眠る前の少しの時間。暇つぶしにと書庫から借りてきた書物に目を落とす。
題名に惹かれて選んできたものであったが、内容はあまり面白くない。二日ほどかけて半分過ぎまで読んだが、ここから面白くなるものだろうか。ここまで淡々と進んで来た物語に期待は出来ない。
いつもの様にミステリーとやらを選ぶべきだったか。主人公の少女が友人の胸で泣き始めた描写を、冷めた目で見ながらそんなことを思っている。
とんとん
その音がやけに大きく響いて聞こえた。きっと本に集中出来ていなかったせいだろう。それとも待ち望んでいたせいか。
「鶴さん、起きてるかい」
鶴丸が眠っていたら夢の中では拾えないくらいの小さな問いかけがあった。灯りが点いているのだから起きていると分っているだろうに。
「おう、起きてるぜ」
本を閉じて床に置きながらどーぞ、と声を掛けると自室の入り口が静かに引かれていく。隙間が出来た所で丸い金が部屋の中を覗き込む。
「寝る所じゃなかった?」
「全然」
答えると、隙間が大きくなる。人ひとり入れる位開いた所で、黒い寝衣に身を包んだ燭台切が立っていた。
いつもの自信に溢れる立ち姿とは違い、身の置き場に迷っている幼子の様に体を少しだけ小さくしている。
「鶴さん、あの・・・・・・」
言い淀んだまま燭台切はその場を動こうとしない。
「光坊、おいで」
出せる限りの優しい声で呼ぶと、燭台切は泣きそうな顔をしてようやく部屋に足を踏み入れた。後ろ手で入り口を閉め、鶴丸のすぐ側へと腰を下ろす。心なしか項垂れている燭台切のその表情が、安堵と抱えている感情が同時に出てしまった時の顔だと言うことを鶴丸は理解していた。
彼がこうして鶴丸の部屋の入り口に現れるのは、独りでは抱えきれない感情を持っている時。格好良さに拘る燭台切が、助けを求める位の辛さを抱えてしまった時だ。
燭台切はその辛さの原因を語らない。けれど鶴丸はその原因を知っている。
「ごめんね、寝る前の時間に訪ねてきて」
「いいや、丁度良かったぜ。読んでた本がつまらなくて退屈していた所さ」
大げさにあくびするふりをしてやれば、燭台切の唇が緩む。けれど、日頃の明るい笑顔からは程遠いものだ。
「どういう内容だったんだい」
「んー、何なんだろうなぁ。人間の生涯が淡々と描かれているんだが、強いて言えば恋愛に焦点を当てているのかな」
「恋愛・・・・・・」
少し曇る表情に、そうだよな、逃げ場所でその単語は聞きたくなかっただろうと、心の中で話しかける。しかしそこを話題として広げるのも変なので気づかない振りをする。
「やっぱり俺にはミステリーが合ってるらしい。光坊も読んでみるかいミステリー。今なら鶴さんが朗読してやるぜ」
「絵本じゃなくて小説一冊分?何日かかるかな」
「何日かかってもいいじゃないか、毎晩遊びに来いよ。光坊がいた方が俺も楽しいしな」
ぽんぽん、と頭を叩いてやれば燭台切はこの部屋に足を踏み入れた時と同じ顔をした。
ここで泣いてくれれば抱きしめる口実が出来るのに。
内心願ってみたが燭台切はいつもの様に涙を持ち堪え「ありがとう。僕も鶴さんと一緒だと楽しいよ」と健気に答えた。笑おうとしている表情が痛々しく見えるのは鶴丸が彼の叶わない恋を知っているからだろうか。
そう、燭台切は片恋をしている。もっと言えば横恋慕だ。既に伴侶を持つ相手に懸想してしまっている。
表面上は誰に対しても平等に優しさを振りまいている燭台切。きっと鶴丸以外の誰もその事実に気づいていないだろう。古い馴染みの刀でも同じ刀派の刀でもよく行動を共にしている刀でも。燭台切に片恋をしている鶴丸以外の誰も気づいていない。
「今日、万屋に買い物に出掛けたんだ」
「うん」
