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 神様が下界を見下ろす場所に比べればとても低い位置。地上からは約20メートルといったところか。

 いつもより人の流れが多いのだろう。常ならば地上の喧騒も届ききらないこのベランダにも、今日は幾重にもなったせいでがやがやとした波状になった人の声が耳に届く。

 左手に持った空の缶ビール。夜空に向かって大きな放物線を描いたら、もしかしたら誰かしらの頭の上に落ちるかもしれないと思う位には人の往来が多い。その人々が行く先の、密度による熱気や湿気を考えて勝手に辟易しながら空の缶ビールを先程ベランダに設置されたテーブルの上に置いた。

 テーブルの真ん中に鎮座しているのはに銀色のバケツ。その中にはたっぷりの氷水、そしてキンキンに冷えた缶ビール数本だ。

 下界の湿った熱気などすぐに忘れて、鼻唄を歌いながらその氷水に手を突っ込み、二本目となるビールを手に取った。

 5年程前に引っ越してきてから、たまに缶ビール片手に独りで晩酌をしていたこのベランダ。忙しい毎日の中でぽっかりと空いた自由を何も考えず過ごしていた時間がここにはあった。

 そんな時間も約一年前からとんとなくなった。今日、ここで晩酌するのもかなり久しぶりだ。久々のベランダは前回時間を過ごした時とは状況が随分と変わっている。

 まず、今自分の来ているものが浴衣だったりする。浴衣を着るなんていったい何年ぶりだ。

 それにベランダで、なんて。確かに今日は祭りの日ではあるが、マンションのベランダから花火を見るためだけに浴衣を着るなど初めての体験だ。

 と言っても誰かに強制された訳ではない。むしろ『企画発案:俺』である。けれど『企画参加者:俺のみ』ではない。もう一人の参加者である、現在部屋の中で酒のツマミを作っている恋人の浴衣姿を思い出して唇の端を持ち上げた。

 少し前まで自分も台所に立っていたのだが、隣に立っている恋人の背中やら、袖を捲ったことにより露になった二の腕やらを撫でたり触ったり、更には腰に手を回して引き寄せたりと、ちょっとばかし接触過多なちょっかいを出していたらさすがに怒られてしまった。

 

『邪魔ばかりするなら、ベランダで先に晩酌始めててください』

 

 二人きりの時にはもう滅多に使われなくなった丁寧語でそう叱られてしまえば素直に従うしかない。ベタぼれなのだ。年下だろうが会社の後輩だろうが関係なしに、自分が彼の言葉に逆らうことが出来ないのは仕方がない話。

 約一年前までの自分と違うところ。その中で一番の違いは年下の恋人が出来たということ。

 もし今日が一年前の自分と同じであったなら、今こうして、わざわざ浴衣を着てベランダで缶ビール片手に一人でにやにやしているなんてこともなかっただろう。

 むしむしとした熱気や、きんきんのビールの冷たさよりも強いむずむずとした感覚が全身に走る。このまま外に向かって「俺は世界一の幸せ者だー!」と叫びたくなる衝動を、缶ビールのプルタブをぷしゅっと開けることで抑えた。

 

「それ何本目?」

「二本目ー」

「よかった。まだそんなに進んでなくて」

 

 クーラーが効いている部屋の中から穏やかな声が掛かる。首だけ振り向いて肩越しに答えると、ツマミの皿を片手にベランダへ出てきた恋人の姿があった。身に纏っているのはいつものスーツでもなく、格好いい私服でもパジャマでもなく、鶴丸が選んだ濃紺の浴衣だ。一見無地に見えるが裾の方に、印象を可愛くしすぎない数の金魚が泳いでいる。ちなみに今鶴丸が来ている白い浴衣と色違いだったりする。ペアルックなんてバカップルみたいだ。と言ってもお揃いで購入し、彼にぜひ着てくれ!と贈ったのは企画発案者である自分だけれども。

 濃紺は光忠の肌の色を際立たせていて、控えめの柄は落ち着きと少し分かりづらい愛らしさが彼らしく、それでいて男前の彼に分かりやすい色気を付加している。簡単に言えばとてもよく似合っていた。

