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​滲む紫陽花

「雨だなぁ」
「雨だねぇ」


 部屋に二人きり。開いた障子の向こうは雨の雫が線となって地上へと落ちていく。晴れの日は明るい日差しと声に溢れる城内も、今日のような雨では何処か静かな海に揺蕩っているような、そんな雰囲気がある。
 しとしと、しとしと。雨は静かに降り続ける。水で滲んだ空気、どこか境界線を曖昧とさせる薄い景色の中に、ぼんやりとした色があった。紫、水色、白、紅の紫陽花。土は同じはずなのに、色が違うのはこの城内の景色は主の力で作られているからだろう。
 開いた障子の近い所に片膝を立て、そんな外の様子を眺めていた鶴丸を、ちらりと盗み見た。
 雨の日の鶴丸は城内同様、静かだ。晴れの日にからりと笑う姿とはまるで違うと燭台切は思う。雨の日の鶴丸はいつも静かで、そして燭台切の部屋でひっそりと過ごす。最近ではそれが当たり前になっていた。
 最初理由がわからなかった燭台切が、どうしてこの部屋に来るのだと聞けば、ここが一番紫陽花が綺麗に見えると答えがあった。静かにしておく、君の邪魔はしないとまで付け加えられた、その言葉は真剣だった。よっぽど紫陽花が好きなのだろう、今日も静かに紫陽花を眺めている。
 物言わずただ其処に居るだけの姿は、雨の日に存在を滲ませる紫陽花を思わせる。鶴丸がまさに今眺めている、それ。
 紫陽花は美しいが冷たいとの花言葉があったはずだ。つれない。冷たい。片恋している相手に抱く印象としては余りに身勝手。だけどそう思う程、雨の日の鶴丸はさらさらとした冷たさを感じさせる。態度ではなく、雰囲気の話だ。
 いつにない大人しさは、あちこちで遊びまわれない退屈さを好きな紫陽花で慰めているのかもしれない。何にせよ、鶴丸がここにいる理由は、燭台切が望んでいる甘い理由ではないはずだ。
 雨の日が続いている為、室内干しにした洗濯物を畳みながら燭台切はそんなことを考える。
 燭台切がここにいる理由は、鶴丸がこの部屋を訪れるからだ。いつも城内をあちこち動き回っている鶴丸がひっそりとここにいるのを独り占めしたくて、自らも部屋に閉じこもる。
 晴れた日に鶴丸同様動き回っている燭台切も、当初は雨の日だからと部屋で独り大人しくしていただけだったのだが、鶴丸が部屋を訪れるようになってから、わざわざ部屋で出来ることを探して部屋に閉じこもるようになってしまった。今、手元にある洗濯物も部屋にいる為の理由の一つだ。
 乾いてはいるものの、どうしても湿気を含んでいる洗濯物を残念な気持ちで折りたたむ。
 晴れた日に洗濯物を干すのが好きだが、この際主が言っていた乾燥機というものでもいい、カラッとしてふわっとした洗濯物が恋しいと燭台切は心の内で零した。

 ざあざあと、先程より雨足が強くなった。庭の景色は白から大分灰色へ変化していて、ますます世界を滲ませていく。紫陽花の色も、それにを眺める鶴丸も曖昧な世界へと溶けていくようだ。


「紫陽花、綺麗?」


 そこにいる鶴丸が、自分の願望が見せる幻ではないと確かめたくなって、燭台切は声をかける。


「そうだな、綺麗だ」


 静かに答えがあった。鶴丸が確かに居ることに安堵しながら微笑みを返す。


「僕もね、紫陽花は好きだよ」
「意外だな。君は薔薇とかそういう派手な花が好きだと思っていた」
「そう?」


 燭台切の安堵に鶴丸は当然気づきもせず、口に出した話題を進めていく。


「気障ったいとかそういう意味じゃないぜ?君ほどの男前なら、例え100万の薔薇の花に囲まれていても見劣りしないってことだ」
「わ、ありがとう」


 さらりと褒められて、声が弾んでしまった。鶴丸は、褒めるのが上手いのでつけあがるのは、勘違いするのは危険だ。大した意図はないはず。ただ一つの感謝だけに留めて燭台切も話題を展開していく。


「薔薇とかも好きだよ。花はわりと何でも好きかな。綺麗だよね」
「そうだな。というか花が綺麗だと思う日が来るなんてなぁ。花を愛でる精神が自分にも宿ったのは未だに驚きだ」
「ほんとほんと」