「そしたら特売してて卵が安く買えたんだ。砂糖も安く売ってて、最後の一つだったんだよ」
「おー!そりゃあ運が良かったなぁ!」
鶴丸の元を訪れる燭台切はいつもぽつりぽつりと何でもないことを話し出す。いつもの明るく凛々しい姿とはかけ離れた態度で。
けれど普段と同じく絶対に弱い言葉を吐くことはない。辛いも悲しいも言わず、ただぽつりぽつりとあったことを話すだけ。それが燭台切にとって精一杯の弱音の吐き方なのだろう。
鶴丸はその話に相槌を打ち、時に大げさに反応を返し、燭台切に起こったことを共有する。それだけだ。
その対応が正解かは分からないが、一通り話した後の燭台切はいつも笑えるまでには浮上して自室に帰っていく。それに、こうして燭台切が度々訪れる所を見ると鶴丸の対応は少なくとも間違いではないのだろう。
燭台切はそれから万屋からの帰り道で可愛らしい花を見つけたこと、お茶を煎れたら茶柱が立っていたこと、洗濯物を取り込んだ途端通り雨が降ったことなどを話した。声は未だに静かなままだが話す内容は前向きなものだ。今日の浮上は早いかもしれない。
「そうか、今日はツいてる日だったんだな!」
「うん・・・・・・、今日は朝からずっと良い事しか起こらなかったんだ。僕も今日は良い日だって思ったよ」
「俺は普通の日だったなぁ。朝から夕方まで遠征だったし、帰った時は本丸が少しバタついてたからな」
鶴丸が遠征から帰った当時、本丸は嫌な意味で少しざわついていた。理由は出陣部隊だ。帰還した出陣部隊の中に負傷者が複数いたらしい。
鶴丸が帰った頃には騒ぎはほぼ終息していて詳しい話は聞いていないが、中傷者二振り、重傷者一振りとのことだった。中傷者は騒ぎ立てる程の状態ではなかったが、重傷者はあわや、という状態で部隊が帰還した時、本丸内は騒然となったらしい。
確かその重傷者は――
ハッと気づいて息を飲む。思わず勢いに任せて燭台切の顔を見れば、普段から白い肌は白さを通り越して青々としていた。
鶴丸はそこで初めて燭台切が膝の上で握っている拳が震えていることに気付いた。
「つ、るさんは他人の不幸を願ったことがあるかい」
まるで罪を告白するかのように息を詰めながら、震える音が絞り出された。
「朝から良い事ばかりで、僕、今日は良い日だって思ったんだ・・・・・・」
「光坊・・・・・・」
「それなら、あれも僕にとって良い事だったのかな。僕は仲間の不幸を願って・・・・・・、本当は消えてほしいと思って・・・・・・っ」
それ以上吐露するのは耐えられないと言った様子で燭台切は口を噤んだ。噛んでいる下唇は色を失い、今にも噛み切ってしまいそうだった。
今日折れかけたのは燭台切が懸想している相手の伴侶だった。
鶴丸は重傷者の話を聞いた時「ああ、仲間が折れなくて良かった」という感想を抱いただけだ。もし今日が鶴丸にとっての良い日だったなら、今日が良い日だったから仲間は折れることもなく無事を取り戻したのだと受け取っただろう。
しかし、燭台切の良い日に起こった事が彼にとってどういう意味を持つのか。それを決めるのは燭台切だ。
彼は、恋敵に訪れた災難を自分の隠された願望だと結び付けてしまった。そして、それに耐えがたい苦しみを抱いている。自分は最低だと、自分自身を憎んですらいる筈だ。燭台切は難儀な性格をしているから、そんな自分でも良いと開き直ることが出来ない。
鶴丸は知っている。普段の燭台切は苦しみを抱きながらも愛し合うふたりをいつも優しい瞳で見ていることを。唯一の逃げ場所にしている鶴丸の前でも自分の苦しみを吐かず、誰も恨まず、優しいが故に恋に独りで悶え苦しんでいることを。そういう燭台切だから鶴丸は好きでいられずにはいられないのだから。