 光忠も自分の力で稼いでいる一社会人だから、普通に鶴丸の好みの服を贈るのでは施しと受け取られ、彼が気分を害するかもしれなかった。そうでなくても光忠の性格からして遠慮をする可能性は高い。何より普通に好みの服を贈るなど、鶴丸好みに仕立てた彼を脱がしたいとかそういう下心を疑われてしまいそうだった。

 けれど、『浴衣が着たくなって探してみたら、今だと一式より二式買った方がお得だった』『だから自分達二人分買ってしまった』『せっかくだから着てほしい。今度花火大会があるから一緒に着てベランダから眺めよう』浴衣を手に目を丸くしている光忠にべらべらと言葉を並べれば彼は気分を害することもなく、遠慮も変な勘繰りもなく笑って素直に受け取ってくれた。

 わざわざ仕立ててもらったものだとかそういうことを伏せたことも効果があったのかもしれない。何にせよ、自分の贈り物が喜んで貰えたのも自分の下心に気づかれなかったのも本当によかった。

 

「外は結構暑いね」

「そうだな。だが、だからこそビールが美味い」

「だよねぇ。僕も一本貰おうかな」

「よし。飲め飲め」

 

 ツマミの皿を受け取ってテーブルに置き、代わりに光忠へと缶ビールを差し出した。酒に弱い彼が酔うにはこれ一本でも十分だろう。ほんのり染まる肌と浴衣の相性はどんなものだろうか、実に楽しみだ。

 ぷしゅ、と音を立てて光忠の缶ビールが空く。そこに鶴丸が自分の呑み始めたばかりの缶を寄せる。

 

「ほい、かんぱーい」

「かんぱーい。お疲れさまー」

 

 そしてお互い缶を煽りぐびっと一口。合わせたかのように、ぷはぁと息をついた。

 

「あー、久しぶりに呑むと美味しいなぁ」

「暑い日だと缶ビールも悪くないよな。ん、このエイヒレうまっ」

「炙る前にみりんをちょっとかけるだけで大分違うよね。あ、チーズ取ってほしいな」

 

 いつの間にか鶴丸宅マンションのベランダに現れていたプランター。そこですくすく育った鮮やかな赤いプチトマトが乗ったチーズを手に取り、テーブルの反対側にいる光忠へと差し出す。ちょうど、口許へ。

 

「・・・・・・見上げれば見える位置だからさ」

「あら残念」

 

 困ったように笑う光忠にこちらも笑みを返せば、彼はありがとう、とチーズを手で受け取った。

 ベランダに浴衣姿の男が二人。缶ビール片手に晩酌をしている。そこまではセーフらしい。しかし、チーズをあーんとするのは光忠的にはNGの様だ。例え、誰かが自分達を見るには顔を上げなければならない、地上から20メートル程高い所にいたとしても。

 不満はない。彼はこの時間が誰かの不躾な視線で水を差されるのが嫌だけだ。それだけ光忠にとってこの時間が大事だということなので、拒否をされたって笑って流せる。出会った当初だったらこうして同じ浴衣を着て、ベランダで並び立つことすら、人目につくことを怖がっていただろうことを思えばむしろ感動する。

 彼は自身の選択をそう思わなかったらしく、チーズをもぐもぐと食べながら顔を少し俯かせた。彼の視界には河川敷で行われる花火大会へと歩いていく人の流れがよく見えることだろう。彼の視線を追ってみると、彼はその中の、浴衣を着て手を繋いで歩く男女の姿を捉えているようだった。

 

「・・・・・・せっかく浴衣着たんだから、ああいう風に一緒に歩いてお祭りに行けたらよかったね」

 

 極力何でもない風に言っているがどこかしらの後ろめたさが自分の耳には届いた。何に大しての後ろめたさなのだろう。世間に対してだろうか。いや、きっと彼の恋人である自分に対してだろう。

 なぁに言ってんだかと笑い飛ばしたかった。

 こんな格好良くて美人で男前で可愛らしくて、気は強くしかし優しく仕事も出来るし料理上手でおまけに床上手な恋人を持てているのだ。却って世間の皆様に、恵まれ過ぎててすみませんね!と笑顔で謝罪をしたくなるくらいである。

 自分がそう思っていることを彼は知っているが、まだまだ彼の世界は変わっている最中なのだろう。元々一般的な感覚を持っていた光忠。彼が成長するに比例して絡みついていた世間の常識は多く、根深い。