 刀同士にしかわからない共感に頷いて、次の洗濯物に手を伸ばした。鶴丸は未だ外を眺めている。


「よほど好きなんだね、紫陽花」
「ん、まあ、なあ。晴れの日の紫陽花も、雨の日の紫陽花もどっちもいいと思うぜ。まあうちは晴れると消えちまうけどな、紫陽花」


 主の力で、紫陽花は雨の日にのみ咲くようになっている。だから、鶴丸は雨の日に燭台切の部屋を訪れる。


「僕は、雨の日の紫陽花は、ちょっと寂しいかなぁ」
「寂しい?」


 燭台切が一粒の雨粒のようにぽつりと零したその言葉に、外を眺めていた鶴丸がようやく目を寄越した。


「どちらかと言えば、紫陽花は雨の日の印象が強いんじゃないか?」
「そうだとは思うけど」
「どういうところが寂しい?」


 真剣な声色に見つめ返せば、雨の世界を背負った鶴丸が、声同様真剣な目で燭台切を見ていた。雨の日なのに月が浮かんでる。しかも二つ。そんな感想を抱きながら、燭台切はえっとね、と口を開いた。


「なんかさ、そこに『いない』みたいでしょ」


 深く考えずに言った言葉を真剣に取られてしまった。だけど茶化すことも出来ずに、思ったことを口に出す。鶴丸が、『いない』みたい?と言った。


「ごめん、『いない』じゃなくて、『ない』だった」


 花は『いる』『いない』ではなく、『ある』『ない』と表現すべきだ。


「うちの城では見れないけどさ、雨が降ってない時の紫陽花は、鮮やかに明るく咲いていて、元気だなーって思ってたんだ。遠くから見ててもちゃんとそこに咲いているのがわかるし。近寄れなくてもね、平気」


 紫陽花の話だが、燭台切の紫陽花はいつの間にか目の前の鶴丸になっていた。だから燭台切は、明るい空の下で笑う、元気なその姿を見るのが好きだよと心の内で付け足す。


「だけど、雨の日は、」


 言葉を区切った。鶴丸はまだ視線を寄越したままだった。
 雨の日に部屋を訪れる鶴丸はひっそりとしていて、独り占めしているはずなのにそこにいるのかどうかわからなくなる。
 晴れた日に鮮やかに、圧倒的存在感で咲く紫陽花が、雨の日には儚く、雨に色と存在を滲ませるのと同じで。


「雨、が曖昧にさせて。確かにそこに咲いているはずなのに、そこにあるのかわからなくなるんだ。だからね、ちょっと寂しいよ」


 そこまで言って、何を独りで感傷的になっているんだと恥ずかしくなる。誤魔化すように声をわざと明るい物へと変えた。


「雨の日の紫陽花も好きなんだけどね!」
「ふうん」


 そう息をついて、鶴丸は立ち上がった。右手にはいつの間にか自身の本体である刀が握られている。自分の中から呼び出したのだろう。


「鶴丸さん?」


 刀を出したこと、立ち上がって部屋を出ていくことを不思議に思って声をかける。鶴丸は振り返りもせず縁側に腰を掛け、ちょいと下駄借りるぜ。とだけ返した。
 そして見つめる燭台切の視線を背中に受けたまま、雨がざあざあと降り続ける庭へと出た。


「ちょ、ちょっと鶴丸さん!」


 鶴丸が足を止める。恐らく燭台切が声をかけたからではない。庭に咲く、紫陽花の花々の前に辿りついたからだ。そして、鞘を消した自身の本体で紫陽花を1本、2本と茎の部分から切り、自分の腕へと抱いていく。
 燭台切が何事かとあっけにとられているうちに、立派な紫陽花の花束を作り上げた鶴丸は、自身の刀を消し、その花束を両腕に抱いたまま部屋へと戻ってくる。雨に打たれたのだから当たり前だが、頭からつま先まで腕の中の紫陽花同様びしょりと濡れている姿だ。
 それを見て、はたと我に返った燭台切が箪笥から大きめのタオルを取り出し、そのままの姿で縁側に上がり込んだ鶴丸を迎える。


「鶴丸さん、風邪ひいちゃうよ!」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃ、いい、とにかく拭くから、じっとしてて」