燭台切の罪悪を蹴とばすことは簡単だ。笑い飛ばしてやってもいい。きみはそんな奴じゃないと、俺はずっときみを見てきたんだから分かる、と。
けれど鶴丸はそれを選ばない。鶴丸は燭台切を暗い苦しみの底から引っ張り上げたい訳じゃないから。
「僕は、」
「俺もあるぜ」
「え?」
「他人の不幸を願ったこと」
拳を震わせることを忘れて呆ける燭台切に微笑みかける。
「俺だって好きで他人の不幸を願うわけじゃないんだぜ?だって格好悪いじゃないか、人の幸せを願えないなんて。本当は世界中の奴の幸せを願えるほど器のでかい男になりたいんだが、如何せんこの心というものは厄介でなぁ。だから仕方ない」
大げさな手ぶりで、両手のひらを天井に向けつつ肩を竦める。燭台切は開き直った兄貴分に何と言えばいいか分からない様子で相槌さえ打つのにも迷ってしまっている。
「どーせ俺は良い子じゃないさ。折れたら地獄に落ちるかもな!へん、望むところだ!その時は潔く地獄に落ちてやる!」
「つ、鶴さん、声。皆、寝始める時間だからもう少し小さく、」
「だからひとりじゃないぜ、光坊」
「!」
燭台切の指示通り声を小さくして教えてやれば、隻眼が見開かれ困惑していた顔が驚きの顔に変わった。
少しだけ顔を近づけて、内緒話で提案してやる。
「きみが他人の不幸を願う悪い奴で、折れた後地獄に落ちるとしても、俺も一緒だ。だから安心しな」
「安心、て」
「きみと二振りなら地獄も楽しいだろうさ。鬼も切り放題だ!ふふふ、羨ましがる奴らが出てくるだろうな。そしたら言ってやろうぜ?きみ達が他人の不幸を願ったこともない良い子ちゃんなのが悪い。せいぜい平和な天国で退屈しろ!ってな」
目の前に良い子ちゃん達がいるかの様に胸を張って見せる。そして燭台切の方を向き、人差し指を立てながら教えたりないといった態度で言葉を続ける。
「ここだけの話しな。天国ってめっちゃくちゃ退屈そうだぜ?昔、三途の川辺りまで主人の伴をしたことがあるんだが、あの時見た向こう岸は俺には退屈そうだと思っていたんだ。だから光坊にも、そんな良い子ちゃんだと天国の方に逝っちまうぞって忠告するつもりだったんだが・・・・・・。いやー、手間が省けた」
そこまで一気に捲し立てると、目の前から、ぶはっと勢いよく息が噴出される音がした。笑い声を上げるのは耐えているが肩は震えている。
「む、なんで笑うんだ」
「だ、だってこんなの笑うなって方が、無理だよ」
わざと唇を尖らせると燭台切は益々可笑しい様子で口元を抑える。その顔色はすっかり元に戻っているばかりか赤みまで差している。
鶴丸は静かに笑い続ける燭台切に絆された振りをして、上げていた肩を下ろす。そして、もはや浮かび始めた涙を拭っている燭台切の頬に手を滑らせた。驚かせないように、そっと。
「きみは根が優しい子だから他人の不幸を願うのはさぞかし辛いだろう。だからな光坊、もうだめだと思ったら最期は鶴さんの元に来るんだぞ。鶴さんがきみの始末をつけてやろう。勿論、俺もすぐに追いかける」
「それじゃあ心中みたいじゃないか」
「地獄に何人鬼がいると思ってるんだ。一振りじゃ限界有るぜ?相棒が必要だろう。新しい大舞台で大暴れしようじゃないか、俺達でさ」
「そう、だね。・・・・・・ふふ、うん。そうしようか」
素直に頷いた燭台切の頭を良い子良い子と撫でてやる。しかし、先程まで展開していた地獄行きの話との矛盾にすぐ気づいて、光坊は悪い子、悪い子と言い直して改めて頭を撫でる。燭台切は今度こそ耐えられずに笑い声を上げた。
鶴丸もにこにこと楽し気な顔を作る下で、もしも今、俺が不幸を願っている相手はきみだよと言ってしまえば燭台切はどうするだろうか、と考える。
燭台切の唯一の逃げ場である鶴丸が、誰よりも燭台切の不幸を願っていると知ったら。