 こればっかりはいくら言葉を尽くしてもどうしようもない問題。そして今花火の前座に問答する必要もない。

 

「んー、俺はこっちの方がいいなぁ」

 

 何でもない会話のひとつとしてのんびりと答えた。

 

「でも、鶴丸さん出店とか好きでしょ?」

「そりゃあ好きか嫌いかで聞かれたら好きだ」

「じゃあ、今から行く?その、ちょっと離れて歩くことにはなるけど」

「じょーだん!こんな素敵な君、一人で歩かせたら逆ナン入れ食い状態だぞ!?やだね。せっかくの二人の時間を他人に邪魔されるなんざ」

 

 彼は自分に好きなものを我慢させるのが申し訳ないらしい。けれど検討違いのことを言う彼に強めの否定を返した。

 彼と手も繋いで歩けず、ナンパされる彼にヤキモキするなんてごめんだし、第一自分の好きなものこそ彼なのだ。申し訳ないと思うなら自分に彼を我慢させないでほしい。

 むくぅと膨れる代わりに、にやんと出来るだけやらしく見える笑顔をわざと浮かべる。そして彼との距離を二歩分の距離から一歩分へと縮める。

 

「俺はこっちの方がいいの。君が男であれ女であれ、外を歩いてるんじゃこんなこと出来ないからな」

 

 缶ビールを反対に持ち代えて、空いている手を彼の尻へと伸ばした。下から撫で上げて軽く揉む。浴衣の下に下着の感触が有った。着付け前に「浴衣を着る際は形が崩れるから、本来は下着を身に付けないらしい」と何回か言ってみたがどうやら洗脳はされなかったらしい。非常に残念である。

 マンションのベランダは壁なので下半身は外からは隠れる。誰にも見られる心配はない。けれど彼はちょっと顔を赤くして「ちょっと!」と怒って見せるだろう。それでいい。雰囲気のちょっとした換気になる。自分は彼の尻を撫でられる。一石二鳥ってやつだ。

 彼は無表情とぽかんとした顔の中間顔で彼の尻を撫でている鶴丸の手に視線を落とす。自分の予想した反応はなかなか訪れない。これは本当に怒るやつか?とちょっと焦り始めると彼が静かに口を開いた。

 

「・・・・・・そうか。出来ないことがある分だけ、出来ることもあるってことか」

 

 成程。としみじみ呟いたかと思えば、彼は手を伸ばす。光忠の尻を未だ揉んでいる手ではなく、その手の持ち主の尻に。

 

「ふぇっ!?」

「やっぱりね。あれだけ人には言っておきながら自分だって下着穿いてるじゃないか」

 

 ぐわしっと尻を掴まれて高い声が出てしまった。慣れない手つきは加減が分からない為か強い力でぐにぐに尻を揉みしだく。

 驚き固まりつつ光忠の顔を凝視する。すると彼はにやっといやらしく笑ってみせた。尤も鶴丸は本当にやらしいことをしている時の彼の表情を知っているので、それがわざと作った表情だと分かりはしたが。

 

「確かに。これはここじゃなくちゃ出来ないことだね」

 

 それに貴方相手じゃなきゃ出来ないことだ、と続けた。そんな彼にじわじわと込み上げるものがあって、

 

「っ、あっはっはっは!!!」

 

 とうとう弾ける様な笑い声を上げてしまった。鶴丸の笑い声に釣られた光忠がくすくすと笑い声を漏らし、やはり我慢出来ずに声を上げて笑った。

 二人分の爆笑は下界に届くものだったのか、それとも偶然か。ベランダから見える道を歩いていた色鮮やかな浴衣で華やいでいる女子学生らしき集団の一人が顔を上げてこちらを向く。その目にはマンションのベランダで缶ビール片手に賑やかな談笑している男二人が写っているだろう。特段興味を引くはずもないから視線はすぐ友人達の元へ。

 まさか笑いながらお互いセクハラしあっているなんて思いもよらないよなぁ、とますます面白くなった。

 光忠のこういう所が大好きだ。大事なことは考えすぎる程思慮深くて、人の気持ちばかり気にしてしまう所もある。自分の気持ちと世間の常識の擦れに悩むこともまだ多く、それでいて自分の大事なものを踏みにじられるのは耐えられない所がある為、『世間にとっての間違い』になる世界だと彼はとても生きにくいことだろう。