 紫陽花を抱いたままタオルを受け取ろうとしない鶴丸を待っていられず、燭台切は水を含むその白い頭にタオルを乗せわしゃわしゃと拭いた。燭台切の方が背が高いので溢れる紫陽花に遮られることもない。


「光忠、紫陽花」
「そうだよ、紫陽花。なんだって急に摘んじゃったの。庭が殺風景になったら皆がっかりするでしょう?」
「それは心配ないぜ?」


 子供のように目をぎゅっと瞑り大人しく拭かれている鶴丸が、そう言った。その言葉を確かめる為に鶴丸の後ろにある庭に視線を投げると、先ほど鶴丸が紫陽花を切ってきた場所に同じ色の紫陽花が何事もなかったかの様に確かに存在していた。


「主の力か」
「そういうこと。だから、この花泥棒も許されるってわけだ」
「だからって、今じゃなくても。こんなびしょ濡れになってまで」
「あんな、切なそうな顔されちゃあなぁ」
「え?」


 鶴丸の言葉に思わず手が止まる。その時を待っていたかのように鶴丸が銀の睫毛を震わせて、金色に光る両目を光忠へと寄越した。そして両腕に抱いた紫陽花を差し出す。


「ほい」
「え、あ、僕に?」

「他に誰がいる。勿論君にだ」


 ずい、と寄越されては受け取らないわけにもいかず、タオルから手を離してその紫陽花を受け取った。手が空いた鶴丸はタオルをそのまま、燭台切を見つめている。鶴丸の衣装からぽたりぽたりと落ちる水滴が、縁側を濡らしていく。室内なのに雨が降っているみたいだ。


「どうだ?」
「綺麗、だよ?」
「そうじゃなくて。紫陽花。確かにここにあるだろう」


 君の腕に抱かれている、と鶴丸が囁く。


「好きなのにただ遠くから眺めて、確かにそこにあるんだろうかと寂しくなるくらいなら、手折ってしまえばいいのさ。腕に抱けば確かにそこにあるんだ。一方的に距離を置かれて切なげに見られたら、紫陽花の方こそ胸が焦がれて参ってしまうぞ」


 思わぬ言葉、しかも“紫陽花本人”からそう言われて、燭台切は目を見張るしかない。
 しかしそれを知らない鶴丸は、濡れた髪を頬に張り付けたまま続けた。


「それにしても、君がそんなに紫陽花が好きだとは思わなかった。早く言えば、こうして花束の一つや二つ。いくらでもやったのに。あんな切ない目で見るとは、本当に好きなんだな」
「・・・・・・うん、大好き」


 貴方が。と声には出さず。紫陽花の話をする鶴丸の言葉を利用して、本音を告げる。
 そして胸がきゅうとなる感覚を誤魔化すように、濡れた紫陽花が自身も濡らしていくのにも気にしないで燭台切は紫陽花に頬寄せる。
 一つ一つは小さな花達が掠めて燭台切の唇を雨水で濡らした。鶴丸がじっとそれを見ている。先ほどまでにはなかった熱を僅かに感じた。
 もしかして羨ましいのかもしれない、と燭台切は気づく。雨の日になる度、一番綺麗に見えるのだと燭台切の部屋にやってきて一日中紫陽花を眺めるのだ。鶴丸の紫陽花好きは相当なもの。しかし、だとすれば摘んでも無くならないと知っていたのであれば、鶴丸こそ何故紫陽花を摘まなかったのだろうと疑問に思った。主の力から切り離された紫陽花は晴れの日であっても消えないだろうし、雨の日であってもわざわざ燭台切の部屋に来る必要はない。
 そこまで考えて、貰ったものを渡すのもどうかと思うけど、と燭台切は口を開く。


「半分こしようか?」
「紫陽花か?いや、いい」
「鶴丸さんだって好きなんでしょう?」


 半分渡そうとする燭台切の手に、鶴丸の手がやんわりと触れた。


「それを貰ってしまうとな、ちょいとばかし困ってしまうのさ」


 部屋で静かに過ごす相手に合わせて、静かに存在するための花だ、それを手に入れてしまうとな。とぽつりと零れたそれは、一粒の雨と同じはずだったのにはっきりと燭台切の耳に届いた。

「雨の日に、この部屋で過ごす君を独り占めする口実がなくなってしまうだろう」

そうして笑った紫陽花は、滲んだ曖昧な世界に、今鮮やかな色を落とした。

 

 


 

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