、と大人しく目を閉じた。光忠を急かして、大人みたいな子供にしてしまったのは鶴丸だ。殴られるくらいで許してもらえるなら、光忠が子供に戻れるなら安い物だ。海辺で殴り合いなんてとても青春っぽいではないか。まあ鶴丸は光忠を殴らないので一方的な殴り合いになるわけだが。
心の中で覚悟を決めたのに、光忠の気配は鶴丸を追い越していく。じゃばんと音がして、思わず目を開け、その音を追えば、そこには海の中に入った光忠がいた。波を思い切り蹴っている。とても気持ちよさそうだ。
「あ、ずるいぞ!」
追って、海に入った。途端、光忠が波を蹴り上げてくる。咄嗟の事に避けることは出来なかった。真正面から波を被った鶴丸は全身びしょ濡れだ。
「おいー、君なあ、」
「こうすれば今度は約束忘れないんじゃない?・・・・・・っく、ふふ、っあははははは!!」
ぽたぽたと前髪どころか全身から雫を垂らし、磯の香りを漂わせる鶴丸に、光忠はそこで初めて楽しそうに声をあげて笑った。両目が揃ったその笑い顔は、木に登った鶴丸に、「つゆちゃん、すおいね!!」と手を叩いて笑ったあの頃と同じ顔だ。
そんな顔見れば、何もかも絆されてしまう。あーもう、と悪態をつくはずだった言葉さえ笑いを含んだものになってしまった。結局そのままつられて、波打ち際、二人で大爆笑だ。傍から見ればまさに、青春の一ページを切り取った光景だっただろう。
しばらくしてようやく笑いを収めた頃。一人と、びしょ濡れの一人は同じように制服の白シャツをオレンジ色に染め上げていた。両目を揃えた光忠が海に沈む太陽を眺めながら、綺麗と呟く。その横顔を眺めている。伊達眼帯のない右目はきらきらと輝いていてとても綺麗だ。
だけどその輝きを知るのは鶴丸だけでいい。
「光忠、眼帯」
「え?」
言いながら手を出せば、ぽかんとその手を金の両目が見つめる。
「眼帯、つけてやるよ」
「え、なんで。もう、いらないよ。僕が約束の形として縋りついてただけだよ。もう、ほとんど君への当てつけだったんだ。だけど君は約束を思い出しても、何も言わなかったからもういらないって」
「ああ、約束の形としてはいらないな。俺はそんなのなくても君と結婚する」
「じゃあなんで?」
結婚という夢に顔を赤らめながら、光忠が高い所から鶴丸を見つめる。やっぱり綺麗だなと思った。
「これ以上、君を好きな奴が増えても困る」
きっぱりそう言えば、染め上げるオレンジより一層に顔を赤らめた光忠が無言で胸ポケットから眼帯を取り出して、鶴丸の手に置いた。その間も波が二人の膝辺りをを何度も何度も行ったり来たりしている。とても心地よい。
「約束の時が来たら、大人になったら、つけなくてもいいぞ」
「鶴くんの思う大人っていつから大人なの」
「君のこの白い眼帯を、俺の手で外した日から」
曖昧だなーと苦い顔をする光忠に、心の中で、君の全ての衣服を剥ぎ取って、最後に眼帯を外す夜から、と呟いていたことは黙っておいた。
「ほら、屈め」
「はぁい」
受け取った眼帯の紐をそれぞれ両手の人差し指と親指にかけた。光忠が両膝に手を置いて屈む。下から上目遣いで鶴丸を見上げる。第一ボタンを外した所から見える肌は、数時間前に見た、半袖の下の腕と同じ白さをしていた。
見下ろす鶴丸に光忠が恥ずかしそうに口を開く。
「ねえ、すっごく、バカなこと言っていい?」
「なんだ?」
「これね、婚約指輪みたい」
「ははは、そうか?なら!結婚するときは左側の目に給料三か月分の眼帯を贈ってやるさ」
「嫌だ、そんなの!いらないよ!」
笑う光忠の左耳の縁を、白い紐をひっかけた鶴丸の指がなぞる。耳の裏を優しく撫でてやれば、くすぐったいと甘い抗議の声が上がった。
「動くなよ」
「わかってる」
白い布地を右目に当てて、今度は右耳に指を滑らす。光忠がぴくっと体を揺らした。左目が何かを言いたげに鶴丸を見つめる。
「光忠、あんまり見るな。やりにくいだろ」
「もー、注文多いよ」
そう言いつつも素直に目を閉じた左目を見届ける。右耳にも紐がかかった。伊達眼帯、もとい婚約眼帯が光忠の元に戻ったのだ。
右耳に触れていた手をそのまま黒い後頭部に滑らせて、自分の方へ素早く引き寄せた。
一瞬だけ重なった唇を、わざとちゅっと音を立てて離す。
「え」
「ほい、おしまい」
「え、ちょっと、今の何」
ねえってば!と片目を見開いた光忠が肩を揺する。まるで、初めて受けたとでも言うような、余りに必死な様子に笑いがこみ上げてきた。
てっきりこっちも覚えていると思っていたのに、まさか忘れているとは。
あの発言にだけ拘っていた光忠はどうやら覚えていないようだ。ギャン泣きしていたから仕方がないのかもしれない。必死な鶴丸がどうにか泣き止ませようと、幼い光忠のその唇に自分の唇をくっつけたことを。そこで自分が何をされたかわからず、一瞬泣き止んだ光忠に、あの発言をしたことを。
鶴丸としてはあのファーストキスの方がよっぽど約束の形だった。だから、再び約束を交わした今、もう一度形にしてみた、のだが。光忠は覚えてない。なんだか悔しい。きっと光忠もこんな気持ちで眼帯を付け続けたのかもしれない。
「二回目だろ。怒るなよ、みっちゃん」
「~っつるちゃんのバカ!!」
悔しいから何時したのかは教えないが、今のは二度目なのだと笑ってやった。すると、何時の間にしたんだ!!言ってよ!!と長い腕に胸を叩かれ、海へと突き飛ばされる。だけどただでは転ばない。倒れる時に同時に光忠の腕も引っ張ってやった。二人でそのまま夕日を飲み込んでいる最中の海へと倒れ込む。
オレンジ色の海は、二人で沈むと何故か青いソーダ水のようで。胸の中でぱちぱちと弾ける音を心地よく聞きながら、鶴丸は幼いプロポーズが成功した時と同じ顔で笑った。