 しかし彼は強い人だ。辛い道でも歩むと決めたらその道中を楽しくしようともしてくれる。悲しいことがあっても鶴丸への思いで乗り越えてくれる。

 そういう彼を好きになって良かった。彼に好きになってもらって良かった。毎日ちょっとした瞬間にそう思う。

 

「あー楽しい。君、面白いよなぁ」

「ははっ、鶴丸さん程じゃないけどね」

 

 この瞬間も勿論そう思ったが、突然「今、側にいてくれてありがとう」と言うには酔いが足りなさ過ぎて、代わりの言葉。間髪入れず楽しげな返事が返ってきた。十分満足だ。

 その後はビールとつまみで花火までの時間を楽しく過ごした。

 電灯や家の明かりで照らされている部分以外は闇が深くなり、缶ビール一本で仄かに染まっていた光忠の桃色の肌も浴衣の色と溶けてしまった頃、ようやく花火の打ち上げ時間となった。

 

「花火、見るの久しぶり」

「俺は仕事や接待がない時はここから見てたな。つっても、部屋の中からぼんやりとなんとなーくな感じだったけど」

 

 子供の頃は新鮮な驚きに満ちた気持ちで見上げていた打ち上げ花火。まるで星が生まれる瞬間だと母にきらきら語った幼い子供の感性は成長していくにつれて少しずつすり減っていった。

 光が差し込む角度、覗き込む角度で見えるものが変わるまるで宝石の様な感性達が世間に磨き上げられすり減らされ、まったく同じ形になるのが少年時代は苦痛で仕方なかった。しかし気づけば社会の一歯車になり、慣れた日々をこなす大人になっていた。必ずしも自分の思い通りにはならない仕事は好きだったのが救いだった。それでもこのまま、同じ日々を過ごしていき、いつかなんとなく出会った女性と結婚して家庭を築いてそれなりに幸せな一生を過ごすんだろうなぁなんて、物足りない気持ちで缶ビールを煽ることもしばしばだった。

 勿論そんな未来を回避する為に光忠を選んだ訳ではない。初めて光忠の声を聞いた時、初めて会って会話をした時。その時の感覚を、幼い日の感性であればなんて表現しただろう。大人になった鶴丸では、自分の世界を広げてくれた運命の出会い。というのがせいぜいだ。

 ただ、隣に光忠がいると、鶴丸は子供の自分に戻ってしまう。好きという気持ちだけで全力で突っ走る、ひたむきな子供の自分に。

 だから、火薬の入った尺玉が打ち上げられただけの花火も、彼の隣では「星の生まれる瞬間みたいだな」と初めて花火を見上げた時と同じ気持ちで言えるだろう。言ってみようか。ロマンチチズムが過ぎると笑われるかもしれない。笑われても良い。そのまま良い雰囲気に持っていけるなら万々歳だ。

 と、そこまで考えて。やっぱり大人になってしまったなぁと心の中で苦笑い。しかも下心満載の。大人の欲に、子供の全力さなんて手に終えない。

 けれど光忠はよく「子供みたいなんだから」と鶴丸を甘くたしなめる。一転、鶴丸を「やっぱり年上だね」なんて頼もしそうに見てくる時もある。

 つまりはこういう鶴丸こそ光忠の理想であると、そう自分の都合の良いように思っていくことにしよう。そう思うことで、だから鶴丸は光忠に関することにはいつも全力で努力を惜しまず一回一回のシチュエーション作りだって一生懸命なのだ、と言い訳をすることが出来る。

 

「久しぶりに暑さ以外で夏を感じる」

 

 頭の中の考えを、これからの流れにシフトチェンジしかけた時、隣の光忠がぽつりと笑った。

 

「暑い暑いって言って、すっかり夏気分だったけど夏らしいこと何もしてなかったなぁ。特に社会人になってからはさ。去年の夏にした仕事は覚えててもどういう風に過ごしたかはいまいち思い出せないんだよね」

「俺も似たような感じさ」

「貴方に会ってなかったら、今年もそういう風に過ごしてたのかもしれない」

 