燭台切は鶴丸の言葉を、自分を慰める為の嘘だと思っているかもしれない。鶴丸は優しい兄貴分で、敬慕すべき存在だと燭台切は認識している筈だから。
しかしそれは大きな間違いだ。燭台切に告げた言葉は全て本気だし、鶴丸は燭台切の不幸を願うような刀だ。燭台切の考える様な存在ではない。
燭台切が傷つけば、鶴丸の元にやってきてくれる。燭台切が肩を震わせれば頭を撫でる理由が出来る。仲睦まじい番のふたりを見つめる燭台切の横顔に、いつもそんなことばかり考えている。
抱えた感情に耐え切れず泣いてくれれば抱き締めることが出来る、涙の跡が残る頬に唇を寄せることが出来る。恋の苦しみを抱えて、鶴丸の部屋を訪れる燭台切を迎え入れる裏でそんなことばかり夢想してしまう。
もしも燭台切が寂しい、悲しい、慰めてほしいと体を寄せて来たら鶴丸は喜んで燭台切と体の関係を持つのだろう。結果、それで燭台切がもっと寂しく、悲しく、傷つくとしても。だから不幸になればいい、ひとりでは立てなくなってしまう位。好いている相手に、そう願ってしまう。
そういう男だ、鶴丸という刀は。燭台切は鶴丸の本質にまだ気づいていないが、無意識化では鶴丸の本性を感じ取っているのだろう。だから燭台切は鶴丸を好きにならない。そうだろう、鶴丸だってこんな刀、好きにはならない。
「鶴さん」
「ん?」
考え事をしてしまったせいか、いつもよりわしゃわしゃと乱雑に撫で続ける鶴丸に声がかけられる。髪が乱れるからと制止してくるのかと思いきや、鶴丸の右手が止められることはない。慕わしい目を鶴丸に向けているだけだ。
「いつもありがとう。格好悪い僕も、最低な僕もそのまま受け入れてくれて。他人の不幸を願う自分なんて自分自身では、受け入れがたくってさ。でも否定すればするほど、苦しくてどうしようもなくなってくるんだ」
力が緩んでいた筈の拳をまたぎゅっと握りしめ、燭台切は一度唇を引き結ぶ。しかし鶴丸が撫でている強さを宥めるものに変えると、それに応える様に頷いた。
「でも鶴さんは無様な僕をそのまま受け入れてくれる。それがどんなに有り難いことか、分かっているつもりだよ」
燭台切はふわりと、感謝と親しみの笑みを浮かべた。きみは俺の可愛い弟分だからな!と一層髪を乱して茶化そうしていたのに、その心からの笑みがまるで花の蕾が綻ぶ瞬間に重なって見えて、見惚れてしまう。
「鶴さんがいてくれてよかった」
向けられるその微笑み、その想いに。恋の一欠けらも含まれていないと分っていても、抱きしめてしまいたくなる。けれど燭台切が抱き締められたいのはこの両腕じゃない。鶴丸には無難に頭を撫でてやる手しかない。
燭台切が幸せになってくれるなら、自分の全てを捧げるのに。燭台切が不幸になるなら、自分の全てを捨てても構わないのに。どうして鶴丸では燭台切を幸せにも不幸にも出来ないのだろう。
その花の様に無垢で信頼しかない微笑みにいつも打ちのめされる。可愛くて、愛しくて、もういっそ憎い。
地獄に落ちてしまえ、きみなんか。想い人とも大好きな仲間とも永遠に別れて、光も届かない暗い底へと落ちてしまえ。
そんな暗鬱たる呪詛が愛しい想いにぽつりと落ちて、染みの様に広がっていく。
「可愛い弟分を気にかけるのは当然だろ?鶴さんはいつだって光坊の味方さ」
優しい言葉を吐く唇は、呪詛を隠している。燭台切はきっと最期の時までそれに気づかないだろう。
人を呪わば穴二つ。分かっている。大事な弟分を、好いた相手を欺き呪い続けた報いはきちんと受ける。
いつか必ず、地獄に落ちるから。
「きみが望むのならどんな時だって光坊の側にいてやるよ」
誰もさわれない、光も届かない暗い底でも燭台切の側にいることを許して欲しい。