 半歩距離を詰めて光忠が言った。近くなった声に誘われて恋人の顔を見上げる。

 

「そう思うとこの時間がますます嬉しくなるね。お揃いの浴衣をプレゼントして貰って、恋人の素敵な浴衣姿も見られて更に嬉しさ倍増だ」

 

 外は夜。部屋の中も電気はついていない為、闇に慣れた目と聴覚だけを頼りに光忠の表情を探るが色彩ばかりはどうしようもならない。

 まったくもって惜しいことをした。ここが夜の中ではなければ嬉しさと少しの照れによって光忠の目の縁がほんのり赤くなるのが見えただろうに。

 惜しい気持ちの分だけ光忠に触れたくなって半歩分近づいた光忠の大きな手に自らの手を伸ばして握った。そして半歩分のしかなかった二人の距離をとうとうゼロにする。

 

「もうすぐ花火が始まるんだ。誰もマンションを見上げたりはしない」

 

 眉根をわずかに下げたように見える光忠が何かを言う前に断言した。

 

「もしそんな奴がいるとしたら、そいつは花火じゃなくて俺たちのキスシーンが見たい奴だ。存分に見せてやれば良い」

「でも、」

 

 迷っている光忠の言葉を、鶴丸ではなく、ひゅるるる~と高い音が遮る。光忠がその音に気を取られたその一瞬の隙。鶴丸はその隙を見逃さず、空いている片手で光忠の頭を引き寄せてキスをした。

 同時に、暗い夜空に赤い火の花が咲いた。まるで口づけが合図だったかのように。もっとも鶴丸は目を閉じていたので瞼の裏からの明るさでそれを知ったのだが。

 花火が夜空を彩り、その光が鶴丸の瞼まで届くということは、二人がベランダで唇を重ねている姿も花火によって照らされているということ。だから口づけを受けている光忠が、空いている側の手の平を鶴丸のちょうど胸の辺りに置いたのは、鶴丸の体を押し返すためだと思った。

 けれどその手から押し返そうとする力を感じない。感じたのは、浴衣の布越しに鶴丸の胸を戸惑いつつもねだるように軽く掻く、光忠の爪先の感触。その小さな感触が、花火から遅れて聞こえる衝撃に近い爆音よりも鶴丸の胸を大きく揺らすことを光忠は知っているのだろうか。これではもう花火どころではくなった。

 元々花火なんて口実だろうと指摘されればその通りだと開き直るのだが、そんな空気の読めない指摘をしてくる輩はここにはいない。

 光忠の手を握っていた片手を離し、帯が結ばれている腰に回した。

 夜空に咲く花の色。赤の次は青。紫、緑。色と爆音が交互に生まれて消えて、その間も口づけを繰り返す。色のついていない白い光が一際大きく輝いた時、閉じていた瞳をうっすら開いた。丁度微かにまつげを震わせて光忠が瞼を開いたのと同時だった様で、静かに現れた瞳と視線が合う。

 

「花火、まだひとつもまともに見られてないんだけど」

 

 瞳に乗っている嬉しさやら恥ずかしさやらの様々な感情の中から、わざわざ拗ねた部分を取り出して光忠が唇を触れさせたまま囁く。花火の爆音の合間だったのでよく聞こえた。

 

「大丈夫、今からちゃんと見せてやるって」

 

 そう答えると光忠が目を丸くする。恋人同士の触れ合いをここでストップするのだろうかとでも思ったのだろう。そんな訳がない。鶴丸はこと光忠に関して驚くほど我慢強く、そして驚くほど我慢弱い。我慢弱さの方が発揮されている今、何事もなかったかのように並んで花火鑑賞に戻るなんて出来るはずがなかった。

 手を回したままだった腰を撫でる。尻を触った時は何ともなかった光忠がぴく、と小さく反応をする。光忠の方もスイッチが入っている様だ。そのまま腰を引いて、ベランダからすぐ後ろの窓まで共に歩く。鮮やかな花火を背に受けたまま、リビングとの出入り口である窓をがらりと開けた。部屋の中はクーラーで冷やしていた為、冷たい空気が外へと逃げていく。

 

「もしかしてここで?」

「ここならよく見えるだろ」

 腰を引いて促しながらキスをすると光忠は嫌がるそぶりもなくキスに応えてくれた。鶴丸の首に両手を回し、リビングの床へと腰を下ろしていく。ベランダに出ているはだけた長い足を跨いで、鶴丸も膝をリビングの床につき、光忠の上半身をゆっくり押し倒した。

「パパー!花火始まっちゃってるよー!!」

「こらぁー、ちゃんとパジャマ着てからベランダに出なさい!」

 

 花火の爆音の合間に、上階かはたまた下階の住人の声が聞こえた。どうやら花火に誘われてベランダへと出てきたらしい。

 

「花火の音が鳴ってる時はいいが、あまり大きな声を出すと聞こえてしまうみたいだな」

「じゃあ、ここじゃなくて寝室に・・・・・・」

「君、花火見るの久しぶりって言ったじゃないか。花火見てからな。恋人思いだろ?」

 

 鶴丸を見上げてくる光忠に微笑むと、後ろでまた花火が上がる。その色がまたタイミングよくピンクなもので、桃色に染まる光忠が不満げな顔をする。

 

「横に並んで見るならまだしも、貴方が目の前にいるのに花火なんて、」

 

目に入るわけないじゃないか。

 

 花火の音が光忠の言葉を掻き消したが光忠を見つめていた鶴丸には、その唇の形で彼の言葉がわかった。しかしわざとわからないフリをする。

 

「なんだって?花火の音で聞こえなかった」

「~っ!これじゃあ鶴丸さんは花火見えないじゃないかって言ったんだよ!」

「ああ、俺は花火なんて見なくてもいい。花火より綺麗なものがあるからな」

 

 信じられない言葉を聞いたかの様に光忠が目を見開いた。何にも遮られる事がないように体を屈めて耳へ直接吹き込む。

 

「君の方が綺麗だよ」

 

 途端に震え出す体。もちろん感動で、なんてことはない。笑いでだ。

 

「ほ、本当にそんなこと言う人初めて見た。しかも男の僕に。貴方の口説き文句のチョイスは絶対おかしい」

「相変わらず失敬な」

 

 別に笑いを狙ったわけではない。いつだって本心しか口にしていないというのに。なのに自分が口説くと光忠はいつも笑うのだ。

 今も、首に回していた手の片方を口元に持っていき、光忠は笑い続けている。鶴丸の口説き文句に対し、いつもダメ出しをしてくる光忠だが、それは幻滅したり落胆している訳ではなく、むしろ目に見えて上機嫌になる。曰く、決めようとしない時が格好良くて、決めようとして決められない時がかわいいのだとか。鶴丸としてはびしっと決めて光忠をメロメロにしたいのにかわいいとは納得がいかない。

 しかし、様々な花火の色に染まりながら楽しそうに笑う光忠を見ていると、笑われているのは自分なのにも関わらず、楽しそうだし可愛いからまぁいっか、と思ってしまうのだ。

 

「もう、花火を見る度思い出したらどうしてくれるだい。仕事帰りにうっかり見ちゃって一人で大笑いなんてしたらおかしな人だと思われるじゃないか」

「ふふん。なんなら毎年毎年この花火大会の時には君の耳元で口説いてやる。花火を見る度、いつでもどこでも存分に俺を思い出すといい」

「・・・・・・いいけど、僕だけそうなるのは不公平じゃない?」

 

貴方も花火を見る度いつでもどこでも存分に僕を思い出してくれないと。

 

 笑いを納めて、口元から離れた手が鶴丸の腰に回ってきた。そしてそのまま、光忠の腰にぐっと引き寄せられる。お互いの体が密着した所で、腰に回っていた手が今度は人差し指だけでつつーっと鶴丸の背中を下から上へとなぞっていく。光忠にしては積極的なアピールだ。

 

「・・・・・・えっちな奴。花火を見る度にムラムラしたらどうしてくれる」

 鶴丸のわりと真面目な問いかけに、光忠は唇を不敵な笑みの形にする。まるでそれでこそ公平だろうとでも言いたげに。

 いつもは余り見せない光忠の表情に鶴丸の鼓動が打ち上がり夏の夜空を響かせる。その音の大きさに押される様に光忠の首筋に顔を埋めた。

 二人の乱れていく足元では揃いの金魚が夏の花火を楽しんでいる。

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